35 / 95
◆新しい恋をしましょう
社外恋愛の罠 14
しおりを挟む
***
颯天は合い鍵を使い、鍵を開ける。
杏香が来ない可能性もあったため、実家に帰ったついでに合い鍵を持ってきていた。
マンションに帰るのは一週間ぶりだ。といっても一週間前のその日もほんの少しいただけで実家に帰ったが……。
もし杏香がいなければまた実家に戻ろうと思っていたが、玄関の扉を開けてすぐ、デミグラスソースの匂いが鼻腔をくすぐった。
茶色のショートブーツが綺麗に並べてある。
なにも真ん中に置けばいいものを、置いてあるのは目一杯端の方でクスッと笑う。
今日の杏香は、ふんわりとしたアイボリーのセーターにジーンズを履いていた。
髪を短くしていたせいか、見慣れない私服のせいか、随分雰囲気が違って見えた。
ラウンジで見かけた杏香を思い浮かべながら廊下を進んでも、以前は必ず聞こえたはずの『おかえりなさい』の声はない。
リビングに近づくにしたがって静かな曲が聞こえ、出迎えがない理由は、ダイニングテーブルを振り返ってわかった。
杏香はスヤスヤと眠っている。
起こさないようにそっと、ケーキの入った箱とワインを置き、颯天は向かいの席に腰を下ろした。
しばらく寝顔を見つめ、寝るには少し寒いかと思い、着ていたダウンジャケットを脱いで杏香に掛ける。
杏香はムニャムニャ言うものの、起きる気配を見せない。
腕時計を見れば夕方の六時半。別に起こす必要もない、そのうち起きるだろうと、コーヒーを飲みながら待つことにした。
お湯を沸かしている間に手動のミルで静かに豆を挽き、コーヒーメーカーを使わずにコーヒーを落とす。
自分で淹れるときはいつもそうしていた。強いこだわりがあるわけじゃないが、手間をかける時間がいい気晴らしになる。
起きたら杏香にも淹れてやろうと思いながら、心の中で問いかけた。
(なぁ杏香、あの女、あの後なんて言ったと思う?)
『私は別にかまわないわ。あなたに愛人が何人いようと、そういうことに理解はあるの』
(だとさ。面倒くせぇから、あの女がクラブで乱痴気騒ぎをしている事実を問い詰めたよ)
『なんの話かしら、あなたが遊んでいる噂なら知っているけど』
だから、証拠の画像を見せてやった。
『俺の遊びはたかが知れてるし、それも大昔の話だ。でもお前は違う。契約ほしさに俺がそんなリスクを背負いこむとでも思ったか? でも安心しろ、うちの親も知らないし、お前の親に言うつもりもない。もちろん他の誰にも言わない。その代わり、お前からちゃんと断れよ。そうしてもらわないとこの事実を言わざるを得なくなる。わかるよな?』
肝が据わっているのか、それとも絶句して固まっていたのか。西ノ宮篤子は眉ひとつ歪めなかったが、重ねて念を押した。
『それから、うちとの取引がこの件でダメになったりしないように。忘れるなよ』
篤子は、表向き楚々とした令嬢だが、真逆の裏の顔を持つ。
それは極限られた一部の者だけが知っていて、恐らく彼女の両親も気づいていない。颯天自身は遊んでいる彼女を直接見たわけではないが、その道に詳しい友人がいて情報は得ていた。
今回の見合いを承諾したのも、いざとなれば彼女の素行をネタに断れればいいと思ったからだ。
毎度のように娘の縁談をチラつかせてくる西ノ宮社長のやり方にはいい加減うんざりしていたし、そろそろ決着をつける必要があると思ったので会っただけである。
西ノ宮篤子は、颯天が彼女の裏の顔を知っているとは夢にも思わなかったのだろう。
彼女は遊ぶにあたって細心の注意を払っていた。VIPルームではいつだって顔がわからないようにレースのアイマスクをかけているし、お互いにバレたら困る仲間うちだけで遊んでいるからだ。
でも深い快楽に心身を委ねたとき、警戒心はアイマスクと共に消えると彼女は忘れていたのだろう。
『で、さっきの子はなに? あなたの恋人?』
全てをあきらめたように深いため息をついたあと、篤子はそう聞いた。
『彼女は俺の優秀な秘書だ』
颯天はそう答えた。
正確には秘書になる予定だが。
『へえ。あなたがセクハラで訴えられるのを願っているわ』
そう言って篤子は席を立った。
思い出しながらフッと鼻で笑った颯天は、手を伸ばして、杏香の目もとにかかる髪をそっとよけた。
(まさか、あの場にお前が来るとはな)
この前の第二倉庫といい、ちょうどいいときに出くわすのはなぜだと思う?
なぁ、杏香と、心で問いかけた。
(偶然なんて言葉は、しらばっくれるためにある言葉だって知ってるか?)
