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第一章
第9話 浴槽ゼリー
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◇◇◇
私は、憑りつかれたように浴槽を何度も洗っていた。泡だらけにしては流し、流しては泡だらけにして。
一時間前から私の様子を見ていたムミィは、退屈そうに宙を蹴る。
「真白さぁん。もういいんじゃないですか? 充分キレイになりましたよ~」
「だってここでゼリー作るんだよ!? あともう一回くらいは洗っときたい……」
事の発端は一日前。朝食を済ませたムミィが突拍子のないことを提案した。
それは、「浴槽でゼリーを作ること」――私が幼い時にみていた夢のひとつ。
「今の真白さんなら、やろうと思えばできるでしょう? そういう小さなあどけない夢をひとつずつ叶えていくことが、幸せへの第一歩だと思うんです! よく分かりませんが!」
そんなふざけたことをしている時間があるのなら、一社でも多く再就職先に応募しないといけないんじゃないかという不安がよぎった。
浮かない顔をしている私を見て、ムミィは唇を尖らせた。
「真白さん! 一週間、僕に付き合ってくれませんか! 一週間だけは、就活のことを考えないでください! お願いします!」
ムミィは両手を合わせて必死にお願いした。
まあ、貯金はそれなりにあるし、一週間くらいなら無職を楽しんだっていっか。私だって別に働きたいわけじゃない。できることなら一生無職のまま不労所得で生きていきたいもん。
それに、疫病神にまで憑かれてしまった私は、この一年でどんな不幸に見舞われるのか分からない。ムミィは何度も「最上の不幸を与える」と豪語しているし、もしかしたら病気や死だってありえる。
それだったら、老後のことを考えても仕方ない。ムミィの「幸せにする」フェーズの間に、好きなことをして楽しんどいた方が良い気がした。
……なんてウダウダ言っているけれど、結局のところ就活から現実逃避したいだけなんだけど。
「……分かった。一週間は付き合うよ。その代わり、思いっきり楽しい一週間にしてね」
ムミィは顔を上げ、ニパッと笑った。
「はい! 約束します!!」
そして今に至る。
昨日通販で注文した大量の材料――一キロの粉寒天一袋、グラニュー糖が五袋、そして一リットルオレンジジュースが……なんと百四本――が、家の中に運ばれる。配達員さん、お疲れさまでした。
「うわぁ……。実際に見たらちょっと引く……」
「そうですか? 僕はテンションが上がりました! 楽しみですねえ、真白さん!」
ムミィの言う通り、浴槽でゼリーを作るという夢は、大人になった今でもちょっと胸が高鳴る。
でも、毎日使っているお風呂でゼリーを作るのは抵抗があった。だから私は、一時間以上かけて念入りに浴槽を洗っている。
納得いくまで浴槽を磨いた私は、早速ゼリー作りに取りかかった。正しく言えば、常温でも固まる寒天ゼリーを作るつもり。
浴槽に入る水の量は約二百リットルだけど、百五十リットルくらいで作ろうかなと思っている。……百五十リットル? つまり百五十キロの寒天ゼリーができるってこと? 一日で食べたら百五十キロ太っちゃう。二人で食べても七十五キロ。どっちにしろ胃袋破裂する。
「いや絶対食べきれないんだけど。もったいない」
突然正気に戻って尻込みする私に、ムミィは自信満々に親指を立てた。
「大丈夫です! 余ったゼリーは僕が買い取りますし、ちゃんと有意義に使わせていただきますので!」
「使い道ある? ないでしょ」
「ありますあります! ご心配なく! ささ、早く作りましょう!」
「そういうことだったら……作っちゃうか!」
どっちにしろ食材はもう買い揃えてしまっているしね! っていうか純粋に作りたいし! 子どもの頃に夢見ていた浴槽ゼリーを、まさか三十三歳になって作ることになるなんて。
まず、鍋に一リットルの水と九グラムの寒天を入れてよく混ぜる。沸騰したら弱火にしてまた混ぜる。そこに、グラニュー糖百十八グラムを加えてよく溶かす。
その間にジュースをぬるま湯くらいに温めておいて、鍋に投入。しっかりかき混ぜ、浴槽にぶち込む。
この簡単な作業を三十八回繰り返すと、浴槽が寒天ゼリーの素で満たされる。
大変だけど、一日中ひたすら苺のヘタ取りをさせられたパティシエ時代に比べたら、こんなの楽勝よ。
全ての作業が終わり、私はソファにぐったり腰を沈めた。
「あとは固まるのを待つだけ……」
「楽しみです! 早く食べたいですねえ!」
元気いっぱいのムミィを私は睨みつける。
「結局あんたなんにも手伝ってくれなかったわねえ!」
ムミィはキョトンとした目で首を傾げた。
「やだなあ。手伝っていたじゃないですかー。がんばれがんばれーって応援して」
「応援してただけじゃん……っ。せめて紙パックの片付けしてほしかった……っ!」
「それに食べるのも手伝いますし! 余り物の処理までしちゃう! 僕って有能ですねえ~!」
「グッ……余り物の処理は正直一番ありがたいけども……けどもぉ……っ!」
納得がいかずに悶えている私の肩に、ムミィが手を載せる。
「真白さん。他人に高望みはしてはいけませんよ。してくれなかったことじゃなくて、してくれたことを見てあげましょう。じゃないとお互いに気持ち良くないでしょう?」
