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一章 雨の夜の出会い
3.清吾と信乃
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唐織花魁は、清吾の枕元に席を占めた。彼女が何も口にせぬうちに、禿らが行き来して素早く座布団を敷き、脇息を置く。視線や指先で命じることさえなく、唐織は家臣に対する大名さながらの堂々たる姿勢に落ち着いていた。
「唐織、花魁……?」
「あい」
恐る恐る、問いかけた清吾にさらりと頷きながら、唐織は禿が差し出す煙管を白魚の指で取った。それだけの所作も優美かつ嫋やかそのもの、思わず息を呑んで見蕩れてしまう。
(これが、御職の花魁か)
光の差す具合からして、浅草寺の明け六つの鐘が鳴ったかどうか、という時刻だろう。
花魁も人並みに眠りに就くのかどうか、浮世絵に描かれるような豪奢な櫛や簪、笄の類は横兵庫の髪に挿されてはいない。着物も飾り気のない小紋だし、化粧も薄い。けれど、なのに、唐織花魁が漂わせる色香は朝の爽やかな空気の中でも匂い立つようで、清吾の舌をもつれさせた。
「助けて、もらったようで……何と礼をすれば良いか」
やたらに柔らかな布団の上でのこと、手をついて頭を下げるだけのことがどうにも格好がつかない。湯冷ましを呑んだばかりのはずの喉もなぜか干上がって、かすれた声はまともに聞こえたかどうか。
「主こそ、わちきを助けてくれえした」
「え」
対照的に、唐織の声は今朝も露を帯びた花のように甘く柔らかく、清吾に酔いのような目眩のような、くらりとした感覚をもたらした。殴打された後の消耗や、空腹によるものかもしれないが──涼やかな目に悪戯に微笑えまれると、分からなくなる。虫が火に誘われるように、ひたすらに惹き込まれてしまう。
「昨日の座敷は退屈でなあ。早く終わらぬものかと思うていたところに、何やら争う声が聞こえたゆえ。これ幸いと、抜け出す口実にした次第──」
紅い唇が、花が綻ぶごとくに動き、笑い、煙管を咥えた。
(花魁が、客を放り出した? それも、雨の中?)
唐織花魁ともなれば、そのような気まぐれも許されるのか。評判通りの慈悲深さゆえ、ということなのか。あるいは、清吾に気に病ませぬための方便に過ぎないのか。それもまた、花魁の優しさの発露なのかどうか。
何も分からぬまま、清吾は布団の上に居心地悪く座り直した。 畳のほうに出れば良かった、と今さらながらに思うが、勝手に動いて良いものか、それすらもまた分からない。
清吾の無様を咎めず、花魁は唇の間から紫煙を吐き出した。
「主の名は、何と仰えす?」
「あ、ああ……清吾。清いに、吾」
何を聞かれたかを理解するのに、瞬きを三度ほどしなければならなかった。慌てて口を動かして、そして、わざわざ文字を説明する必要もなかったのに気付いたのはさらに後になってからだった。
(犬猫の名を聞くのと同じていどのことだろうに……思い上がったみたいじゃねえか)
俯けば、泥に浸ったであろう着物は、清潔なものに変えられている。廓にも男手がいるのは不思議ではない。昨晩、彼を痛めつけたのも、河岸見世の若い衆だった。
(犬が雨に打たれて鳴いていたら──洗って拭いてやるくらいはするだろうさ。慈悲深いっていう、唐織花魁なら)
だから、彼は花魁の気まぐれな施しを受けただけと、自身に言い聞かせようとしたのだが──
「清さんかえ」
ふわりと微笑み唇が、気安い呼び名を口にするのを前にして目を剥いた。そうして清吾の虚を突いておいて、花魁はその隙に忍び寄る。悠然とした構えは崩すことなく、どこまでも見透かすような眼差しと、甘い声が彼の心をこじ開ける。
「信乃、と言うのは──主の敵娼でありんすか?」
「いや──」
聞かれていたのだ。そして、この女はしっかりと覚えていたのだ。
「郷里の、昔馴染みというか……許嫁──の、ようなもの、だったと思う」
唐織の黒々とした双眸に促されて、清吾の舌はほとんど勝手に動いていた。
どうして会ったばかりの女に身の上話をしているのだろう、などと考えている暇はなかった。会ったばかりの女に、身の上話をねだられる不快を覚える暇も。助けられた恩があるからには、経緯を明かすのは筋というものだろう。……あるいは、それ以上に、この女が求めるならば語らなければ、と思わされる。
「天明の時の飢饉は、ひどかっただろう。俺は、親父の伝手で江戸に奉公の口があった。江戸でも酷いもんだったが、まあ、どうにか生きていて──でも、郷里はそうも行かなくて」
唐織花魁が軽く眉を寄せたのは、彼女自身にも飢饉の記憶があるのだろうか。吉原でも食うに困ることがあるのか、あるいはほかならぬあの凶作こそが、この女を苦界に落としたのか。──信乃のように。
(違う。この女と信乃は何もかも違う。この女はこんなに綺麗で、髪も肌も艶々として──)
けれどきっと、信乃は唐織花魁のようではないのだろう。
