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第3章

第3章 世界へようこそ 8

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8 素人の商い
 
 ハイナードに入港して最初に行ったのは……お茶だった。
 華やかな港町には様々なお店が建ち並んでいたが特に目立つのは喫茶店だった。
 オープンテラスになってる店が多く人の出入りが多い。
 フラフラ状態のクローリーのためにその中の適当な店を選んでテーブルを陣取った。
 しかしすぐに問題に突き当たった。
 文字も言葉も帝国と違うのだ。
 商品見本など存在しない世界なので途方に暮れかけたところでリンザットが通訳してくれた。
 いや、交易都市なので言葉は通じる相手もいる。文字が読めないのだ。
 沙那のいた世界のように日本語メニューと一緒に英語が書いてあるなんていうことはない。
 そもそも帝国人は識字率が低いので無駄と思われているのかもしれない。
「このシンレンってのが甘くてなかなか美味いぜ」
「あー……何でも良いっス。すっぱいものとかだと嬉しいっス……」
 ぐったりしたクローリーが妊娠初期の妊婦さんみたいなことを言い出した。
「酸味のあるのはちょっと分からねえが、まあ、食べやすいと思うぜ」
「へー。じゃあ、ボク、それー!」
 沙那は相変わらず元気だ。
 その高い声がちょっと頭に響くクローリーだった。
「う~~……」
 テーブルに這いつくばって唸るクローリーの姿に沙那がちょっと心配そうな顔をした。
「ほら、お茶でも飲んでー」
「……なんかすっげー緑色してて怖いんスけど……」
 クローリーは目の前のグラスに入った飲み物を恨めしそうに眺めた。  
 グラスに入っているのも珍しいが、この辺りでは清涼感を出すために使う場合もあるらしい。
 キンキンに冷えているわけじゃないが十分に冷やしてあるようだ。
「ふつーだよ。ふつー」
 緑茶に慣れている沙那は躊躇なくグイっと飲んで見せた。
 思ったより高級感のある味わいだった。
「ん。これ良いよー。冷蔵庫でキンキンに冷えてるともっと良いんだけどねー」
 それでも基本は熱いお茶を飲むことが基本なこの地域では珍しいものだ。
「……れ……冷蔵庫って何スか……?」
「物を腐らないように保存したりするー……冷やす機械だよー」
 沙那が懐かしそうな眼をした。
 この世界は物を冷やすということがとても難しい。
 せいぜいが井戸に吊るして冷やす程度のものだ。
 カチンカチンに凍らせたり氷を作れるなんて聞いたら驚くだろう。
 クローリーは改めてエルフの世界の話に驚かずにはいられない。。
 しかし、沙那は別のことを考えていた。
「イズミちゃんがいるくらいなんだから、氷の妖精とかがいればできそうだねー。氷のヒョーコちゃんとかいないの?」
「……」
 沙那の髪の毛から顔を出したイズミが首をプルプルと横に振った。
「わけわんねーっスよ」
 もちろんコストに目をつぶればクローリーなら氷の妖精を召喚して使役もできる。
 ただし宝石をふんだんに消費しても1分ほどだったが。
 費用対効果悪いこと夥しい。


「あら。美味しい」
 人数分出されたシンレンをスプーンで一口食べたマリエッラが目を丸くしていた。
「こんなものがあるのねえ」
「えー?どれどれー?」
 興味を惹かれて沙那も自分の皿を覗き込む。
「あー……これ、杏仁豆腐だー」
「え?」
 沙那の目に入ったものは日本では良く見るお馴染みのデザートだった。
「クコの実は薬にもなるって聞いたよー」
 躊躇なく沙那もパクパク食べ始める。
 懐かしさを覚える味に満面の笑みになった。
「エルフの世界にもあるものなら……」
 クローリーも恐る恐る口にした。
「お」
 甘く爽やかな味。
 帝国に多いべたべたした甘さとはちょっと違う。
「これ、美味いっスな」
 俄然ペースが早くなる。
「追加でも一皿欲しいっス!」
 その様子を見て笑いつつ、沙那はリンザットに目を向けた。
「船長さん」
「なんだ?」
「もしかしたら近くの島とかそういう場所に香辛料があるかもだよー」
「え?」
 沙那は判ったわけではない。
 杏仁豆腐→中国南部や台湾→東南アジアっぽい?というぼんやりと漠然とした仮説だ。 
 地形がまったく同じでないことは判ってはいるが気候が近ければ可能性はあると考えたのだ。
「情報集めれば場所判るかもしれないよー?」
「……ふむ」
 リンザットは考え込んだ。
 事実だったら大儲けのチャンスだ。
 エルフの知識には一目置いてもよさそうだと思い始めていた彼は心に止めておくことにした。
「だいぶすっきりしてきたっス」
「ボクのイメージ通りならー船酔いの薬とかもありそうだけどー。あとで探してみるー?」

