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1章 亜希
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五月に入り、採用からひと月も経つと、亜希も少しずつアルバイトに慣れ始めた。従業員にも嫌味な者はおらず、むしろ亜希の真面目さをプラスに捉えてくれた。
その日も私服に着替えエプロンをかけた亜希がきっちり五分前に一階へ下りるのに、長谷川というアルバイトの青年は感心していた。
「相変わらず真面目だなあ、亜希ちゃん」
二十二歳だという長身の彼は、しがないバンドに所属し、フリーターをしているという。男にしては少し長い茶髪をゴムでひっ詰めているのに亜希は最初警戒したが、その心配は杞憂に終わった。短大卒業後からこの店で働いているという経験から、業務内容をいちから教えてくれるのだが、至って人懐こい彼は親切だった。いきなり亜希ちゃんと呼ばれたことには少し嫌な気もしたが、その気軽さが彼のフレンドリーさに繋がっていた。
時刻が午後六時を迎え、一階の二台のレジに並ぶ。三十分早く入った航は、奥で品出しをしていた。
「そういえば、亜希ちゃん、州徳高校なんだってね」
客足が途絶えると、おもむろに長谷川が口を開く。
「すごいよなあ、将来有望で。俺なんかベースぐらいしか出来ないってのに」
「私、バンドについて詳しくないんですけど。ベースはギターとは違うんですか」
亜希が興味を示すと、長谷川は気分良く話し始める。「よく聞かれるんだけどね……」
勤務中のお喋りを亜希の真面目さはあまりよく思わなかったが、客足が途絶えている際のコミュニケーションとしては重要である上に、元来話好きな長谷川は放っておいても喋り続ける。それでも客の前では無駄口を叩かずきちんと対応する様子を見て、これは社会人として大目に見られる範囲なのだろうと解釈した。
やがて一時間が経過し、壁の時計は八時五分前を指す。
棚の前でしばらくきょろきょろしていた学生風の客がレジに寄ってくると、ある商品の名前を告げた。
「あ、それ、二階ですね」
言い淀む亜希に代わって返事をする長谷川は、少しだけと目配せし、文房具を買いに来た客を案内して二階に上がっていく。
すると亜希は初めてレジに一人きりになってしまった。
会計の方法は教えられたし、何度も実際に繰り返してきた。だから問題はないはずだが、もしも不測の事態が起きてしまえばと思うと、隣に先輩がいない状況に少し不安になってしまう。
それでも、おもむろに商品を持ってきた中年の男性客に、亜希は笑顔を向けた。「いらっしゃいませ」一日に何十回と口にする挨拶をし、ミネラルウォーターのペットボトルを受け取る。
「百十円になります」
機械でバーコードを読み取り値段を告げると、客は財布から取り出した皺だらけの五千円札をカウンターに放る。横柄な態度の五十代半ばほどの男に、文句の一つも言いたくなるが、そうした客は日常茶飯事だと長谷川は笑っていた。それならばと亜希も我慢し、笑顔を崩さないまま、札を手にする。「五千円、お預かりします」レジに数字を打ち込む。
「四千八百九十円のお返しです」
五千円札をしまい、千円札を四枚と残りの小銭を取り出して渡した。文句のない接客だろう。我ながら思い、一安心する。
だが、「おい」と男は威圧するような声を発した。
「釣りが足りんやろうが」
「はい?」
思わず頓狂な声を出した亜希に男はすごむ。
「わしゃあ万札出したやろが。何で四千しかないんや」
突き出した手には、亜希が渡した釣りを握っている。それをカウンターに叩きつけるのに、彼女は思わず身を竦ませた。
「足りんやろが、いますぐ払えや!」
「いえ、お預かりしたのは、五千円でしたので……」
「万札やゆうとろが!」
わけがわからない。もしかしてこの客は、万札を出したという勘違いをしているのだろうか。亜希は慌てて、機械が吐き出したばかりのレシートを千切り、預り金額を指で示す。
「あの、ここに」
