江戸ごよみ

森野きの子

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初恋雪華

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 おはつは、震える足をどうにか繰り出し、町をかけていた。小間物屋は年増から若い女たちで混んでいた。番頭も奉公人たちも他の接客に忙しそうだった。女たちは流行りの簪や紅や白粉に夢中だった。楽しげな声に酔って、きらきらと目に映る簪につい、手が伸びた。
 先日、町を歩いていた同じ年頃の大店のお嬢さんがめかしこんで何処かへ行くのを見かけた。色鮮やかな着物と、きらきらと光る流行りの簪に目を奪われた。

 はつが五つのときに父親が死んだ。翌年、母親は勤め先の小料理屋で出会った若い男と姿をくらませた。裏長屋での舅の太兵衛と幼い娘と暮らしていくことに嫌気が差して早々に見切りをつけたのだろう。祖父の太兵衛は腕のいい大工だったが、屋根から転落して右足の骨を折って以来、仕事が減ってしまった。はつは十三から水茶屋で働き始め、もうニ年になる。器量は悪くないが引っ込み思案で、愛想笑いの一つもできず、客あしらいにまごついてしまうため、看板娘の座は一つ年上のおちかに譲っている。おはつの初心な反応をあえて楽しむ輩もいて、わざとからだに触られて驚いて泣いてしまったこともある。

 いったいどれほど走ったのだろうか。表店の脇で足を止め、すっかり上がった息を整えようと天を仰ぐ。荒い呼吸を繰り返し、吸い込んだ冷たい空気に肺が痛む気がした。震える手で袂から簪を出した。
 陽の光を反射して雪華模様の飾りが揺れて光る。その光が一層視界の中で眩く痛いほど燦めいた。
(なんてことをしてしまったんだろう)
 自分のしでかしたことの重大さに、胸を押しつぶされてしまいそうだった。

「泣くくれぇなら、ハナから盗んだりすんじゃねえ」
 背後から咎める低い声がして、はつは弾かれたように振り向いた。
 職人の格好をした若い男が、苦虫を噛み潰したような顔ではつを睨んでいる。どうやら小間物屋の人間ではないようだが、はつを追ってきたことに違いなさそうだった。
「ご……、ごめんなさい。あ、あたし……」
「それな、おれが作ったんだ。常陸のどっかの殿様が流行らせた雪の図案を元にな」
 男は、はつを眺める。愛らしい顔立ちをしているが、ふっくらとした頬は色を失っている。目にはなみなみと涙を溜めて、全身が震えている。着ているものも貧相な古着で髪に飾り気もない。
「ちょうど、さっきの伊都屋に品物を納めに行ったところだった。そいつァ一等良い出来でよ。店先も賑わってたから、どんな嬢ちゃんに買われていくかって見てたんだ。そしたらあんたが袂にいれてくのが見えた」
「ごご、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
 はつの頭の中は罪の意識としでかしたことの申し訳無さで溢れかえり、ただただ謝りの言葉しか出てこなかった。男は、ぼろぼろと涙をこぼし必死に謝り続けるはつの手から、簪を取り上げた。
「ねえちゃん、こいつをちゃあんと見たのか?」
 と、目を見開いたはつの目の前に簪を掲げる。
 はつは袖で涙を拭い、簪をまじまじと見つめた。日に、垂れた雪華模様の飾りがちかちかと光る。ふと、その向こうの男のほうに焦点があった。キリッとした意志の強そうな眉に、薄い二重の涼しげな目元、そして鼻筋の通った高い鼻梁。おはつと目を合わせると、ニヤリと得意げに笑った。
「どうだ? いい仕事してるだろ」
「あ……。はい。この簪が、とてもきらきらしていて、あたし、つい……。ごめんなさい……」
 走ってきたからでも、罪悪感からでもない動悸がして、はつは狼狽した。
「いいかい、ねえちゃん。いくら物がよく見えたってこんなこと、もうしちゃあなんねぇよ」
 男は真顔でいうと、深く頷いたはつを見て、険しい顔を解いた。
「これは預かっておれから伊都屋さんへ返しとくよ」
 男はそういうと、懐から出した手拭いに簪を包んで再び懐へ仕舞った。すっきりとした月代に斜めに締めた鉢巻、屋号の入った印半纏に細身の股引きが粋だった。
「ありがとうございます。あの、あたしがこんなことを聞ける立場じゃないのはわかってるんですが、あにさんのお名前と工場を教えてはもらえませんでしょうか」
 はつの胸は張り裂けそうなほど高鳴っていた。水茶屋に来る男たちにも長屋の亭主たちにも自ら声をかけたことはなかった。
「おれか? おれァ弥吉ってんだ。箱崎町でよ、かざり職人やってんだ」
 と、屋号の入った襟を見せた。
「あたし、はつです」
「おはつちゃんか」
 弥吉に名前を呼ばれると、今まで冷えていた頰が温む気がした。
「両国橋のたもとの水茶屋で働いてます」
「へえ。どうりで器量良しと思った。けどな、おはつちゃん、こんな状況で身元を明かしちゃなんねぇよ。おれが悪い男だったら今日の件で店へ行って金を強請るかもしんねぇぞ」
 おはつはビクリと身をすくませ弥吉を見る。
「今度茶の一杯でも強請りに行くかな」
 と弥吉は眉尻を下げて笑った。
「あの、弥吉さん。本当にすみませんでした」
「本当だよ。おれが丹精込めて仕上げた一品だってのに、盗んでいきやがってこの泥棒猫め」
 弥吉は軽口のつもりだったが、おはつはとことん懲りたらしく、ひどく落ち込んだ。
「もう、しません」
 涙を溜めて俯くおはつに、故郷の妹がだぶって見えた。弥吉は房総の漁村で生まれたが、暮らしがままならず、両親が亡くなったのを機に、十七で江戸に移り住んだ。二つ下の妹のちかは十の時に買われていった。生きているのなら二十になる。両親は妹の行先を教えてくれはしなかった。おはつの肩を軽くぽんぽんと二度ほど叩く。
「わかったからよ。泣くんじゃねえよ、おはつちゃん」
「……はい」
 おはつが涙を拭うと、弥吉は笑ってみせ、もと来た道を戻っていく。
 はつは、屋号を背負った広い背中を、見えなくなるまで見送った。



