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8章 犠牲
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ぱん、と軽い音が響く。机に突っ伏していた航が、起こした頭をさする。くすくすと、何人かが笑う声がする。
数学の問題を解く時間、彼はノートを広げたまま居眠りをしていた。そして巡回していた教師が、持っていた教科書で頭を軽く叩いたのだ。途中で居眠りに気づいた亜希はハラハラしていたが、三列分も離れていれば忠告することなど不可能だった。
「来栖、課題だけ出してればいいってわけじゃないぞ」
それ以上は彼一人に時間を割くわけでもなく、数学教師は黒板に数式を書いて説明を始める。クラスメイト達の興味も、あっという間にそっちに移る。
授業中の居眠り自体は珍しい現象ではなかったが、ここのところ、航はしょっちゅう目を閉じては叱られている。少なくとも一日一回は注意を受けている。教師に気づかれていない場面を含めれば、実際の頻度は更に上がるだろう。
「あんなに寝るの、バイトのし過ぎちゃうん」
子之葉は亜希にそう言って笑った。
「亜希は大丈夫なん」
「私は、大丈夫だけど。……特にシフトが変わったわけでもないし」
「ほうなんや。まあ、なんか忙しいんかもしれんね」
そして子之葉はさっさとテニス部の話を始める。クラスメイトの居眠りよりも、部活内で誕生したカップルに対する興味の方が強いのは当然だ。亜希も、航がいつもの日雇いバイトに精を出しているのだろう、ぐらいにしか思わなかった。
学校で不真面目に居眠りをする彼だが、変わらず休まずアルバイトにはやって来た。平日は当然、日曜日もシフト通りにきちんと店まで足を運ぶ。
彼よりも早いシフトで入っていた亜希がレジの前でライターを並べていると、彼は欠伸をしながら階段を下りてきた。
「しっかりしてください。欠伸なんかして」
「仕事はちゃんとするから、いいだろ」
そういう顔もどこか眠たそうだ。ため息をついて単四電池の入った箱を開け、ライターの横に電池を並べる。その横のレジ、斜め向かいの位置にいる彼は、目を擦っている。
「あれ」手を止めて、亜希は彼の手を見つめた。「怪我したんですか」
左手の甲に、白いガーゼが張り付いている。
亜希の台詞にはっとした彼は、その手を軽く右手で撫でた。「まあ……」曖昧に返事をする。
「どうしたんですか」
「別に、大したことないよ。お湯沸かしてて、うっかりかかっただけ」
「大丈夫なら、いいんですけど。レジ打てますか」
「打てる打てる。余裕」
亜希の心配も他所にへらへらと笑ってみせる。右利きの彼は右手だけでもレジを打てるだろうし、笑う余裕があるなら大丈夫だろう。「もし無理そうだったら、言ってください」それでも一応、そう言っておく。
「平気だってば」
その左手をひらひら振って、あくまでもふざけた風に笑っている。彼に心配は無用のようだ。電池を並べ終わり、空き箱を潰しながら亜希は出入り口に目をやった。この店にドアはなく、商品を乗せたラックや箱で内外が仕切られている。
「いらっしゃいませー」
客が入ってくるのを見て、亜希は声をかける。そして少しだけ目を見張った。
オリオンは安さで売っている地域密着型の店だ。子どもから学生、近所の年寄りまで幅広い客層を特徴としている。だが、休日の昼間に二十代中頃の女が一人でやってくるのは些か珍しい。それも派手な外見の女とくれば尚更だ。
痩身のラインがよく出ているベージュのワンピースからは、細い足がすらりと伸びている。羽織っている黒い暖かそうなコートには、長いブロンドの髪が垂れている。野暮ったさを微塵も感じさせない化粧は、店どころかこの町にも似つかわしくないように思えた。腕に提げているハンドバッグに描かれているロゴは、亜希でも聞いたことのあるブランドのものだ。
綺麗さはもちろんだが、彼女はそれよりも鋭く尖った近寄りがたい雰囲気を醸し出す。特に目だ。自信に満ちた大人の相貌は、相手を委縮させる力を持っている。
亜希が視線を戻した先で、航は目を見開いていた。まるで遭遇するはずのない意外なものを見た顔で、驚愕している。
そしてさっきまでのふざけた表情が嘘のように、それを苦々しく歪めた。
「これ、くれる?」
艶のある真っ赤な唇が動く。
彼女は、亜希が並べたばかりのライターを手に取って差し出した。
「……来るなって、言ったじゃないですか」
商品を受け取った航が睨みつけ、低い声で呻く。彼女はそれに返事をせず、口の端を軽く吊って笑みを作ってみせた。
バッグから取り出したカードで清算が済むと、航は無言でライターにシールを貼る。
航はライターを彼女の前に置こうとしたが、彼女はその左手をすくうようにしてそれを受け取った。細い指先が手の甲のガーゼを撫でていくのを、亜希は見ていた。
安いライターを手に、彼女が踵を返す。
航の表情の変化を見ていれば、わかる。二人には何らかの関係があり、彼は決して彼女のことを好ましく思っていない。むしろその逆。ここで彼女と会うことを、彼は嫌悪している。
知らず知らずのうちに、亜希はじっとその女を見つめていた。すれ違う瞬間、その横目がちらりとこちらを見て、何ごともなく正面を向き直す。ヒールの高い靴を履いて歩く自信に満ちたその姿を、何も言わないまま見送った。
張りつめていた空気がようやく緩んだ頃、亜希は航を振り返った。
