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≪ 麗景殿 ≫
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***
次の日の夕暮れ、唯泉がふらりと現れた。
彼はにっこりと明るい笑顔を向ける。
「姫よ、来てそうそう見事な活躍だな。おめでとう」
「はぁ……」
翠子は力のない返事をする。
匙を指摘してから丸一日が経ち、状況は刻一刻と変わっている。物の怪ならまだしもでてきたのが毒だ。新たな火種を生んでしまったらしい。
燈台の油を足しに来た女官によれでは、麗景殿側では早速、弘徽殿の仕業に違いないと詰め寄っているという。言われた弘徽殿も黙ってはいない。言いがかりだと騒ぎ立てているとか。
『犯人が捕まるまでは、当分落ち着かないでしょうね。あちこち大騒ぎです』
『そうですか……』
混乱の元を作ったのが他ならぬ自分の発言だと思えば、翠子は気が重かった。
「どうした。随分憂鬱そうじゃないか」
唯泉が心配そうに見つめる通り、翠子はあきらかに沈んでいる。扇だけでは落ち込みは隠せないほどに。
「……いえ」
気鬱の理由は、女官から聞いた騒ぎだけではなかった。
翠子は昨夜投げ込まれた文を思い出し、キュッと唇を噛む。
昨夜は煌仁に抱き上げられたときを想い出し、気持ちが浮足立って寝付けずにいた。
煌仁の衣に焚き染められた伽羅の香りまでまざまざと思い出した。甘くて爽やかで、上品な大人の男性の香り。
どうしたらこの胸の高鳴りが静まるのだろうと考えながら、それでもようやくまどろみ始めた時だった。
コトッという音で目を覚ました。
きぃという妻戸が閉まる音がして翠子の目の前に、丸く石を包んだ文が投げ込まれていたのである。
高燈台の灯りで文を開いた。
その瞬間、冷や水を浴びせられたように心の熱は消え、悲しいほど冷静になれた。
【余計なことを 忌まわしき者は早く帰れ】
ぽたりぽたりと血の跡もついていて、それほど強くはないが憎悪の念が伝わってきた。
石は捨て、文は厨子棚の奥にしまいこんだ。心配かけたくないので朱依には見せていない。
こんなこともあるだろうと想像はしていたし、忌まわしき者と言われたところで今更傷つきはしないが、余計なことをという言葉は、翠子の心に重くのしかかる。
以前にも同じようなことがあった。
『祓いはここか!』と怒鳴り込んできた男が庭で叫んだ。
『余計なことをしやがって! 』
翠子が伝えた物の声が原因で、その家の妻が死のうとしたのだったか……。
あなたのしていることは間違っていると言いに来た僧侶もいた。物の声など知らなければそれで済む。知らぬまま、それが運命だと受け入れて、人は生きていくのだと。
それでも続けてきたのは生きるため。
物の声を聞き、わずかばかりの礼をもらい、それで生活が成り立っている。
邸のみんなで生きていくためと思えば割り切れた。大半の人が喜んでくれるのだ。嘘をついているわけではないのだからと言い訳をして。
だが、ここ宮中で声を聞く意味はどこにあるのだろう。
混乱を招く以外のなにが?
