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第三章 ブロンテとルノワール

第二十八話

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 展覧会の中盤で、俺のお目当ての絵画を見つけた。

 ルノワールの『ブロンドの浴女』。

 俺はその絵の前に立ち、はぁー……と長い吐息を漏らす。
 シアンさんは、絵画ではなく俺の様子をじーっと見ていた。
 そこで俺はハッとする。絵画好きの人の前で、こんな不純な気持ちで絵画鑑賞をするのは失礼なのではないか。

「ごめん」
「え?」
「お、俺、たぶん鑑賞の仕方間違ってるよね」

 彼女はポカンと口をあけたあと、にっこり笑って首を振る。

「ううん! 合ってるよ。ていうかユウくんが思ってるほど、絵画鑑賞って高尚なものじゃないよ」
「そうなの?」
「うん。画家だって、裸婦を描きたくてこういう絵を描いてるんだし。宗教画だってそうだよ。難しい絵でも、実は裸婦を描きたかっただけとかそういう絵もあるし。今でいうエロ本的な感覚で、隠し部屋に裸婦の絵を飾ってる人もいたみたいだよ」

 絵画がエロ本。すごいこと言うなこの人。

「私だって、絵画の裸婦や、天使、男の人、少年とかを見てニヤニヤしちゃうよ。だって美しく描かれてるんだもん。古典主義の裸婦なんて最高だよ。とても良い。興奮する」

 シアンさんは古典主義の絵画を思い出しているのかニヤニヤした。俺は古典主義がどんなものかはよく分からないが、きっとエロいのだろう。

 でも、少し安心した。彼女の絵画鑑賞の仕方が合っているのかどうかは疑問だが、そういう楽しみ方を彼女もしているのであれば、俺も心置きなくこの絵を観られる。
 俺が安堵の表情を浮かべると、シアンさんは微笑んだ。

「絵画の楽しみ方は自由なんだから、自分が楽しめる方法が正しいんだよ。だから、好きじゃない絵画は無理して観なくても良いし、理解しようとしなくてもいい。自分の好きなものを見つけて、それをめいいっぱい楽しむの。……もちろん、人さまに迷惑はかけちゃだめだよ」
「うん。ありがとう」

 自分が楽しめる方法か。シアンさんは正にそういう鑑賞の仕方をしていると思う。
 俺はまだ、絵画のことはよく分からない。それでも彼女と一緒に展覧会をまわって楽しめたし、もっと色んな話を彼女から聞きたいと思った。

 それに今日、俺に好きな絵画がひとつできた。顔と金以外何も持っていない退屈な俺に、ひとつ個性が生まれたことが、どこか誇らしかった。

 展覧会を一周した頃には二時間が経っていた。
 出口が見えるとシアンさんが立ち止まり、俺に尋ねる。

「もう一回観たい絵ある? 私はあるよ」

 なんでも、一通り展覧会をまわってから、気に入った絵をもう一度観に行くのが彼女流の絵画鑑賞方法らしい。
 俺はもちろん、『ブロンドの浴女』を希望した。

「だよねー! 行こう行こう! 次に生絵を観られるのは、何十年先か分からないからね!」
 順路に逆らって早足で歩いている俺たちの目には、じっくりゆっくり絵画鑑賞している人たちもまた、展示物のように感じた。

 気を利かせてか、俺が『ブロンドの浴女』を鑑賞している間に、シアンさんは彼女の観たい絵を一人で観に行った。おかげでじっくりと気兼ねなく鑑賞できて、大満足だ。

 お土産コーナーで俺は、図録とポストカード六枚を購入した。『ブロンドの浴女』のポストカードは自分用で、残り五枚は『勉強会』メンバーにお土産として渡す用。
 木渕はこの絵が好きそうだとか、この絵は花崎さんに似合いそうとか、そんなことを考えながらポストカードを選ぶのが、思いの外楽しかった。

 美術館を出た俺たちは、近くのカフェに寄って食事をすることにした。
 シアンさんはメニューで半分顔を隠して、モジモジと俺に視線を送る。

「あの……、食べたいの、食べて良い?」
「いいよ? どうしてそんなこと聞くの?」
「食べたいのが、いっぱいあるから」

 プッと噴き出し「全部食べていいよ」と答えた俺に、彼女は満面の笑みを向けた。そして手を挙げ、ホールスタッフを呼ぶ。

「えっと、ガトーショコラと、いちごタルトと、マンゴーのムースと……」

 ……ん? それデザートだよな? 昼飯は?

