【完結】月よりきれい

悠井すみれ

文字の大きさ
上 下
3 / 32
一章 雨の夜の出会い

3.清吾と信乃

しおりを挟む
 唐織からおり花魁は、清吾せいごの枕元に席を占めた。彼女が何も口にせぬうちに、禿かむろらが行き来して素早く座布団を敷き、脇息きょうそくを置く。視線や指先で命じることさえなく、唐織は家臣に対する大名さながらの堂々たる姿勢に落ち着いていた。

「唐織、花魁……?」
「あい」

 恐る恐る、問いかけた清吾にさらりと頷きながら、唐織は禿が差し出す煙管きせる白魚しらうおの指で取った。それだけの所作も優美かつたおやかそのもの、思わず息を呑んで見蕩れてしまう。

(これが、御職おしょくの花魁か)

 光の差す具合からして、浅草寺の明け六つの鐘が鳴ったかどうか、という時刻だろう。

 花魁も人並みに眠りに就くのかどうか、浮世絵うきよえに描かれるような豪奢な櫛やかんざしこうがいの類は横兵庫よこひょうごの髪にされてはいない。着物も飾り気のない小紋こもんだし、化粧も薄い。けれど、なのに、唐織花魁が漂わせる色香は朝の爽やかな空気の中でも匂い立つようで、清吾の舌をもつれさせた。

「助けて、もらったようで……何と礼をすれば良いか」

 やたらに柔らかな布団の上でのこと、手をついて頭を下げるだけのことがどうにも格好がつかない。湯冷ましを呑んだばかりのはずの喉もなぜか干上がって、かすれた声はまともに聞こえたかどうか。

ぬしこそ、わちきを助けてくれえした」
「え」

 対照的に、唐織の声は今朝も露を帯びた花のように甘く柔らかく、清吾に酔いのような目眩のような、くらりとした感覚をもたらした。殴打おうだされた後の消耗や、空腹によるものかもしれないが──涼やかな目に悪戯いたずらに微笑えまれると、分からなくなる。虫が火に誘われるように、ひたすらに惹き込まれてしまう。

「昨日の座敷は退屈でなあ。早く終わらぬものかと思うていたところに、何やら争う声が聞こえたゆえ。これ幸いと、抜け出す口実にした次第──」

 紅い唇が、花が綻ぶごとくに動き、笑い、煙管をくわえた。

(花魁が、客を放り出した? それも、雨の中?)

 唐織花魁ともなれば、そのような気まぐれも許されるのか。評判通りの慈悲深さゆえ、ということなのか。あるいは、清吾に気に病ませぬための方便に過ぎないのか。それもまた、花魁の優しさの発露なのかどうか。

 何も分からぬまま、清吾は布団の上に居心地悪く座り直した。 畳のほうに出れば良かった、と今さらながらに思うが、勝手に動いて良いものか、それすらもまた分からない。

 清吾の無様を咎めず、花魁は唇の間から紫煙を吐き出した。

「主の名は、何とおっせえす?」
「あ、ああ……清吾。きよいに、われ

 何を聞かれたかを理解するのに、瞬きを三度ほどしなければならなかった。慌てて口を動かして、そして、わざわざ文字を説明する必要もなかったのに気付いたのはさらに後になってからだった。

(犬猫の名を聞くのと同じていどのことだろうに……思い上がったみたいじゃねえか)

 俯けば、泥にひたったであろう着物は、清潔なものに変えられている。くるわにも男手がいるのは不思議ではない。昨晩、彼を痛めつけたのも、河岸見世かしみせの若いしゅだった。

(犬が雨に打たれて鳴いていたら──洗って拭いてやるくらいはするだろうさ。慈悲深いっていう、唐織花魁なら)

 だから、彼は花魁の気まぐれな施しを受けただけと、自身に言い聞かせようとしたのだが──

きよさんかえ」

 ふわりと微笑み唇が、気安い呼び名を口にするのを前にして目を剥いた。そうして清吾の虚を突いておいて、花魁はその隙に忍び寄る。悠然とした構えは崩すことなく、どこまでも見透かすような眼差しと、甘い声が彼の心をこじ開ける。

信乃しの、と言うのは──主の敵娼あいかたでありんすか?」
「いや──」

 聞かれていたのだ。そして、この女はしっかりと覚えていたのだ。

「郷里の、昔馴染みというか……許嫁いいなずけ──の、ようなもの、だったと思う」

 唐織の黒々とした双眸そうぼうに促されて、清吾の舌はほとんど勝手に動いていた。

 どうして会ったばかりの女に身の上話をしているのだろう、などと考えている暇はなかった。会ったばかりの女に、身の上話をねだられる不快を覚えるいとまも。助けられた恩があるからには、経緯を明かすのは筋というものだろう。……あるいは、それ以上に、この女が求めるならば語らなければ、と思わされる。

天明てんめいの時の飢饉ききんは、ひどかっただろう。俺は、親父の伝手で江戸に奉公ほうこうの口があった。江戸でも酷いもんだったが、まあ、どうにか生きていて──でも、郷里はそうも行かなくて」

 唐織花魁が軽く眉を寄せたのは、彼女自身にも飢饉の記憶があるのだろうか。吉原よしわらでも食うに困ることがあるのか、あるいはほかならぬあの凶作こそが、この女を苦界くがいに落としたのか。──信乃のように。

(違う。この女と信乃は何もかも違う。この女はこんなに綺麗で、髪も肌も艶々として──)

 けれどきっと、信乃は唐織花魁のようではのだろう。

 逆恨みのような、羨望のような──腹にわだかまる理不尽な感情をなだめるべく、清吾は深く息を吸って、吐いた。そうしてから、なるべく平淡に述べる。

「信乃は吉原に売られた、と。俺に報せが届いた時には、もう一年も経っていた」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

