上 下
29 / 56
≪ 弘徽殿 ≫

しおりを挟む


 雷鳴壺の局に戻りひと息ついたころ、先ほど助けてくれた女官、尚侍が現れた。

「葵尚侍と申します」

 彼女はそう言いながら両手を床に付き深く頭を垂れる。

 流れるように美しい所作だ。ゆっくりと上げた顔は微笑んでいる。見惚れてしまうほど美しい女性だ。歳は少し上だと思われるが、それにしても落ち着いている。

「この度の二の皇子の件、ありがとうございます。ここに住む者としてわたくしからも深くお礼を申し上げます」

 翠子は尚侍の存在感に圧倒されて、何をどう言ったらよいのかわからず、小さな声で「いえ……」とだけ答えた。

 尚侍は後ろに控えている女官からなにを受け取ると向き直る。

 受け取ったものはどうやら巻物のようである。紐をほどき翠子の前に置き、するすると開いた。

「まぁ」

 思わず感嘆の声がもれる。見事な絵巻物だった。

「どうぞわたくしからの贈り物でございます。歓迎の品と思ってお受け取りくださいませ」

 食い入るように絵巻物を見つめた翠子は遠慮も忘れ「ありがとうございます」と即答した。

 尚侍が持ってきたのは絵巻物だけではなかった。朱依が絵巻物を受け取ってしまうと、今度は様々な唐菓子が並べられ、飲み物も運ばれてきた。

 どうぞと勧められたまま口にした菓子のおいしさにも翠子は驚く。

「これは何ですか?」

 ねっとりとしていて香ばしく、甘辛い中に胡桃や胡麻などが入っているので噛むほどに旨味が変わっていく。

「粉熟(ふずく)と言います」

 絵巻物においしい唐菓子と続き、翠子はすっかり心を掴まれた気分だ。なにしろ彼女は全身から気高さと優しさが滲み出ている。

「姫さまは可憐ですのに、お強くていらっしゃいますね。囲まれても一歩も引かず言い返していらっしゃった」

(え、もしや最初から見ていたの?)

 それならもう少し早く助けてくれたっていいのにと、ふと思ったが文句は言えない。ああなると想像できていたのに、自ら好奇心で行ったのだから。

「なぜにお断りせずに弘徽殿に行かれたのですか?」

「弘徽殿の女御さまがどういう方なのか、一度お会いしてみたかったのです。結局お姿もお声も聞けませんでしたが」

「会ってどうなさるおつもりだったのですか?」

 どう? そこまで考えていなかった。

 ただの興味本位だったのだから。あんなにかわいい皇子さまに毒を盛ったのが弘徽殿の女御だとしたら、一体どんな女性なのか知りたかっただけである。

「姫さま、強さとご自身を粗末にするのとでは意味が違います。今後はどうかおひとりで弘徽殿には近づきませぬように」

 叱られてしまった気分になり、しょんぼりとする。

 一方でまた同じようなことを言われたと思う。この人も篁と同じように心配してくれているのだ。

「気をつけます。すみません」

「ですが姫さま、篁や検非違使を伴ってならどこに行かれてもよろしいですよ。ご自分の庭だと思って、探索なさいませ」

「はい。ありがとうございます」

 元来引っ込み思案ゆえそんな日が来るかどうかわからないが、尚侍の好意に感謝した。

 彼女は愛情に溢れとても優しい人だ。薄(すすき)の色合わせの衣が、彼女に着てもらえて喜んでいる。

 いるだけでその人から漂うものを、まとう雰囲気というのだろう。翠子は不思議な力のせいで雰囲気を強く感じるのかもしれないが、ときどきこんなふうに、触らなくても強く心に伝わってくる人がいる。尚侍はそういった特別な人だ。

 そして翠子が感じた印象は宮中での評判と同じだったようだ。

 翠子が尚侍と話をしている間に、朱依はどこぞの女官を捕まえて尚侍について聞いてきたらしい。尚侍が局を出て行くと、こそこそと耳打ちした。

「姫さま。後宮で女御さまたちに立ち向かえるのは、あの方だけだそうですよ。尚侍っていう官位も女御さまの次に高いのですって。人望もあって主上や東宮の覚えめでたいとか」

 ふむと唸り、朱依は「迫力が違ったわ」と納得している。

 翠子も「そうね」とうなずきながら、ああいう人がいるのなら宮中もそう悪くないかもと、思った。

 あわよくば煌仁に近づこうとする女官、威圧的で攻撃的な弘徽殿の女房たち。足の引っ張り合いにいがみ合い。いるだけで心が病みそうな後宮。

 でもここには尚侍のようにまっすぐで凛とした女性がいる。

 宮中とはおもしろいところだ。

「朱依、尚侍さまのような女性になりたいな、私も」

 そんなふうに翠子が他人に関心を寄せるのは初めてなので、朱依はしげしげと見た。

 翠子は胸に手をあてて、夢見るように目を細め、うっとりとうれしそうである。

 つられたように朱依も顔を綻ばせた。

「ええ。すてきな方ですものね」

「とっても慈愛に溢れていて、自分を粗末にしちゃいけないって私を叱ってもくれたの。朱依とか篁さまのように私を心配してくれたわ」

「まあ、そうですか。宮中も捨てたもんじゃないですね」

 翠子の喜びは朱依の幸せだ。

「麦茶をもらってきますね」

 足取りも軽く腰を上げた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

CODE:HEXA

青出 風太
キャラ文芸
舞台は近未来の日本。 AI技術の発展によってAIを搭載したロボットの社会進出が進む中、発展の陰に隠された事故は多くの孤児を生んでいた。 孤児である主人公の吹雪六花はAIの暴走を阻止する組織の一員として暗躍する。 ※「小説家になろう」「カクヨム」の方にも投稿しています。 ※毎週金曜日の投稿を予定しています。変更の可能性があります。