逆恨みのような、羨望のような──腹にわだかまる理不尽な感情を宥めるべく、清吾は深く息を吸って、吐いた。そうしてから、なるべく平淡に述べる。
「信乃は吉原に売られた、と。俺に報せが届いた時には、もう一年も経っていた」
「唐織、花魁……?」
「あい」
恐る恐る、問いかけた清吾にさらりと頷きながら、唐織は禿が差し出す煙管を白魚の指で取った。それだけの所作も優美かつ嫋やかそのもの、思わず息を呑んで見蕩れてしまう。
(これが、御職の花魁か)
光の差す具合からして、浅草寺の明け六つの鐘が鳴ったかどうか、という時刻だろう。
花魁も人並みに眠りに就くのかどうか、浮世絵に描かれるような豪奢な櫛や簪、笄の類は横兵庫の髪に挿されてはいない。着物も飾り気のない小紋だし、化粧も薄い。けれど、なのに、唐織花魁が漂わせる色香は朝の爽やかな空気の中でも匂い立つようで、清吾の舌をもつれさせた。
「助けて、もらったようで……何と礼をすれば良いか」
やたらに柔らかな布団の上でのこと、手をついて頭を下げるだけのことがどうにも格好がつかない。湯冷ましを呑んだばかりのはずの喉もなぜか干上がって、かすれた声はまともに聞こえたかどうか。
「主こそ、わちきを助けてくれえした」
「え」
対照的に、唐織の声は今朝も露を帯びた花のように甘く柔らかく、清吾に酔いのような目眩のような、くらりとした感覚をもたらした。殴打された後の消耗や、空腹によるものかもしれないが──涼やかな目に悪戯に微笑えまれると、分からなくなる。虫が火に誘われるように、ひたすらに惹き込まれてしまう。
「昨日の座敷は退屈でなあ。早く終わらぬものかと思うていたところに、何やら争う声が聞こえたゆえ。これ幸いと、抜け出す口実にした次第──」
紅い唇が、花が綻ぶごとくに動き、笑い、煙管を咥えた。
(花魁が、客を放り出した? それも、雨の中?)
唐織花魁ともなれば、そのような気まぐれも許されるのか。評判通りの慈悲深さゆえ、ということなのか。あるいは、清吾に気に病ませぬための方便に過ぎないのか。それもまた、花魁の優しさの発露なのかどうか。
何も分からぬまま、清吾は布団の上に居心地悪く座り直した。 畳のほうに出れば良かった、と今さらながらに思うが、勝手に動いて良いものか、それすらもまた分からない。
清吾の無様を咎めず、花魁は唇の間から紫煙を吐き出した。
「主の名は、何と仰えす?」
「あ、ああ……清吾。清いに、吾」
何を聞かれたかを理解するのに、瞬きを三度ほどしなければならなかった。慌てて口を動かして、そして、わざわざ文字を説明する必要もなかったのに気付いたのはさらに後になってからだった。
(犬猫の名を聞くのと同じていどのことだろうに……思い上がったみたいじゃねえか)
俯けば、泥に浸ったであろう着物は、清潔なものに変えられている。廓にも男手がいるのは不思議ではない。昨晩、彼を痛めつけたのも、河岸見世の若い衆だった。
(犬が雨に打たれて鳴いていたら──洗って拭いてやるくらいはするだろうさ。慈悲深いっていう、唐織花魁なら)
だから、彼は花魁の気まぐれな施しを受けただけと、自身に言い聞かせようとしたのだが──
「清さんかえ」
ふわりと微笑み唇が、気安い呼び名を口にするのを前にして目を剥いた。そうして清吾の虚を突いておいて、花魁はその隙に忍び寄る。悠然とした構えは崩すことなく、どこまでも見透かすような眼差しと、甘い声が彼の心をこじ開ける。
「信乃、と言うのは──主の敵娼でありんすか?」
「いや──」
聞かれていたのだ。そして、この女はしっかりと覚えていたのだ。
「郷里の、昔馴染みというか……許嫁──の、ようなもの、だったと思う」
唐織の黒々とした双眸に促されて、清吾の舌はほとんど勝手に動いていた。
どうして会ったばかりの女に身の上話をしているのだろう、などと考えている暇はなかった。会ったばかりの女に、身の上話をねだられる不快を覚える暇も。助けられた恩があるからには、経緯を明かすのは筋というものだろう。……あるいは、それ以上に、この女が求めるならば語らなければ、と思わされる。
「天明の時の飢饉は、ひどかっただろう。俺は、親父の伝手で江戸に奉公の口があった。江戸でも酷いもんだったが、まあ、どうにか生きていて──でも、郷里はそうも行かなくて」
唐織花魁が軽く眉を寄せたのは、彼女自身にも飢饉の記憶があるのだろうか。吉原でも食うに困ることがあるのか、あるいはほかならぬあの凶作こそが、この女を苦界に落としたのか。──信乃のように。
(違う。この女と信乃は何もかも違う。この女はこんなに綺麗で、髪も肌も艶々として──)
けれどきっと、信乃は唐織花魁のようではないのだろう。
逆恨みのような、羨望のような──腹にわだかまる理不尽な感情を宥めるべく、清吾は深く息を吸って、吐いた。そうしてから、なるべく平淡に述べる。
「信乃は吉原に売られた、と。俺に報せが届いた時には、もう一年も経っていた」
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