正論すぎてムカつくし、これをムミィが言うのがとても気に食わなかった。
私は、憑りつかれたように浴槽を何度も洗っていた。泡だらけにしては流し、流しては泡だらけにして。
一時間前から私の様子を見ていたムミィは、退屈そうに宙を蹴る。
「真白さぁん。もういいんじゃないですか? 充分キレイになりましたよ~」
「だってここでゼリー作るんだよ!? あともう一回くらいは洗っときたい……」
事の発端は一日前。朝食を済ませたムミィが突拍子のないことを提案した。
それは、「浴槽でゼリーを作ること」――私が幼い時にみていた夢のひとつ。
「今の真白さんなら、やろうと思えばできるでしょう? そういう小さなあどけない夢をひとつずつ叶えていくことが、幸せへの第一歩だと思うんです! よく分かりませんが!」
そんなふざけたことをしている時間があるのなら、一社でも多く再就職先に応募しないといけないんじゃないかという不安がよぎった。
浮かない顔をしている私を見て、ムミィは唇を尖らせた。
「真白さん! 一週間、僕に付き合ってくれませんか! 一週間だけは、就活のことを考えないでください! お願いします!」
ムミィは両手を合わせて必死にお願いした。
まあ、貯金はそれなりにあるし、一週間くらいなら無職を楽しんだっていっか。私だって別に働きたいわけじゃない。できることなら一生無職のまま不労所得で生きていきたいもん。
それに、疫病神にまで憑かれてしまった私は、この一年でどんな不幸に見舞われるのか分からない。ムミィは何度も「最上の不幸を与える」と豪語しているし、もしかしたら病気や死だってありえる。
それだったら、老後のことを考えても仕方ない。ムミィの「幸せにする」フェーズの間に、好きなことをして楽しんどいた方が良い気がした。
……なんてウダウダ言っているけれど、結局のところ就活から現実逃避したいだけなんだけど。
「……分かった。一週間は付き合うよ。その代わり、思いっきり楽しい一週間にしてね」
ムミィは顔を上げ、ニパッと笑った。
「はい! 約束します!!」
そして今に至る。
昨日通販で注文した大量の材料――一キロの粉寒天一袋、グラニュー糖が五袋、そして一リットルオレンジジュースが……なんと百四本――が、家の中に運ばれる。配達員さん、お疲れさまでした。
「うわぁ……。実際に見たらちょっと引く……」
「そうですか? 僕はテンションが上がりました! 楽しみですねえ、真白さん!」
ムミィの言う通り、浴槽でゼリーを作るという夢は、大人になった今でもちょっと胸が高鳴る。
でも、毎日使っているお風呂でゼリーを作るのは抵抗があった。だから私は、一時間以上かけて念入りに浴槽を洗っている。
納得いくまで浴槽を磨いた私は、早速ゼリー作りに取りかかった。正しく言えば、常温でも固まる寒天ゼリーを作るつもり。
浴槽に入る水の量は約二百リットルだけど、百五十リットルくらいで作ろうかなと思っている。……百五十リットル? つまり百五十キロの寒天ゼリーができるってこと? 一日で食べたら百五十キロ太っちゃう。二人で食べても七十五キロ。どっちにしろ胃袋破裂する。
「いや絶対食べきれないんだけど。もったいない」
突然正気に戻って尻込みする私に、ムミィは自信満々に親指を立てた。
「大丈夫です! 余ったゼリーは僕が買い取りますし、ちゃんと有意義に使わせていただきますので!」
「使い道ある? ないでしょ」
「ありますあります! ご心配なく! ささ、早く作りましょう!」
「そういうことだったら……作っちゃうか!」
どっちにしろ食材はもう買い揃えてしまっているしね! っていうか純粋に作りたいし! 子どもの頃に夢見ていた浴槽ゼリーを、まさか三十三歳になって作ることになるなんて。
まず、鍋に一リットルの水と九グラムの寒天を入れてよく混ぜる。沸騰したら弱火にしてまた混ぜる。そこに、グラニュー糖百十八グラムを加えてよく溶かす。
その間にジュースをぬるま湯くらいに温めておいて、鍋に投入。しっかりかき混ぜ、浴槽にぶち込む。
この簡単な作業を三十八回繰り返すと、浴槽が寒天ゼリーの素で満たされる。
大変だけど、一日中ひたすら苺のヘタ取りをさせられたパティシエ時代に比べたら、こんなの楽勝よ。
全ての作業が終わり、私はソファにぐったり腰を沈めた。
「あとは固まるのを待つだけ……」
「楽しみです! 早く食べたいですねえ!」
元気いっぱいのムミィを私は睨みつける。
「結局あんたなんにも手伝ってくれなかったわねえ!」
ムミィはキョトンとした目で首を傾げた。
「やだなあ。手伝っていたじゃないですかー。がんばれがんばれーって応援して」
「応援してただけじゃん……っ。せめて紙パックの片付けしてほしかった……っ!」
「それに食べるのも手伝いますし! 余り物の処理までしちゃう! 僕って有能ですねえ~!」
「グッ……余り物の処理は正直一番ありがたいけども……けどもぉ……っ!」
納得がいかずに悶えている私の肩に、ムミィが手を載せる。
「真白さん。他人に高望みはしてはいけませんよ。してくれなかったことじゃなくて、してくれたことを見てあげましょう。じゃないとお互いに気持ち良くないでしょう?」
正論すぎてムカつくし、これをムミィが言うのがとても気に食わなかった。
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