完全少女と不完全少年

柴野日向

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5章 近くて遠い

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 こんなの、ただの気まぐれだ。
 そうは思うのに、その日は朝からいやに緊張して堪らなかった。
「どしたん、亜希?」
 一番に挨拶をした子之葉は、初めこそ驚愕を露わにしたが、すぐに笑顔を見せた。
「その方がずっと大人っぽくてええよ」
 クラスの他の友人も驚きはするものの、その変化は至って彼らに好評だった。
 今更、眼鏡からコンタクトレンズに変えることに躊躇いがないわけなどない。だが、子之葉の台詞を省みて、幼い頃から変わっていない自分に疑問を抱いたのだ。せっかく提案してくれたのだし、ここで一つ手を加えてみるのもいいかもしれない。そんな気まぐれなのだ。
 眼鏡をやめると言うと両親も驚いていたし、そこからちゃっかり伝え聞いた龍太郎などは写真を送れとしつこくメッセージを送って来た。渋々、母に撮ってもらった写真を送ると、彼は異様に褒めてくれた。褒められればさほど嫌な気はしない。
 友人に受け入れられ多少気持ちは和らいだいたものの、少しどきどきしながら放課後はアルバイトに向かった。
 誰しも亜希の心境の変化に目を丸くするものの、イメチェン成功だと言ってくれた。
「眼鏡ってイメージだったけど、コンタクトも似合ってるよ」
 休憩室での長谷川の台詞に、思わず笑顔が出てしまう。
「もし変だったらどうしようって思ってたんですけど……」
「全然、そんなことないって。高校生らしくっていいよ」
 どうやら、心配は杞憂だったらしい。二言、三言会話を交わし、時間前にはきっちりと一階のレジへと向かう。
「お疲れさまです」
「おつかれー」
 レジの金を整理していた航に挨拶をして、横のもう一台の前に立つ。三十分早いシフトで入っていた彼は、千円札を十枚ずつの束にして、棒金を割っている。
「お客さん多いですか」
「んー、いや。普通だよ」
「今日は、楓くんと約束してるんですか」
 あれから、航は時折楓と約束し、一緒に弁当を食べている。時間が合えば、亜希も共に公園に向かう。楓は今や二人にすっかり気を許すようになったが、それでも店に来ることはない。金をもっていないからというだけではなく、自分が一度万引きを働いた店、という罪悪感が幼い心にも傷になっているのだろう。それを思うと不憫で仕方ないが、せめて会える時はたくさん話を聞いてあげようと、亜希は心に決めている。
「今日はしてないから、多分来ないよ。一応、公園通って帰るけど」
 航が素っ気なく返事をしてから、しばらく二人は客の応対にあたる。彼の言う通り、今日の客足は多くも少なくもない。極めて平和に時間が進む。
 あっという間に一時間半が経過し、彼女が諦めかけた頃、客の途絶えた時に航が口を開いた。
「そういえば、眼鏡、どしたの」
 一体自分が何を諦めたのか疑問を抱いていた亜希は、慌てて彼の方に顔を向けた。彼は自分の目元を指でつつく。
「なに、コンタクト?」
「えっと、はい」
「なんかあったの」
「なんかってほどでもないんですけど……。子之葉にも勧められて、なんとなく、変えてみようかなって思って」
「へえ」
 航には亜希の変化について、それ以上の興味はないらしい。会話を広げる気のない様子に、胸の奥で風船の空気が抜けるように、何かがしおしおと萎んでいく。もしかして、変だっただろうか。そうは思うものの、尋ねる勇気が出てこない。
「まあ、いいんじゃない」
 ほんのりと後悔しかけていた亜希に、ふと航が言った。
「その方が便利そうだし」
「変じゃなかったですか」
「変って、なんで」意を決した亜希の台詞に、航は不思議そうな顔をする。「そんなこと思ってないけど」
 よかった。胸中で安堵する。同時に、何故こんなにも安心してしまうのか分からなくなる。
「便利と言えば便利なんですけど、まだ慣れなくって。授業中に目薬さすのも、気が引けるし……」
「目薬ぐらいさせばいいじゃん」
「それは、そうなんですけど」
「目薬躊躇って成績落ちても、コンタクトのせいには出来ないよ」
 にやつきながら彼が言う。少しむっとしながら、「そんなことしません」と亜希は口を尖らせる。
「最近、ちょっとついていくのが大変だから、集中したいだけです」
「大変って、難しいってこと?」
「まあ、そうですね。でもせっかく慣れてきたから、アルバイト辞めるのも嫌だなって」
 彼相手に見栄を張っても見抜かれるだけだと、亜希は正直に口にする。「ふーん」と彼は鼻を鳴らした。
「じゃあ、教えてやろうか」
「教えるって、勉強を?」
「そう」
「いいんですか」
 亜希のそんな台詞に、航は些か驚いた顔をする。不真面目なクラスメイトが吐いた軽口など亜希は拒絶するだろうと、彼は踏んでいたに違いない。その思惑に反して、亜希はぱっと表情を明るくしていた。
「別に、ちょっとぐらいならいいけど」
「それなら、お願いします」
 亜希も彼の言い様に多少の苛立ちは抱いたが、それよりも嬉しさに近しいプラスの感情が湧いていた。その根源を探すよりも早く、言葉は彼の提案を受け入れていた。
「わかったよ」彼も特に嫌な気にはなっていないらしい。「そんじゃ、今度のバイト終わりにな」
 約束を交わし、やがて航は今日の仕事を終えてレジを後にする。品出しに下りてきたアルバイト仲間は、一人でレジを打っている亜希を見ると不思議そうな顔をした。
「どうしたの。なんか嬉しそうだけど」
 どういうわけだが、一人でそんな顔をしていたらしい。「なんでもないです」と亜希は慌てて、口角の上がる頬に両手を当てた。
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