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≪ 弘徽殿 ≫

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 弘徽殿に到着すると、予想通り刺すように冷たい視線に囲まれた。

「やな感じ」

 小声で言い捨てた朱依が、忌々しげにため息をつく。

『弘徽殿は女御も女房らも揃って気位が高い』

 唯泉から聞いていた通りだ。ちらりと見たところ、どの女性も見事な衣を着ていて堂々としている。

 女御の実家は飛ぶ鳥を落とす勢いの左大臣家。仕える女性たちは揃って上流貴族の妻や娘であるらしい。

 ここでは位がものをいう。父は式部だったというだけで身寄りすらない翠子の立場は弱い。それを理由に蔑む気持ちを隠す気もないのだろう。彼女たちは汚らしいものでも見るように顔をしかめる。

 おばかさんね、と翠子は心で呆れた。

 今の彼女たちのように人を蔑む感情が自身の人格を堕落させていくのだ。触るまでもなくわかる。彼女たちの身の回りの物は、どんなに綺麗に見えても虚栄心や嫉妬に溢れている。

「ここで待たれよ」

 案内されたのも簀子から入ってすぐの廂の隅で、これ以上は中に入れる気はないらしい。

 呼びにきたくせに酷い扱いである。

 それはいいとしても、立派な屏風や調度品も遠くてよく見えない。せめて美しいものは見たかったのに、これではあまり観察もできないなと少し残念に思いながら、翠子は腰を下ろした。

 斜め後ろに朱依とついて来てくれた女官も座る。

 対して弘徽殿側は向かって左に五人。右に五人。ぐるりと取り囲まれた。

 ぱたぱたと奥の御簾が下ろされる。

 衣擦れの音がすることから弘徽殿の女御が来たのかもしれないが、離れている翠子にはいっさい姿は見えない。

 間もなく御簾の前にいる女房が、女御の代弁をするように声を張り上げた。

「そなた。弘徽殿が麗景殿の皇子を殺めようとしたと申したというのは本当かっ!」

 いきなり怒鳴られた。

「いいえ!」

 女房の声に合わせて、大きな声で答えた。

 嫌悪感しかない相手に翠子は強い。

 傲慢で虚栄心の塊である彼女たちは、多くの人を苦しめて結局多くの物に怨念を残す。それが許せないのである。

「嘘を申すな! 毒が原因だと言ったそうではないか!」

 翠子は真っ直ぐ前を見て答える。

「私は、匙から禍々しいものを感じると言っただけです」

 両脇の女房たちからやいのやいのと怒号が飛び交う。

「怒鳴り返すとは生意気なっ」

「禍々しいのはおまえのほうじゃ!」

 翠子はやれやれと瞼を閉じた。

〝人〟にどんなに怒鳴られても怖くはないが、面倒だなとは思う。あまり怒らせてはお門違いの怨念を作り出してしまう。それも嫌なので立ち上がった。

「帰りましょう、朱依」

 朱依の声に立ち上がったと同時に、「待ちや!」と、叫びながら走り寄った女房が翠子に扇を振りかざした。

「姫さまっ!」

 朱依が前に出るより先に、手を伸ばした翠子は女房の扇を掴んだ。

「この扇はあなたの物ですか? 奪われる悲しみが、扇に染みついていますよ」

「な、な、なにを申す」

 青くなった女房が、扇から手を離した。

 誰から奪い取った扇なのか、それとも泣く泣く手放した扇なのか。扇は悲嘆にくれている。

 紅葉が描かれた美しい扇を、翠子はゆっくりと床に置いた。

(かわいそうな扇……)

