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◆バイバイ素敵なあなた
悪いのは私 4
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ランチョンマットを敷き、その上にアンダープレートを置き、カトラリーを並べる。
ビーフシチューが濃厚なので、サラダはトマトを多めにして、タマネギのみじん切りをたっぷりいれた自家製ドレッシングで和える。おいしそうなタコを見つけたのでカルパッチョも作った。
準備は万端。あとは彼が帰ってくるのを待つばかり。
颯天が帰る時間はいつもだいたい八時半から九時。エプロンをバッグにしまいこみ時計が夜の八時を示すのを見て、杏香はホッと胸をなで下ろす。三十分近く余裕ができた。
この部屋に置き忘れて困るものはないかと、暫し考える。
パジャマ兼部屋着は来てすぐに予備の手提げに仕舞い込んだ。
食器や雑貨の類は持ち込んでいない。シャンプーや化粧品はコンビニで使い捨てのものを買っていたから置きっぱなしの私物はないはずだ。
あったところで捨ててもらえばいいしと思い、ふと苦い笑みがこぼれる。彼のことだから、頼まなくても捨てるだろう。
気を取り直し部屋を見回した。
仕切りが少なくて広々としている。
ダイニングからリビングそして奥の寝室へと、大きな壁はなく家具やインテリアでざっくりと区切られているだけの、広い空間が好きな彼らしい部屋。
初めてここに来たときは、モデルルームのようにオシャレな空間に驚いたものだ。
天井は高く、広さは杏香の住むワンルームが軽く四つは入りそうなリビングは、落ち着いた深い茶色の家具で統一されている。
彼は煌々と明かりをつけたりしない。寒色系のダウンライトと、いくつかある暖色系のスタンドライト。そしてところどころにある間接照明だけで夜を過ごす。
光の共演ともいえる雰囲気がとても素敵で、いつ来てもうっとりしてしまう。
ベージュのL字型のフカフカのソファーは杏香のお気に入りだった。あんまり気持ちがいいものだから、待っている間にうっかり寝てしまって、颯天のキスで目覚めた甘い想い出もある。
切なさが込み上げ、慌ててかぶりを振る。
これから別れを告げるのに感傷に浸っている場合じゃない。気持ちを改めて、窓際に立つと、見慣れた夜景が眼下に広がった。
この部屋は三十階というとてつもない高層階にあるので、昼夜を問わず抜群に気色がいい。特に夜の、宝石のように煌めく灯りや揺れる車のヘットライトが輝く景色は、どんなに見つめていても飽きないし、眺めるたびに初々しい感動を呼ぶ。
うっとりと夜景を見下ろしていると、後ろから抱きしめられて『風邪ひくぞ』なんて優しく言われたのはほんの先週のこと。
キスをして、彼に見つめられて。
そしていつも思うのだ。
この景色もこの素敵な部屋も、どこか非現実的である。
平凡な日常に、突如として現れた夢の世界。思えば、彼の存在そのもののようだと。
夢はいつか覚める。
そう思ったとき、カチャっと玄関の扉が開いた音がした。
(え?)
予想より早い彼の帰宅に、慌てて廊下に走りひょっこりと顔を出す。
「おかえりなさい」
「ただいま」
颯天は軽く微笑み、そのまま奥へと進む。
最初にシャワーを浴びるのが彼のいつもの習慣で、杏香はその間に夕食の仕上げをする。
もとからこの部屋にあった食器はどれもこれも高級品ばかり。盛りつけるだけで何割増しにも美味しそうに見える魔法の食器だ。
最初の頃は颯天が利用するホテルで会っていた。
こんなに素敵な部屋があるのに、ほとんどをホテルで過ごしていたらしい。
オフィスから近いし、クリーニングも部屋の掃除も食事も、ホテルならすべてやってくれる。実家も都内でそう遠くはないらしいが、ホテル暮らしのいいところはなにより自由で気楽だと。
ルームサービスでとる食事は確かに美味しかったが、そういった贅沢に慣れない杏香はつい酔った勢いで言った。
『食事なら私が作るのに。私が庶民の味を教えてあげますよ』
料理に自信があったわけでもないのに、あの頃は怖いもの知らずだったなぁと、自分でも呆れてくる。
でも彼は意外なほど普通の家庭料理に抵抗がないようで、焼き魚の定食のようなシンプルな食事を好んだ。普段から自分のために作っていた料理を二人分作るだけと思えば気が楽だったし、売り場の人に季節のオススメを聞いたり料理の勉強をしたり、それはそれで楽しかった。
やはり食事はひとりよりふたりで食べるほうがいい。
しみじみとそう思ったりもした。
「はぁ……」
無意識のうちに漏れたため息に肩を落とす。
(さあ、がんばって素敵に盛りつけよう)
ショーケースの中で一番高いA5ランクのブロック肉を使ったビーフシチューは、下ごしらえ用にもこれまた値段の張る発酵バターを使った。店の人に教えてもらったビーフシチュー用におすすめという赤ワインを贅沢に使って圧力鍋で煮込んだ。
後から添える彩野菜や仕上げのサワークリームのおかげで、結構いい感じに見える。
見た目もかわいいベビーリーフをふんだんに使ったトマトのサラダと、千切り野菜が入ったさっぱりめのコンソメスープ。そして、タコのカルパッチョ。全力で作った最後のディナーだ。