 *****



 あれからひと月ほど経った。師走に入り、気忙しくなった町につられるように歩いていた弥吉は、ふと足を止め、懐に忍ばせた手拭いにそっと手を当てた。
 余った銀で拵えた簪だが、おはつのみずみずしい黒髪によく似合うだろう。
 妹のおちかがだぶって見えたせいか、なんとなくおはつのことが気にかかって仕方がない。
 簪も、手慰みに拵えたわりに、良いものができたが、手放しに自画自賛はできない。
 泣き顔を見たあとは、笑顔が見たい。という気持ちに嘘はないが、純粋とは言い難い。
 初心そうにみえたが、水茶屋で働いていると言っていたから、さぞかし色んな男を見ているだろう。そんなことまで考えて我に返る。年頃の娘が洒落た簪の一つも持てず、思いあまって盗みを働いた。それを不憫に思ってのことだろう。と自分に言い聞かせる。
 両国橋のたもとの水茶屋は、それなりに繁盛していた。江戸に来て六年経ったが、江戸らしいところへ出歩いたことがなかった。岡場所に誘われることもあったが、そういうところで遊んでしまうと妹の不仕合わせに加担してしまう気がして行く気になれなかった。
 とはいえ、弥吉も男だ。そういう欲求がないわけではない。幸いなかなかの男ぶりで、裏長屋の未亡人や暇を持て余した御内儀さんなどから声をかけられた。勘も物覚えもよく、顔もモノもいいとあって一時は小遣い稼ぎすらできたが、兄弟子からあらぬ疑いをかけられ、親方に咎められてからはすっぱり辞めた。それからといえば、どうしようもなくて蒟蒻を温めたこともある。

「いらっしゃい」
 水茶屋『このえ』の暖簾から中を覗こうと近づいた隙にさっそく声をかけられた。おはつではない。少し目元がきつめの美人だった。こちらを見るなり妖しげに微笑む。おはつとあまり変わらなさそうな年頃に見えたが、男の気の惹き方を知っている。弥吉が中へ入ると席へ案内した。あめ湯を注文し、おはつというおなごはいるかと訊ねると、娘は面白くなさそうに愛想笑いをやめて奥に引っ込んだ。
「あんた、おちかちゃんじゃなくおはっちゃんが目当てかい」
 側にいた商人風の男が、見ない顔だけど、と続け、ニヤけた顔で隣に腰かけた。
「さっきの娘はおちかというのか」
 妹と同じ名前だが、似ても似つかない。
「……ちか」
 伏せた瞼の裏に、まだ幼かった妹の顔が浮かぶ。
「弥吉さん?」
 目をひらいて顔をあげると、少し曇った顔のおはつが立っていた。弥吉の前に小さな盆に乗ったあめ湯を置く。
「おちかさんが良ければ、呼んできましょうか」
「いいや、用があるのはおめぇのほうさ」
 懐から手ぬぐいを抜き、開いて簪を見せた。おはつが小さく叫び、両手で口許を押さえる。
「あたしが、貰っても?」
 仔鹿のような目が潤んでいる。
「余った材料で拵えたんだ。遠慮するこたねぇ」
 弥吉は立ち上がって、持っていた簪を涙を拭うのに頭を垂れたおはつの髷に挿してやった。
「おめえさん、やるな」
 商人風の男が感心したように弥吉に言った。
「なぁに。おらぁ錺職人よ。簪の一本や二本作るのなんざ大したこたねぇ」
 弥吉は得意げに言うと、男は顔をしかめて言った。
「おめえ、まさかと思うが、男が女に簪を贈ることがどういうことか知らねえわけじゃねえよな?」
「いや、この嬢ちゃんがおれの作った簪を気に入ったみてぇだったから、よ……」
 と尻すぼみに言って弥吉は口を噤んだ。目の前の男も、こちらを伺っていた男たちも、遠巻きに見ていた女将もおちかも、みんながみんな、なにか言いたげに呆れた顔をしている。
「とんだ野暮天だ」
「あーあ。おはっちゃん、可哀想になあ」
「簪を贈る意味も知らねぇなんざ」
 口々に野暮だ莫迦だと罵られ、弥吉も頭に血がのぼる。
「なんでぇなんでぇうっせえな! なんの文句があるってんだ! コイツぁな、銀で拵えた一品物よ。この雪華模様をみてみろ! そんじょそこらのどの簪よりもおはつの黒髪によぉく似合ってんだろうが!」
 弥吉の啖呵に今度はどっと冷やかしが沸く。
「ちゃんと守ってやれよ! この野暮天!!」
 と野次が湧く。
「弥吉さん」
 涙声に呼ばれ、ハッと顔を向けると、おはつが半泣きで嬉しそうに笑っている。
「あたし、ちゃんと似合ってますか?」
 ちらちらと光をまき散らす雪華模様の細工より、笑顔に散る涙のほうが、ずっと眩しく弥吉の目には映るのだった。
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