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第三章
第38話 市杵島姫命
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◇◇◇
「目が覚めたか」
瞼を開ける前に、聞き覚えのない声がそう言ったのが聞こえた。うっすら目を開けると、顔面蒼白なムミィと見知らぬ女性の顔が見えた。
「ムミィ……と、誰……?」
「私は市杵――」
「真白さぁぁぁん!! 目が覚めてよかったぁぁぁ!」
女性の名乗りを遮り、ムミィが私に勢いよく抱きついた。
私は頭の痛みに顔をしかめながら、女性に尋ねる。
「私を助けてくれたのはあなたですか……?」
「違う。そこで鼻水垂らして泣き喚いている疫病神だ」
「え……」
私と目が合ったムミィは、しゃくりあげながらも説明してくれた。
「ぼ、僕ぅ、橋からダイブしたのは初めてでしたよぉ……っ。真白さん、五キロ太っただけあって重いしぃ……もうほんと、腕が千切れるかと思いましたよぉぉぉ……」
「うーん、言いたいことはあるけど、ひとまずお礼は言わなきゃね。ありがとう、ムミィ」
ムミィは大きな瞳を涙で滲ませ、また子供のように泣きじゃくった。うるさすぎて鼓膜が破れそうだったけれど、そんなことあんまり気にならなかった。
「まさか疫病神に命を助けられるとはね……」
「僕の名誉のためこれだけは言わせてください……。橋が落ちたのは僕の力じゃありません……。真白さんが自ら招いた、ただの事故です。僕はあんなつまらない不幸なんて望んでいませんからぁ……」
私たちの会話に耳を傾けていた女性は、含み笑いをする。
「さっきは驚いたよ。崖からあんたを背負ったずぶ濡れのムミィが這いあがって来て……。ふふふ、この世の終わりのような顔でさ、あんたを助けろってうるさくて」
「あっ! それは言わない約束だったじゃん!」
「私の名乗りを遮った罰さ」
そして女性は改めて名乗った。
「私は市杵島姫命。よくこのような辺鄙な地まで足を運んだな、マシロ」
市杵島姫命は、今まで出会ったどの神さまよりも華やかで美しかった。艶やかな黒髪は床まで伸び、琥珀色の瞳は全てを見透かしているかのよう。扇子を持つ指の動きひとつすら魅入られる。
見惚れていた私に微笑みかけた市杵島姫命は、すぐにムミィに視線を送る。
「それで、ヒトなど連れて何しに来た?」
ムミィはニパッと笑って答える。
「川遊びしに来た!」
なるほど。私は川遊びするために死にかけたのか。
「真白さん、市杵島姫命のプライベートリバーは最高なんですよー! 冷たくて穢れひとつない清水! 川にはカクリヨの魚が泳いでいます! なによりあそこで冷やしたスイカは、それはもう美味しくて!!」
この八カ月で、ムミィは私の好みを正確に把握していた。まず、〝穢れがない〟〝清らかな〟という言葉に弱い。次に、カクリヨの生物や植物にテンションが上がる。最後に美味しいものを出せばコロリだ。
先ほどまでげっそりしていた私は、ムミィの殺し文句ですっかりその気になってしまった。
私は抑えきれないニヤけを顔面に滲ませる。
「ま、まあ、せっかく来たしね。楽しまなきゃ損よね!」
「さすが真白さん!! ではでは、さっそく行きましょう!」
「待て」
ムミィと私が立ち上がると、市杵島姫命に引き留められた。
「マシロ、体の具合は」
「さっきまで頭が痛かったですが、今は平気です。ありがとうございます」
「ならば良かった。では――」
市杵島姫命はムミィに手のひらを差し出し、首を傾ける。
「うちは先払い制でね。マシロの治癒をしたお代と川遊びをするお代を。所持しているうちで最も良いモノ五つ」
ヒッ、とムミィが息を呑み、真っ青な顔で作り笑顔を浮かべながら市杵島姫命にすり寄った。
「まあまあ、市杵島姫命! 今回だけ特別に後払いにしといてよ! 代わりに真白さんの料理を食べさせてあげるからさ!」
「なに。マシロの」
「うんうん! こんなところに住んでいても、噂くらいは耳に入っているでしょう? その料理を、今日は市杵島姫命に食べさせてあげる!」
市杵島姫命の瞳がきらっと光ったように感じた。
「ま、まあ。そういうことなら、後払いでも良い。しかし必ず約束は守るように」
「もちろん! この僕が約束を違えたことがありますか?」
ムミィが私の手を掴んで走り出しても、今度は市杵島姫命に止められなかった。
市杵島姫命の姿が見えないところまで行くと、ムミィが安堵のため息を吐いた。
「うわー……危なかったぁ……。自営業をしている神ってどうしてこうもがめついのでしょうか……」
「うーん。私はあんたよりがめつい神さまを見たことがないから分かんない。それより、私の料理って神さまの間でそんなに噂になってるの?」
「はい! みんな一度は食べてみたいと思っているでしょうね!」
