52 / 95
◆将を射んと欲せば
秘書のお仕事 7
しおりを挟む
顔を上げた颯天はフッと微笑み、うなずいた。
薄い笑みだけれど表情は柔らかい。
『杏ちゃん以外の人にはニコリともしないじゃない』
菊乃が言っていた言葉を思い出し、首筋あたりがこそばゆくなる。
あまり彼を見ないようにしているから、菊乃の言葉が本当かどうかはわからない。
(きっとお世辞よ)
かわいそうだと思って慰めてくれたのだと、ひとり納得しコーヒーメーカーの前に立った。
杏香の席の並びにローボードがあり、坂元の執務室にあったコーヒーメーカーも引っ越しを済ませていた。引き出しを開けてみると、コーヒー豆とミネラルウォーター、そして使い捨てのカップも置いてある。
「自分の分も淹れたらいい。飲みたいときに勝手に使っていいぞ」
「はい。ありがとうございます」
これならば給湯室で青井光葉に合わないで済む。咄嗟にそう思いホッとした。
けれども、そもそもの話、颯天直属の秘書にならなければ彼女に目をつけられずに済んだのだ。それ以前に異動がなければ――。
(専務が反対しないからよ。もう)
ついさっきの同情も忘れ、杏香は咥内でブツブツと文句を言う。
青井光葉は秘書課の女王様だ。
気が向いた仕事しかせず、ほかの仕事は立場の弱い新人に押しつける。誰も反論しない理由は、目を付けられたら最後という彼女の異常性にあるらしい。
彼女が秘書課に入社して以来辞めていった数人の社員が、密かに残していった言葉が秘書課には受け継がれていた。
『青井光葉には絶対に絶対に逆らうな』
これまでは時折鋭く睨まれるだけだったが、これから先はわからない。今日の席の移動をきっかけに変わるに違いないだろう。
(ロックオンされただろうなぁ)
結局のところ一番安心なのはこの部屋だ。
菊乃に言われた通り秘書課女性用のロッカーも使わないようにして、なるべく部屋から出ないようにするしかないかもしれない。
ため息混じりにあれこれ考えるうち、コーヒーのいい香りがふわりと立ちのぼってきた。
トレイにカップを載せて颯天の席に向かう。
デスクの隅に静かにカップを置くと、「ありがとう」という言葉の後に立ち上がった颯天は、自分の席に戻ろうとする杏香に「ちょっと待って」と声をかけた。
なんだろうと訝しげな顔で緊張する杏香の前に立った彼は、花の形のブローチを見せる。
「今後の必需品」
マーガレットのような花とそこからちょっとだけ下に伸びている茎と葉細かい宝石が散りばめられている可愛らしいブローチだ。
「これは万が一の時にお前を守ってくれる大切な物だ。もし、危険な目にあったり俺に知らせたいことがあったらここ、この花びらを押すんだぞ」
そう言って少し屈みこみ、杏香のスーツの襟に花の形のブローチをつけた。
危険な目とは……。
まさか光葉の〝異常〟を想定しているわけではないだろうと思うが、緊張して聞いてみた。
「防犯ブザーなんですか?」
「似ているが、ちょっと違う。これ自体はブザーのような音もならないし、見た目にも変化はない。ただ、居場所と状況が俺のスマートフォンに通知されるようになっている。カメラもついていて下の茎のところを横にずらすと録画される」
「――録画?」
「そうだ。相手が女でも、油断はするなよ。青井には特に」
颯天の目は真剣だ。
(青井さ、ん?)
