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四章 闇の中
2.白い足
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夏の盛りのこと、夜でもまだ暑さが残る。ことに、狭い布団部屋にふたりでこもって戸を閉めると、熱気に蒸されそうだった。
「花魁を捕まえて、かようなところで逢引とは──」
瞬く間に汗が全身に滲む密室の中、唐織の含み笑いだけが涼やかだった。首を傾げでもしたのだろうか、髪に挿した簪だか笄だかが、戸の隙間から漏れる光に煌めいた。
「そんなことじゃ、ない……!」
彼が押しかけた理由が、察せないはずはないだろうに。彼を衝き動かす焦りも混乱も──怒りも、重々承知しているだろうに。どこまでも余裕を崩さぬ相手に苛立って、清吾は声を荒げた。
暗い中、手探りで着物の合わせ目を探ろうとして──それでも、清吾はそれ以上唐織に触れることができなかった。先に見せつけられた足の内側を暴くのが、恐ろしいと思ってしまったのだ。
(この女が、本物の信乃だったら──)
自身を目の前にして、何も気付かぬ彼のことを、この女はどんな思いで見ていたのだろう。己の思い出が語られるのを、どのように聞いたのだろう。確かめたいという一念でこの暴挙に出た癖に、今さらになって怖気づく──その意気地のなさをまた嗤い、唐織は着物に手を掛けた、ようだった。わずかな空気の流れと衣擦れの音によって、清吾はそう感じる。
「あい。これを見に来なんしたのでありんすなあ?」
唐織の珠の肌は、わずかな光を集めて輝くようだった。いっそ目が痛むのを感じながら、清吾は観音像にでもひれ伏す勢いでその場に膝をつく。素足を間近に吟味される無作法にも唐織が身じろぎすることはなく、爪先も踵も踝も、記憶に焼き付いていたままの形が彼の視界に再び映る。
(……ない)
否、とはいえ違いがひとつ。清吾を奈落の底に突き落とした、花びらの形の痣が、ない。唐織の足はどこまでも白く美しく、痣どころか黒子のひとつも落ちていなかった。
「あ……」
「──気は、済みいしたか?」
四つん這いになったまま、呆けたように吐息を漏らす清吾の頭上に、ごくごく穏やかな声が降る。着付けを整え直したらしい気配を感じながら、唐織が問いかけへの答えを待っているのを感じながら、それでもずいぶん長いこと、何を言うべきか言いたいのか分からない。
「あれ、は。この前のは」
「黛を使って描きいした。主は、痣の形を細かに教えてくださんしたから」
手管を披露する唐織の声は、悪戯が成功した子供のように得意げだった。
(あの、時か。信乃とのことを話した、あの夜……!)
唐織が痣の形を知っていることに、何の不思議もなかったのだ。たとえ信乃でなくとも、彼自身が教えたのだから。だから、偽の信乃を用意することもできた。自身の足に同じ形の模様を描いて、清吾を惑わすこともできた。
考えてみればごくごく簡単な仕掛けだというのに、清吾はまんまと騙されたのだ。
(だが、なぜ!)
「信乃」と唐織と。いずれかが本物だと思った。そして、片方が偽物だと分かった。今度こそは、本物だと確かめられると思って、そうして真意を質そうと思ってきたのに。
なぜ、ばかりが膨らんで、頭が爆ぜそうだった。灯りがないからというだけでなく、底なしの闇に包まれて、どこまでも落ちていきそうな。不安と恐怖に駆られて、清吾の唇から疑問が零れ落ちていく。板張りの床に立てる指さえ、泥に沈んでいくのではないかと思えた。
「あんたは──誰だ。信乃じゃないのか。信乃は……本物のあいつは、いったいどうなった。知っているんじゃ、ないのか……!?」
「わちきは何にも知りいせん」
そして、一度絞り出すと、声はどんどん大きくなった。最後はほとんど喚き声になっていただろう。人の耳を憚ることを思い出したのは、唇にひやりとしたものが触れたからだ。
屈みこんだ唐織が、人差し指を清吾の唇に当てて口を封じたのだ。暗闇に仄かに浮かび上がる輪郭は、このような時でも美しいと思ってしまう。清吾の面に感嘆が宿るのを見て取ったか、闇の中でいっそう黒い瞳が、微かに笑んだ。
「ただ──想像はつきんしょう。この吉原で、花魁として名を馳せたのでもない女がどうなったのか」
微笑みながら、声は優しい調子を保ちながら、唐織は清吾の欺瞞を暴いていくのだが。彼だとて、まったく考えない訳ではなかったことを。けれど、努めて考えないようにしていたことを。
