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8章 犠牲
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案内されたのは、商店街の脇にある小さな喫茶店だった。純喫茶というのか、チェーン店とは異なりやや薄暗く、壁には絵画が飾られている。初老の夫婦や奥様方だけではなく、大学生の友人同士という若い客も席に着いてお喋りに花を咲かせている。
「ちょっと入りにくいけど、値段も高くないし、紅茶が美味しいんだ」
亜希に席を勧め、春乃は向かいに座ると椅子の下の荷物入れに鞄を入れる。
「食べるものもあるけど、どうする?」
「私は、いいです。さっきケーキ食べたので」
「そうなの?」
取り合えず、春乃が勧める紅茶を注文し、亜希は龍太郎の部屋でケーキを作って食べたことを話す。
「先輩、甘いもの苦手じゃなかったっけ」
「あれ、食わず嫌いだったんです。今の彼女さんと付き合って食べてるうちに、いけるって思ったみたいで」
「そうなんだ」変わらず、笑顔が可愛らしい。「偉いね。好きな人のために変われるなんて」
「偉そうなこと言って、嫌われなかったらいいんですけど」
「大丈夫だよ、それだけ彼女さんを大事にできるなら。水無瀬先輩、優しいし」
世間話をしている内に、紅茶が運ばれてくる。
一口飲んで、ほっと息をつく。春乃の言う通り、柔らかな味わいの美味しい紅茶だ。ミルクを入れて、もう少しだけ甘くしてみる。冬に感じる温もりは、芯に染み渡って心をほぐしてくれる。
「美味しいですね」
「でしょ。私、コーヒーが好きで今のバイト先に通ってるんだけど、ここを見つけてから紅茶もいいなって。浮気しちゃってるの」
春乃が笑い、亜希もつられて笑ってしまう。この紅茶にも和らぐが、彼女も負けず劣らず相手の心を癒す力を持っている。一緒にいて話をするだけで、安心して笑顔になれる。
「亜希ちゃんは、州徳卒業したらどうするの」
「私ですか?」亜希はカップを置いて少し考える。「進学のつもりですけど、どこに行くかは、まだ決めてないです。もう目標決めて頑張ってる子もいるんですけど……」
「まだ一年生だよね。これからどこでも狙えるよ。州徳に入れるぐらい、勉強できるんだし」
「だといいんですけど」
言い淀んだが、亜希は決心した。
「春乃さんは、どうするんですか」
すると彼女は、困ったような照れくさそうな表情ではにかんだ。
進学か就職か。固唾を飲む亜希に、春乃は言った。
「私ね、結婚するの」
「……けっ?」
春乃は微笑むが、亜希は変な声を発して固まってしまう。
「けっこんって……」
「さっき私と話してた男の人いたでしょ。あの人、社会人で、私の彼氏なんだ。それで、卒業したら一緒になろうって」
あまりに見当違いな答えに狼狽し、何から聞いていいのか分からない。
「それで、今のバイト先に誘われてるから、そこでこれからも働こうかって考えてるの。大学は、それでお金が貯まってから検討してもいいかなって」
恥ずかしそうに笑う春乃。
「あの、それって、みんな知ってるんですか」
「まだ決まったばっかりで。一緒に暮らしてるお母さんにしか言ってないの。だから、肉親以外だったら亜希ちゃんが一番かな」
「来栖くんは、そのこと……」
「うん。航ちゃんにも、まだ言ってないの。付き合ってる人がいるのは知らせてるけど……。あの子には直接言いたいし、亜希ちゃん、内緒にしててね」
春乃は人差し指を口元に当てる。辛うじて、亜希は頷いた。
「彼氏さんって、どんな人なんですか」
「優しい人だよ。相手のことを考えられて、先輩にちょっと似てるかな」
「そうなんですか……」慌てて亜希は付け加えた。「あの、おめでとうございます」
「ありがとう。びっくりしちゃうよね」
