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一章 雨の夜の出会い
6.花魁の手管
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月代まで熱くなったから、清吾はきっと茹蛸のように真っ赤になっていただろう。彼は何も言えずに固まり、唐織は面白そうに眺める──その沈黙を、襖を開ける滑らかな音が破った。
「花魁──」
響いた声は、先の禿よりはやや大人びた、それでも高く硬い少女のものだった。年のころは十五くらい、振袖新造というやつだろうか。大見世に相応しい整った顔立ちの少女が、姉貴分の花魁を上目遣いに伺っている。
「和泉屋様がお目覚めでござんす」
「ああ」
唐織は、溜息めいた相槌を打つと、清吾に向けて軽く顔を顰めてみせた。生来の美貌ゆえか、あるいは手管のひとつなのか、そんな表情ですら愛嬌があるのが空恐ろしい。
「昨夜の、退屈なお客じゃ。端から居続けの肚で、高枕でおざんしたが」
「上客、なんだよな? 目が覚めて花魁がいないんじゃ、怒るだろう」
職人なり商売人なり、庶民の客なら、各々の生業に就くべく夜明けと共に大門を出るはずだ。日が高く昇ってからようやく起き出すということは、あくせくと働く必要のない者、大店の主人か隠居か、あるいは札差あたりだろうか。
(和泉屋、か……)
年格好も、名前すら知らない男のことを思い浮かべようとしているのに気付いて、清吾はひそかに苦笑した。形ばかりの情人と言い交したばかりなのに、まるで恋人の客に妬心を抱いているかのようではないか。
「あい。わちきはご機嫌伺いに参りいせんと」
唐織が、いかにも面倒そうに顔をしかめるから、良くないのだ。花魁たる女が、決して客には見せないであろう顔を見せるから。無論、それは清吾が客ではないというだけで、彼がこの女にとって何かしらであるということでは決してないのだが。
「清さんは、こちらで朝餉をお上がりなんせ。傷が痛むんなら、もうひと晩でもふた晩でも、泊まっていっても構いいせん」
「いや、そこまでは。これでも大工だ、それなりに頑丈だからな」
「それは良うござんした」
だから──纏わりつくように微笑む唐織に、清吾はあえて硬い態度を保った。分を弁えていると、示すために。
「俺は──この後、どうすれば良いんだ? あんたの、その、願いについて。どこまで……?」
「わちきに情人が要る時には、報せを送りいす。主の住処は、そこの、さらさに伝えてくださんし」
姉花魁の目線を受けて、振袖新造が丁寧な所作で頭を垂れた。清吾の身の上を聞く前に、情人云々の企みを巡らせていたはずはないのだが──唐織の気まぐれには、慣れっこなのかもしれない。
「承知した」
清吾が頷いたのを確かめてから、唐織は滑らかな衣擦れの音と共に立ち上がった。もう話は終わったと言わんばかりに、彼を一顧だにすることなく。
さらさというらしい振袖新造が襖を閉めると、すぐに男の声が聞こえてきた。
「どこへ行っていたんだね、唐織」
噂の和泉屋が、敵娼を探しに出てきたらしい。これだけの大見世に登楼するだけあって、それなりに歳が行っているのだろう、鷹揚な語り口のその声は、枯れた響きをしている。
「昨夜助けた若いのでござんすよ。目覚めたというので、様子見に」
対する唐織の声は、清吾と対していた時よりも一段と甘く艶めかしく、客の男に媚びていた。襖を隔てて聞いていても、耳に蜜を注がれる心地になるほどだ。
「ああ──さすが唐織は優しいことだ。雨の中を飛び出すとは驚いたもんだが」
「だって、わちきを見ればいかな諍いも収まりんしょう? 若い衆を行かせるよりも話が早いと思うたのでござんすよ」
盗み聞きをする後ろめたさにおかしさが勝って、清吾は思わず口を手で覆った。
(座敷が退屈だったからと言っていたのに……)
当の相手に、面と向かって言うことではもちろんないが。この短い間に花魁の手練手管を立て続けに見せられると、いっそ天晴と思うほかない。慈悲深い唐織花魁、とかいう評判も、こうなるとどこまで本当なのか。
「着物が汚れただろう。仏心の褒美に、帯でも貢いでやろうか。雨に散る桜──そう、花筏の文様なんかどうだ」
「緞子に金の花を流せば、道中でもさぞ映えるでありんしょうなあ。桜が散りきる前に、お頼み申しいすよ?」
笑い合う男女の声は、遠ざかって消えていった。唐織の座敷に戻って、夫婦のように朝餉を取るのだろうか。話の流れで唐織がせしめた帯は、長屋暮らしの身には溜息が出るような品だった。いったいどれほどの値で、どれほど眩いものなのか、想像することすらできそうにない。
(住む世界が、違う)
唐織が君臨する華やかな世界と、清吾がささやかな生計を営むそれと。信乃が耐え忍ぶ苦界は、きっとまたさらに違うのだ。
気が遠くなる思いでほう、と溜息を吐いた時──襖がさっと開いて、清吾は軽く飛び跳ねた。
「朝餉をお持ちいたしんした」
ばくばくと煩い心臓を抑える清吾を、さらさという振袖新造が醒めた目で見ていた。どうせ聞き耳を立てていたのだろう、と。年の割に大人びた表情が語っている。
「あ、ああ。悪いな……」
「姉さんの言いつけでありんすから」
言葉では素っ気なく応じながら、それでもさらさは清吾に甲斐甲斐しく給仕をしてくれた。