    *    *    *

「ほう。石鹸ですか」
 身なりの良い太った中年の男が鯰のような髭を指で扱いた。
 リンザットに絹の国シリカの交易商人を紹介してもらったのだった。
 随分と立派な店を構えており、手広く商いをしているということだった。
 そこにクローリと沙那はお邪魔していた。
「帝国産の石鹸は私たちの国でも珍重されておりますよ」
 不思議なことに絹の国シリカには自国で石鹸が作られていなかった。
 石鹸の代わりになるものはあるが帝国の泡立ちの良いものは富裕層からの評判が良かったのだ。
「何ならお持ちのものを全部引き取ってもよろしいですよ。価格はもちろん相場でお願いしますが」
 破格の条件だった。
 クローリーは相場の半値でシェアを増やすことを考えていたのだ。

 新参者が相場で取引できるとは思ってもいなかった。
 思わずイエスと返答してしまいそうになる気持ちを抑えてクローリーは慎重に話を進める。 
 所期の目的を忘れそうだった。
「1割引きでどうでしょう?その分で香料を斡旋していただきたいっス」
「香料?買うのではなくて斡旋ですか?」
 商人が訝し気にクローリーを見る。
「そーっス。どういうものが良いか判らねーっスから見て回ってから考えたいっス」
「ふむふむ」
 商人が迷ったのはお金の話ではない。
 香料を帝国人が欲しがるのは判る。
 帝国ではそこそこ高額で取引されているのも知っている。
 ただ、普通なら絹の国シリカの香料というだけで種類を問わずに売れる類のものなので、何故選びたいのかが判らなかったのだ。
「見て回るというのは、どうしてでしょうか?」
 商取引は腹芸をするよりもストレートに通した方が良いことを商人は良く知っていた。 
 回りくどいことをすると却って面倒になりやすいのだ。
 ブラフのために自分の手の札を晒すのは嫌だった。
「あ。それはっスなー」
 クローリーは後ろを振り返って、沙那を見る。
「これー」
 沙那が別の石鹸を取り出した。
 ほんのりとピンク掛かった初めて見るモノだった。
「それ、薔薇の匂い付きなのー」
 手に取ると確かに花の香りがする。
「それは試作品っていうか間に合わせだから―。もっと良い匂いのを作りたいって思ってー」
「それで香料なのですか」
 商人は合点がいった。
「どうやって作るのですかな?」
「それはー……ひ、み、つー」
 沙那が舌を出して微笑んだ。
 かなり失礼な態度だったのだが、商人は沙那の揺れる胸に目が行ってしまっていて気にならなかった。
「エルフの秘術というわけですか」
 実は石鹸を作る過程の最後でちょっと混ぜるだけなのだが神秘的な印象を与えるための演技だ。

「あ、あとねー。ジャガイモの種芋とかートマトの種とか―……あ!忘れるところだった。カカオとかー。そういうのも欲しいから紹介してほしーな」
「ふむ」
 商人は保存の効きにくい食料品はどうでも良かった。
 珍しい食材は帝国へ運べば利益は出るだろうが儲かるというほどではない。
 輸送中に揺れや気温の変化で腐ってしまうことも少なくないのだ。
 香辛料の多くは保存がきくからそうはいかないが、鮮度の問題が出る食材はケチる必要はない。
 それよりも1割引きだけで話を進めていいものか。
 譲歩するだけではなく利益を得ることを考えるべきだった。
「良いでしょう。ただし、条件があります」
 さあ来たぞ。とクローリーは心の中で身構えた。
 あまり無理難題だと困るが受け入れられる程度にして欲しいなと祈りながら。
「その香料入りの石鹸は私のところに優先的に回して頂ければ。できるなら当商会にのみ下ろして頂ければ可能な限り便宜を図りますよ」
 クローリーは危うく声が出そうだった。 
 願ったり叶ったりどころじゃない。一方的にこちらに有利な話といって良い。
「……卸の価格にもよるっスな」
 クローリーは平静を装うに必死だった。 
 こういうとき、捻くれたようにも見える垂れ目は都合が良かった。
 焦りが相手に伝わり難い。
 平静を装おうにはぴったりだ。
「通常の石鹸の倍でどうでしょう?」
 貨幣価値がまだ理解できていない沙那にはピンとこなかったが、クローリーは眩暈がしそうだった。
 沙那が石鹸を作る様子は観察していたので、香り付けの手間がそう大変なことではないことを知っていたからだ。
「初めての商いスから、それで了承するっス。今後も取引してくれるなら」
「ええ。もちろん」
 商人はすっと契約書を取り出した。
 その様子にクローリーは驚いた。

 帝国では通常、契約書は公証人が立会いの下その場で作成するものだ。
 識字率の差であった。
 帝国の一般的な商人は文字を読むことも書くこともできないことが少なくない。
 そのために公証人が存在するのだが、絹の国シリカでは必ずしもそうではないらしい。
 商人が読み書きできるのは当たり前で、庶民でも読み書きできるものはいる。
 絹の国シリカでは3人に1人くらいはできるのだ。
 その差に愕然となった。
 絹の国シリカと帝国はそう差はないと思っていたが、実は格段の差があったのだ。
 テリリンカで気が付いておくべきだった。
 しかもご丁寧に帝国公用語で書かれている。

「あ、石鹸担当はボクだから、ボクがサインしよっかー」
 沙那が手を挙げた。
 そっと契約書を覗き込む。
「へー。1カチルあたり5ドカル。香り付きは10ドカルかあ。クロちゃん、カチルって聞いたことないけどどういう単位?」
 商人は目を見張った。
 帝国人は読み書きが出来なくて当たり前と思っていたのが、目の前の少女がさらっと読んだためだ。
 エルフだからなのだろうか。
 さすがは珍品を売買しに来た野心的な人物の側近とも思えた。
「カチルはこっちの重さの単位っスな。カットした石鹸1個がだいたいそのくらいの重さっス」
「あー、そうなんだー」
「だから船に載せてきた分は全部で1万カチルとちょっとっスな」
「な……」
 商人はさらに驚いた。
 1カチルはメートル法にすれば約400グラムである。つまり全部で4トンほどある計算になる。
 1年や2年くらいは寝かせても大丈夫な商材だから少々多くても大丈夫だ。
 むしろ大量入荷は好ましいくらいだ。
「じゃ、全部売るっスー」
 最低でもドカル金貨5万枚。クローリーの想定していた以上のものだった。
 あとは、さて?香り付きはどのくらい持ってきたのかな。というくらいだった。
 
 沙那はお気楽に契約書にサインした。
 隅々までよく読むようにという日本の教えはガン無視……ではなく、書かれた内容がシンプルだからだ。
「おじさん。チュレンさんっていうんだ?ボクは沙那。よろしくねー」
 商人……チュレンが思っていたよりも遥かに流暢に沙那がサインするのにも目を見張った。
 帝国では貴重な紙を見ても驚かない。
 何よりも異なった筆記用具である筆をなんの躊躇もなく使っていた。
 彼から見てもクローリーたちは油断のならない相手だと言える。
 チュレンは心に決めた。
 騙し合いは行うべきではない。
 石鹸は嵩や重さに対して高価な品だ。そのままでも確実に大きな利益になる。
 特に香り付きは帝国でも貴族ですら常用はできない品だ。
 クローリーにどのくらいの供給力があるかは正確には判らないが持ち込んできた量くらいは安定供給できるのだろう。
「この量をどのくらいの頻度で持ち込めますか?」
「あ、うーん。どんくらいスか?」
 クローリーはまた沙那を見た。

 制作法を把握しているのは今のところ沙那だけなのだ。 
「あの量を作るだけなら1ヵ月くらいかなー?天気によっても変わるから少し余裕は見た方が良いかもー」
「そっスか。じゃあ……」
 クローリーはここまでの行程を暗算した。
「船も天気次第っスから、2ヵ月に1度って思っていると良さそうっスな」
「それなら、そのくらいと考えておきます」
 実は収入が増えて人員を増やせばより大量に生産できるのだが言わないことにした。
 まだ先の見通しが明確ではないからだ。

「そうそう。一つ提案がありますが、良いですか?」
「おや。条件を追加で?」
 クローリーは一瞬警戒した。 
「いえ。トレードマーク。そう、あなたのところで生産されたと判るようなもの……ブランドとして認識されそうなものを何かつけるとよさそうかと思いまして」
「ああ……」
 それと分かることは類似品と区別しやすい。
「じゃー、ペンギンのマーク入れよー!石鹸が固まる前にペンギン印の模様を焼き印みたいにぺたーんってやっておくのー」
「そういうことできるんスか。……って、ペンギンって何なんス?」
「知らないのー?」
「初めて聞くっス」
「きゅーきゅーきゅーって鳴いて可愛いのー」
「それだけじゃわかんねーっス。動物か何か?」

「ああ。南にいる飛べない鳥のことですね。良くご存じで」
 チュレンは改めて沙那を見る。
 胸に栄養を取られているとは思えないほど博識な少女と見える。
 やはりエルフのなせる業か。
「そそー。飛べないけど水の中は速いよー。飛行機みたいに泳ぐんだよー」
「ひこうき?」
 またまた沙那が謎の言葉を発したことにクローリーは戸惑った。
「うん。空をビューンて飛ぶー……」
「あ。あ。その話はあとでお願いするっス!」
 貴重なエルフの知識をこんなところでべらべら喋られては困る。 
 クローリーは慌てて沙那を抑えた。
 むにゅっ。
 抱きとめるような形になったので何か柔らかいものを掴んでしまったのだ。
「クーローちゃーん!」
 沙那は容赦なくグーでクローリーをぶん殴った。
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