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≪ 弘徽殿 ≫
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しおりを挟む途中、唯泉は牛車を降りたらしい。
着いて起こされた時には煌仁ひとりだった。
ホウホウと梟の声が響き、あたりはすっかり闇に包まれている。
慌ただしく東宮雅院で着替えてから後涼殿に戻り、あらためて帝の元へと向かおうとした時だった。簀子に出ると、ひとりの女官がひれ伏している。
挨拶もそこそこに口を開く。
「殿下、弘徽殿が動きました」
葵尚侍である。彼女は昼間の一部始終を報告した。
「姫は無事なんだな?」
「はい。毅然と対応されていらっしゃいました。恐らく危害を加えるつもりはなかったと思います。あからさまでしたので、脅しが効く相手かどうか見極めたかったのでしょう」
「頭中将がいたのは偶然か」
「わかりません。結果的には止めに入って姫さまを助けた形になっています」
「そうか。わかった」
煌仁と唯泉が出掛けるのを待って仕掛けてきたのだ。
昼日中に宮中で翠子に実害を及ぼすほど強硬な手段に出るとは思えないが、それでもやはり邪魔なのだろう。
頭中将の動きが気になる。
彼は今回の騒動に距離を置いている。時折弘徽殿に見舞いに訪れる以外は目立った動きがない。夜は女の家を転々としてるようだが、その女は女官ではないらしいので関りを避けているようにも見える。
だが食えない男なので、なにを考えているのはわからない。
ひとまず篁に話を聞きに行こうと思い後涼殿を出た。今宵も宿直で詰所にいるはずだった。
と、途中で思いがけない人物に出会った。
渡り廊下を来る頭中将である。
「殿下、お久しぶりでございます」
「宿直か?」
「ええ。ちょうど殿下に会いに行くところでした」
一見柔和な笑みを浮かべているこの男は、決して本音を見せない。
「今日弘徽殿にご機嫌伺いに行きましたところ、たまたま祓い姫が弘徽殿にいましてね。あそこの女房たちが祓い姫に失礼なことをしている最中で、強く叱っておいたのですが……」
「それは許せぬな。姫には無理を言って来てもらっているのだ」
頭中将は深く頭を下げる。
「申し訳ございません。ですので、失礼な態度をとった女房にはすぐさま宿下がりをするよう命じました」
さすがに抜け目のない男である。
「ほお、指示を仰がずにか」
「ああ、重ねて申し訳ございません。我が家から派遣した者ですので問題ないかと思いまして。まずかったでしょうか」
この男は処罰を免れるために先手を打ってきた。
それがわかるだけに煌仁はため息交じりに「いや」と口角をゆがめる。今、事を荒立てても得るものはない。
「聞かぬ者たちで困ったものです。女御もひどく祓い姫を心配しておりまして、早急にお詫びの品を贈ると申しておりました」
なるほど、女房らのせいにして治めるつもりらしい。
誰よりも自分中心であるおぬしの姉が、人を心配するわけがなかろうと思う。たとえ表面だけでも取り繕うおぬしのような渡世術があれば、そもそも弘徽殿という場所で問題など起こすまい。
心ではそう答えるが、煌仁もまた食えぬ男である。薄く微笑んだ。
「そうか。女御も気苦労が絶えぬな」
「では、私はこれで」
頭中将は頭を垂れて一旦は立ち去ろうとした。だがふいに「祓い姫は」と振り返る。
「ん?」
「彼女があのように若くて美しいとは驚きました。八条のあばら家にいると聞きましたが実にもったいない。わが藤原家が後見人として名乗りをあげようと思いますが」
「それには及ばぬ」
「もしやどなたか後ろ盾が決まっているのですか?」
「ああ。これを気に唯泉が後見人として世話をしたいと申し出たのでな」
咄嗟についた嘘だ。そんな話はない。
「そう、でしたか。それは残念です」
しばし見つめ合い、頭中将は軽く頭を下げてくるりと背を向けた。
頭中将の後ろ姿が渡り廊下から消えると、煌仁は大きく息を吐いた。
(唯泉に言っておかねばな)
言わずとも話を合わせるくらいはしてくれるだろうが。
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