「あんたが打ち間違えたんやろ。んなもん証拠になるか」
「でも……」
「でももだってもあるかや! さっさと払えっちゅうとんやが!」
極めて平凡な生活を送ってきた亜希は、こうした暴言を吐かれた経験もなければ脅威にさらされたこともない。男は尚も汚い言葉を繰り返し、カウンターを蹴る。その鈍い音と理不尽に恐怖がつのり、思わず震えてしまいそうになる。
「わからん女やな、あんたが間違えたんが悪いんやろ、はよ五千円払えや!」
「あー、どうしました?」
男の怒声に、間延びした声が被さった。
亜希と男の視線の先で、のんびりした調子の航がやって来る。「彼女、新人なもんで」
「どうもこうもあるかや。わしゃ万札出したってのに、五千円しか払うてない言うてねこばばしよんや」
「そんな、私は……」
「すいません。打ち間違いですかね」
ねこばば、という濡れ衣に亜希は食い下がろうとしたが、それを無視して航はこめかみをかく。「つまり、五千円足りないってことですか」
「そうや、話が早いやないか」男は満足げに言う。「はよ寄越せや。急いどんやが」
違う、確かに受け取ったのは五千円札だ。
そう言いたいが、男の怒気に満ちた目に睨まれると、委縮してしまい声が出せない。しかし彼は、張りつめた空気などどこ吹く風という顔をしている。
「お釣りはちゃんと返さないと駄目ですよね」ちらりとレジに目をやったが、「でも」と続けて男を見やる。「お金のことなんで、一度確認させてください」
「確認ってなんや」
「今日の売り上げ計算して、金額が間違ってないか確かめたいんです」
「急いどるっちゅうたやろが。おまえら、バイトの分際で客を疑っとんか!」男は激昂する。「どうせこの女がちょろまかしとんに決まっとんや!」
「そんなこと……」
「やってないっちゅうんか、証拠はあるんか、あ?」
男には亜希の否定など最早耳にする気もない。どうしてこんな言いがかりをつけられるのか、泣きたくなってくる。
「ああ、お急ぎですか」
「そうやって言うとるやろが、おまえもアホなんか?」
「じゃあ、あっち確認しますか」航は天井の隅を指さす。それを目にした男が息を呑むのに、亜希も視線を上げた。
「カメラなら嘘つきませんから」
レジの方を向く監視カメラの存在を、亜希は知らなかった。一方の男は明らかに狼狽え、目に見えて威勢を失くす。
「そこまでする必要ないっちゅうねん、はよ金払えばええ話やろが」
「いやー。お金のことなんで」気の抜けた表情で笑い、思いついたように付け足す。「ちょっと店長にも知らせますんで」
おお、と言い淀む男に彼は更に畳みかける。
「一応警察にも確認してもらいますね」
けいさつ、と男が繰り返した。「誰がそこまでせえって言うた」
「三対一だと、僕らが店の有利に働きかけるかもしれないでしょ。だから第三者に見てもらった方が確実だと思うんですよ。もし彼女がちょろまかしてたら、そこですぐに補導してもらえるし」
挟みかけた口を、亜希はすんでのところでつぐむ。彼女も今ではすっかり事態を飲み込めていた。この客は元々自分が五千円札を出したことを記憶している。それなのに、一万円を払ったはずだと難癖をつけ、釣りを余分に貰おうとしているのだ。亜希の心は、なんてずるい男だろうという憤慨と、乱暴な言動に対する恐れがごちゃ混ぜになる。
「じゃ、お急ぎのようなんで、早いとこ呼びましょうか」
そうして航はカウンターの内側に手を伸ばし、電話機の子機を取り上げた。
「待てやおい、早まんなや」当然、自分に非があることを理解している男は、彼の方に手を伸ばす。「なにもサツまで呼ばんでもええんとちゃうか」
さっそく番号を打ち込んでいる航は、宙で止まっている太い指先を見ながら「そうですか?」と訝しげな顔をした。「僕が呼ばなくても、店長が同じこと言うと思いますけど」
男はなおも有利になる言葉を選んでいたが、既に彼の指先が「1」を二回押している時点で諦めたらしい。「くそ、無駄足踏ませやがって」やがて悪態を吐き捨てると、カウンターに乗ったままの四千八百九十円をひったくる。
「二度と来るか、ボケが!」
