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黒羽織其の六 妖刀さがし
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「先生。入りますき」
そう言って返事を待たずに襖を開くと、そこには穏やかな表情の半平太が、筆を手に腰を下ろしている姿が見えた。
畳の上には半紙の上に、水墨で描いた花の絵が見える。
「ああ。いきなり呼んですまんのう。以蔵」
そう話す先生の声は優しい。この人の声はとても深くて穏やかで優しい。
耳にするだけで、自然と緊張という名の結び目が解けていくような、そんな力がある。
『・・じゃっどん。武市さぁの声は不思議なもんで。ずうっと聞いていたいと思うんじゃ・・」
と、新兵衛が前に言っていた事が、最近になって何となくだが分かってきたような気がする。
「・・・・いえ」
そう話しながら半平太の側に腰を下ろそうと刀を側に置き、正座の姿勢でほんの少し姿勢を正していると、その様子を見てか
「足を崩してもかまわんぞ」
と半平太が笑った。だが、以蔵はそれに対して首を横に振るだけだ。
「・・いて・・先生・・その」
「なに。たいした用はないんじゃ」
と、半平太は言う。
それに対して、以蔵は口を挟むのを止めてしまった。
そのまま口を挟む事はせず、コトコトと筆を片付ける彼の手に視線を向けている。
自分にはこの方の凄さは良く分からない。けれど、この方の剣の凄さは身にしみて分かっているつもりだ。
以蔵は半平太の人柄や知識よりも剣の腕に惚れているのだ。
最初からそうだったわけではなく、もともとは剣しか出来なかった自分に手を差し伸べてくれたのが、半平太だったからというのもある。
「おまん・・ええ腕をしちょるのう」
何気ない一言。
でもこれが以蔵の道を決める一筋の光であった事に変わりは無く、側にいることで、この人の何か役に立てはしないだろうかと常に思っていた。
だから、武市の門弟になってからというもの、彼が何処へ向かうにも以蔵は必ず同行していたし、九州へ行くと武市が言った際、自分が言うよりも先に
「以蔵も来い。きっとええ修行になるきに」
と、声をかけて貰った事もあった。
その時の旅費は全て武市が出してくれている。
武市半平太は、身分で左右されるような人ではない。今までの人とは全てが違っていた。
今回の京へもそうだった。武市は自分がついて行くと言わずとも、側にいるのが当然のように接してくれる。
それがどうにも嬉しくて、この方の為に生きられるなら、それで良いとさえ思っている。
この腕を買ってくれた武市の為に働きたい。
自分に出来る事。それが以蔵にとっての剣術だったからだ。
故郷の七軒町で以蔵は他の者と同じように剣や学問を学んでいたのだが、そこでは土佐特有の身分が邪魔をしてよく馬鹿にされた。
家や職業が何であったとしても越えられない壁が、土佐にはある。
だが、学問に通じていた父母にそれを言おうものなら
「良いですか。以蔵。学ぶことに身分は関係ないのです。父上を見なさい。あんなに慕われているでしょう?」
と、耳で稲穂が育つくらい言われるに決まっている。
事実、以蔵の父はよく皆に慕われる好人物だったからだ。
耳にしながらも放つ言葉の中にある嫌味に対して、どうしても隠せない苛立ちだけが募っていく日々。
道場からの道すがら、ふつふつと湧き上がっていた苛立ちが爆発し
「・・・・くそっ!身分が何じゃ!!なんも悪いことはしとらんじゃろうが!!」
と、言いながら溜まっていた苛立ちを木にぶつけた事も一度や二度ではなかった。
不思議なもので、無我夢中で荒々しい感情を木にぶつけているうちに我流の腕が見えて来た。
その癖のある動きを、全て叩きなおしてくれたのも此処にいる武市だった。
土佐には厳しい身分制度がある。
詳しく書けば山内一豊の時代の話から遡って説明せねばならないので、あえて割愛するが、上士、郷士、その下の身分の下士、生まれた時からその者の一生は、この厳しい身分制度によって区分けがされているのだ。
以蔵の家は郷士である。郷士といっても土佐の藩士であることに変わりはない。
しかし父母がどれほど学問に秀でていても、父がどれほど慕われていたとしても身分を前にして勝つことなど、到底できなかったのだ。
それでも日々の暮らしの中で、以蔵の家は笑顔が絶える事が無かったのもまた、事実ではある。事実ではあるのだが、明るい兄弟や家族、友との朗らかな声の奥で、ちりちりとくすぶり続ける焦燥は、果てる事が無かったのもまた事実ではあった。
そんな折、「上士も郷士も下士も、身分を問わぬ。学びたいものは来るがよろしい」という武市の言葉を人づてに聞き、彼の道場を訪ねた頃が些か懐かしくもある。
自分にないもの。