葉桜よ、もう一度 【完結】

五月雨輝
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞特別賞受賞作】北の小藩の青年藩士、黒須新九郎は、女中のりよに密かに心を惹かれながら、真面目に職務をこなす日々を送っていた。だが、ある日突然、新九郎は藩の産物を横領して抜け売りしたとの無実の嫌疑をかけられ、切腹寸前にまで追い込まれてしまう。新九郎は自らの嫌疑を晴らすべく奔走するが、それは藩を大きく揺るがす巨大な陰謀と哀しい恋の始まりであった。 謀略と裏切り、友情と恋情が交錯し、武士の道と人の想いの狭間で新九郎は疾走する。

お鍋の方

国香
歴史・時代
織田信長の妻・濃姫が恋敵? 茜さす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖振る 紫草の匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも 出会いは永禄2(1559)年初春。 古歌で知られる蒲生野の。 桜の川のほとり、桜の城。 そこに、一人の少女が住んでいた。 ──小倉鍋── 少女のお鍋が出会ったのは、上洛する織田信長。 ───────────── 織田信長の側室・お鍋の方の物語。 ヒロインの出自等、諸説あり、考えれば考えるほど、調べれば調べるほど謎なので、作者の妄想で書いて行きます。 通説とは違っていますので、あらかじめご了承頂きたく、お願い申し上げます。

ファラオの寵妃

田鶴
歴史・時代
病弱な王女ネフェルウラーは赤ん坊の時に6歳年上の異母兄トトメス3世と結婚させられた。実母ハトシェプストは、義息子トトメス3世と共同統治中のファラオとして君臨しているが、トトメス3世が成長してファラオとしての地位を確立する前に実娘ネフェルウラーに王子を産ませて退位させるつもりである。そうはさせまいとトトメス3世はネフェルウラーをお飾りの王妃にしようとする。でも無邪気なネフェルウラーは周囲の『アドバイス』を素直に聞いて『大好きなお兄様』に積極的にアタックしてくる。トトメス3世はそんな彼女にタジタジとなりながらも次第に絆されていく。そこに運命のいたずらのように、トトメス3世が側室を娶るように強制されたり、幼馴染がトトメス3世に横恋慕したり、様々な試練が2人に降りかかる。 この物語は、実在した古代エジプトの王、女王、王女を題材にした創作です。架空の人物・設定がかなり入っています。なるべく史実も入れた創作にしようと思っていますが、個人の感情や細かいやりとりなどは記録されていませんので、その辺も全て作者の想像の産物です。詳しくは登場人物の項(ネタバレあり)をご覧ください。ただし、各話の後に付けた解説や図は、思いついたものだけで網羅的ではないものの、史実を踏まえています。 古代エジプトでは王族の近親結婚が実際に行われており、この物語でも王族は近親結婚(異母きょうだい、おじ姪)が当たり前という設定になっています。なので登場人物達は近親結婚に何の抵抗感も疑問も持っていません。ただし、この話では同腹のきょうだい婚と親子婚は忌避されているという設定にしています。 挿絵が入るエピソードのタイトルには*を付けます。 表紙は、トトメス3世とネレルウラーの姿を描いた自作です。こういう壁画やレリーフが実際にあるわけではなく、作者の想像の産物です。カルトゥーシュは、それぞれトトメス3世の即位名メンヘペルラーとネフェルウラーです。(2024/9/9) 改稿で話の順番を入れ替えて第4話を挿入しました。(2024/9/20) ネオページでも連載しています。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

第一機動部隊

桑名 裕輝
歴史・時代
突如アメリカ軍陸上攻撃機によって帝都が壊滅的損害を受けた後に宣戦布告を受けた大日本帝国。 祖国のため、そして愛する者のため大日本帝国の精鋭である第一機動部隊が米国太平洋艦隊重要拠点グアムを叩く。

実は有能?

player147852
歴史・時代
桶狭間の戦いにて、父義元が討ち死にを 遂げてから三年の月日が流れていた。 父義元の後を継いだ今川氏真は、衆目の 予想に反して遠江、駿河の領国経営を 安定して行っていた。 しかし、氏真はこの現状に苛立ちを覚えて いた。というのも、氏真には人知れず秘めた 野望があったのだ。 それは、「武田を滅ぼすことである!」。 何故、武田なのか?と、いうと父義元が討た れた背景には織田と武田の密約があったことが 分かっているからだ。 密約の内容 織田家 今川義元を討つ→東からの脅威減少 武田家 今川義元が死ぬ→後を継ぐのは凡愚な氏真 なので、操りやすい(信玄の姉の子供だから) 登場人物 今川氏真・・・今川家第13代目当主 この物語の中では優秀な人 武田信玄・・・氏真の敵

淡々忠勇

香月しを
歴史・時代
新撰組副長である土方歳三には、斎藤一という部下がいた。 仕事を淡々とこなし、何事も素っ気ない男であるが、実際は土方を尊敬しているし、友情らしきものも感じている。そんな斎藤を、土方もまた信頼し、友情を感じていた。 完結まで、毎日更新いたします! 殺伐としたりほのぼのしたり、怪しげな雰囲気になったりしながら、二人の男が自分の道を歩いていくまでのお話。ほんのりコメディタッチ。 残酷な表現が時々ありますので(お侍さん達の話ですからね)R15をつけさせていただきます。 あッ、二人はあくまでも友情で結ばれておりますよ。友情ね。 ★作品の無断転載や引用を禁じます。多言語に変えての転載や引用も許可しません。

【完結】ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

処理中です...