とべない天狗とひなの旅

ちはやれいめい
歴史・時代
人間嫌いで悪行の限りを尽してきた天狗、フェノエレーゼ。 主君サルタヒコの怒りを買い、翼を封じられ人里に落とされてしまう。 「心から人間に寄り添い助けろ。これ以上悪さをすると天狗に戻れなくなるぞ」 とべなくなったフェノエレーゼの事情を知って、人里の童女ヒナが、旅についてきた。 人間嫌いの偏屈天狗と、天真爛漫な幼女。 翼を取り戻すため善行を積む旅、はじまりはじまり。 絵・文 ちはやれいめい https://mypage.syosetu.com/487329/ フェノエレーゼデザイン トトさん https://mypage.syosetu.com/432625/

貧乏神の嫁入り

石田空
キャラ文芸
先祖が貧乏神のせいで、どれだけ事業を起こしても失敗ばかりしている中村家。 この年もめでたく御店を売りに出すことになり、長屋生活が終わらないと嘆いているいろりの元に、一発逆転の縁談の話が舞い込んだ。 風水師として名を馳せる鎮目家に、ぜひともと呼ばれたのだ。 貧乏神の末裔だけど受け入れてもらえるかしらと思いながらウキウキで嫁入りしたら……鎮目家の虚弱体質な跡取りのもとに嫁入りしろという。 貧乏神なのに、虚弱体質な旦那様の元に嫁いで大丈夫? いろりと桃矢のおかしなおかしな夫婦愛。 *カクヨム、エブリスタにも掲載中。

百合系サキュバスにモテてしまっていると言う話

釧路太郎
キャラ文芸
名門零楼館高校はもともと女子高であったのだが、様々な要因で共学になって数年が経つ。 文武両道を掲げる零楼館高校はスポーツ分野だけではなく進学実績も全国レベルで見ても上位に食い込んでいるのであった。 そんな零楼館高校の歴史において今まで誰一人として選ばれたことのない“特別指名推薦”に選ばれたのが工藤珠希なのである。 工藤珠希は身長こそ平均を超えていたが、運動や学力はいたって平均クラスであり性格の良さはあるものの特筆すべき才能も無いように見られていた。 むしろ、彼女の幼馴染である工藤太郎は様々な部活の助っ人として活躍し、中学生でありながら様々な競技のプロ団体からスカウトが来るほどであった。更に、学力面においても優秀であり国内のみならず海外への進学も不可能ではないと言われるほどであった。 “特別指名推薦”の話が学校に来た時は誰もが相手を間違えているのではないかと疑ったほどであったが、零楼館高校関係者は工藤珠希で間違いないという。 工藤珠希と工藤太郎は血縁関係はなく、複雑な家庭環境であった工藤太郎が幼いころに両親を亡くしたこともあって彼は工藤家の養子として迎えられていた。 兄妹同然に育った二人ではあったが、お互いが相手の事を守ろうとする良き関係であり、恋人ではないがそれ以上に信頼しあっている。二人の関係性は苗字が同じという事もあって夫婦と揶揄されることも多々あったのだ。 工藤太郎は県外にあるスポーツ名門校からの推薦も来ていてほぼ内定していたのだが、工藤珠希が零楼館高校に入学することを決めたことを受けて彼も零楼館高校を受験することとなった。 スポーツ分野でも名をはせている零楼館高校に工藤太郎が入学すること自体は何の違和感もないのだが、本来入学する予定であった高校関係者は落胆の声をあげていたのだ。だが、彼の出自も相まって彼の意志を否定する者は誰もいなかったのである。 二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。 零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。 かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。 ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。 この作品は「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルアッププラス」「ノベルバ」「ノベルピア」にも掲載しております。

紫の桜

れぐまき
恋愛
紫の源氏物語の世界に紫の上として転移した大学講師の前世はやっぱり紫の上…? 前世に戻ってきた彼女はいったいどんな道を歩むのか 物語と前世に悩みながらも今世こそは幸せになろうともがく女性の物語 注)昔個人サイトに掲載していました 番外編も別に投稿してるので良ければそちらもどうぞ

マンドラゴラの王様

ミドリ
キャラ文芸
覇気のない若者、秋野美空(23)は、人付き合いが苦手。 再婚した母が出ていった実家(ど田舎)でひとり暮らしをしていた。 そんなある日、裏山を散策中に見慣れぬ植物を踏んづけてしまい、葉をめくるとそこにあったのは人間の頭。驚いた美空だったが、どうやらそれが人間ではなく根っこで出来た植物だと気付き、観察日記をつけることに。 日々成長していく植物は、やがてエキゾチックな若い男性に育っていく。無垢な子供の様な彼を庇護しようと、日々奮闘する美空。 とうとう地面から解放された彼と共に暮らし始めた美空に、事件が次々と襲いかかる。 何故彼はこの場所に生えてきたのか。 何故美空はこの場所から離れたくないのか。 この地に古くから伝わる伝承と、海外から尋ねてきた怪しげな祈祷師ウドさんと関わることで、次第に全ての謎が解き明かされていく。 完結済作品です。 気弱だった美空が段々と成長していく姿を是非応援していただければと思います。

AV研は今日もハレンチ

楠富 つかさ
キャラ文芸
あなたが好きなAVはAudioVisual? それともAdultVideo? AV研はオーディオヴィジュアル研究会の略称で、音楽や動画などメディア媒体の歴史を研究する集まり……というのは建前で、実はとんでもないものを研究していて―― 薄暗い過去をちょっとショッキングなピンクで塗りつぶしていくネジの足りない群像劇、ここに開演!!

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

処理中です...