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1章 亜希
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それからは三十分足らずだったが、特に大きな問題もなくその日のアルバイトは終わった。話を聞いた長谷川は感心しながらも「あいつならやりそうだなあ」と納得の顔をした。「でも、もし次に同じようなことがあったら、迷わず他の人呼んでね。一人で対処しないように」付け加えるのに確かにその通りだと思ったから、亜希も「気をつけます」と返事をした。
店を出た頃にはすっかり日は暮れ、外には五月の夜の穏やかな空気が満ちていた。今日の一件を対処したのは自分ではないが、随分と疲労を感じた亜希は、駅までの最短ルートを行くことにした。
欅町の「けやき公園」を斜めに突っ切れば、ほんのわずかだが近道になる。いつもは不審者や浮浪者に会うリスクを避けて通らない公園に足を踏み入れた。
ブランコやすべり台、シーソーといった遊具が並び、向こうにはサッカーができるほどのグラウンドがある。住宅街に馴染んだ静かな公園を見渡しながら、砂場の脇を通り抜ける。誰かが忘れていったのだろう、転がっている小さなバケツを踏まないように避けて視線を動かした時、その影に気が付いた。
向こうの東屋に誰かがいる。柱と屋根があるだけの簡素なそれの下にはベンチとテーブルがあるが、そこに人が腰かけている。
一瞬、ぎくりと足を止めた亜希は、こんな日の暮れた時刻に公園にいる人物について考えを巡らせた。会社帰りの大人だろうか、それともホームレスかもしれない。ジョギングに出て一休みしている人なのかも。
様々な可能性を考慮しながら、再び歩き始める。点々と建つ街路灯の明かりで、誰かが着ている白いシャツの背中がぼんやりと見える。がっしりとはしていない。むしろ細身で若そうだ。
横顔が見える位置に来て、ちらりと視線をやった時、相手の顔の近くでほのかな明かりが灯った。ぽう、と。点のような小さな火。その明かりに横顔が浮かぶ。
それはつい三十分前まで顔を合わせていた来栖航だった。
思わず目を見開いた亜希は、迷わず彼の方へ足早に向かう。足音に気づいた彼は、紫煙を吐きながら振り向いた。
「あれ」
「なにやってるんですか!」
「もうそんな時間か」彼は左手首の腕時計を見下ろす。「おつかれー」
「お疲れさまです」うっかり返事をした彼女は、そうじゃないと首を振る。
「どうして煙草なんか吸ってるんですか」
「これ? さあ、どうしてだろ。なんでだと思う」
「知らないですよ!」右手の指に挟んだ煙草を動かす彼に、思わず亜希は声を上げた。「未成年なのに、煙草なんて吸っちゃ駄目です!」
「なんで」
「肺がんになります! 大人になる前に吸ってたら、成長の妨げになります。いいことなんて何もありません!」
「そんな意見もあるかもね」
「世間一般の考え方です!」
亜希の真面目さは、同級生の喫煙を許さなかった。仕事先の先輩であっても黙ってはいられない。
「消してください」
そうして止めるように促すのだが、しかし彼は彼女の言うことを聞く気など全くないように再びそれを吸い込んだ。「勝手だろ」そんなことまで言いながら、おまけに可笑しそうに笑ってみせる。テーブルには青い煙草の箱と、食べ終わった弁当の空箱があった。彼はよく廃棄予定の弁当を貰って帰っているが、これもその一つらしい。
今日の一件で、亜希は航にかなりの尊敬の念を抱いていた。その機転の良さに、やはり州徳高校の生徒だと、見当違いなことさえ思っていた。
だから彼が煙草を吸っている光景は
、よけいに衝撃的だったのだ。
「笑ってないで、早く消してください」
「はいはい」
返事をするくせに、彼はいっこうに火を消す素振りを見せない。指先でとんとんと煙草を叩いて足元に灰を落としながら、亜希が文句を言う前に「それよりさ」と口を開いた。
「さっきの、水無瀬にも落ち度があったの気づいてた?」
「落ち度って……」
彼の言う「さっき」が、アルバイト中の客との揉め事を指しているのにはすぐに気が付いた。
「私、ちゃんと接客してましたよ」
落ち度など全く思い至らない彼女に、細く煙を吐く彼は含み笑いをする。なんとも大人びた憎たらしい仕草だ。
「ああいう客もいるからさ、金をレジにしまうのは最後にしないと。そしたら難癖つけられなかったんだから」