捨て台詞と共に肩をいからせ、大股で店を出ていく。それを見送る航が「二度と来るな、ボケ」と呟いたのが亜希には聞こえた。
男の姿がすっかり見えなくなると、彼女はやっと大きく息を吐いた。入学式や面接とは比較できない類の緊張に固まっていた身体から力が抜けて、へたり込みそうになってしまう。
「助かりました……」吐く息は掠れ気味だ。「ありがとうございます」
もしも彼が居なかったらと思うと、肝が冷える。
「はいどうも」気のない返事をし、航は手を伸ばして子機を元に戻す。「ああいうの珍しくないから。気をつけなよ」
はいと返事をし、亜希は天井に目を向ける。視線の先には監視カメラ。「私、知らなかったです。あそこにカメラがあったなんて。安心しました」
「ああ、あれダミーだから」
「えっ」彼の思わぬ台詞に変な声が出てしまう。「じゃあ、偽物ってこと……?」
「ただの張りぼて。録画なんて機能ついてないよ」
こともなげに言うのに、亜希は呆気にとられる。自信満々に警察まで呼ぼうとしたのに、そもそも映像自体が存在しないだなんて。
「こういうこと、慣れてるんですか」
「まあ。いろいろバイトしてきたから」
そう言って八時五分を示す時計を見上げる彼の世慣れっぷりに、亜希は素直に感心した。自分と同じ年数しか生きていないはずなのに、遥かに年上の男の理不尽に怖気づくどころか撃退してしまうなんて。今はむしろ、残業代の方が気になるらしい。
「あれ、どうした。なにかあった?」
客を案内したついでに違う仕事に手をつけていたのか、長谷川は段ボール箱を一つ抱えて下りてきた。
「長谷川さん、遅いっすよ」航が文句を口にする。
「悪い悪い。そんで……」箱を下ろした長谷川が振り返り、入ってきた客に「いらっしゃいませー」と声をかけた。それに二人も同じ台詞を重ねる。
店員が固まってこそこそと話をしているのは、客の心象に悪い。それを悟った航が、「俺上がるから。説明しといて」と亜希に告げた。
「はい、お疲れさまでした」
「店長には一応言っとくから」
そして返事も待たず、さっさとレジ脇の階段を上がっていく。何があったのか気になって仕方のない長谷川の視線を感じながら、亜希はその背を見送った。
その日も私服に着替えエプロンをかけた亜希がきっちり五分前に一階へ下りるのに、長谷川というアルバイトの青年は感心していた。
「相変わらず真面目だなあ、亜希ちゃん」
二十二歳だという長身の彼は、しがないバンドに所属し、フリーターをしているという。男にしては少し長い茶髪をゴムでひっ詰めているのに亜希は最初警戒したが、その心配は杞憂に終わった。短大卒業後からこの店で働いているという経験から、業務内容をいちから教えてくれるのだが、至って人懐こい彼は親切だった。いきなり亜希ちゃんと呼ばれたことには少し嫌な気もしたが、その気軽さが彼のフレンドリーさに繋がっていた。
時刻が午後六時を迎え、一階の二台のレジに並ぶ。三十分早く入った航は、奥で品出しをしていた。
「そういえば、亜希ちゃん、州徳高校なんだってね」
客足が途絶えると、おもむろに長谷川が口を開く。
「すごいよなあ、将来有望で。俺なんかベースぐらいしか出来ないってのに」
「私、バンドについて詳しくないんですけど。ベースはギターとは違うんですか」
亜希が興味を示すと、長谷川は気分良く話し始める。「よく聞かれるんだけどね……」
勤務中のお喋りを亜希の真面目さはあまりよく思わなかったが、客足が途絶えている際のコミュニケーションとしては重要である上に、元来話好きな長谷川は放っておいても喋り続ける。それでも客の前では無駄口を叩かずきちんと対応する様子を見て、これは社会人として大目に見られる範囲なのだろうと解釈した。
やがて一時間が経過し、壁の時計は八時五分前を指す。
棚の前でしばらくきょろきょろしていた学生風の客がレジに寄ってくると、ある商品の名前を告げた。
「あ、それ、二階ですね」
言い淀む亜希に代わって返事をする長谷川は、少しだけと目配せし、文房具を買いに来た客を案内して二階に上がっていく。