二の皇子はこれで助かるだろう。でもそれは二の皇子の寿命によるのであって、翠子の力とは関係ない。
匙の声などやはり伝えるべきではなかった。そう思えてならない。
「まあそう暗い顔をするな。医師と薬師が喜んでいたぞ。姫のおかけで皇子は助かるのだ」
唯泉はこともなげに言うが。
(私はただ、忌まわしき者……。唯泉さまのように祓えもしない)
祓えるなら人を幸せに導いていけるだろうが、それはできない。何もできないから意味がないのだ。ここにいても――。
「姫よ、この度は本当にありがとう」
遅れてきた煌仁が続けてそう声を掛けた。
「そうですよ、姫さま。元気を出してくださいませ」
朱依も一生懸命に訴える。
だが、どう言われても気持ちは晴れない。今はただ、邸に帰りたかった。疎まれたりしない静かな自分の家に。
「あの……。これでもう、邸に帰れるのでしょうか」
「ははっ。それは無理だろう。なぁ、煌仁」
唯泉はそう言って明るく笑い、煌仁は盃を下ろし苦笑する。残念ながらそれはだめだ、と思いながら。
次の日の夕暮れ、唯泉がふらりと現れた。
彼はにっこりと明るい笑顔を向ける。
「姫よ、来てそうそう見事な活躍だな。おめでとう」
「はぁ……」
翠子は力のない返事をする。
匙を指摘してから丸一日が経ち、状況は刻一刻と変わっている。物の怪ならまだしもでてきたのが毒だ。新たな火種を生んでしまったらしい。
燈台の油を足しに来た女官によれでは、麗景殿側では早速、弘徽殿の仕業に違いないと詰め寄っているという。言われた弘徽殿も黙ってはいない。言いがかりだと騒ぎ立てているとか。
『犯人が捕まるまでは、当分落ち着かないでしょうね。あちこち大騒ぎです』
『そうですか……』
混乱の元を作ったのが他ならぬ自分の発言だと思えば、翠子は気が重かった。
「どうした。随分憂鬱そうじゃないか」
唯泉が心配そうに見つめる通り、翠子はあきらかに沈んでいる。扇だけでは落ち込みは隠せないほどに。
「……いえ」
気鬱の理由は、女官から聞いた騒ぎだけではなかった。
翠子は昨夜投げ込まれた文を思い出し、キュッと唇を噛む。
昨夜は煌仁に抱き上げられたときを想い出し、気持ちが浮足立って寝付けずにいた。
煌仁の衣に焚き染められた伽羅の香りまでまざまざと思い出した。甘くて爽やかで、上品な大人の男性の香り。
どうしたらこの胸の高鳴りが静まるのだろうと考えながら、それでもようやくまどろみ始めた時だった。
コトッという音で目を覚ました。
きぃという妻戸が閉まる音がして翠子の目の前に、丸く石を包んだ文が投げ込まれていたのである。
高燈台の灯りで文を開いた。
その瞬間、冷や水を浴びせられたように心の熱は消え、悲しいほど冷静になれた。
【余計なことを 忌まわしき者は早く帰れ】
ぽたりぽたりと血の跡もついていて、それほど強くはないが憎悪の念が伝わってきた。
石は捨て、文は厨子棚の奥にしまいこんだ。心配かけたくないので朱依には見せていない。
こんなこともあるだろうと想像はしていたし、忌まわしき者と言われたところで今更傷つきはしないが、余計なことをという言葉は、翠子の心に重くのしかかる。
以前にも同じようなことがあった。
『祓いはここか!』と怒鳴り込んできた男が庭で叫んだ。
『余計なことをしやがって! 』
翠子が伝えた物の声が原因で、その家の妻が死のうとしたのだったか……。
あなたのしていることは間違っていると言いに来た僧侶もいた。物の声など知らなければそれで済む。知らぬまま、それが運命だと受け入れて、人は生きていくのだと。
それでも続けてきたのは生きるため。
物の声を聞き、わずかばかりの礼をもらい、それで生活が成り立っている。
邸のみんなで生きていくためと思えば割り切れた。大半の人が喜んでくれるのだ。嘘をついているわけではないのだからと言い訳をして。
だが、ここ宮中で声を聞く意味はどこにあるのだろう。
混乱を招く以外のなにが?
二の皇子はこれで助かるだろう。でもそれは二の皇子の寿命によるのであって、翠子の力とは関係ない。
匙の声などやはり伝えるべきではなかった。そう思えてならない。
「まあそう暗い顔をするな。医師と薬師が喜んでいたぞ。姫のおかけで皇子は助かるのだ」
唯泉はこともなげに言うが。
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祓えるなら人を幸せに導いていけるだろうが、それはできない。何もできないから意味がないのだ。ここにいても――。
「姫よ、この度は本当にありがとう」
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「そうですよ、姫さま。元気を出してくださいませ」
朱依も一生懸命に訴える。
だが、どう言われても気持ちは晴れない。今はただ、邸に帰りたかった。疎まれたりしない静かな自分の家に。
「あの……。これでもう、邸に帰れるのでしょうか」
「ははっ。それは無理だろう。なぁ、煌仁」
唯泉はそう言って明るく笑い、煌仁は盃を下ろし苦笑する。残念ながらそれはだめだ、と思いながら。
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