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≪ 春隣(はるどなり) ≫

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 篁に付き添われながら、翠子と朱依、そしてまゆ玉は宮中を後にした。

 人の出入りの激しい午後、目立たないようにひっそりと。

 屋敷では使用人たちが涙を流しながら喜んで迎えてくれた。

 ひと月ほど留守にしていたせいか、外で翠子を待つ人々もいない。穏やかで温かい冬の日差しが懐かしい庭に降り注いでいる。

「ほう、趣がある邸であるなぁ」

 初めて翠子の邸を見た篁が、首を回してしげしげと見回している。

「ちょっと、失礼じゃないの」

 朱依が怒るのを笑いながら翠子は密かに首を傾げた。

 同じ屋敷であるのに、煌仁が迎えに来たあの頃とは違って見える。

(我が家はもっと、薄暗かったような)

 もともと広くはない庭である。冬ゆえに枯れている草も木も春になればさまざまな色の花や葉をつける。明るくて穏やかで素敵な庭だ。

 微笑みを浮かべて、翠子は簀子から庭を見渡す。

 奥に籠もってばかりいないで、これからは庭に出よう。

 ときどき外にも出かけてみたい。東市に行ったあのときのように、どこかの貴族の女房のふりをして。

 唯泉のいる嵯峨野にも行ってみたい。女官たちが話していた熊野詣にも鞍馬にも旅にでてみよう。



 しばらくはのんびりと過ごした。

 物から声を聞く仕事は、唯泉の提案を受けて方法を変えた。

 先に文を預けてもらう。

 翠子はまず文に軽く触れ、その中で気になったものだけを開けて読む。内容が翠子の手におえそうなときだけ話を聞くようにしたのである。

『忘れるなよ? 自分を大切にできなければ人を幸せにはできぬ』

 胸に刻んだ唯泉に言われた言葉。今はもういつ消えて無くなってもいいと思っていた自分じゃない。

 皆を愛し、手を携え合って生きていくと決めたのだから。

 日々の生活を楽しむことも覚えた。

「姫さま、とてもお上手になりましたね」

「ふふ、そう?」

 最近は琴の練習に励んでいる。もしまた宮中に呼ばれたとき、煌仁の琵琶と唯泉の笛に合わせて琴を弾けるようになるのが夢だ。

 衣も明るい色にした。今日の衣のかさね色目は紫の匂(におい)紅とだんだんに色が変わる紫が美しい。

「そういえば最近は姫さま宛の恋文も舞い込んでおりますね」

 どうやら朱依はすべての文に目を通しているらしい。

「ええ? そんな物好きがいるの?」

「またもう。篁だって言っていましたよ。宮中でも姫さまの美しさは評判だったって。当然ですよね」

「朱依だって。篁さまがやきもちを妬くほど文をもらっているじゃない」

 朱依は頬を紅くしてそんなことはないと言うけれど、気立てのよい美人なのだから、もてないはずがないのだと思う。篁も気が気じゃないはず。

 朱依は言わないが、篁から頻繁に文が来ているようだ。

 ときどき差し入れを持って後宮の話を聞かせてくれるので、篁の訪問を翠子は楽しみにしているが、なるべく朱依とふたりきりになれるよう、気をつかっている。

「あ、そうそう。ねえ朱依。お正月は唯泉さまも京に戻られるそうだから、篁さまも唯泉さまも呼んで楽しく宴でもやりましょうか」

「宴? まあ」

 以前の翠子からは聞けなかった言葉に、朱依は瞳を輝かせて喜んだ。

「いいですね! あ、姫さま。もうすぐ満月ですよ。お月見しましょうよ」

「そうね。そうしましょう。宴ね」

「はい。年越しの月の宴ですね」

 気づけば、いつの間にか年の瀬である。

 朱依は急いで準備に取り掛かった。

 なにしろ帝から余りあるほどの褒賞をもらっている。米や布の他に砂金まで頂いたので準備には困らない。朱依と爺が市へ出かけてたくさん買い込んできた。

 そして迎えた満月の夜。

 翠子が琴を弾き、朱依が舞ってみせ、つられたように爺や牛飼いやみんなで踊り始める。

 唯泉がくれた光が零れる扇で翠子が舞うとそれはもうみんなが喜んで、団子を食べて酒を飲み、笑って歌って。まゆ玉も皇子にもらった毬で遊ぶ。邸で初めての宴に皆は喜び、大いに楽しんだ。

 遊び疲れて横になった翠子は、輝く石をそっと手にして心で告げる。

(煌仁さま、翠子の邸も明るくなりましたよ)

 宮中はお正月を迎える準備忙しいだろう。

 どうか体を壊さないでくださいね。無理をしないでくださいね。そして時々でいいから、私を想い出してくださいね……と、語りかけながら眠る。

 せめて夢で会えたならと思うと、閉じている瞼から、涙がこぼれた。

 宮中でさよならをしたあの日も、煌仁の背中を見送った翠子の頬を涙が伝った。

(できるなら煌仁さまの近くにいたかった――)

 星降る夜には彼の笛の音で舞を舞い、ときにはお忍びで市に行き。もっと唐の話を聞かせてもらいたかった。

 でもそれは無理だ。

 彼は帝になる。東宮ではなく、帝に。

 翠子が必死に手を伸ばしても、煌仁が手を差し伸べても。その手はどこまでも遠く、決して届かない。天の川を隔てた織姫と彦星のように。

 あのまま、いつまでも東宮と祓い姫のままでいられたら。

 淡い恋だった。

 宮中でたくさん読んだ恋物語の半分は悲しい結末だった。悲しくて切ないからこそ、恋は素敵なのかもしれない。現実はなおのこと、夢物語とは違う。

(私はこの八条の邸で、煌仁さまの幸せを願うしか……)

 光る石を見つめながら、翠子は涙が溢れそうになるのを耐えた。
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