「だけど……」思わずむくれてしまう。「あんなこと言われるの、想定外じゃないですか」
「想定しないと。野良犬がうろついてるようなもんだよ。噛まれないように保身しなきゃ」
言い返したいが、上手な言葉が思いつかない。「騙すのが、絶対的に悪いじゃないですか」苦し紛れに反論する。
「隙があるから騙されるんだよ」彼は随分短くなった煙草を靴の裏でもみ消すと、ズボンのポケットから取り出した円柱形の携帯灰皿に突っ込んだ。「騙されるのは勝手だけど、店の迷惑になる」
「それを言うなら、来栖くんだって」
彼女の言葉に、彼は顔を上げた。
「私はクラスメイトなんですよ。なのに煙草なんか吸ってる姿見せて。私が学校に言いつけたら、何かしら罰がありますよ」
「別にいいよ、言っても」
機転を利かせたつもりだったが、灰皿をしまう彼はにやつきながらそう言った。
「誰も信じないだろうけど」
「信じないって……」
「俺、結構まともにやってて成績もいいんだよ。そんで中等部からもう四年目。なのに入って一か月の外部生がこんなことチクったって、俺が否定すれば誰も信用しない」
「あなたも内部外部って差別するんですか」
「そーいうもんなんだって。受け入れなよ」
確かに彼の言う通りだった。既に丸三年の信用がある彼の文句を言ったところで、入ったばかりの外部生一人の言うことなど、教師陣はまともに取り合わないだろう。写真の一枚でも撮っておけばと思うが、彼のことだから上手にはぐらかしてしまうに違いない。
嫌悪とまではいかなくとも、尊敬が一気に不満に変わる。彼は亜希の中で瞬時に不良生徒に切り替わる。
彼はテーブル上の煙草の箱に手を伸ばした。更に一本吸う気らしい。
それをさっと亜希は取り上げた。
「なにすんの」
初めて航が眉根を寄せる。
「だからって、駄目なものは駄目です」
「ほっとけよ」
「いくら不良だったとしても、未成年のうちは駄目です」
「吸わねえから」
「信用できません」
亜希は手元の青い箱を見る。「MEVIUS」とあるが、メビウス、と読むのだろうか。中には十本ほどが残っている。
「来栖くんがまともになったら返します」
宣言し、箱を鞄にしまう。「私は、喫煙なんて許しませんから」
すっかり呆れた顔をする彼は、取り返すでもなく口の端を歪めて笑った。不思議に思う亜希が見ると、身体に隠れてわからなかったが、彼の座るイスには缶が一つ置いてある。
彼が口元に運ぶそれがビールの缶だと知り、亜希は再び声を荒げた。
店を出た頃にはすっかり日は暮れ、外には五月の夜の穏やかな空気が満ちていた。今日の一件を対処したのは自分ではないが、随分と疲労を感じた亜希は、駅までの最短ルートを行くことにした。
欅町の「けやき公園」を斜めに突っ切れば、ほんのわずかだが近道になる。いつもは不審者や浮浪者に会うリスクを避けて通らない公園に足を踏み入れた。
ブランコやすべり台、シーソーといった遊具が並び、向こうにはサッカーができるほどのグラウンドがある。住宅街に馴染んだ静かな公園を見渡しながら、砂場の脇を通り抜ける。誰かが忘れていったのだろう、転がっている小さなバケツを踏まないように避けて視線を動かした時、その影に気が付いた。
向こうの東屋に誰かがいる。柱と屋根があるだけの簡素なそれの下にはベンチとテーブルがあるが、そこに人が腰かけている。
一瞬、ぎくりと足を止めた亜希は、こんな日の暮れた時刻に公園にいる人物について考えを巡らせた。会社帰りの大人だろうか、それともホームレスかもしれない。ジョギングに出て一休みしている人なのかも。
様々な可能性を考慮しながら、再び歩き始める。点々と建つ街路灯の明かりで、誰かが着ている白いシャツの背中がぼんやりと見える。がっしりとはしていない。むしろ細身で若そうだ。
横顔が見える位置に来て、ちらりと視線をやった時、相手の顔の近くでほのかな明かりが灯った。ぽう、と。点のような小さな火。その明かりに横顔が浮かぶ。
それはつい三十分前まで顔を合わせていた来栖航だった。
思わず目を見開いた亜希は、迷わず彼の方へ足早に向かう。足音に気づいた彼は、紫煙を吐きながら振り向いた。
「あれ」
「なにやってるんですか!」
「もうそんな時間か」彼は左手首の腕時計を見下ろす。「おつかれー」
「お疲れさまです」うっかり返事をした彼女は、そうじゃないと首を振る。
「どうして煙草なんか吸ってるんですか」