私の料理のどこがそんなに良いんだかさっぱり分からない。そんなに求められると自惚れそうになるからやめてほしいわ、全く。
「目が覚めたか」
瞼を開ける前に、聞き覚えのない声がそう言ったのが聞こえた。うっすら目を開けると、顔面蒼白なムミィと見知らぬ女性の顔が見えた。
「ムミィ……と、誰……?」
「私は市杵――」
「真白さぁぁぁん!! 目が覚めてよかったぁぁぁ!」
女性の名乗りを遮り、ムミィが私に勢いよく抱きついた。
私は頭の痛みに顔をしかめながら、女性に尋ねる。
「私を助けてくれたのはあなたですか……?」
「違う。そこで鼻水垂らして泣き喚いている疫病神だ」
「え……」
私と目が合ったムミィは、しゃくりあげながらも説明してくれた。
「ぼ、僕ぅ、橋からダイブしたのは初めてでしたよぉ……っ。真白さん、五キロ太っただけあって重いしぃ……もうほんと、腕が千切れるかと思いましたよぉぉぉ……」
「うーん、言いたいことはあるけど、ひとまずお礼は言わなきゃね。ありがとう、ムミィ」
ムミィは大きな瞳を涙で滲ませ、また子供のように泣きじゃくった。うるさすぎて鼓膜が破れそうだったけれど、そんなことあんまり気にならなかった。
「まさか疫病神に命を助けられるとはね……」
「僕の名誉のためこれだけは言わせてください……。橋が落ちたのは僕の力じゃありません……。真白さんが自ら招いた、ただの事故です。僕はあんなつまらない不幸なんて望んでいませんからぁ……」
私たちの会話に耳を傾けていた女性は、含み笑いをする。
「さっきは驚いたよ。崖からあんたを背負ったずぶ濡れのムミィが這いあがって来て……。ふふふ、この世の終わりのような顔でさ、あんたを助けろってうるさくて」
「あっ! それは言わない約束だったじゃん!」
「私の名乗りを遮った罰さ」
そして女性は改めて名乗った。
「私は市杵島姫命。よくこのような辺鄙な地まで足を運んだな、マシロ」
市杵島姫命は、今まで出会ったどの神さまよりも華やかで美しかった。艶やかな黒髪は床まで伸び、琥珀色の瞳は全てを見透かしているかのよう。扇子を持つ指の動きひとつすら魅入られる。
見惚れていた私に微笑みかけた市杵島姫命は、すぐにムミィに視線を送る。
「それで、ヒトなど連れて何しに来た?」
ムミィはニパッと笑って答える。
「川遊びしに来た!」
なるほど。私は川遊びするために死にかけたのか。
「真白さん、市杵島姫命のプライベートリバーは最高なんですよー! 冷たくて穢れひとつない清水! 川にはカクリヨの魚が泳いでいます! なによりあそこで冷やしたスイカは、それはもう美味しくて!!」
この八カ月で、ムミィは私の好みを正確に把握していた。まず、〝穢れがない〟〝清らかな〟という言葉に弱い。次に、カクリヨの生物や植物にテンションが上がる。最後に美味しいものを出せばコロリだ。
先ほどまでげっそりしていた私は、ムミィの殺し文句ですっかりその気になってしまった。
私は抑えきれないニヤけを顔面に滲ませる。
「ま、まあ、せっかく来たしね。楽しまなきゃ損よね!」
「さすが真白さん!! ではでは、さっそく行きましょう!」
「待て」
ムミィと私が立ち上がると、市杵島姫命に引き留められた。
「マシロ、体の具合は」
「さっきまで頭が痛かったですが、今は平気です。ありがとうございます」
「ならば良かった。では――」
市杵島姫命はムミィに手のひらを差し出し、首を傾ける。
「うちは先払い制でね。マシロの治癒をしたお代と川遊びをするお代を。所持しているうちで最も良いモノ五つ」
ヒッ、とムミィが息を呑み、真っ青な顔で作り笑顔を浮かべながら市杵島姫命にすり寄った。
「まあまあ、市杵島姫命! 今回だけ特別に後払いにしといてよ! 代わりに真白さんの料理を食べさせてあげるからさ!」
「なに。マシロの」
「うんうん! こんなところに住んでいても、噂くらいは耳に入っているでしょう? その料理を、今日は市杵島姫命に食べさせてあげる!」
市杵島姫命の瞳がきらっと光ったように感じた。
「ま、まあ。そういうことなら、後払いでも良い。しかし必ず約束は守るように」
「もちろん! この僕が約束を違えたことがありますか?」
ムミィが私の手を掴んで走り出しても、今度は市杵島姫命に止められなかった。
市杵島姫命の姿が見えないところまで行くと、ムミィが安堵のため息を吐いた。
「うわー……危なかったぁ……。自営業をしている神ってどうしてこうもがめついのでしょうか……」
「うーん。私はあんたよりがめつい神さまを見たことがないから分かんない。それより、私の料理って神さまの間でそんなに噂になってるの?」
「はい! みんな一度は食べてみたいと思っているでしょうね!」
私の料理のどこがそんなに良いんだかさっぱり分からない。そんなに求められると自惚れそうになるからやめてほしいわ、全く。
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