彼は黙ったまま、何の弁解もしない。普段のようにふざけた笑みを浮かべることもなく、上手な言い訳をすることもない。もう欠伸さえせず、ただ視線を伏せていた。その右手は左手の傷を庇うように触れていた。
数学の問題を解く時間、彼はノートを広げたまま居眠りをしていた。そして巡回していた教師が、持っていた教科書で頭を軽く叩いたのだ。途中で居眠りに気づいた亜希はハラハラしていたが、三列分も離れていれば忠告することなど不可能だった。
「来栖、課題だけ出してればいいってわけじゃないぞ」
それ以上は彼一人に時間を割くわけでもなく、数学教師は黒板に数式を書いて説明を始める。クラスメイト達の興味も、あっという間にそっちに移る。
授業中の居眠り自体は珍しい現象ではなかったが、ここのところ、航はしょっちゅう目を閉じては叱られている。少なくとも一日一回は注意を受けている。教師に気づかれていない場面を含めれば、実際の頻度は更に上がるだろう。
「あんなに寝るの、バイトのし過ぎちゃうん」
子之葉は亜希にそう言って笑った。
「亜希は大丈夫なん」
「私は、大丈夫だけど。……特にシフトが変わったわけでもないし」
「ほうなんや。まあ、なんか忙しいんかもしれんね」
そして子之葉はさっさとテニス部の話を始める。クラスメイトの居眠りよりも、部活内で誕生したカップルに対する興味の方が強いのは当然だ。亜希も、航がいつもの日雇いバイトに精を出しているのだろう、ぐらいにしか思わなかった。
学校で不真面目に居眠りをする彼だが、変わらず休まずアルバイトにはやって来た。平日は当然、日曜日もシフト通りにきちんと店まで足を運ぶ。
彼よりも早いシフトで入っていた亜希がレジの前でライターを並べていると、彼は欠伸をしながら階段を下りてきた。
「しっかりしてください。欠伸なんかして」
「仕事はちゃんとするから、いいだろ」
そういう顔もどこか眠たそうだ。ため息をついて単四電池の入った箱を開け、ライターの横に電池を並べる。その横のレジ、斜め向かいの位置にいる彼は、目を擦っている。
「あれ」手を止めて、亜希は彼の手を見つめた。「怪我したんですか」
左手の甲に、白いガーゼが張り付いている。
亜希の台詞にはっとした彼は、その手を軽く右手で撫でた。「まあ……」曖昧に返事をする。
「どうしたんですか」
「別に、大したことないよ。お湯沸かしてて、うっかりかかっただけ」
「大丈夫なら、いいんですけど。レジ打てますか」
「打てる打てる。余裕」
亜希の心配も他所にへらへらと笑ってみせる。右利きの彼は右手だけでもレジを打てるだろうし、笑う余裕があるなら大丈夫だろう。「もし無理そうだったら、言ってください」それでも一応、そう言っておく。
「平気だってば」
その左手をひらひら振って、あくまでもふざけた風に笑っている。彼に心配は無用のようだ。電池を並べ終わり、空き箱を潰しながら亜希は出入り口に目をやった。この店にドアはなく、商品を乗せたラックや箱で内外が仕切られている。
「いらっしゃいませー」
客が入ってくるのを見て、亜希は声をかける。そして少しだけ目を見張った。
オリオンは安さで売っている地域密着型の店だ。子どもから学生、近所の年寄りまで幅広い客層を特徴としている。だが、休日の昼間に二十代中頃の女が一人でやってくるのは些か珍しい。それも派手な外見の女とくれば尚更だ。
痩身のラインがよく出ているベージュのワンピースからは、細い足がすらりと伸びている。羽織っている黒い暖かそうなコートには、長いブロンドの髪が垂れている。野暮ったさを微塵も感じさせない化粧は、店どころかこの町にも似つかわしくないように思えた。腕に提げているハンドバッグに描かれているロゴは、亜希でも聞いたことのあるブランドのものだ。
綺麗さはもちろんだが、彼女はそれよりも鋭く尖った近寄りがたい雰囲気を醸し出す。特に目だ。自信に満ちた大人の相貌は、相手を委縮させる力を持っている。
亜希が視線を戻した先で、航は目を見開いていた。まるで遭遇するはずのない意外なものを見た顔で、驚愕している。
そしてさっきまでのふざけた表情が嘘のように、それを苦々しく歪めた。
「これ、くれる?」
艶のある真っ赤な唇が動く。
彼女は、亜希が並べたばかりのライターを手に取って差し出した。
「……来るなって、言ったじゃないですか」
商品を受け取った航が睨みつけ、低い声で呻く。彼女はそれに返事をせず、口の端を軽く吊って笑みを作ってみせた。
バッグから取り出したカードで清算が済むと、航は無言でライターにシールを貼る。
航はライターを彼女の前に置こうとしたが、彼女はその左手をすくうようにしてそれを受け取った。細い指先が手の甲のガーゼを撫でていくのを、亜希は見ていた。
安いライターを手に、彼女が踵を返す。
航の表情の変化を見ていれば、わかる。二人には何らかの関係があり、彼は決して彼女のことを好ましく思っていない。むしろその逆。ここで彼女と会うことを、彼は嫌悪している。
知らず知らずのうちに、亜希はじっとその女を見つめていた。すれ違う瞬間、その横目がちらりとこちらを見て、何ごともなく正面を向き直す。ヒールの高い靴を履いて歩く自信に満ちたその姿を、何も言わないまま見送った。
張りつめていた空気がようやく緩んだ頃、亜希は航を振り返った。
彼は黙ったまま、何の弁解もしない。普段のようにふざけた笑みを浮かべることもなく、上手な言い訳をすることもない。もう欠伸さえせず、ただ視線を伏せていた。その右手は左手の傷を庇うように触れていた。
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