すると亜希は初めてレジに一人きりになってしまった。
会計の方法は教えられたし、何度も実際に繰り返してきた。だから問題はないはずだが、もしも不測の事態が起きてしまえばと思うと、隣に先輩がいない状況に少し不安になってしまう。
それでも、おもむろに商品を持ってきた中年の男性客に、亜希は笑顔を向けた。「いらっしゃいませ」一日に何十回と口にする挨拶をし、ミネラルウォーターのペットボトルを受け取る。
「百十円になります」
機械でバーコードを読み取り値段を告げると、客は財布から取り出した皺だらけの五千円札をカウンターに放る。横柄な態度の五十代半ばほどの男に、文句の一つも言いたくなるが、そうした客は日常茶飯事だと長谷川は笑っていた。それならばと亜希も我慢し、笑顔を崩さないまま、札を手にする。「五千円、お預かりします」レジに数字を打ち込む。
「四千八百九十円のお返しです」
五千円札をしまい、千円札を四枚と残りの小銭を取り出して渡した。文句のない接客だろう。我ながら思い、一安心する。
だが、「おい」と男は威圧するような声を発した。
「釣りが足りんやろうが」
「はい?」
思わず頓狂な声を出した亜希に男はすごむ。
「わしゃあ万札出したやろが。何で四千しかないんや」
突き出した手には、亜希が渡した釣りを握っている。それをカウンターに叩きつけるのに、彼女は思わず身を竦ませた。
「足りんやろが、いますぐ払えや!」
「いえ、お預かりしたのは、五千円でしたので……」
「万札やゆうとろが!」
わけがわからない。もしかしてこの客は、万札を出したという勘違いをしているのだろうか。亜希は慌てて、機械が吐き出したばかりのレシートを千切り、預り金額を指で示す。
「あの、ここに」
「あんたが打ち間違えたんやろ。んなもん証拠になるか」
「でも……」
「でももだってもあるかや! さっさと払えっちゅうとんやが!」
極めて平凡な生活を送ってきた亜希は、こうした暴言を吐かれた経験もなければ脅威にさらされたこともない。男は尚も汚い言葉を繰り返し、カウンターを蹴る。その鈍い音と理不尽に恐怖がつのり、思わず震えてしまいそうになる。
「わからん女やな、あんたが間違えたんが悪いんやろ、はよ五千円払えや!」
「あー、どうしました?」
男の怒声に、間延びした声が被さった。
亜希と男の視線の先で、のんびりした調子の航がやって来る。「彼女、新人なもんで」
「どうもこうもあるかや。わしゃ万札出したってのに、五千円しか払うてない言うてねこばばしよんや」
「そんな、私は……」
「すいません。打ち間違いですかね」
ねこばば、という濡れ衣に亜希は食い下がろうとしたが、それを無視して航はこめかみをかく。「つまり、五千円足りないってことですか」
「そうや、話が早いやないか」男は満足げに言う。「はよ寄越せや。急いどんやが」
違う、確かに受け取ったのは五千円札だ。
そう言いたいが、男の怒気に満ちた目に睨まれると、委縮してしまい声が出せない。しかし彼は、張りつめた空気などどこ吹く風という顔をしている。
「お釣りはちゃんと返さないと駄目ですよね」ちらりとレジに目をやったが、「でも」と続けて男を見やる。「お金のことなんで、一度確認させてください」
「確認ってなんや」
「今日の売り上げ計算して、金額が間違ってないか確かめたいんです」
「急いどるっちゅうたやろが。おまえら、バイトの分際で客を疑っとんか!」男は激昂する。「どうせこの女がちょろまかしとんに決まっとんや!」
「そんなこと……」
「やってないっちゅうんか、証拠はあるんか、あ?」
男には亜希の否定など最早耳にする気もない。どうしてこんな言いがかりをつけられるのか、泣きたくなってくる。
「ああ、お急ぎですか」
「そうやって言うとるやろが、おまえもアホなんか?」
「じゃあ、あっち確認しますか」航は天井の隅を指さす。それを目にした男が息を呑むのに、亜希も視線を上げた。
「カメラなら嘘つきませんから」
レジの方を向く監視カメラの存在を、亜希は知らなかった。一方の男は明らかに狼狽え、目に見えて威勢を失くす。
