命の針が止まるまで

乃木 京介

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Chapter1「イキワズライ」

#7

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 商品を受け取り外に出ると、さっそく一口飲んだユウが「んにゃあ……」と言葉にならない声を上げて幸せそうな顔をした。抹茶クリームフラペチーノというものでユウのお気に入りらしい。そんな未知の飲み物を僕も恐るおそる口にしてみる。すると、初めて飲むのにどこか郷愁めいた味わい深さを感じた。夏の大雨を家の窓から眺めている時のような、冬の冷たい空気の匂いを玄関先で感じている時のような、紐づいた記憶がいくつも甦る不思議な感覚。

 たぶん今後僕はこの飲み物を口にする度、ユウと過ごした今日のことを思い出すだろう。ありふれた日常に戻っても回想に浸れる記憶を作れた僕が幸せを噛み締めながら「美味しい」と言葉をこぼすと、ユウも嬉しそうに笑った。

「そうでしょ? 私はいつも特別な日に飲むんだ」

「特別な日? それなら文化祭がある明日じゃなくて?」

「そうだね、明日も特別な日。でもね、今日の方がずっと特別なんだよ」

 たしかに、二人で校則を破り文化祭前日に遊ぶなんて特別だ。歳を重ねて他人に話すようなものではないが、だからこそ二人だけが知っている記憶として価値が生まれる。もっともそれは、後に僕たちが今日という日を互いに憶えていて振り返った時に、はじめて意味を成すものになる。

 しかし未来を呑気に色付けようとする僕と、ユウの思考には大きな差があった。

「コウタくんってさ、自分が自分であることを証明できる?」

 とても難しい問題だった。これまで幾度も他人に合わせて会話を紡いできたのに、ユウが期待している答えを導き出すには、まるで経験値が足りない。

 幾ばくか悩んだあと、僕はいちばん初めに浮かんだ疑問を呟くことにした。

「それは自らを何者であると証明できるかってこと?」

「うん、だいたいは合ってる。だけどもっと根本的な、自分という人間は本当に存在しているのかなって話」

 残り時間が少ないなか、テストの大問を解いているような態様だった。僕はいちど抹茶クリームフラペチーノを体内に吸収し、複雑に絡まった思考をゆっくり解いてみることにした。

“自分という人間は本当に存在しているのか”

 もちろん、物理的に存在しているだとか、戸籍上存在しているのかの話ではないだろう。だけど、ユウの言いたいことはよく分かる。何よりもそれは、両親の期待に応えることではじめて自分の存在意義が生まれると思っていた僕自身が抱くべき問いだった。

 文化祭期間で両親に反抗した僕はこれからどうなる? 自由になったと言えば聞こえはいい。しかし現実の映し方を変えれば、全ての道筋を示してもらわなければ何もできないまま成長した僕が、突然戦場に放り出されたようなものだ。何を遂行するべきか、それどころか敵と味方の区別さえつかない。そんな僕という人間は本当に存在していると言っていいのか……?

「僕には証明できないかもしれない……」

 掠れた声で呟いた僕を見て、ユウは少しだけ哀しそうな顔をした。

「私もある時気付いたんだ。私が思う私と、周りが思う私は違う人なんだって。よく考えてみたら、自分でも自分のことがよく分からない部分がたくさんあるよね? もしかしたら、客観的に私を見ているみんなのほうが正しいのかもしれない。だけどそれを違うと思う私もいる。気付いたらこの世界に私が二人いるの」

 カップから伸びるストローに口先を付けて液体を取り込んだユウだったが、今度は先ほどのように明々な表情を浮かべなかった。

「これを美味しいと感じているのは本当の私なのか、それとも周りのイメージから作り上げられたもう一人の私が美味しいとのか、それすらも分からないんだ。もし後者だとしたら、私はそれに抗おうとして嫌いになってしまうかもしれない。でもそれが私の勘違いだとしたら、私が好きなものを奪われることになる。存在しないもう一人の私にね」

 そこまで言い終わったあと、ユウは不器用に笑った。

「変でしょ? 私って」

「いや……」

「いいんだよ、遠慮なく言っても」

「じゃあ」といざ僕が言おうとすると、ユウは少しだけ身構えた様子でこちらを見つめた。

「今日こうして一緒にいるのは……いや、初めて僕に話しかけてくれたあの日も、もう一人のユウが決めたこと?」

 一瞬の躊躇いこそ見せたが、ユウはすぐに首を横に振った。

「……ううん、それは間違いなく本当の私が選択したことだよ。そうじゃなきゃ私は今頃、学校で演劇の練習をしていたと思う。現実には存在しない役を、これまた存在しないもう一人の私が演じて、すごいと言われた本当の私はどんどん雲隠れしていく」

 その時、空を流れていた綿雲が太陽を隠して視界の色度がガクッと落ちた。けれどすぐに、突き抜けるような光輝を放った日脚がユウを照らす。

「だから私は私でいるためにコウタくんに話しかけた。何て言ったらいいか分からないけど、君なら私を救ってくれる気がしたの。純粋に私という人間を目に映してくれる気がした……。そういうの信じる?」

「信じるよ。僕もそうだったから」

「そっか……え、え?」

 即答した僕の反応が予想外だったのか、珍しくユウが動揺している。色々なことを訊かれないうちに僕は言葉を重ねた。

「それと、さっきの答えだけど訂正する。僕という人間が存在しているかどうかはユウが証明してくれるよ。そして、ユウがユウであることも僕が証明する」

「どうやって……?」

「きっと、いつか分かる日が来るよ」

 その時、ユウがほんの少しだけ驚いたように見えた。けれど、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。

「ん、そっか。コウタくんが言うなら、その日が来ることを信じてる」

 その後僕たちは、何も言葉を交わさぬままただ街を歩き続けた。いつの日か、僕が歌詞を書いてペンを走らせた音とユウが弾くギターの音が共鳴していたように、僕たちはそれぞれの足音が震わす鼓動を肌で感じて会話をしていたのだと思う。今日という日が遠い過去になって、それでもこの場所を訪れた時、歩んだ足跡が青白く浮かび上がり思い出させてくれるように。

 後にそれが、僕の希望的観測ではなく真実だったことが明白になる。

「明日が来てほしいし、来てほしくもないな」

 帰り際、冬になればイルミネーションのライトアップがされるという場所で、ふと呟いたユウの言葉を、この時の僕は聞き取ることができなかった。「なんて?」と呟きかけながら視線を向けた先に映るユウの絢爛な横顔が見えて、僕は聞き返すことを忘れて魅入った。

 確かに、今日は特別な日だった。
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