「……チーズケーキと、ショートケーキください。私は以上で。ユウくんは?」
「えっと、じゃあ、ボロネーゼで……」
「以上でよろしいでしょうか?」

 よろしいのか? シアンさん、デザートしか頼んでないけど。

「はい! お願いします!」

 よろしいらしい。
 ホールスタッフが去ってから、シアンさんに尋ねる。

「シアンさん、ごはんは?」
「ごはんはあとでいっかなーって」
「あと?」
「私、ごはんよりも先に甘いものが食べたくなるの。それ食べてからじゃないと、ごはん食べる気になれなくて」

 なるほど。ケーキ五つは前菜代わりということか。これは今までにないタイプだ。彼女のぽっちゃりの半分はきっと、生クリームでできているのだな。そんなの絶対に柔らかいに決まっているじゃないか。だって生クリームだぞ。最高だ。

 ケーキを頬張る彼女は幸せそうだった。口に運ぶたびに「ん~!」と舌鼓を打ち、時に「うめぇ~」とおっさんのような吐息を漏らし、合間に無意識にメニューをペラペラとめくり、そして気が付いたらケーキがなくなっていた。

「あえ!? ケーキどこいった!?」
「シアンさんの腹の中だよ」
「うそ! 食べた記憶ないんだが!?」
「確かにちょっと意識飛んでるなーとは思ってた」
「どうしよう……。おいしかったことしか覚えてない……」
「それだけ覚えてたら充分でしょ。他に何か食べる?」

 メニューを渡すと、シアンさんは子どものようにあどけない笑顔を浮かべる。

「食べる!」

 際限なく色んなものを頼んでは おいしそうに頬張って、気が付いたら皿が空になっている。夢中になって食べている彼女が、だんだんとハムスターに見えてきた。
 ちなみに俺はとっくの前に満腹になっていたので、むしゃむしゃ食べているシアンさんを眺めて内心ニヤけていた。

 シアンさん、めちゃくちゃ可愛い。

「おいしかったねえー!」

 腹太鼓を叩きながら店を出たシアンさんが、満足げにそう言った。

 カフェ代も奢ってもらってしまった。彼女はああ言ったけど、やっぱり奢ってもらいっぱなしというのは俺の気が済まない。カフェにいる間も、さりげなくハイブランドのスマホカバーが見えるようにスマホをテーブルの上に置いたり、会計の時は、札束がチラッと見えるように財布を開いたりしてみたのに、彼女の態度は変わらなかった。

「じゃ、良かったらまた遊んでね! またね」

 駅でシアンさんと別れ、帰路につく。電車に揺られながら俺は今日の出来事を反芻した。

 シアンさんのぽっちゃり具合は、正に俺の好みのスタイルだった。しかも綺麗だし、服装も大人で良い。子どもっぽい表情や言動をよくするが、会話の中で、ふと大人らしい考えをしていることが垣間見える。結局俺に一円も金を出させてくれなかったし。

 友人は俺のことを、高校生にはとても見えないなんて言うけど、彼女と一緒にいると、俺はまだ子どもなのだと実感した。そしてそれは、バブりたい俺には喜ばしいことだった。やっぱり年上って良いな。

 なにより、彼女との会話が楽しかった。美術館での解説も独特で、時に変態めいていて面白かったし、カフェで『ネオン』について語り合ったことも最高だった。熱狂的に好きなことを語ることも、語りを聞くのも、時間を忘れてしまうほど夢中になった。

 それに俺は、シアンさんのおかげで『ブロンドの浴女』に出会えた。
 彼女は、ルノワールの絵画にはふくよかな女性が多いと言っていた。
 ルノワールがデブ専かどうかは分からないが、あれほど美しくぽっちゃり女性を描けるくらいだから、少なくとも彼はぽっちゃりの良さを知っていたはずだ。俺でも名前を知っているくらいの画家が、俺の気持ちを分かってくれると考えると、今まで抱いていた孤独感が薄らいだ。もし俺がルノワールと同じ時代に生まれていたら、俺たちは仲良くなれたかもしれない。

 女性と二人で遊んで、こんなに満たされたのは初めてだった。
 それに、次いつ会えるのだろうとワクワクしたことも。
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