自分では到底辿り付けない場所に、この方はいるのだ。今でも以蔵は、そう思っている。
武市の道場を訪ねた日が懐かしい。
そう言って返事を待たずに襖を開くと、そこには穏やかな表情の半平太が、筆を手に腰を下ろしている姿が見えた。
畳の上には半紙の上に、水墨で描いた花の絵が見える。
「ああ。いきなり呼んですまんのう。以蔵」
そう話す先生の声は優しい。この人の声はとても深くて穏やかで優しい。
耳にするだけで、自然と緊張という名の結び目が解けていくような、そんな力がある。
『・・じゃっどん。武市さぁの声は不思議なもんで。ずうっと聞いていたいと思うんじゃ・・」
と、新兵衛が前に言っていた事が、最近になって何となくだが分かってきたような気がする。
「・・・・いえ」
そう話しながら半平太の側に腰を下ろそうと刀を側に置き、正座の姿勢でほんの少し姿勢を正していると、その様子を見てか
「足を崩してもかまわんぞ」
と半平太が笑った。だが、以蔵はそれに対して首を横に振るだけだ。
「・・いて・・先生・・その」
「なに。たいした用はないんじゃ」
と、半平太は言う。
それに対して、以蔵は口を挟むのを止めてしまった。
そのまま口を挟む事はせず、コトコトと筆を片付ける彼の手に視線を向けている。
自分にはこの方の凄さは良く分からない。けれど、この方の剣の凄さは身にしみて分かっているつもりだ。
以蔵は半平太の人柄や知識よりも剣の腕に惚れているのだ。
最初からそうだったわけではなく、もともとは剣しか出来なかった自分に手を差し伸べてくれたのが、半平太だったからというのもある。
「おまん・・ええ腕をしちょるのう」
何気ない一言。
でもこれが以蔵の道を決める一筋の光であった事に変わりは無く、側にいることで、この人の何か役に立てはしないだろうかと常に思っていた。
だから、武市の門弟になってからというもの、彼が何処へ向かうにも以蔵は必ず同行していたし、九州へ行くと武市が言った際、自分が言うよりも先に
「以蔵も来い。きっとええ修行になるきに」
と、声をかけて貰った事もあった。
その時の旅費は全て武市が出してくれている。
武市半平太は、身分で左右されるような人ではない。今までの人とは全てが違っていた。
今回の京へもそうだった。武市は自分がついて行くと言わずとも、側にいるのが当然のように接してくれる。
それがどうにも嬉しくて、この方の為に生きられるなら、それで良いとさえ思っている。
この腕を買ってくれた武市の為に働きたい。
自分に出来る事。それが以蔵にとっての剣術だったからだ。
故郷の七軒町で以蔵は他の者と同じように剣や学問を学んでいたのだが、そこでは土佐特有の身分が邪魔をしてよく馬鹿にされた。
家や職業が何であったとしても越えられない壁が、土佐にはある。
だが、学問に通じていた父母にそれを言おうものなら
「良いですか。以蔵。学ぶことに身分は関係ないのです。父上を見なさい。あんなに慕われているでしょう?」
と、耳で稲穂が育つくらい言われるに決まっている。
事実、以蔵の父はよく皆に慕われる好人物だったからだ。
耳にしながらも放つ言葉の中にある嫌味に対して、どうしても隠せない苛立ちだけが募っていく日々。
道場からの道すがら、ふつふつと湧き上がっていた苛立ちが爆発し
「・・・・くそっ!身分が何じゃ!!なんも悪いことはしとらんじゃろうが!!」
と、言いながら溜まっていた苛立ちを木にぶつけた事も一度や二度ではなかった。
不思議なもので、無我夢中で荒々しい感情を木にぶつけているうちに我流の腕が見えて来た。
その癖のある動きを、全て叩きなおしてくれたのも此処にいる武市だった。
土佐には厳しい身分制度がある。
詳しく書けば山内一豊の時代の話から遡って説明せねばならないので、あえて割愛するが、上士、郷士、その下の身分の下士、生まれた時からその者の一生は、この厳しい身分制度によって区分けがされているのだ。
以蔵の家は郷士である。郷士といっても土佐の藩士であることに変わりはない。
しかし父母がどれほど学問に秀でていても、父がどれほど慕われていたとしても身分を前にして勝つことなど、到底できなかったのだ。
それでも日々の暮らしの中で、以蔵の家は笑顔が絶える事が無かったのもまた、事実ではある。事実ではあるのだが、明るい兄弟や家族、友との朗らかな声の奥で、ちりちりとくすぶり続ける焦燥は、果てる事が無かったのもまた事実ではあった。
そんな折、「上士も郷士も下士も、身分を問わぬ。学びたいものは来るがよろしい」という武市の言葉を人づてに聞き、彼の道場を訪ねた頃が些か懐かしくもある。
自分にないもの。
自分では到底辿り付けない場所に、この方はいるのだ。今でも以蔵は、そう思っている。
武市の道場を訪ねた日が懐かしい。
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