具体的に名前を出すとなると彼は知っているのか。
「大丈夫だ。あくまで万が一の場合の保険だ。心配しなくていい。必ず俺が守る。だが、家に帰るまで、必ずつけておくんだぞ」
「はい……」
「よく似合ってる。お前は柔らかい色がよく似合うな」
颯天がにっこりと微笑む。
カフェラテのような色のスーツにオフホワイトのブラウス。今日は早速、彼が送ってきた服を着ていた。
「あ、ありがとう、ございます」
自分の席に座る颯天を見つめながら杏香は唇を噛んだ。
『必ず俺が守る』
そう言われた一瞬で、心を持っていかれた気がした。
おまけに突然褒められて動揺を隠せない。赤らむ頬を隠すように頭をさげ、そそくさと席に戻る。
颯天が買ってくれた服を着て、心配してもらって、こんなに近くの席に座って。
そのすべてがうれしくて幸せだと感じてしまう。胸がじんわりと温かいが、これでいいとは思えず、気持ちは複雑に揺れる。
会うようになってから一年の間。彼と会うときはプライベートに限られていた。会社ではあくまでも専務取締役と総務の平社員で、どこかですれ違えばほかの社員と同じように挨拶をする。
それが今は逆だ。会社では一緒で、プライベートでは他人という関係である。
必ず辞めるつもりでいるが、そのときまで自分はこの状況に耐えられるのだろうかと、杏香はあらためて不安になった。
ふと、耐えられるってなににと、自分に問いかけようとして、慌ててストップをかけた。
考えてはいけない熱いものが、マグマのように胸の奥に隠れているような気がして落ち着かず、杏香は瞳を揺らす。
薄い笑みだけれど表情は柔らかい。
『杏ちゃん以外の人にはニコリともしないじゃない』
菊乃が言っていた言葉を思い出し、首筋あたりがこそばゆくなる。
あまり彼を見ないようにしているから、菊乃の言葉が本当かどうかはわからない。
(きっとお世辞よ)
かわいそうだと思って慰めてくれたのだと、ひとり納得しコーヒーメーカーの前に立った。
杏香の席の並びにローボードがあり、坂元の執務室にあったコーヒーメーカーも引っ越しを済ませていた。引き出しを開けてみると、コーヒー豆とミネラルウォーター、そして使い捨てのカップも置いてある。
「自分の分も淹れたらいい。飲みたいときに勝手に使っていいぞ」
「はい。ありがとうございます」
これならば給湯室で青井光葉に合わないで済む。咄嗟にそう思いホッとした。
けれども、そもそもの話、颯天直属の秘書にならなければ彼女に目をつけられずに済んだのだ。それ以前に異動がなければ――。
(専務が反対しないからよ。もう)
ついさっきの同情も忘れ、杏香は咥内でブツブツと文句を言う。
青井光葉は秘書課の女王様だ。
気が向いた仕事しかせず、ほかの仕事は立場の弱い新人に押しつける。誰も反論しない理由は、目を付けられたら最後という彼女の異常性にあるらしい。
彼女が秘書課に入社して以来辞めていった数人の社員が、密かに残していった言葉が秘書課には受け継がれていた。
『青井光葉には絶対に絶対に逆らうな』
これまでは時折鋭く睨まれるだけだったが、これから先はわからない。今日の席の移動をきっかけに変わるに違いないだろう。
(ロックオンされただろうなぁ)
結局のところ一番安心なのはこの部屋だ。
菊乃に言われた通り秘書課女性用のロッカーも使わないようにして、なるべく部屋から出ないようにするしかないかもしれない。
ため息混じりにあれこれ考えるうち、コーヒーのいい香りがふわりと立ちのぼってきた。
トレイにカップを載せて颯天の席に向かう。
デスクの隅に静かにカップを置くと、「ありがとう」という言葉の後に立ち上がった颯天は、自分の席に戻ろうとする杏香に「ちょっと待って」と声をかけた。
なんだろうと訝しげな顔で緊張する杏香の前に立った彼は、花の形のブローチを見せる。
「今後の必需品」
マーガレットのような花とそこからちょっとだけ下に伸びている茎と葉細かい宝石が散りばめられている可愛らしいブローチだ。
「これは万が一の時にお前を守ってくれる大切な物だ。もし、危険な目にあったり俺に知らせたいことがあったらここ、この花びらを押すんだぞ」
そう言って少し屈みこみ、杏香のスーツの襟に花の形のブローチをつけた。
危険な目とは……。
まさか光葉の〝異常〟を想定しているわけではないだろうと思うが、緊張して聞いてみた。
「防犯ブザーなんですか?」
「似ているが、ちょっと違う。これ自体はブザーのような音もならないし、見た目にも変化はない。ただ、居場所と状況が俺のスマートフォンに通知されるようになっている。カメラもついていて下の茎のところを横にずらすと録画される」
「――録画?」
「そうだ。相手が女でも、油断はするなよ。青井には特に」
颯天の目は真剣だ。
(青井さ、ん?)