運命なんてものは信じるわけじゃないが、起きるべくして起きる必然だ。
それだけ強い縁で繋がってる証拠だな、と颯天はにやりと口もとを歪める。
杏香が加島にお茶でもと誘われていたとき、颯天はちょうど堅苦しいお茶会の席から立ったところだった。
西ノ宮篤子と共に下りたラウンジ。最初から断るつもりでいた縁談に貴重な時間を割くつもりは毛頭ない。
頃合いを見計らって早々に引き上げるつもりでいたところに、時間と空間の悪戯に掬われた杏香が現れたのである。
杏香が一緒にいたのは、颯天が知らない男だった。
風貌から察するにどこかの研究者か学者。いかにも杏香が好きそうな、真面目に見える男だった。
どんなにおとなしそうでも、男なんぞひと皮むけば頭の中は一緒だと、純情な杏香にはわからないのだろうと思いながら颯天はふたりを見ていた。
いずれにしろ、ふたりが現れたことがトリガーとなった。
杏香から男を引き離し、杏香をこのマンションに呼ぶ。その二つを同時に成し遂げる方法を、あの場で思いついたのだ。
真面目そうに見えるあの男も、お前をあきらめただろうよ、と思いながら杏香を見下ろす。
(それにしても。あの男はなんだ? どこで知り合った?
事と次第によっちゃ、あの男が誰かつきとめて釘を刺さなきゃいけないが、どうなんだ?
なぁ杏香、何度も言わすなよ。俺が許すと思ったか?)
颯天は合い鍵を使い、鍵を開ける。
杏香が来ない可能性もあったため、実家に帰ったついでに合い鍵を持ってきていた。
マンションに帰るのは一週間ぶりだ。といっても一週間前のその日もほんの少しいただけで実家に帰ったが……。
もし杏香がいなければまた実家に戻ろうと思っていたが、玄関の扉を開けてすぐ、デミグラスソースの匂いが鼻腔をくすぐった。
茶色のショートブーツが綺麗に並べてある。
なにも真ん中に置けばいいものを、置いてあるのは目一杯端の方でクスッと笑う。
今日の杏香は、ふんわりとしたアイボリーのセーターにジーンズを履いていた。
髪を短くしていたせいか、見慣れない私服のせいか、随分雰囲気が違って見えた。
ラウンジで見かけた杏香を思い浮かべながら廊下を進んでも、以前は必ず聞こえたはずの『おかえりなさい』の声はない。
リビングに近づくにしたがって静かな曲が聞こえ、出迎えがない理由は、ダイニングテーブルを振り返ってわかった。
杏香はスヤスヤと眠っている。
起こさないようにそっと、ケーキの入った箱とワインを置き、颯天は向かいの席に腰を下ろした。
しばらく寝顔を見つめ、寝るには少し寒いかと思い、着ていたダウンジャケットを脱いで杏香に掛ける。
杏香はムニャムニャ言うものの、起きる気配を見せない。
腕時計を見れば夕方の六時半。別に起こす必要もない、そのうち起きるだろうと、コーヒーを飲みながら待つことにした。
お湯を沸かしている間に手動のミルで静かに豆を挽き、コーヒーメーカーを使わずにコーヒーを落とす。
自分で淹れるときはいつもそうしていた。強いこだわりがあるわけじゃないが、手間をかける時間がいい気晴らしになる。
起きたら杏香にも淹れてやろうと思いながら、心の中で問いかけた。
(なぁ杏香、あの女、あの後なんて言ったと思う?)
『私は別にかまわないわ。あなたに愛人が何人いようと、そういうことに理解はあるの』
(だとさ。面倒くせぇから、あの女がクラブで乱痴気騒ぎをしている事実を問い詰めたよ)
『なんの話かしら、あなたが遊んでいる噂なら知っているけど』
だから、証拠の画像を見せてやった。
『俺の遊びはたかが知れてるし、それも大昔の話だ。でもお前は違う。契約ほしさに俺がそんなリスクを背負いこむとでも思ったか? でも安心しろ、うちの親も知らないし、お前の親に言うつもりもない。もちろん他の誰にも言わない。その代わり、お前からちゃんと断れよ。そうしてもらわないとこの事実を言わざるを得なくなる。わかるよな?』
肝が据わっているのか、それとも絶句して固まっていたのか。西ノ宮篤子は眉ひとつ歪めなかったが、重ねて念を押した。
『それから、うちとの取引がこの件でダメになったりしないように。忘れるなよ』
篤子は、表向き楚々とした令嬢だが、真逆の裏の顔を持つ。
それは極限られた一部の者だけが知っていて、恐らく彼女の両親も気づいていない。颯天自身は遊んでいる彼女を直接見たわけではないが、その道に詳しい友人がいて情報は得ていた。
今回の見合いを承諾したのも、いざとなれば彼女の素行をネタに断れればいいと思ったからだ。
毎度のように娘の縁談をチラつかせてくる西ノ宮社長のやり方にはいい加減うんざりしていたし、そろそろ決着をつける必要があると思ったので会っただけである。
西ノ宮篤子は、颯天が彼女の裏の顔を知っているとは夢にも思わなかったのだろう。
彼女は遊ぶにあたって細心の注意を払っていた。VIPルームではいつだって顔がわからないようにレースのアイマスクをかけているし、お互いにバレたら困る仲間うちだけで遊んでいるからだ。
でも深い快楽に心身を委ねたとき、警戒心はアイマスクと共に消えると彼女は忘れていたのだろう。
『で、さっきの子はなに? あなたの恋人?』
全てをあきらめたように深いため息をついたあと、篤子はそう聞いた。
『彼女は俺の優秀な秘書だ』
颯天はそう答えた。
正確には秘書になる予定だが。
『へえ。あなたがセクハラで訴えられるのを願っているわ』
そう言って篤子は席を立った。
思い出しながらフッと鼻で笑った颯天は、手を伸ばして、杏香の目もとにかかる髪をそっとよけた。
(まさか、あの場にお前が来るとはな)
この前の第二倉庫といい、ちょうどいいときに出くわすのはなぜだと思う?