「姫さま、大丈夫ですか」

「平気よ」

 少し痛くて赤くなってはいるが、手は切れていない。

 気づけばどこから現れたのか、ついてきてくれた女官以外にも数人の女官が翠子と朱依を守るようにぐるりと囲んだ。

 そのうちのひとりが翠子の一歩前に出て、弘徽殿の女房たちを睨めつけた。

「お控えなさいませ。ここは宮中でございますよ」

 圧倒的威圧感である。

 いきり立っていた女房が「尚侍」と睨み返すがそれ以上は言えないようだ。

 尚侍と呼ばれた彼女はどうやら位の高い女性なのだろう、弘徽殿の女房はただ忌々し気に唇を噛んでいる。

 翠子が踵を返したところで、「まだ終わっておらぬ!」とまた別の女房が怒鳴った。

 まだ懲りないのかと、うんざりしたため息をつい時――。

「いい加減になさい」

「やめないか」

 尚侍と男性の声が重なった。

 振り向くとそこには初めて見る背の高い公達がいる。

「中将さま」

 弘徽殿の女房たちが慌ててひれ伏した。打って変わった態度である。

(ああ、この人が中将)

 朱依が言っていた『結婚もせず、あちこちで浮名を流しているらしい』男かと、翠子は目を細めて彼を見た。

「これ、おぬしら。女御の弟君、頭中将であらせられるぞ」

 身振り手振りで頭を下げろと言われ、翠子と朱依もしぶしぶと頭を垂れた。

 とはいえ誰だろうと知ったことではない。

 尚侍が立ちはだかり女房たちを防いでくれる間に、翠子と朱依はすたすたとその場を離れた。

「もしや、祓い姫どのか?」

 すれ違いざまに頭中将が声をかけてきたが、翠子は扇の上からちらりと見て小さくうなずき、そのまま行こうとした。

「お待ちください。お送りしましょう」

「いえ結構です。足はあります」

 あははと顎を上げて頭中将は笑う。

「おもしろい姫だ」

 鮮やかな笑顔である。

 太陽のように明るい。黒い束帯姿ではなく、金糸を使った臥蝶丸(ふせちょうのまる)の文様の、艶やかな濃い青の直衣を着ている。噂に違わず、美しい男。――でも。

(煌仁さまには敵わないわ)

 そう思い、つんと澄まして翠子は歩き出す。

「まあまあそう言わず」

 無視して進むが頭中将はついてきて、一方的に話しかけてくる。

「雷鳴壺にいるのであろう?」

 面倒なので走り去りたいところだが十二単が重たくて走れない。うかつに急いでは転んでしまう。仕方なく並んで歩いた。

「祓い姫が、こんなに若くて美しい姫とは知りませんでした」と甘ったるいことを言う頭中将は、むせるような甘い香りがする。高級な香を使っているのだろうが甘すぎて嫌だと翠子は思う。

 歳は恐らく煌仁や篁と同じくらいか。若くして頭中将という位につく人は出世頭だと、朱依が教えてくれた。頭中将の次は中納言大納言と進み、いずれは左大臣というふうに道が決まっていると。

 弘徽殿の女御は、顔どころか姿すら見られなかったが、姉弟というからには、ふたりは似ているのだろうか。

 ちらりと扇の端から彼を見上げた。

 通った鼻筋、少し目尻が下がった目元。顎の線がすっきりとして肌は白く艶めいている。男でこれだけ美しいのだ。女御もさぞかし美人なのだろう。少なくとも見た目は。

「すまなかったね。姉上のところの女房はどうも気が強くて。姉は優しいんだよ、どうか許してやってほしい」

 優しい? どこがだ、と心で返す。

 御簾から透ける影は全く動かなかった。止めようと思えば少なくとも影は動いたはず。あれだけ騒ぎ立てていたのに、ぴくりとも動かなかったではないか。

「あ、そうだ。これをあなたにあげよう」

 頭中将は竹製の入れ物を差し出した。

「干し栗だ。丹波の栗なので、とても甘くておいしいですよ」

 丹波の栗のおいしさなら知っている。栗を干し、茹でてからさらに干して作る干し栗は柔らかくてとても甘い。思わず足を止めたが、なにしろこの男は弘徽殿の女御の弟である。毒がしみ込ませてあるかもしれない。

 じっと見上げると、頭中将はくすっと笑う。

「毒など入っていませんよ」

 心が見えない人だ。目は笑っているし表情も柔らかいけれど、なぜか怖い。

 翠子は干し栗に目を落とした。

 もしかしたら試しているのかと思ったけれど、試すとしたら何を?

「姫! いかがなされた」

 どたどたと大きな足音を立てて走ってきたのは篁だった。
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