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≪ 麗景殿 ≫

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 次の日の夕暮れ、唯泉がふらりと現れた。

 彼はにっこりと明るい笑顔を向ける。

「姫よ、来てそうそう見事な活躍だな。おめでとう」

「はぁ……」

 翠子は力のない返事をする。

 匙を指摘してから丸一日が経ち、状況は刻一刻と変わっている。物の怪ならまだしもでてきたのが毒だ。新たな火種を生んでしまったらしい。

 燈台の油を足しに来た女官によれでは、麗景殿側では早速、弘徽殿の仕業に違いないと詰め寄っているという。言われた弘徽殿も黙ってはいない。言いがかりだと騒ぎ立てているとか。

『犯人が捕まるまでは、当分落ち着かないでしょうね。あちこち大騒ぎです』

『そうですか……』

 混乱の元を作ったのが他ならぬ自分の発言だと思えば、翠子は気が重かった。

「どうした。随分憂鬱そうじゃないか」

 唯泉が心配そうに見つめる通り、翠子はあきらかに沈んでいる。扇だけでは落ち込みは隠せないほどに。

「……いえ」

 気鬱の理由は、女官から聞いた騒ぎだけではなかった。

 翠子は昨夜投げ込まれた文を思い出し、キュッと唇を噛む。

 昨夜は煌仁に抱き上げられたときを想い出し、気持ちが浮足立って寝付けずにいた。

 煌仁の衣に焚き染められた伽羅の香りまでまざまざと思い出した。甘くて爽やかで、上品な大人の男性の香り。

 どうしたらこの胸の高鳴りが静まるのだろうと考えながら、それでもようやくまどろみ始めた時だった。

 コトッという音で目を覚ました。

 きぃという妻戸が閉まる音がして翠子の目の前に、丸く石を包んだ文が投げ込まれていたのである。

 高燈台の灯りで文を開いた。

 その瞬間、冷や水を浴びせられたように心の熱は消え、悲しいほど冷静になれた。

【余計なことを 忌まわしき者は早く帰れ】

 ぽたりぽたりと血の跡もついていて、それほど強くはないが憎悪の念が伝わってきた。

 石は捨て、文は厨子棚の奥にしまいこんだ。心配かけたくないので朱依には見せていない。

 こんなこともあるだろうと想像はしていたし、忌まわしき者と言われたところで今更傷つきはしないが、余計なことをという言葉は、翠子の心に重くのしかかる。

 以前にも同じようなことがあった。

『祓いはここか!』と怒鳴り込んできた男が庭で叫んだ。

『余計なことをしやがって! 』

 翠子が伝えた物の声が原因で、その家の妻が死のうとしたのだったか……。

 あなたのしていることは間違っていると言いに来た僧侶もいた。物の声など知らなければそれで済む。知らぬまま、それが運命だと受け入れて、人は生きていくのだと。

 それでも続けてきたのは生きるため。

 物の声を聞き、わずかばかりの礼をもらい、それで生活が成り立っている。

 邸のみんなで生きていくためと思えば割り切れた。大半の人が喜んでくれるのだ。嘘をついているわけではないのだからと言い訳をして。

 だが、ここ宮中で声を聞く意味はどこにあるのだろう。

 混乱を招く以外のなにが?

 二の皇子はこれで助かるだろう。でもそれは二の皇子の寿命によるのであって、翠子の力とは関係ない。

 匙の声などやはり伝えるべきではなかった。そう思えてならない。

「まあそう暗い顔をするな。医師と薬師が喜んでいたぞ。姫のおかけで皇子は助かるのだ」

 唯泉はこともなげに言うが。

(私はただ、忌まわしき者……。唯泉さまのように祓えもしない)

 祓えるなら人を幸せに導いていけるだろうが、それはできない。何もできないから意味がないのだ。ここにいても――。

「姫よ、この度は本当にありがとう」

 遅れてきた煌仁が続けてそう声を掛けた。

「そうですよ、姫さま。元気を出してくださいませ」

 朱依も一生懸命に訴える。

 だが、どう言われても気持ちは晴れない。今はただ、邸に帰りたかった。疎まれたりしない静かな自分の家に。

「あの……。これでもう、邸に帰れるのでしょうか」

「ははっ。それは無理だろう。なぁ、煌仁」

 唯泉はそう言って明るく笑い、煌仁は盃を下ろし苦笑する。残念ながらそれはだめだ、と思いながら。
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