吉原の大見世でも、米の味は清吾の常食とさほど変わらなかった。そうと知ることができたのは、ある種の収穫ではあっただろうか。
「花魁──」
響いた声は、先の禿よりはやや大人びた、それでも高く硬い少女のものだった。年のころは十五くらい、振袖新造というやつだろうか。大見世に相応しい整った顔立ちの少女が、姉貴分の花魁を上目遣いに伺っている。
「和泉屋様がお目覚めでござんす」
「ああ」
唐織は、溜息めいた相槌を打つと、清吾に向けて軽く顔を顰めてみせた。生来の美貌ゆえか、あるいは手管のひとつなのか、そんな表情ですら愛嬌があるのが空恐ろしい。
「昨夜の、退屈なお客じゃ。端から居続けの肚で、高枕でおざんしたが」
「上客、なんだよな? 目が覚めて花魁がいないんじゃ、怒るだろう」
職人なり商売人なり、庶民の客なら、各々の生業に就くべく夜明けと共に大門を出るはずだ。日が高く昇ってからようやく起き出すということは、あくせくと働く必要のない者、大店の主人か隠居か、あるいは札差あたりだろうか。
(和泉屋、か……)
年格好も、名前すら知らない男のことを思い浮かべようとしているのに気付いて、清吾はひそかに苦笑した。形ばかりの情人と言い交したばかりなのに、まるで恋人の客に妬心を抱いているかのようではないか。
「あい。わちきはご機嫌伺いに参りいせんと」
唐織が、いかにも面倒そうに顔をしかめるから、良くないのだ。花魁たる女が、決して客には見せないであろう顔を見せるから。無論、それは清吾が客ではないというだけで、彼がこの女にとって何かしらであるということでは決してないのだが。
「清さんは、こちらで朝餉をお上がりなんせ。傷が痛むんなら、もうひと晩でもふた晩でも、泊まっていっても構いいせん」
「いや、そこまでは。これでも大工だ、それなりに頑丈だからな」
「それは良うござんした」
だから──纏わりつくように微笑む唐織に、清吾はあえて硬い態度を保った。分を弁えていると、示すために。
「俺は──この後、どうすれば良いんだ? あんたの、その、願いについて。どこまで……?」
「わちきに情人が要る時には、報せを送りいす。主の住処は、そこの、さらさに伝えてくださんし」
姉花魁の目線を受けて、振袖新造が丁寧な所作で頭を垂れた。清吾の身の上を聞く前に、情人云々の企みを巡らせていたはずはないのだが──唐織の気まぐれには、慣れっこなのかもしれない。
「承知した」
清吾が頷いたのを確かめてから、唐織は滑らかな衣擦れの音と共に立ち上がった。もう話は終わったと言わんばかりに、彼を一顧だにすることなく。
さらさというらしい振袖新造が襖を閉めると、すぐに男の声が聞こえてきた。
「どこへ行っていたんだね、唐織」
噂の和泉屋が、敵娼を探しに出てきたらしい。これだけの大見世に登楼するだけあって、それなりに歳が行っているのだろう、鷹揚な語り口のその声は、枯れた響きをしている。
「昨夜助けた若いのでござんすよ。目覚めたというので、様子見に」
対する唐織の声は、清吾と対していた時よりも一段と甘く艶めかしく、客の男に媚びていた。襖を隔てて聞いていても、耳に蜜を注がれる心地になるほどだ。
「ああ──さすが唐織は優しいことだ。雨の中を飛び出すとは驚いたもんだが」
「だって、わちきを見ればいかな諍いも収まりんしょう? 若い衆を行かせるよりも話が早いと思うたのでござんすよ」
盗み聞きをする後ろめたさにおかしさが勝って、清吾は思わず口を手で覆った。
(座敷が退屈だったからと言っていたのに……)
当の相手に、面と向かって言うことではもちろんないが。この短い間に花魁の手練手管を立て続けに見せられると、いっそ天晴と思うほかない。慈悲深い唐織花魁、とかいう評判も、こうなるとどこまで本当なのか。
「着物が汚れただろう。仏心の褒美に、帯でも貢いでやろうか。雨に散る桜──そう、花筏の文様なんかどうだ」
「緞子に金の花を流せば、道中でもさぞ映えるでありんしょうなあ。桜が散りきる前に、お頼み申しいすよ?」
笑い合う男女の声は、遠ざかって消えていった。唐織の座敷に戻って、夫婦のように朝餉を取るのだろうか。話の流れで唐織がせしめた帯は、長屋暮らしの身には溜息が出るような品だった。いったいどれほどの値で、どれほど眩いものなのか、想像することすらできそうにない。
(住む世界が、違う)
唐織が君臨する華やかな世界と、清吾がささやかな生計を営むそれと。信乃が耐え忍ぶ苦界は、きっとまたさらに違うのだ。
気が遠くなる思いでほう、と溜息を吐いた時──襖がさっと開いて、清吾は軽く飛び跳ねた。
「朝餉をお持ちいたしんした」
ばくばくと煩い心臓を抑える清吾を、さらさという振袖新造が醒めた目で見ていた。どうせ聞き耳を立てていたのだろう、と。年の割に大人びた表情が語っている。
「あ、ああ。悪いな……」
「姉さんの言いつけでありんすから」
言葉では素っ気なく応じながら、それでもさらさは清吾に甲斐甲斐しく給仕をしてくれた。
吉原の大見世でも、米の味は清吾の常食とさほど変わらなかった。そうと知ることができたのは、ある種の収穫ではあっただろうか。
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