なぁ、杏香と、心で問いかけた。
(偶然なんて言葉は、しらばっくれるためにある言葉だって知ってるか?)
運命なんてものは信じるわけじゃないが、起きるべくして起きる必然だ。
それだけ強い縁で繋がってる証拠だな、と颯天はにやりと口もとを歪める。
杏香が加島にお茶でもと誘われていたとき、颯天はちょうど堅苦しいお茶会の席から立ったところだった。
西ノ宮篤子と共に下りたラウンジ。最初から断るつもりでいた縁談に貴重な時間を割くつもりは毛頭ない。
頃合いを見計らって早々に引き上げるつもりでいたところに、時間と空間の悪戯に掬われた杏香が現れたのである。
杏香が一緒にいたのは、颯天が知らない男だった。
風貌から察するにどこかの研究者か学者。いかにも杏香が好きそうな、真面目に見える男だった。
どんなにおとなしそうでも、男なんぞひと皮むけば頭の中は一緒だと、純情な杏香にはわからないのだろうと思いながら颯天はふたりを見ていた。
いずれにしろ、ふたりが現れたことがトリガーとなった。
杏香から男を引き離し、杏香をこのマンションに呼ぶ。その二つを同時に成し遂げる方法を、あの場で思いついたのだ。
真面目そうに見えるあの男も、お前をあきらめただろうよ、と思いながら杏香を見下ろす。
(それにしても。あの男はなんだ? どこで知り合った?
事と次第によっちゃ、あの男が誰かつきとめて釘を刺さなきゃいけないが、どうなんだ?
なぁ杏香、何度も言わすなよ。俺が許すと思ったか?)
37
お気に入りに追加
606
あなたにおすすめの小説
冷徹御曹司と極上の一夜に溺れたら愛を孕みました
せいとも
恋愛
旧題:運命の一夜と愛の結晶〜裏切られた絶望がもたらす奇跡〜
神楽坂グループ傘下『田崎ホールディングス』の創業50周年パーティーが開催された。
舞台で挨拶するのは、専務の田崎悠太だ。
専務の秘書で彼女の月島さくらは、会場で挨拶を聞いていた。
そこで、今の瞬間まで彼氏だと思っていた悠太の口から、別の女性との婚約が発表された。
さくらは、訳が分からずショックを受け会場を後にする。
その様子を見ていたのが、神楽坂グループの御曹司で、社長の怜だった。
海外出張から一時帰国して、パーティーに出席していたのだ。
会場から出たさくらを追いかけ、忘れさせてやると一夜の関係をもつ。
一生をさくらと共にしようと考えていた怜と、怜とは一夜の関係だと割り切り前に進むさくらとの、長い長いすれ違いが始まる。
再会の日は……。
束縛フィアンセと今日も甘いひとときを
さとう涼
恋愛
五年半のつき合いを経てプロポーズされた美織。相手は日本有数の巨大企業の創業・経営者の一族である航。
「恥ずかしいって言われてもな」
「えっ?」
「こんなに気持ちよさそうな顔されたら、もっとその顔見たいって思うだろう」
ちょっと独占欲が強いけれど、ふたりきりのときはとびきりやさしくて甘々の彼との関係は順風満帆だった。それなのに……。
☆エリート御曹司&大学の教授秘書の王道系ラブストーリーです。
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
【R18】寡黙で大人しいと思っていた夫の本性は獣
おうぎまちこ(あきたこまち)
恋愛
侯爵令嬢セイラの家が借金でいよいよ没落しかけた時、支援してくれたのは学生時代に好きだった寡黙で理知的な青年エドガーだった。いまや国の経済界をゆるがすほどの大富豪になっていたエドガーの見返りは、セイラとの結婚。
だけど、周囲からは爵位目当てだと言われ、それを裏付けるかのように夜の営みも淡白なものだった。しかも、彼の秘書のサラからは、エドガーと身体の関係があると告げられる。
二度目の結婚記念日、ついに業を煮やしたセイラはエドガーに離縁したいと言い放ち――?
※ムーンライト様で、日間総合1位、週間総合1位、月間短編1位をいただいた作品になります。
悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~
一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、
快楽漬けの日々を過ごすことになる!
そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!?
※この物語はフィクションです。
R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる