【完結】月よりきれい

悠井すみれ

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三章 想いの値段

6.暴露

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 ふと気付くと、清吾せいごは神田の界隈をふらふらと歩いていた。いったいいつ、どのようにして錦屋にしきやを辞したのか覚えていないが、信乃しの──信乃だと思っていた女が待つ長屋は、もう目と鼻の先だ。

(あの女は、何者だ? 信乃は──なんだ?)

 通り過ぎる者たちが、怪訝そうな面持ちで清吾を振り向くのが、視界の端に見えた。彼はいったい、どのような顔色をしているのだろう。青褪めているのか、頬に朱を上らせているのか。額から滴る汗が、顎から落ちるような気もしたが。

(分からない……!)

 何も分からなかった。ただ、花びらの形のあざが目に焼き付いて離れない。唐織の、新雪の肌に舞い落ちるようなそれ。信乃──だと思っていた女の、痩せてくすんだ色の肌に張り付くそれ。同じ形に見えた。なぜ、信乃の痣を帯びる女がふたりもいるのか。

 道理で考えれば、そのうちのひとりは偽者なのだ。だが、どちらが? そして、偽者を用意したのは、何者で、何の目的があったのか。

「清吾、どうした。今日の仕事はもう終わったのか?」

 と、さまよううちに、知り合いに行き会ったらしい。彼の顔を覗き込むのが誰だったか──とっさに思い出せないまま、清吾はうわごとのように呟いた。

「いや……信乃、が」

 ふたりいた? 偽者だった? いや、言えるはずがない。言ったところで、理解されるはずがない。

「何だ、女房が心配で帰って来たのか?」
「信乃さんなら、さっきは起きてたけどねえ」

 立ち止まり、言い淀んだ清吾に、もうひとり、ふたりと、心配顔の者たちが近づいて来る。男女の別も年齢も様々な──では、長屋の住人たちだろうか。誰も彼も、顔にもやがかかったようで、区別がつかない。姿のぼやけた幽霊にでも囲まれている気分だった。気味が悪くて、落ち着かない。

(いや……俺の目がおかしいのか?)

 そうかもしれない。彼は、信乃の顔さえ覚えていなかった。痣に頼らなければ見分けることができなくて、だから今、こんなことになっている。

「そうだ……と、話がしたくて。──すまん、通してくれ」

 よろめくように足を踏み出して、清吾は彼を囲んだ人垣をすり抜けた。

      * * *

 戸を開ける音で、女は目覚めたようだった。裏長屋の、昼でも暗い室内に、布団から起き上がろうとする影がもがくのが見て取れた。まだ生きていてくれた、と。これまでならば、この上なく安堵する気配だったはずなのに。今では、誰とも知れない者が家にいるという不安が勝る。

「清吾。早かったね……?」
「信乃」

 喜びと不審が入り交ざった問いかけには答えず、清吾は短く呼んだ。目の前の女ではなく、行方知れずの──今また、行方が知れなくなった──幼馴染の名を。

 雪駄せったを脱ぎ捨てて、女の枕元に駆け寄る。布団をめくり、足に手をかける。寝乱れた襦袢じゅばんを剥がれようとしたところで、女がようやく声を上げ、もがいた。

「なに。どうしたの清吾」

 だが、痩せ枯れた手足では若い男の力にはかなわない。掠れて張りの失せた声もまた、清吾を制止するだけの力はない。

「いや。だめ、やめ──」

 ほんの数秒の間に、清吾は女の右足をさらさせていた。桜の花びらの形のは、行水ぎょうずいや着替えを手伝う折に、もちろん何度も目にしていた。だが、これまでは痣でかもしれない、などとは考えてもいなかった。だが──

(痣に似せた刺青いれずみだ。よくできている……!)

 自然な輪郭といい肌への馴染み具合といい、まったく見事なだった。文字や絵柄と違ってはっきりと誇示するためのものではないし、清吾の目がそれだけ節穴だったからでもあるのだろうが。

 とにかく、これでひとつ、はっきりした。この女は信乃ではないのだ。女の足から離れた清吾の手が、今度はその肩を掴む。やはり枯れ木のように細く、軽くなった身体を激しく揺さぶり、問い質す。

「お前は……誰だ。信乃じゃないのか。あいつを知ってるのか。信乃は、本当の信乃はどうなった!??」
「ごめ、なさ──」

 大声に身体を竦ませながら、女は詫びた。身体からは水気が失せているだろうに、両の目尻から涙の雫が零れ落ちる。

「か、唐織花魁が! 羅生門らしょうもん河岸かしで死ぬのは、浄閑寺じょうかんじ無縁仏むえんぼとけは嫌だろうって。上手くやれば、最期に良い思いができるし……ひ、人助けにも、なるからって」

 女は、清吾の詰問に何ひとつ答えてくれなかった。ただ、言い訳を連ねるだけで。だから清吾が本当に知りたいことは分からないままだ。

(唐織花魁が、信乃なんじゃないのか……? 人助けっていうのは……?)

 清吾に、「信乃」を会わせてやる、ということなのか。だが、ならばどうして、唐織のを見せる必要がある? 一度信じさせておいて、どうして薄氷の平穏を叩き壊したのだろう。

「ご、ごめんなさ──お願、す、捨てないで。放り出さないで……!」

 嗚咽だか咳だが分からない、ひゅうひゅうという息の音の混ざった声で、女は必死に清吾に訴えている。折れそうな指が彼に縋る、思いのほかの強さは、それだけ野垂れ死にが怖いのだろうと察せられた。この女は恐らく彼の問いへの答えを知らないということも。──そもそも、これ以上問い詰めることはできそうにない。

「……信乃」

 結局のところ、彼はここしばらくの間、この女を信乃と呼んで過ごしてきた。偽者と知っても突き放せないていどの情は、すでに湧いている。ほかに呼ぶ名前も、思いつけない。

「清吾。許して。堪忍して。どうか。どうか──」
「……落ち着け。俺も悪かった。もう良い。良いから……!」

 嘘を暴かれて狼狽したことで、女は我を忘れて興奮してしまったようだ。弱り切った身体には、声を上げて泣きわめくのは毒にしかならないだろう。安らぎを奪ってしまった後悔と共に、清吾は女の身体を抱き締め、意味のない慰めを囁き続けた。
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