「これ? さあ、どうしてだろ。なんでだと思う」
「知らないですよ!」右手の指に挟んだ煙草を動かす彼に、思わず亜希は声を上げた。「未成年なのに、煙草なんて吸っちゃ駄目です!」
「なんで」
「肺がんになります! 大人になる前に吸ってたら、成長の妨げになります。いいことなんて何もありません!」
「そんな意見もあるかもね」
「世間一般の考え方です!」
亜希の真面目さは、同級生の喫煙を許さなかった。仕事先の先輩であっても黙ってはいられない。
「消してください」
そうして止めるように促すのだが、しかし彼は彼女の言うことを聞く気など全くないように再びそれを吸い込んだ。「勝手だろ」そんなことまで言いながら、おまけに可笑しそうに笑ってみせる。テーブルには青い煙草の箱と、食べ終わった弁当の空箱があった。彼はよく廃棄予定の弁当を貰って帰っているが、これもその一つらしい。
今日の一件で、亜希は航にかなりの尊敬の念を抱いていた。その機転の良さに、やはり州徳高校の生徒だと、見当違いなことさえ思っていた。
だから彼が煙草を吸っている光景は
、よけいに衝撃的だったのだ。
「笑ってないで、早く消してください」
「はいはい」
返事をするくせに、彼はいっこうに火を消す素振りを見せない。指先でとんとんと煙草を叩いて足元に灰を落としながら、亜希が文句を言う前に「それよりさ」と口を開いた。
「さっきの、水無瀬にも落ち度があったの気づいてた?」
「落ち度って……」
彼の言う「さっき」が、アルバイト中の客との揉め事を指しているのにはすぐに気が付いた。
「私、ちゃんと接客してましたよ」
落ち度など全く思い至らない彼女に、細く煙を吐く彼は含み笑いをする。なんとも大人びた憎たらしい仕草だ。
「ああいう客もいるからさ、金をレジにしまうのは最後にしないと。そしたら難癖つけられなかったんだから」
「だけど……」思わずむくれてしまう。「あんなこと言われるの、想定外じゃないですか」
「想定しないと。野良犬がうろついてるようなもんだよ。噛まれないように保身しなきゃ」
言い返したいが、上手な言葉が思いつかない。「騙すのが、絶対的に悪いじゃないですか」苦し紛れに反論する。
「隙があるから騙されるんだよ」彼は随分短くなった煙草を靴の裏でもみ消すと、ズボンのポケットから取り出した円柱形の携帯灰皿に突っ込んだ。「騙されるのは勝手だけど、店の迷惑になる」
「それを言うなら、来栖くんだって」
彼女の言葉に、彼は顔を上げた。
「私はクラスメイトなんですよ。なのに煙草なんか吸ってる姿見せて。私が学校に言いつけたら、何かしら罰がありますよ」
「別にいいよ、言っても」
機転を利かせたつもりだったが、灰皿をしまう彼はにやつきながらそう言った。
「誰も信じないだろうけど」
「信じないって……」
「俺、結構まともにやってて成績もいいんだよ。そんで中等部からもう四年目。なのに入って一か月の外部生がこんなことチクったって、俺が否定すれば誰も信用しない」
「あなたも内部外部って差別するんですか」
「そーいうもんなんだって。受け入れなよ」
確かに彼の言う通りだった。既に丸三年の信用がある彼の文句を言ったところで、入ったばかりの外部生一人の言うことなど、教師陣はまともに取り合わないだろう。写真の一枚でも撮っておけばと思うが、彼のことだから上手にはぐらかしてしまうに違いない。
嫌悪とまではいかなくとも、尊敬が一気に不満に変わる。彼は亜希の中で瞬時に不良生徒に切り替わる。
彼はテーブル上の煙草の箱に手を伸ばした。更に一本吸う気らしい。
それをさっと亜希は取り上げた。
「なにすんの」
初めて航が眉根を寄せる。
「だからって、駄目なものは駄目です」
「ほっとけよ」
「いくら不良だったとしても、未成年のうちは駄目です」
「吸わねえから」
「信用できません」
亜希は手元の青い箱を見る。「MEVIUS」とあるが、メビウス、と読むのだろうか。中には十本ほどが残っている。
「来栖くんがまともになったら返します」
宣言し、箱を鞄にしまう。「私は、喫煙なんて許しませんから」
すっかり呆れた顔をする彼は、取り返すでもなく口の端を歪めて笑った。不思議に思う亜希が見ると、身体に隠れてわからなかったが、彼の座るイスには缶が一つ置いてある。
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