(彼の口には合うといいけれど)
ランチョンマットを敷き、その上にアンダープレートを置き、カトラリーを並べる。
ビーフシチューが濃厚なので、サラダはトマトを多めにして、タマネギのみじん切りをたっぷりいれた自家製ドレッシングで和える。おいしそうなタコを見つけたのでカルパッチョも作った。
準備は万端。あとは彼が帰ってくるのを待つばかり。
颯天が帰る時間はいつもだいたい八時半から九時。エプロンをバッグにしまいこみ時計が夜の八時を示すのを見て、杏香はホッと胸をなで下ろす。三十分近く余裕ができた。
この部屋に置き忘れて困るものはないかと、暫し考える。
パジャマ兼部屋着は来てすぐに予備の手提げに仕舞い込んだ。
食器や雑貨の類は持ち込んでいない。シャンプーや化粧品はコンビニで使い捨てのものを買っていたから置きっぱなしの私物はないはずだ。
あったところで捨ててもらえばいいしと思い、ふと苦い笑みがこぼれる。彼のことだから、頼まなくても捨てるだろう。
気を取り直し部屋を見回した。
仕切りが少なくて広々としている。
ダイニングからリビングそして奥の寝室へと、大きな壁はなく家具やインテリアでざっくりと区切られているだけの、広い空間が好きな彼らしい部屋。
初めてここに来たときは、モデルルームのようにオシャレな空間に驚いたものだ。
天井は高く、広さは杏香の住むワンルームが軽く四つは入りそうなリビングは、落ち着いた深い茶色の家具で統一されている。
彼は煌々と明かりをつけたりしない。寒色系のダウンライトと、いくつかある暖色系のスタンドライト。そしてところどころにある間接照明だけで夜を過ごす。
光の共演ともいえる雰囲気がとても素敵で、いつ来てもうっとりしてしまう。
ベージュのL字型のフカフカのソファーは杏香のお気に入りだった。あんまり気持ちがいいものだから、待っている間にうっかり寝てしまって、颯天のキスで目覚めた甘い想い出もある。
切なさが込み上げ、慌ててかぶりを振る。
これから別れを告げるのに感傷に浸っている場合じゃない。気持ちを改めて、窓際に立つと、見慣れた夜景が眼下に広がった。
この部屋は三十階というとてつもない高層階にあるので、昼夜を問わず抜群に気色がいい。特に夜の、宝石のように煌めく灯りや揺れる車のヘットライトが輝く景色は、どんなに見つめていても飽きないし、眺めるたびに初々しい感動を呼ぶ。
うっとりと夜景を見下ろしていると、後ろから抱きしめられて『風邪ひくぞ』なんて優しく言われたのはほんの先週のこと。
キスをして、彼に見つめられて。
そしていつも思うのだ。
この景色もこの素敵な部屋も、どこか非現実的である。
平凡な日常に、突如として現れた夢の世界。思えば、彼の存在そのもののようだと。
夢はいつか覚める。
そう思ったとき、カチャっと玄関の扉が開いた音がした。
(え?)
予想より早い彼の帰宅に、慌てて廊下に走りひょっこりと顔を出す。
「おかえりなさい」
「ただいま」
颯天は軽く微笑み、そのまま奥へと進む。
最初にシャワーを浴びるのが彼のいつもの習慣で、杏香はその間に夕食の仕上げをする。
もとからこの部屋にあった食器はどれもこれも高級品ばかり。盛りつけるだけで何割増しにも美味しそうに見える魔法の食器だ。
最初の頃は颯天が利用するホテルで会っていた。
こんなに素敵な部屋があるのに、ほとんどをホテルで過ごしていたらしい。
オフィスから近いし、クリーニングも部屋の掃除も食事も、ホテルならすべてやってくれる。実家も都内でそう遠くはないらしいが、ホテル暮らしのいいところはなにより自由で気楽だと。
ルームサービスでとる食事は確かに美味しかったが、そういった贅沢に慣れない杏香はつい酔った勢いで言った。
『食事なら私が作るのに。私が庶民の味を教えてあげますよ』
料理に自信があったわけでもないのに、あの頃は怖いもの知らずだったなぁと、自分でも呆れてくる。
でも彼は意外なほど普通の家庭料理に抵抗がないようで、焼き魚の定食のようなシンプルな食事を好んだ。普段から自分のために作っていた料理を二人分作るだけと思えば気が楽だったし、売り場の人に季節のオススメを聞いたり料理の勉強をしたり、それはそれで楽しかった。
やはり食事はひとりよりふたりで食べるほうがいい。
しみじみとそう思ったりもした。
「はぁ……」
無意識のうちに漏れたため息に肩を落とす。
(さあ、がんばって素敵に盛りつけよう)
ショーケースの中で一番高いA5ランクのブロック肉を使ったビーフシチューは、下ごしらえ用にもこれまた値段の張る発酵バターを使った。店の人に教えてもらったビーフシチュー用におすすめという赤ワインを贅沢に使って圧力鍋で煮込んだ。
後から添える彩野菜や仕上げのサワークリームのおかげで、結構いい感じに見える。
見た目もかわいいベビーリーフをふんだんに使ったトマトのサラダと、千切り野菜が入ったさっぱりめのコンソメスープ。そして、タコのカルパッチョ。全力で作った最後のディナーだ。
(彼の口には合うといいけれど)
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