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≪ さやけし君 ≫

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 とても疲れていた。

 宮中に来て、まだほんの数日しか経っていないのにひと月くらい寝ていないような疲れようだ。まるで老婆にでもなったように体が重たい。
 それ以上につらいのは心だ。

「姫さま」
 追いかけてきた朱依が心配そうに顔を覗き込み、翠子に寄り添い背中に手を伸ばす。

「大丈夫ですか? 温かい麦茶でも持って来てもらいましょう」

「ありがとう朱依。でも大丈夫よ。少し横になるわ」

 疲れる原因は、東宮の登場だけにあるわけじゃない。
 そのうち慣れるだろうが、ここでは何を触っても翠子に訴えてくるのである。几帳に触れれば女の悲しみが。柱に手をかければ男の憎悪が。
 少しも気が休まらない。

『祓い姫などではなく愛姫とでも名乗ればよいのだ。愛されているのだから』

 唯泉が言ってくれた慰めを胸に、宮中での暮らしを楽しみたいと思った。
 お世話をしてくれる女官もいて、彼女に案内してもらい好きなように宮中を散策していいと言われている。勇気を出して歩いてみようと思った。
 まずその前にと柱に触れたのである。

 憎悪を感じても嫌われているわけじゃないと言い聞かせ、慣れようとしてあえて触れた自分の責任もあるが、これほどまでとは。
(私が馬鹿だったんだわ)
 やっぱり自分は邸の奥にいるしかないのかと、悲しくなる。
 こんな気持ちは東宮であるあの人にはわかるまいと思えば、無性に腹立たしくもあった。



 その一方で。
 廂に取り残された煌仁と篁は顔を見合わせていた。

「なんですか、あれは」
 篁はぼやく。

 煌仁に止められなければ厳しく叱りつけ、謝らせるつもりだった。仮にも東宮に対してあの不躾な態度は何事かと、驚きを通り越して憤っていた。

「無理に連れてきたのだ。仕方あるまい」

 煌仁は薄い苦笑を浮かべただけで、そのまま立ち上がる。

「ですが、殿下があれほど心を砕いて優しく聞いているのに、愛嬌のかけらもないじゃないですか」

 鼻息も荒く憤慨するが、篁も彼女の美しさは認めたらしい。「せっかくの美貌も、あれでは台無しですな」とため息をつく。
 扇で隠した顔の全貌はわからずとも、青く澄んだ美しい瞳と、癖もなくまっすぐで豊かな黒髪の艶めく様には目を奪われたようである。

「想像と違っただろう?」

「はい。年寄りかと思っていました。まさか十七の娘とは」

「私も意外だった。人の噂というのはわからぬものだな」

 祓い姫という不思議な力を持つ女性の存在は、数年前から煌仁の耳にまで届いていた。
 故人の声を聞き、謝礼を受け取って生活しているという。――実際は故人ではなく物に宿った声だったが。顔を知る者はおらず、世間では老婆だと言われていた。

 彼女には有名な逸話がある。
 故人の愛用物から遺産のありかを聞き出し、残された未亡人は一生食うに困らぬ財産を得たという。
 以来神のように崇める者もいるらしい。

 いつだったか、祓い姫を朝議に呼び出して審議にかけようという話が出た。
 陰陽師でもなく尼でもない。では何なのだと警戒したのである。

 もし人々に悪影響を与えているならば野放しにはしておけない。まずは調べようという話になった。
 近所の者や実際に祓い姫に会った者の評判を集めるほか、検非違使や女官など数名が素性を隠して本人に会いに行った。
 結果、信憑性のある悪質な話も出ず、実際訪ねた者の話でも問題なさそうだと判断され、うやむやになったと報告を受けている。

 彼女が陰陽師や僧侶を脅かす存在であれば、善悪関係なしに容赦なくつぶされただろう。
 だが、彼女は物の声を伝えると、あとの始末を陰陽師や僧侶に丸投げした。それが良かったのだ。必要以上に彼らの反感を買わずに済んだ。
 もっとも、そんな事情など本人は気づいていないだろうが。
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