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≪ 鬼 ≫

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 局に戻ると、煌仁から誘いの文が届いていた。

 満月なので月見をしようというのである。場所は東宮雅院という彼の本来の住まいだ。月見と言っても、翠子と朱依、煌仁と篁だけの宴だという。

「まあ姫さま、楽しみですね!」

「私、手袋のお礼に、次の満月には舞を見せてさしあげる約束をしてしまったの」

「あら、そうでしたか」

「どうしよう」

「よろしいじゃありませんか! さあ、衣を選びましょう。十二単じゃなくて動きやすくて」

 朱依は早速着物の心配を始めた。

 外を見上げれば雲はない。今夜は月がよく見えるだろう。

 夕日が山に沈み始め、寝床に帰る烏の声が聞こえ始めると、篁が迎えに来た。はっとしたように目を見開いたのは、十二単ではないものの、ふたりとも天女の羽衣のような美しい布を羽織っているからだ。

 でも無骨な男らしくうまく口にできない篁は、視線を泳がせて「さあ、参ろう」とくるりと背を向けた。

「ちょっと、なにか言いなさいよ」

 朱依に責められて篁は口ごもる。

「は、早く、行かぬと……」

 首を伸ばした朱依が覗くと、篁は頬を染めて「な、なんじゃ」と照れる。

「朱依も、ま、舞うのか?」

「ええ、そうよ」

 朱依も篁に市で櫛を買ったお礼に舞いを見せると約束していた。

「そうか、それは、楽しみである、な」

 翠子を振り返った朱依が忍び笑う。

 今夜は楽しい夜になるだろう。



 翳す扇が動くたびに光の粒が揺れる。

 下に零れるだけでなく上にも横にも、蛍のように漂う光に包まれて、翠子と朱依は舞った。

 動きやすい衣のお陰で、自由に伸びやかに動けて気持ちがいい。観客は煌仁と篁だけだし、そのふたりも見ているだけでなく演奏をしていると思えば、気兼ねもない。

 ひとしきり楽しんで、廂に腰を下ろす。

 火照った体に少し冷たい風が気持ちよかった。

 そして――。

 篁と朱依は少し離れた場所で、まゆ玉をじゃらしながら笑っている。

 翠子はというと、団子などの料理が乗った膳を前に、煌仁とふたりきりで向かい合っていた。

 緊張する必要なないのに、どきどきと胸が高鳴る。舞のせいで息が上がっているからだと思いたいけれど、ちょっと違う。

 ひとしきり褒めてもらったせいもあるだろう。でもそれだけじゃない。

 翠子が舞に合わせた衣装を着ているように、煌仁も普段は見かけない鮮やかな深紫色の狩衣を着ている。月の光を浴びて浮き上がる姿は、神々しいほどに美しい。

 柱に寄りかかって膝を立てて、盃を持つ煌仁を見ているだけで、胸に荒波が立つのである。

「今日は天の川がとりわけ美しい」

 言われて空を見上げれば、冴え冴えと星の川がきらめている。

「まことに、美しいですね」

 ふいに煌仁は「これをそなたに」と紐の付いた石を差し出した。

 透明な石の中には金が入っているように見える。角度を変える度にきらきらと石が光った。

「きれい……」

 翠子は石に負けないぐらい瞳を輝かせた。

「唯泉に祓ってもらったゆえ、手に取っても大丈夫であろう?」

 そっと手袋を外し触れてみた。

「はい。大丈夫でございます」

「よかった」

「でも、煌仁さま、私このような貴重なものをいただいても」

「かまうな。よいのだ。私がそなたに持っていてほしいのだから」

 櫛、十二単、貝合わせに双六、そしてたくさんの冊子。物をくれるだけじゃない。東市にまで連れて行ってくれた。

 数え切れないほどよくしてもらっているけれど、翠子にはその好意に答えられていない。うれしいけれど、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 恥を忍んで舞を舞って見せたからといって、礼になるとは思えなかった。

「いいのだ。本当に」

 どうしてそこまでしてくれるのですかと、喉元まで言葉が込み上げる。高貴な彼のような人が近づいてはいけない不吉な女なのに。

「私はここから当分出られぬかもしれぬからな」

(え……)

 いつか東宮の座を譲れば、ここを出られるのでは? 唐へいくという夢は、あきらめたのですか?

 空を見上げる煌仁の横顔は寂しそうに見える。

 途端に心が苦しくなった。

「あの、なにかあったのですか?」

 聞いたところで自分にはなにもできないとわかっているが、翠子は聞かずにはいられなかった。

 煌仁は左右に首を振る。

「だが姫よ。それでも私は心の自由は失わないぞ」

 翠子を振り返る彼の微笑みに陰りはない。

「――煌仁さま?」

「だからそなたも、心の自由を失わないでほしい。辛いこともあるだろうが、楽しみを忘れないでほしいのだ。舞を舞って、好きなことをして笑っていてほしい」

 翠子の睫毛は震えた。

「この石を見る度に思い出してくれ。小さな世界でも自由はある。輝くものは美しい。そなたは美しいのだから」

 翠子は、ふと気づいた。

 美しいものが好きだった。

 きらきらと輝いて、純粋で、可愛いもの。それはすべて忌まわしい自分にはないものだから、憧れて止まなかったのだ。

 それなのに彼は、美しいと言ってくれる。

「こうして私も同じ石を持っている」

 そう言って差し出した煌仁の手のひらには、色違いの紐が付いた同じ石がある。

「私はこの石を見る度に思い出すだろう。姫の輝きは、私の希望だ。見果てぬ夢だ」

(――そんな)

「寂しいときは石を手に、私の言葉を思い出してほしい。私もこの石を見ているだろう。そなたを想いながら」

 たまりかねて、翠子は袖をまなじりにあてた。

 俯いた翠子の手にある石の上に、ぽたりと落ちた涙。隠すように手を握るとその上に煌仁の手が重なった。

 この方が東宮でなければ……。

 私が祓い姫でなければ。

 心の片隅をかすめたそんな想いを振り切るように、翠子は頬を上げる。

「あ、今、星が流れていきましたね」

「誰かに会いに行ったのだろう」

「織り姫と彦星のようにですか?」

「そうだよ。きっとそうだ」

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