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◆悪魔の嫌がらせ
逃げる羊、追いかける狼 3
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いつも明るく笑っている彼女になにがあったのかと、颯天にしては珍しく興味を抱いた。
『片想いだった相手の恋の応援をするつらさがわかりますか?』
『さっぱりわからない』
『もうー、専務には恋心がないんですか?! 鬼っ』
適当に流していたが、キャンキャン仔犬のように騒ぐ様子も一生懸命訴えて絡む仕草も、少しも不快じゃなくて、なんとなく突き放せなかった。
いつの間にか、するりと心に入り込んできた彼女……。
(なぁ、杏香。なんで別れようなんて思ったんだ?)
ひと月の空白まど忘れるたように、素直に甘えてくる杏香を抱きながら、湧いてきたのは疑問と確信。お前が俺を忘れるなんて、できやしないのに。
『そんなに俺が嫌いか?』
今にも泣き出しそうに潤んだ瞳で、『キライです』と恨めしそうに言いながら、しがみついてくる杏香を見下ろした。
薄く微笑んで顎をすくい、何度も唇を重ねた。
杏香の好きな触れるだけの軽いキス。じれったいくらいにゆっくりと繰り返しながら、潜んでいたあいつの熱が甘い吐息となった頃を見計らって、しばらく消えないよう強く吸い上げた痕を胸に残した。
「会社を休んで、なにをしているんだ?」
モニターに映る樋口杏香という文字を見つめながらひとりごち、いったいなにを?と重ねて考えたとき、扉がノックされた。
「はい」
「失礼します」
入ってきたのは秘書の青井光葉。扉の開閉で動いた空気が、光葉が放つ甘い香りを部屋の最奥まで運ぶ。ピクリと眉を潜めた颯天は、ため息をつきながら軽く目を閉じた。
コツコツと尖ったヒールの音が、一歩一歩と近づいてくる。
「専務、明日三時からのお約束だった澤井さまですが、突然体調を崩されて入院なさったとの連絡がありました。いかがいたしましょう」
「現時点でわかっていることは?」
入院先や病名など報告する光葉は、薄っすらと笑みを浮かべて颯天を見つめている。
ここTKT工業で一番の美人だと噂される彼女は、秘書課の社員であり、大手銀行の次期頭取と噂されている人物の娘だ。物心ついたときからお姫さまのようにもてはやされていたのだろう。靴音や仕草、表情ひとつまで、溢れるほどの自信を漲らせている。
だが心の貧しさはどうしようもないなと颯天は思う。
報告している内容が内容なのに、相手に対する憂いや気遣いのようなものは心に浮かばないらしい。彼女から感じるのは『どうですか? 私、綺麗でしょう?』という自己顕示欲だけだ。
呆れ過ぎてうっかり笑いそうになる。
仕立てのいいグレーのスーツはいいとして、見てくれといわんばかりにシャツの襟を深く開けて、胸もとを大きく見せるのはなんなのか。それほど自慢ならヌードモデルにでもなればいいのだ。ついでに言えばまったく興味はないが。
光葉を前にする度に思う。お前が見ているのは、俺じゃなくて、俺の目に映る自分の姿だよな、と。
「私になにか、できることはありますでしょうか?」
「いや? ――なにもない」
心外だと言わんばかりのため息をつく光葉から視線を外し、受話器を取る。
光葉が出ていき扉が閉まるのと電話の相手、秘書課長が『はい』と出るのは同時だった。颯天は澤井氏の見舞いが可能か確認するよう頼み、電話を切ると椅子の背もたれに背中を預け、響き渡るような大きなため息をついた。
青井光葉の父親に恩を売っておけと父から言われている。
『向こうはお前との結婚を望んでいる』
銀行との付き合いが大切なのは重々承知しているが、我慢にも限度がある。
光葉の匂いも醸し出すお嬢様オーラもなにもかも、颯天は我慢ならなかった。たとえ嫌悪する相手でも仕事ができるなら評価したいと思うが、彼女は受けた仕事を別の秘書にやらせている。おまけに特技は後輩いびりとなれば、譲歩する理由もない。
光葉の悪い評判はすべて颯天の耳に入っていた。
光葉の放った匂いを一刻も早く消し去りたい衝動に駆られ、立ち上がりデスク脇にある空気清浄機を強にする。
香水の強い女はそれだけで苦手だった。颯天自身は香水を使わない。整髪剤や風呂上がりに使うローションも香りの弱いものにしている。
同じ女性でも、杏香の匂いは数少ない好きな香りだ。彼女から漂うのは、香水の強い香りでもない。
『ん?』
『今、なにか気にしてましたよね?』
『ああ――。いや、いい匂いがするなぁと思って』
彼女の首のあたりに顔を埋めると、なんとも表現しがたい蜜のような香りが鼻腔を蕩かすのである。
香水はつけていないと言いながら、くすぐったいと体をくねらせて、くすくすと笑う。そのかわいい声を包みこむように唇を重ねた。
『杏香……』
溜まらなく愛おしい想いが溢れてくる。
どうしようもないという諦めに似たため息が、音もなく漂い、また自分に降りかかってくる。
杏香の瞳に映るのは自分の姿ではなく俺だ。いや、俺のはずだった。と、口もとに苦笑を浮かべた颯天は「ははっ」っと乾いた笑い声あげた。
思い出させようとして、ひと月前に引き戻されたのは、自分の方だったのか。
ビル街を見下ろしたまましばらく考え込んだ颯天は、デスクに戻り内線ボタンを押した。
電話を切ってから数分後、扉がノックされ「失礼します」と入ってきたのは総務部部長である。
いずれにしても計画通りにことを進めるまでだ。
「急で申し訳ないが頼みがある。ひとり、秘書課に異動させたい」
『片想いだった相手の恋の応援をするつらさがわかりますか?』
『さっぱりわからない』
『もうー、専務には恋心がないんですか?! 鬼っ』
適当に流していたが、キャンキャン仔犬のように騒ぐ様子も一生懸命訴えて絡む仕草も、少しも不快じゃなくて、なんとなく突き放せなかった。
いつの間にか、するりと心に入り込んできた彼女……。
(なぁ、杏香。なんで別れようなんて思ったんだ?)