「そこまでする必要ないっちゅうねん、はよ金払えばええ話やろが」
「いやー。お金のことなんで」気の抜けた表情で笑い、思いついたように付け足す。「ちょっと店長にも知らせますんで」
おお、と言い淀む男に彼は更に畳みかける。
「一応警察にも確認してもらいますね」
けいさつ、と男が繰り返した。「誰がそこまでせえって言うた」
「三対一だと、僕らが店の有利に働きかけるかもしれないでしょ。だから第三者に見てもらった方が確実だと思うんですよ。もし彼女がちょろまかしてたら、そこですぐに補導してもらえるし」
挟みかけた口を、亜希はすんでのところでつぐむ。彼女も今ではすっかり事態を飲み込めていた。この客は元々自分が五千円札を出したことを記憶している。それなのに、一万円を払ったはずだと難癖をつけ、釣りを余分に貰おうとしているのだ。亜希の心は、なんてずるい男だろうという憤慨と、乱暴な言動に対する恐れがごちゃ混ぜになる。
「じゃ、お急ぎのようなんで、早いとこ呼びましょうか」
そうして航はカウンターの内側に手を伸ばし、電話機の子機を取り上げた。
「待てやおい、早まんなや」当然、自分に非があることを理解している男は、彼の方に手を伸ばす。「なにもサツまで呼ばんでもええんとちゃうか」
さっそく番号を打ち込んでいる航は、宙で止まっている太い指先を見ながら「そうですか?」と訝しげな顔をした。「僕が呼ばなくても、店長が同じこと言うと思いますけど」
男はなおも有利になる言葉を選んでいたが、既に彼の指先が「1」を二回押している時点で諦めたらしい。「くそ、無駄足踏ませやがって」やがて悪態を吐き捨てると、カウンターに乗ったままの四千八百九十円をひったくる。
「二度と来るか、ボケが!」
捨て台詞と共に肩をいからせ、大股で店を出ていく。それを見送る航が「二度と来るな、ボケ」と呟いたのが亜希には聞こえた。
男の姿がすっかり見えなくなると、彼女はやっと大きく息を吐いた。入学式や面接とは比較できない類の緊張に固まっていた身体から力が抜けて、へたり込みそうになってしまう。
「助かりました……」吐く息は掠れ気味だ。「ありがとうございます」
もしも彼が居なかったらと思うと、肝が冷える。
「はいどうも」気のない返事をし、航は手を伸ばして子機を元に戻す。「ああいうの珍しくないから。気をつけなよ」
はいと返事をし、亜希は天井に目を向ける。視線の先には監視カメラ。「私、知らなかったです。あそこにカメラがあったなんて。安心しました」
「ああ、あれダミーだから」
「えっ」彼の思わぬ台詞に変な声が出てしまう。「じゃあ、偽物ってこと……?」
「ただの張りぼて。録画なんて機能ついてないよ」
こともなげに言うのに、亜希は呆気にとられる。自信満々に警察まで呼ぼうとしたのに、そもそも映像自体が存在しないだなんて。
「こういうこと、慣れてるんですか」
「まあ。いろいろバイトしてきたから」
そう言って八時五分を示す時計を見上げる彼の世慣れっぷりに、亜希は素直に感心した。自分と同じ年数しか生きていないはずなのに、遥かに年上の男の理不尽に怖気づくどころか撃退してしまうなんて。今はむしろ、残業代の方が気になるらしい。
「あれ、どうした。なにかあった?」
客を案内したついでに違う仕事に手をつけていたのか、長谷川は段ボール箱を一つ抱えて下りてきた。
「長谷川さん、遅いっすよ」航が文句を口にする。
「悪い悪い。そんで……」箱を下ろした長谷川が振り返り、入ってきた客に「いらっしゃいませー」と声をかけた。それに二人も同じ台詞を重ねる。
店員が固まってこそこそと話をしているのは、客の心象に悪い。それを悟った航が、「俺上がるから。説明しといて」と亜希に告げた。
「はい、お疲れさまでした」
「店長には一応言っとくから」
そして返事も待たず、さっさとレジ脇の階段を上がっていく。何があったのか気になって仕方のない長谷川の視線を感じながら、亜希はその背を見送った。
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