春乃はカップを手にし、緩やかに湯気の立つ紅茶を口にする。
「これで私も、お母さんの元を離れられる」静かにカップを置きながら、彼女は微笑んだ。
「私のお母さんね、あまりいい人じゃないの。いつも誰かの悪口を言ったり、娘のお金を使い込んだり……色んな人に、離れて暮らした方がいいって、私も言われてたの」
「でも、春乃さんは、優しいから」
「ううん。もちろんお母さんのことは心配だけど、共依存っていう方が、きっと近いよ。相手を大切にするためじゃなくて、ただお互いに依存してるだけ。だから私、不安だったんだ。このままじゃ絶対によくないって」
春乃の笑顔に隠された苦悩。言いなりでありながらも母から離れられない苦しみに、彼女は苛まれていた。
「あの人はね、それも受け入れてくれたんだ。そんな私をひっくるめて、幸せにするって。私も結婚なんてまだ早いって思ったけど、やっぱりこれが一番良い決断だとも思えるの。依存しなくてよくなるし、航ちゃんも安心させられる」
「……きっと、喜びますよ。来栖くん、春乃さんのこと大切に想ってますから」
「うん。だって、航ちゃんとっても優しいもんね」
彼女は、航の話をするときはいつだって嬉しそうだ。心の底から愛していて、常に幸せを願っている相手であることが、「航ちゃん」の一言で伝わる。
「私のお母さんね、航ちゃんにすごく冷たかったの。だから一緒に住んでた頃、航ちゃんはあまり笑わない子だった。悲しい顔で、勉強ばかりさせられてた。もしお母さんと血の繋がった私を憎んだり嫌ったりしても、仕方ないって私は思ってたの」
目を伏せる春乃の悲しげな声に、亜希も居たたまれなくなる。
「だけど、私の前では笑ってくれた。お母さんがどんなにひどいことをしても、私には関係ないって。それより、姉さんに会えてよかったって、そんなことまで言ってくれたの」
笑顔の彼女の目が潤む。少し照れくさそうに、指先で雫を拭う。
「今はいつも忙しくしてるけど、本当はね、静かに本でも読んで、ぼんやりしてるのが好きな子なんだよ」
春乃は、ティーカップに手を添えて笑う。
「いつだって一生懸命な航ちゃんがね、私は大好き」
その姿は、あの夏に見た写真の中の彼と、よく似ていた。
「ちょっと入りにくいけど、値段も高くないし、紅茶が美味しいんだ」
亜希に席を勧め、春乃は向かいに座ると椅子の下の荷物入れに鞄を入れる。
「食べるものもあるけど、どうする?」
「私は、いいです。さっきケーキ食べたので」
「そうなの?」
取り合えず、春乃が勧める紅茶を注文し、亜希は龍太郎の部屋でケーキを作って食べたことを話す。
「先輩、甘いもの苦手じゃなかったっけ」
「あれ、食わず嫌いだったんです。今の彼女さんと付き合って食べてるうちに、いけるって思ったみたいで」
「そうなんだ」変わらず、笑顔が可愛らしい。「偉いね。好きな人のために変われるなんて」
「偉そうなこと言って、嫌われなかったらいいんですけど」
「大丈夫だよ、それだけ彼女さんを大事にできるなら。水無瀬先輩、優しいし」
世間話をしている内に、紅茶が運ばれてくる。
一口飲んで、ほっと息をつく。春乃の言う通り、柔らかな味わいの美味しい紅茶だ。ミルクを入れて、もう少しだけ甘くしてみる。冬に感じる温もりは、芯に染み渡って心をほぐしてくれる。
「美味しいですね」
「でしょ。私、コーヒーが好きで今のバイト先に通ってるんだけど、ここを見つけてから紅茶もいいなって。浮気しちゃってるの」
春乃が笑い、亜希もつられて笑ってしまう。この紅茶にも和らぐが、彼女も負けず劣らず相手の心を癒す力を持っている。一緒にいて話をするだけで、安心して笑顔になれる。
「亜希ちゃんは、州徳卒業したらどうするの」
「私ですか?」亜希はカップを置いて少し考える。「進学のつもりですけど、どこに行くかは、まだ決めてないです。もう目標決めて頑張ってる子もいるんですけど……」