ひと月の空白まど忘れるたように、素直に甘えてくる杏香を抱きながら、湧いてきたのは疑問と確信。お前が俺を忘れるなんて、できやしないのに。
『そんなに俺が嫌いか?』
今にも泣き出しそうに潤んだ瞳で、『キライです』と恨めしそうに言いながら、しがみついてくる杏香を見下ろした。
薄く微笑んで顎をすくい、何度も唇を重ねた。
杏香の好きな触れるだけの軽いキス。じれったいくらいにゆっくりと繰り返しながら、潜んでいたあいつの熱が甘い吐息となった頃を見計らって、しばらく消えないよう強く吸い上げた痕を胸に残した。
「会社を休んで、なにをしているんだ?」
モニターに映る樋口杏香という文字を見つめながらひとりごち、いったいなにを?と重ねて考えたとき、扉がノックされた。
「はい」
「失礼します」
入ってきたのは秘書の青井光葉。扉の開閉で動いた空気が、光葉が放つ甘い香りを部屋の最奥まで運ぶ。ピクリと眉を潜めた颯天は、ため息をつきながら軽く目を閉じた。
コツコツと尖ったヒールの音が、一歩一歩と近づいてくる。
「専務、明日三時からのお約束だった澤井さまですが、突然体調を崩されて入院なさったとの連絡がありました。いかがいたしましょう」
「現時点でわかっていることは?」
入院先や病名など報告する光葉は、薄っすらと笑みを浮かべて颯天を見つめている。
ここTKT工業で一番の美人だと噂される彼女は、秘書課の社員であり、大手銀行の次期頭取と噂されている人物の娘だ。物心ついたときからお姫さまのようにもてはやされていたのだろう。靴音や仕草、表情ひとつまで、溢れるほどの自信を漲らせている。
だが心の貧しさはどうしようもないなと颯天は思う。
報告している内容が内容なのに、相手に対する憂いや気遣いのようなものは心に浮かばないらしい。彼女から感じるのは『どうですか? 私、綺麗でしょう?』という自己顕示欲だけだ。
呆れ過ぎてうっかり笑いそうになる。
仕立てのいいグレーのスーツはいいとして、見てくれといわんばかりにシャツの襟を深く開けて、胸もとを大きく見せるのはなんなのか。それほど自慢ならヌードモデルにでもなればいいのだ。ついでに言えばまったく興味はないが。
光葉を前にする度に思う。お前が見ているのは、俺じゃなくて、俺の目に映る自分の姿だよな、と。
「私になにか、できることはありますでしょうか?」
「いや? ――なにもない」
心外だと言わんばかりのため息をつく光葉から視線を外し、受話器を取る。
光葉が出ていき扉が閉まるのと電話の相手、秘書課長が『はい』と出るのは同時だった。颯天は澤井氏の見舞いが可能か確認するよう頼み、電話を切ると椅子の背もたれに背中を預け、響き渡るような大きなため息をついた。
青井光葉の父親に恩を売っておけと父から言われている。
『向こうはお前との結婚を望んでいる』
銀行との付き合いが大切なのは重々承知しているが、我慢にも限度がある。
光葉の匂いも醸し出すお嬢様オーラもなにもかも、颯天は我慢ならなかった。たとえ嫌悪する相手でも仕事ができるなら評価したいと思うが、彼女は受けた仕事を別の秘書にやらせている。おまけに特技は後輩いびりとなれば、譲歩する理由もない。
光葉の悪い評判はすべて颯天の耳に入っていた。
光葉の放った匂いを一刻も早く消し去りたい衝動に駆られ、立ち上がりデスク脇にある空気清浄機を強にする。
香水の強い女はそれだけで苦手だった。颯天自身は香水を使わない。整髪剤や風呂上がりに使うローションも香りの弱いものにしている。
同じ女性でも、杏香の匂いは数少ない好きな香りだ。彼女から漂うのは、香水の強い香りでもない。
『ん?』
『今、なにか気にしてましたよね?』
『ああ――。いや、いい匂いがするなぁと思って』
彼女の首のあたりに顔を埋めると、なんとも表現しがたい蜜のような香りが鼻腔を蕩かすのである。
香水はつけていないと言いながら、くすぐったいと体をくねらせて、くすくすと笑う。そのかわいい声を包みこむように唇を重ねた。
『杏香……』
溜まらなく愛おしい想いが溢れてくる。
どうしようもないという諦めに似たため息が、音もなく漂い、また自分に降りかかってくる。
杏香の瞳に映るのは自分の姿ではなく俺だ。いや、俺のはずだった。と、口もとに苦笑を浮かべた颯天は「ははっ」っと乾いた笑い声あげた。
思い出させようとして、ひと月前に引き戻されたのは、自分の方だったのか。
ビル街を見下ろしたまましばらく考え込んだ颯天は、デスクに戻り内線ボタンを押した。
電話を切ってから数分後、扉がノックされ「失礼します」と入ってきたのは総務部部長である。
いずれにしても計画通りにことを進めるまでだ。
「急で申し訳ないが頼みがある。ひとり、秘書課に異動させたい」
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