具体的に名前を出すとなると彼は知っているのか。
「大丈夫だ。あくまで万が一の場合の保険だ。心配しなくていい。必ず俺が守る。だが、家に帰るまで、必ずつけておくんだぞ」
「はい……」
「よく似合ってる。お前は柔らかい色がよく似合うな」
颯天がにっこりと微笑む。
カフェラテのような色のスーツにオフホワイトのブラウス。今日は早速、彼が送ってきた服を着ていた。
「あ、ありがとう、ございます」
自分の席に座る颯天を見つめながら杏香は唇を噛んだ。
『必ず俺が守る』
そう言われた一瞬で、心を持っていかれた気がした。
おまけに突然褒められて動揺を隠せない。赤らむ頬を隠すように頭をさげ、そそくさと席に戻る。
颯天が買ってくれた服を着て、心配してもらって、こんなに近くの席に座って。
そのすべてがうれしくて幸せだと感じてしまう。胸がじんわりと温かいが、これでいいとは思えず、気持ちは複雑に揺れる。
会うようになってから一年の間。彼と会うときはプライベートに限られていた。会社ではあくまでも専務取締役と総務の平社員で、どこかですれ違えばほかの社員と同じように挨拶をする。
それが今は逆だ。会社では一緒で、プライベートでは他人という関係である。
必ず辞めるつもりでいるが、そのときまで自分はこの状況に耐えられるのだろうかと、杏香はあらためて不安になった。
ふと、耐えられるってなににと、自分に問いかけようとして、慌ててストップをかけた。
考えてはいけない熱いものが、マグマのように胸の奥に隠れているような気がして落ち着かず、杏香は瞳を揺らす。
47
お気に入りに追加
610
あなたにおすすめの小説
隠れ御曹司の手加減なしの独占溺愛
冬野まゆ
恋愛
老舗ホテルのブライダル部門で、チーフとして働く二十七歳の香奈恵。ある日、仕事でピンチに陥った彼女は、一日だけ恋人のフリをするという条件で、有能な年上の部下・雅之に助けてもらう。ところが約束の日、香奈恵の前に現れたのは普段の冴えない彼とは似ても似つかない、甘く色気のある極上イケメン! 突如本性を露わにした彼は、なんと自分の両親の前で香奈恵にプロポーズした挙句、あれよあれよと結婚前提の恋人になってしまい――!? 「誰よりも大事にするから、俺と結婚してくれ」恋に不慣れな不器用OLと身分を隠したハイスペック御曹司の、問答無用な下克上ラブ!
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
【完結】溺愛予告~御曹司の告白躱します~
蓮美ちま
恋愛
モテる彼氏はいらない。
嫉妬に身を焦がす恋愛はこりごり。
だから、仲の良い同期のままでいたい。
そう思っているのに。
今までと違う甘い視線で見つめられて、
“女”扱いしてるって私に気付かせようとしてる気がする。
全部ぜんぶ、勘違いだったらいいのに。
「勘違いじゃないから」
告白したい御曹司と
告白されたくない小ボケ女子
ラブバトル開始
隣人は不愛想な警部!大人の階段登りたい男性恐怖症のわたしはロマンチックを所望しています
はなまる
恋愛
念願の保育士になった胡桃沢はつね。彼女は高校生の時乱暴されて以来男性恐怖症だ。それでもやっと念願の一人暮らし。これからは新しい出会いもあると期待していた。ところがある日チャイムが鳴りモニター越しに見えた男性はなんとも無愛想な人で‥‥そしてひょんなことから彼を夕食に招くことになって、なぜか彼には恐い気持ちは浮かばない、それよりもっと別の気持ちが沸き上がる。これってもしかして‥‥でも兄の友人が訪ねて来た。彼がそれを目撃してからは、メールの一つもなくなった。そんなある日はつねは暗い夜道で襲われる。ちょうど通りかかった彼が助けてくれて…はつねは彼に縋りつく。もうわたしからずっと離れないでと… 再投稿です。設定はすべてフィクションになっています。警察組織関係は特に架空設定です。
社長はお隣の幼馴染を溺愛している
椿蛍
恋愛
【改稿】2023.5.13
【初出】2020.9.17
倉地志茉(くらちしま)は両親を交通事故で亡くし、天涯孤独の身の上だった。
そのせいか、厭世的で静かな田舎暮らしに憧れている。
大企業沖重グループの経理課に務め、平和な日々を送っていたのだが、4月から新しい社長が来ると言う。
その社長というのはお隣のお屋敷に住む仁礼木要人(にれきかなめ)だった。
要人の家は大病院を経営しており、要人の両親は貧乏で身寄りのない志茉のことをよく思っていない。
志茉も気づいており、距離を置かなくてはならないと考え、何度か要人の申し出を断っている。
けれど、要人はそう思っておらず、志茉に冷たくされても離れる気はない。
社長となった要人は親会社の宮ノ入グループ会長から、婚約者の女性、扇田愛弓(おおぎだあゆみ)を紹介され―――
★宮ノ入シリーズ第4弾
勘違いで別れを告げた日から豹変した婚約者が毎晩迫ってきて困っています
Adria
恋愛
詩音は怪我をして実家の病院に診察に行った時に、婚約者のある噂を耳にした。その噂を聞いて、今まで彼が自分に触れなかった理由に気づく。
意を決して彼を解放してあげるつもりで別れを告げると、その日から穏やかだった彼はいなくなり、執着を剥き出しにしたSな彼になってしまった。
戸惑う反面、毎日激愛を注がれ次第に溺れていく――
イラスト:らぎ様
《エブリスタとムーンにも投稿しています》
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる