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◆新しい恋をしましょう
社内恋愛の掟 7
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どう考えても怒られる理由はないと思ううち、恐怖が少しずつ怒りに変わり、気持ちが落ち着いてくる。
ここは職場。
考えるのは家に帰ってからでいいと、気持ちをリセットした。
ロッカーで化粧を直してから席に戻ると、由美が「専務に会った?」と聞いてきた。
「え? 専務? 高司専務が、ここに来たんですか?」
ギョッとして聞くと、由美も驚いたように目を丸くしている。
「そうよ、ビックリしちゃった。樋口は?って、第二倉庫にいますって言ったけど」
「ああ、それで……」
(ってことは、私に会いに来たのか)
「なんだったの?」
由美が心配そうに聞いてくるのも当然で、そもそもこのフロアに高司専務が来ること自体が尋常じゃない。
杏香の記憶にあるのは一回限り。その一回も、彼が会いに来た相手は総務部長だ。平社員に直接会いに来るなど、ちょっとした事件である。
恐らくこの部屋全員が何事かと思っただろうし、由美だけでなく、課長や部長にも一体なんだったのか聞かれるだろう。
(ど、どうしよう)
会ってないとも言えないし、とにかく用件がなんだったのか聞かなければ答えようがない。
まずいと考えて思い出した。強引なキスの後、彼は電話に出ていた。
「そうそう、入って来ましたけど専務はすぐ電話に出ていたので、話はしてないんですよ。なんだろう? ちょっと行ってきますね」
席を温める間もなく、慌ててまた廊下へ出た。
出たものの、再び頭を悩ませる。今専務室に行ったら、なにを言われるかわかったものじゃない。鬼の形相の彼にまた襲われて、あんなことやこんなことと妄想しブルブルと怯えた。
ふと思い出したのは、坂元に頼まれたファイルとレポート用紙。直接会わずとも坂元に聞いてもらえばいいと思い立ち、ホッと胸を撫で下ろす。
備品を手に、気が楽になったところでエレベーターを降り、まず秘書課に立ち寄った。
ふと、青井光葉が目にとまったが、今はそれどころではない。近くにいた秘書にそっと声をかける。
「坂元取締役のお部屋はどちらですか?」
総務はあらゆることを管理している。なので杏香もだいたいは把握しているが、このフロアについてはよくわからない。なぜなら、このフロアについては秘書課が管理しているからだ。
「あら、坂元取締役はさきほどお帰りになりましたよ?」
「えっ?」
よりによって帰ってしまったとは……。絶望に打ち拉がれていると、にこやかに微笑みかけられた。
「なにかお渡しするものなら預かりましょうか?」
「あ、いえ、大丈夫です。えっと、あのー、高司専務はいらっしゃいますか?」
「ええ、いまは専務室にいらっしゃると思います」
こうなってはもう仕方ない。すべてを忘れ、社員としての職務を全うするだけだ。
私はロボット。ただ用事を聞くだけ。ロボット、ロボットと呪文を唱えながら、そのまま専務室に向かい、雑念を振り切るようにコンコンとノックした。
いっそ会議中とか席を外しているとかなら、このまま席に戻ってもごまかせるのに。しっかりと「はい」という返事が聞こえる。
声を聞いただけで目眩がしそうだが、もうどうしようもない。
「失礼します……」
入ると同時に間髪いれず、「なにか御用でしょうか!」と胸を張って宣言した。
怖くて顔は見れない。視線は窓の外、隣のビルを見たまま、ファイルとレポート用紙を胸にしっかりと抱いて返事を待った。
専務室は静かだ。
待てど暮らせど、シーンと静まりかえったままなんの音もしない。
そのままただ待つにはあまりに長い沈黙に耐え、固唾をのんだまま、そっと視線をデスクに向けると――。
(ひっ!)
思わず肩がすくんだ。
指先で頬杖をついたまま、颯天がジッと見ている。
「あ……えっと、あの。なにか御用があったのかと」
ゆっくりと席を立った彼は「まあ座れよ」と視線を応接セットに向ける。
「は、はい」
颯天がソファーに腰を下ろすのを見届けて、恐る恐る杏香も座った。
なるべく浅く、すぐにでも逃げられるように。
「なんだその後生大事に抱えている物は?」
組んだ長い脚を揺らしながら颯天が睨むのは、杏香の胸もとにあるファイルとレポート用紙だ。
「こ、これは坂元取締役に頼まれたファイルと、レポート用紙です……」
気まずさに声がどんどん小さくなる。
「ふーん。預かるよ」
「えっ、あ、はい。お願いします……」
テーブルの上にそっと置くと、途端に心細くなった。
まるで鎧を剥がされたように。
ここは職場。
考えるのは家に帰ってからでいいと、気持ちをリセットした。
ロッカーで化粧を直してから席に戻ると、由美が「専務に会った?」と聞いてきた。
「え? 専務? 高司専務が、ここに来たんですか?」
ギョッとして聞くと、由美も驚いたように目を丸くしている。
「そうよ、ビックリしちゃった。樋口は?って、第二倉庫にいますって言ったけど」
「ああ、それで……」
(ってことは、私に会いに来たのか)
「なんだったの?」
由美が心配そうに聞いてくるのも当然で、そもそもこのフロアに高司専務が来ること自体が尋常じゃない。
杏香の記憶にあるのは一回限り。その一回も、彼が会いに来た相手は総務部長だ。平社員に直接会いに来るなど、ちょっとした事件である。
恐らくこの部屋全員が何事かと思っただろうし、由美だけでなく、課長や部長にも一体なんだったのか聞かれるだろう。
(ど、どうしよう)
会ってないとも言えないし、とにかく用件がなんだったのか聞かなければ答えようがない。
まずいと考えて思い出した。強引なキスの後、彼は電話に出ていた。
「そうそう、入って来ましたけど専務はすぐ電話に出ていたので、話はしてないんですよ。なんだろう? ちょっと行ってきますね」
席を温める間もなく、慌ててまた廊下へ出た。
出たものの、再び頭を悩ませる。今専務室に行ったら、なにを言われるかわかったものじゃない。鬼の形相の彼にまた襲われて、あんなことやこんなことと妄想しブルブルと怯えた。
ふと思い出したのは、坂元に頼まれたファイルとレポート用紙。直接会わずとも坂元に聞いてもらえばいいと思い立ち、ホッと胸を撫で下ろす。
備品を手に、気が楽になったところでエレベーターを降り、まず秘書課に立ち寄った。
ふと、青井光葉が目にとまったが、今はそれどころではない。近くにいた秘書にそっと声をかける。
「坂元取締役のお部屋はどちらですか?」
総務はあらゆることを管理している。なので杏香もだいたいは把握しているが、このフロアについてはよくわからない。なぜなら、このフロアについては秘書課が管理しているからだ。
「あら、坂元取締役はさきほどお帰りになりましたよ?」
「えっ?」
よりによって帰ってしまったとは……。絶望に打ち拉がれていると、にこやかに微笑みかけられた。
「なにかお渡しするものなら預かりましょうか?」
「あ、いえ、大丈夫です。えっと、あのー、高司専務はいらっしゃいますか?」
「ええ、いまは専務室にいらっしゃると思います」
こうなってはもう仕方ない。すべてを忘れ、社員としての職務を全うするだけだ。
私はロボット。ただ用事を聞くだけ。ロボット、ロボットと呪文を唱えながら、そのまま専務室に向かい、雑念を振り切るようにコンコンとノックした。
いっそ会議中とか席を外しているとかなら、このまま席に戻ってもごまかせるのに。しっかりと「はい」という返事が聞こえる。
声を聞いただけで目眩がしそうだが、もうどうしようもない。
「失礼します……」
入ると同時に間髪いれず、「なにか御用でしょうか!」と胸を張って宣言した。
怖くて顔は見れない。視線は窓の外、隣のビルを見たまま、ファイルとレポート用紙を胸にしっかりと抱いて返事を待った。
専務室は静かだ。
待てど暮らせど、シーンと静まりかえったままなんの音もしない。
そのままただ待つにはあまりに長い沈黙に耐え、固唾をのんだまま、そっと視線をデスクに向けると――。
(ひっ!)
思わず肩がすくんだ。
指先で頬杖をついたまま、颯天がジッと見ている。
「あ……えっと、あの。なにか御用があったのかと」
ゆっくりと席を立った彼は「まあ座れよ」と視線を応接セットに向ける。
「は、はい」
颯天がソファーに腰を下ろすのを見届けて、恐る恐る杏香も座った。
なるべく浅く、すぐにでも逃げられるように。
「なんだその後生大事に抱えている物は?」
組んだ長い脚を揺らしながら颯天が睨むのは、杏香の胸もとにあるファイルとレポート用紙だ。
「こ、これは坂元取締役に頼まれたファイルと、レポート用紙です……」
気まずさに声がどんどん小さくなる。
「ふーん。預かるよ」
「えっ、あ、はい。お願いします……」
テーブルの上にそっと置くと、途端に心細くなった。
まるで鎧を剥がされたように。
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