「結核。瘡毒。心中に折檻。遊女の命取りは多うござんすからなあ。とうに死んで、浄閑寺に投げ込まれたか──」
「……止めてくれ」
惨い想像に耐えかねて、清吾は掠れた声で乞うていた。唐織が苦笑する気配がしたのは、哀れんでくれたのか。それとも、廓の実情を知る彼女には生ぬるいと思えたのか。いずれにせよ、続けた言葉はいくらか加減された、優しい内容だった。
「……それか、好き合った男に身請けされたか。分からぬならば、良いように考えておけば幸せというものでありんしょうに」
そうするはずだった。もしも信乃が見つからないままだったなら、清吾は死んだものと諦めていただろう。
そうしたかった。もしも唐織の痣を見ていなければ、あの痩せこけた女を信乃だと信じて、最期の瞬間まで精いっぱい尽くしていただろう。
そのどちらであっても、清吾は満足していたはずだ。前者なら、幼馴染のために気の済むまで探し尽くしたと自身を慰めることができる。後者なら、せめて一時の安らぎを与えることができたことが救いになる。もう少しで、そうなるはずだったのに。そうならなかったのは──
「あんたのせいだ。一度は信じ込ませておいて! 信乃は──あの女は、もう長くない。死んで埋めちまえば痣も土の下だ。それこそ、分からなくなっていただろうに! なぜ、あんな──っ」
本当は赤の他人でも良いから、信乃を救ったという満足が欲しかった。真実など知らないまま、美しい嘘に溺れていたかった。唐織を詰るつもりで、ひどく勝手で残酷なことを口にしたことに気付いて、清吾は絶句した。慌てて口を塞いでも、一度出た言葉を取り消すことはできない。
清吾の額から、汗が筋となって滴り落ちた。背がじっとりと塗れて、着物が肌に張り付くのが分かる。
「わちきは嘘が得意と、主はようく知っていたはず。わちきが何を言おうと見せようと、決して、決して、信じてはなりいせんでしたのに」
それでも、唐織の笑顔は冴え冴えとして美しく、夜空に輝く月のようで──そして、心からの満足を湛えていた。
「花魁を捕まえて、かようなところで逢引とは──」
瞬く間に汗が全身に滲む密室の中、唐織の含み笑いだけが涼やかだった。首を傾げでもしたのだろうか、髪に挿した簪だか笄だかが、戸の隙間から漏れる光に煌めいた。
「そんなことじゃ、ない……!」
彼が押しかけた理由が、察せないはずはないだろうに。彼を衝き動かす焦りも混乱も──怒りも、重々承知しているだろうに。どこまでも余裕を崩さぬ相手に苛立って、清吾は声を荒げた。
暗い中、手探りで着物の合わせ目を探ろうとして──それでも、清吾はそれ以上唐織に触れることができなかった。先に見せつけられた足の内側を暴くのが、恐ろしいと思ってしまったのだ。
(この女が、本物の信乃だったら──)
自身を目の前にして、何も気付かぬ彼のことを、この女はどんな思いで見ていたのだろう。己の思い出が語られるのを、どのように聞いたのだろう。確かめたいという一念でこの暴挙に出た癖に、今さらになって怖気づく──その意気地のなさをまた嗤い、唐織は着物に手を掛けた、ようだった。わずかな空気の流れと衣擦れの音によって、清吾はそう感じる。
「あい。これを見に来なんしたのでありんすなあ?」
唐織の珠の肌は、わずかな光を集めて輝くようだった。いっそ目が痛むのを感じながら、清吾は観音像にでもひれ伏す勢いでその場に膝をつく。素足を間近に吟味される無作法にも唐織が身じろぎすることはなく、爪先も踵も踝も、記憶に焼き付いていたままの形が彼の視界に再び映る。
(……ない)
否、とはいえ違いがひとつ。清吾を奈落の底に突き落とした、花びらの形の痣が、ない。唐織の足はどこまでも白く美しく、痣どころか黒子のひとつも落ちていなかった。
「あ……」
「──気は、済みいしたか?」
四つん這いになったまま、呆けたように吐息を漏らす清吾の頭上に、ごくごく穏やかな声が降る。着付けを整え直したらしい気配を感じながら、唐織が問いかけへの答えを待っているのを感じながら、それでもずいぶん長いこと、何を言うべきか言いたいのか分からない。
「あれ、は。この前のは」
「黛を使って描きいした。主は、痣の形を細かに教えてくださんしたから」
手管を披露する唐織の声は、悪戯が成功した子供のように得意げだった。
(あの、時か。信乃とのことを話した、あの夜……!)