「まだ一年生だよね。これからどこでも狙えるよ。州徳に入れるぐらい、勉強できるんだし」
「だといいんですけど」
言い淀んだが、亜希は決心した。
「春乃さんは、どうするんですか」
すると彼女は、困ったような照れくさそうな表情ではにかんだ。
進学か就職か。固唾を飲む亜希に、春乃は言った。
「私ね、結婚するの」
「……けっ?」
春乃は微笑むが、亜希は変な声を発して固まってしまう。
「けっこんって……」
「さっき私と話してた男の人いたでしょ。あの人、社会人で、私の彼氏なんだ。それで、卒業したら一緒になろうって」
あまりに見当違いな答えに狼狽し、何から聞いていいのか分からない。
「それで、今のバイト先に誘われてるから、そこでこれからも働こうかって考えてるの。大学は、それでお金が貯まってから検討してもいいかなって」
恥ずかしそうに笑う春乃。
「あの、それって、みんな知ってるんですか」
「まだ決まったばっかりで。一緒に暮らしてるお母さんにしか言ってないの。だから、肉親以外だったら亜希ちゃんが一番かな」
「来栖くんは、そのこと……」
「うん。航ちゃんにも、まだ言ってないの。付き合ってる人がいるのは知らせてるけど……。あの子には直接言いたいし、亜希ちゃん、内緒にしててね」
春乃は人差し指を口元に当てる。辛うじて、亜希は頷いた。
「彼氏さんって、どんな人なんですか」
「優しい人だよ。相手のことを考えられて、先輩にちょっと似てるかな」
「そうなんですか……」慌てて亜希は付け加えた。「あの、おめでとうございます」
「ありがとう。びっくりしちゃうよね」
春乃はカップを手にし、緩やかに湯気の立つ紅茶を口にする。
「これで私も、お母さんの元を離れられる」静かにカップを置きながら、彼女は微笑んだ。
「私のお母さんね、あまりいい人じゃないの。いつも誰かの悪口を言ったり、娘のお金を使い込んだり……色んな人に、離れて暮らした方がいいって、私も言われてたの」
「でも、春乃さんは、優しいから」
「ううん。もちろんお母さんのことは心配だけど、共依存っていう方が、きっと近いよ。相手を大切にするためじゃなくて、ただお互いに依存してるだけ。だから私、不安だったんだ。このままじゃ絶対によくないって」
春乃の笑顔に隠された苦悩。言いなりでありながらも母から離れられない苦しみに、彼女は苛まれていた。
「あの人はね、それも受け入れてくれたんだ。そんな私をひっくるめて、幸せにするって。私も結婚なんてまだ早いって思ったけど、やっぱりこれが一番良い決断だとも思えるの。依存しなくてよくなるし、航ちゃんも安心させられる」
「……きっと、喜びますよ。来栖くん、春乃さんのこと大切に想ってますから」
「うん。だって、航ちゃんとっても優しいもんね」
彼女は、航の話をするときはいつだって嬉しそうだ。心の底から愛していて、常に幸せを願っている相手であることが、「航ちゃん」の一言で伝わる。
「私のお母さんね、航ちゃんにすごく冷たかったの。だから一緒に住んでた頃、航ちゃんはあまり笑わない子だった。悲しい顔で、勉強ばかりさせられてた。もしお母さんと血の繋がった私を憎んだり嫌ったりしても、仕方ないって私は思ってたの」
目を伏せる春乃の悲しげな声に、亜希も居たたまれなくなる。
「だけど、私の前では笑ってくれた。お母さんがどんなにひどいことをしても、私には関係ないって。それより、姉さんに会えてよかったって、そんなことまで言ってくれたの」
笑顔の彼女の目が潤む。少し照れくさそうに、指先で雫を拭う。
「今はいつも忙しくしてるけど、本当はね、静かに本でも読んで、ぼんやりしてるのが好きな子なんだよ」
春乃は、ティーカップに手を添えて笑う。
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