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7章 楓
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「楓、ちょっとペン貸してくれ」
航が手を差し出す。楓は不思議そうに、手元のボールペンを彼に手渡した。
右手に持ったそれで、彼はチラシの余白に数字を書いていく。ハイフンで繋がった十一桁の数列は、電話番号だった。
「これ、俺の電話番号だから。何かあったらすぐにかけてこいよ」
「なにかって、なに?」
「腹が減ったとか、助けてほしいとか、なんでもいいよ。いつでも逃げてきていいから」
差し出されたチラシの数字を、楓は幾度か呟く。眠たげなとろんとした声で、覚えてしまおうと繰り返す。
「いいな。約束してくれよ」
「うん。やくそくする」
頷いて差し出される小指に、航も自分の小指を絡めた。
指切りを終えると、航は彼の頭に手を乗せて少し乱暴に撫でる。
「さ、もう寝な。いくら明日が休みっていっても、限界があるだろ」
「まだおきれるよ」
「駄目。小一なんだから、たくさん寝とけ」
眠くないと言い張り楓はぐずる。だが眠気には抗えないのか、航に促されて歯磨きを終えた頃には、目をしょぼしょぼさせていた。
隣の和室には、三組の布団がぎゅうぎゅうに敷かれていた。「ねたくない」と眠たげに囁く彼を、亜希と航は奥に寝かせ、毛布と布団をかけてやる。
「また、いっしょにごはんたべようね」
「うん。約束だね」
枕元に膝をつき、亜希は楓と指切りをした。
「おやすみ、楓くん」
「楓、おまえは大丈夫だ」航は楓の頬の痣をそっと撫でた。「いい夢見ろよ」
寝たくないと言っていた楓はやはり疲れていたようで、五分もすると寝息を立てて眠りについた。名残惜しいが、亜希と航は部屋を出て炬燵のスイッチと電灯を切り、静かに外に出る。預かっていた鍵で施錠し、新聞受けに鍵を入れた。カタン、と小さな音を聞いてその場を去る。
時刻は既に十時。二人は互いに黙ったまま帰路を辿る。風が髪を撫でていく。
普段の自分なら、決してこんなことはしなかった。亜希は思う。七歳の子どもの話を鵜呑みにして、他人の家に上がって弁当を食べて団欒するなんて、そんな非常識な真似など出来ない。
しかし楓はひどく喜んでいた。自分たちと居ると楽しいと言って、終始笑っていた。あの笑顔を見られたのだから、この選択は間違っていなかったのでは、なんて思ってしまう。
間違いないはずの潔癖が、間違ったものに思えてくる。非常識な判断は、幼い心の救いになった。自分が十六年で育んだ常識は、必ずしも常に正解ではないのかもしれない。
「楓くん、大丈夫でしょうか」
亜希は視線を伏せたまま呟いた。
「あの怪我、きっと……」
「そうだろうな」
航は亜希の言いたいことを察して頷く。楓が二人の居る店まで来たのも、家で食べたいとごねたのも、心が寂しくなったからだ。不条理な仕打ちで傷つけられた心は、無意識に助けを求めていたのだ。
「でも、身体に傷はなかったよ。あの痣だけだ」
亜希は顔を上げて航の横顔を見る。彼は前を向いたまま。
「風呂で言ってたけど、年内に引き取られるってさ。少なくともあと一か月ちょっとなら、きっと大丈夫だ」
航が楓を風呂に誘った理由をやっと理解する。傷を確認したいから服を脱げと言われても、楓は警戒するだろう。だから彼が喜ぶ方法を取ったのだ。共に風呂に入れば、楓の傷を確認し、なおかつ彼を笑顔に出来る。
そこまで考えが及ばなかったことに、亜希は少しだけ恥ずかしくなる。
「もし大丈夫じゃなくても、あいつは賢いから、電話ぐらいかけられる」
「……そうですね」
そんな場面にならなければいいが。あと少しで事態が好転するのなら、いつでも触れられる距離で見守るのが一番だろう。
「来栖くん、楓くんのことが本当に大事なんですね」
「水無瀬は違うのか」
「私だって、大事に想ってますよ。でも、そこまで思いつけなかったから」
亜希が笑うと、航も微かに笑った。みんなに良いことが起きればいい。だが、それを願うあの子に、とにかく幸せになって欲しい。駅までの道のり、ただそう願う。
航が手を差し出す。楓は不思議そうに、手元のボールペンを彼に手渡した。
右手に持ったそれで、彼はチラシの余白に数字を書いていく。ハイフンで繋がった十一桁の数列は、電話番号だった。
「これ、俺の電話番号だから。何かあったらすぐにかけてこいよ」
「なにかって、なに?」
「腹が減ったとか、助けてほしいとか、なんでもいいよ。いつでも逃げてきていいから」
差し出されたチラシの数字を、楓は幾度か呟く。眠たげなとろんとした声で、覚えてしまおうと繰り返す。
「いいな。約束してくれよ」
「うん。やくそくする」
頷いて差し出される小指に、航も自分の小指を絡めた。
指切りを終えると、航は彼の頭に手を乗せて少し乱暴に撫でる。
「さ、もう寝な。いくら明日が休みっていっても、限界があるだろ」
「まだおきれるよ」
「駄目。小一なんだから、たくさん寝とけ」
眠くないと言い張り楓はぐずる。だが眠気には抗えないのか、航に促されて歯磨きを終えた頃には、目をしょぼしょぼさせていた。
隣の和室には、三組の布団がぎゅうぎゅうに敷かれていた。「ねたくない」と眠たげに囁く彼を、亜希と航は奥に寝かせ、毛布と布団をかけてやる。
「また、いっしょにごはんたべようね」
「うん。約束だね」
枕元に膝をつき、亜希は楓と指切りをした。
「おやすみ、楓くん」
「楓、おまえは大丈夫だ」航は楓の頬の痣をそっと撫でた。「いい夢見ろよ」
寝たくないと言っていた楓はやはり疲れていたようで、五分もすると寝息を立てて眠りについた。名残惜しいが、亜希と航は部屋を出て炬燵のスイッチと電灯を切り、静かに外に出る。預かっていた鍵で施錠し、新聞受けに鍵を入れた。カタン、と小さな音を聞いてその場を去る。
時刻は既に十時。二人は互いに黙ったまま帰路を辿る。風が髪を撫でていく。
普段の自分なら、決してこんなことはしなかった。亜希は思う。七歳の子どもの話を鵜呑みにして、他人の家に上がって弁当を食べて団欒するなんて、そんな非常識な真似など出来ない。
しかし楓はひどく喜んでいた。自分たちと居ると楽しいと言って、終始笑っていた。あの笑顔を見られたのだから、この選択は間違っていなかったのでは、なんて思ってしまう。
間違いないはずの潔癖が、間違ったものに思えてくる。非常識な判断は、幼い心の救いになった。自分が十六年で育んだ常識は、必ずしも常に正解ではないのかもしれない。
「楓くん、大丈夫でしょうか」
亜希は視線を伏せたまま呟いた。
「あの怪我、きっと……」
「そうだろうな」
航は亜希の言いたいことを察して頷く。楓が二人の居る店まで来たのも、家で食べたいとごねたのも、心が寂しくなったからだ。不条理な仕打ちで傷つけられた心は、無意識に助けを求めていたのだ。
「でも、身体に傷はなかったよ。あの痣だけだ」
亜希は顔を上げて航の横顔を見る。彼は前を向いたまま。
「風呂で言ってたけど、年内に引き取られるってさ。少なくともあと一か月ちょっとなら、きっと大丈夫だ」
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