唐織が痣の形を知っていることに、何の不思議もなかったのだ。たとえ信乃でなくとも、彼自身が教えたのだから。だから、偽の信乃を用意することもできた。自身の足に同じ形の模様を描いて、清吾を惑わすこともできた。
考えてみればごくごく簡単な仕掛けだというのに、清吾はまんまと騙されたのだ。
(だが、なぜ!)
「信乃」と唐織と。いずれかが本物だと思った。そして、片方が偽物だと分かった。今度こそは、本物だと確かめられると思って、そうして真意を質そうと思ってきたのに。
なぜ、ばかりが膨らんで、頭が爆ぜそうだった。灯りがないからというだけでなく、底なしの闇に包まれて、どこまでも落ちていきそうな。不安と恐怖に駆られて、清吾の唇から疑問が零れ落ちていく。板張りの床に立てる指さえ、泥に沈んでいくのではないかと思えた。
「あんたは──誰だ。信乃じゃないのか。信乃は……本物のあいつは、いったいどうなった。知っているんじゃ、ないのか……!?」
「わちきは何にも知りいせん」
そして、一度絞り出すと、声はどんどん大きくなった。最後はほとんど喚き声になっていただろう。人の耳を憚ることを思い出したのは、唇にひやりとしたものが触れたからだ。
屈みこんだ唐織が、人差し指を清吾の唇に当てて口を封じたのだ。暗闇に仄かに浮かび上がる輪郭は、このような時でも美しいと思ってしまう。清吾の面に感嘆が宿るのを見て取ったか、闇の中でいっそう黒い瞳が、微かに笑んだ。
「ただ──想像はつきんしょう。この吉原で、花魁として名を馳せたのでもない女がどうなったのか」
微笑みながら、声は優しい調子を保ちながら、唐織は清吾の欺瞞を暴いていくのだが。彼だとて、まったく考えない訳ではなかったことを。けれど、努めて考えないようにしていたことを。
「結核。瘡毒。心中に折檻。遊女の命取りは多うござんすからなあ。とうに死んで、浄閑寺に投げ込まれたか──」
「……止めてくれ」
惨い想像に耐えかねて、清吾は掠れた声で乞うていた。唐織が苦笑する気配がしたのは、哀れんでくれたのか。それとも、廓の実情を知る彼女には生ぬるいと思えたのか。いずれにせよ、続けた言葉はいくらか加減された、優しい内容だった。
「……それか、好き合った男に身請けされたか。分からぬならば、良いように考えておけば幸せというものでありんしょうに」
そうするはずだった。もしも信乃が見つからないままだったなら、清吾は死んだものと諦めていただろう。
そうしたかった。もしも唐織の痣を見ていなければ、あの痩せこけた女を信乃だと信じて、最期の瞬間まで精いっぱい尽くしていただろう。
そのどちらであっても、清吾は満足していたはずだ。前者なら、幼馴染のために気の済むまで探し尽くしたと自身を慰めることができる。後者なら、せめて一時の安らぎを与えることができたことが救いになる。もう少しで、そうなるはずだったのに。そうならなかったのは──
「あんたのせいだ。一度は信じ込ませておいて! 信乃は──あの女は、もう長くない。死んで埋めちまえば痣も土の下だ。それこそ、分からなくなっていただろうに! なぜ、あんな──っ」
本当は赤の他人でも良いから、信乃を救ったという満足が欲しかった。真実など知らないまま、美しい嘘に溺れていたかった。唐織を詰るつもりで、ひどく勝手で残酷なことを口にしたことに気付いて、清吾は絶句した。慌てて口を塞いでも、一度出た言葉を取り消すことはできない。
清吾の額から、汗が筋となって滴り落ちた。背がじっとりと塗れて、着物が肌に張り付くのが分かる。
「わちきは嘘が得意と、主はようく知っていたはず。わちきが何を言おうと見せようと、決して、決して、信じてはなりいせんでしたのに」
それでも、唐織の笑顔は冴え冴えとして美しく、夜空に輝く月のようで──そして、心からの満足を湛えていた。
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