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六章 銀狼は月夜に吼える
銀の流星
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最初は熱いと思った父の血は、すぐに冷めて宵子の髪や頬や手足をべっとりと濡らした。
(お父様。なぜ。どうして)
父の手から落ちた洋燈が、異様な光景を下から照らし出していた。
いつもと変わらない笑みを浮かべた春彦の隣に、控えるように座った黒い大きな犬。その毛並みがしっとりと濡れて見えるのは、宵子と同じく父の血を浴びたからだろう。
洋燈の灯りは、暁子の影をも映し出している。
動かなくなった父に取りすがる双子の妹の影は長く引き伸ばされて、宵子には大げさな芝居のよう似も見えた。目の前で繰り広げられたことが現実だなんて、自分でも信じたくないのだろう。
「お父様……お父様! ──兄様! なんで!? なんでその子、お父様を……っ」
宵子が口に出せない疑問を声高く喚いて、暁子は黒い犬を指さした。
先ほどまでは、子犬のように大人しく暁子に撫でられていたのに。何人もの命を屠った恐ろしい犬は、今は父の血で濡れた牙を暁子に対して剥き出しにしている。
夜の闇そのもののような黒い毛皮を撫でるのは、今は春彦の指だった。たった今、父を噛み殺したばかりの獰猛さを見せたばかりなのに、少しも恐れる気配はない。
「犬神は、造った者に従う。当たり前のことだろう? これまでは、父上や君に従うように僕が命じていたというだけだ」
ぐるるるるる──
春彦の言葉を裏付けるかのように、黒い犬は暁子に向けて低く唸った。暁子の喉からひっ、という悲鳴が漏れて、そこに春彦のくすくすと笑う声が重なる。
「さあ、暁子。どうして君がこの場に呼ばれたのか分かるかな?」
春彦の問いかけと同時に、犬の前脚が一歩進む。血濡れた牙がそれだけ迫り、暁子は地面を這って逃げる。色鮮やかな振袖が血と泥に塗れるのが無残だった。
「しょ、宵子を食わせれば、その子が完成するって──犬神の力を取り込むって。きっとすごいことが起きるからって、だから……」
震える声で答える暁子には、嘘を吐いたり取り繕ったりする余裕はないだろう。だから──たぶん本当なのだろう。
(暁子。私をそこまで……?)
嫌っていた、というのはまた違うのかもしれない。
暁子にとって、宵子は姉妹でもなんでもなかったのだ。犬に食い殺させても心が痛まない。むしろ面白い見せ物になる。そのていどの存在だったのだ。
気付いてしまうと、宵子にはもう立ち上がる気力は残っていなかった。
下半身を濡らす不快な感触は、もしかしたら夜露だけでなく、父の血が生み出したぬかるみなのかもしれないけれど。すぐ傍で、おぞましく恐ろしい黒犬が牙を剥きだしているけれど。
宵子は、ただ、人形のようにぽかんと春彦を見上げ、暁子とのやり取りに耳を傾けることしかできなかった。
「実の姉が食い殺されるところを見物しようなんて悪い子だ。知ってるかな? ドイツ辺りでの昔話では、悪い子は狼に食べられるそうだ。犬神の呪いを負ってなくても、真上家の娘なら贄としては十分じゃないかな」
「わ、私……良い子にしているわ! 今夜のことも誰にも言わない! 兄様の言うことを聞くから……!」
暁子は、必死に後ずさりながら懇願した。春彦に取り縋りたいけれど、犬が怖くて近づけないようだ。
夜の闇に加えて、恐怖で視界が塞がれているのだろう。宵子がへたり込むすぐ傍まで来ているのにも、暁子は気付いていない。
「駄目だよ」
でも、春彦は違う。彼は、この場のすべてを把握している。優しい笑顔を向けられたことで、宵子はそう気付いた。
(兄様……!?)
暁子の訴えに首を振りながら、宵子に微笑みかけるのは、おかしい。とても嫌な感じがする。
その予感は、すぐに的中した。
「だって君はうるさいじゃないか。耳障りな声──ずっと、舌を抜いてやりたいと思ってた……!」
初めて、春彦の声と表情に苛立ちが浮かんだ。彼が鋭く吐き捨てた言葉に応じて、黒い犬が跳ねる。大きく開いた口が狙うのは──暁子の、首だ。
(駄目!)
宵子の身体は、辛うじて思い通りに動いてくれた。
「な──」
どさ、べちゃ、という音がして、暁子の身体が地面に倒れる。彼女の上に覆いかぶさった宵子の髪を、風のように駆け抜けた犬が揺らす。
(ま、間に合った……)
一秒でも遅れていたら、暁子は父のように首を噛みちぎられていただろう。
安堵──している場合ではないのだろうけれど。それでも、全身を冷や汗と脂汗が濡らすのを感じながら、宵子は息を吐いた。そこへ、ぱちぱちと、手を叩く音が聞こえる。
「暁子を庇うなんて、やっぱり宵子は良い子だね。静かで大人しい──都合の、良い子」
暁子を庇ったまま、肩越しに春彦を振り向く。すると、彼はやはりいつもの微笑みを浮かべていた。
いつも通りに見えるのに──なぜか、月の光でも洋燈の灯りでも拭えないどす黒い影が、彼の顔を覆っている気がしてならなかった。朗らかな声も、毒々しい悪意とか嘲りが滲んでいるような。
「真上子爵は、人喰い犬を退治しようとして返り討ちに遭った。暁子嬢も同様に。だから、遠方で療養中だった宵子嬢を呼び寄せて、この僕と結婚させて家を繋ぐ。どこからも文句は出ないだろうね」
宵子と暁子が息を呑む微かな音が、重なった。双子でありながら、同時に何かをするということは十年以上なかったというのに。
「……嘘。兄様。なんで」
暁子のこんな震える声も、初めて聞くかもしれない。
無理もない。
今までずっと甘やかされて、苦労も我慢もしてこなかった娘なのに。突然目の前で惨劇が起きた上に、信頼していた春彦に裏切られたのだから。
宵子と暁子。よく似た顔、よく似た背格好のふたりに向き合いながら、けれど春彦は宵子だけを見つめていた。手を差し伸べるのも、宵子に対してだけ。
「どうせ同じ顔なんだ。口が利けないほうが何かと楽だろう? 君は、私の傍で笑っているだけで良い」
そして、春彦が告げた言葉は、なんて残酷なものだっただろう。暁子だけでなく、宵子の心をも踏み躙る、とてもとてもひどい言葉。
(私にも……言いたいことは、あるのよ!?)
口が利けなくても、心がない訳ではない。
春彦から見れば、扱いやすい従順な子供に見えていたのかもしれないけれど──それが間違っていたことには、もう気付いた。
想いを文字にして綴ることの楽しさ。そのために学ぶことの大切さを、今の宵子は知っている。クラウスが教えてくれた。
(人形みたいに扱われるなんて、絶対に嫌!)
怒りを、身体を支える盾にして。宵子は暁子を背にして、両腕を広げて春彦と黒犬の前に立ちはだかった。
思い通りにはさせない。暁子を食い殺そうというなら、先に自分を──無言の決意を感じたのだろう、春彦は溜息を吐きながら肩を竦めた。
「無駄なことを。怪我をしないように下がっていなさい」
ざりっ、と。暗闇のどこかで犬が跳躍した音がした。どこから襲い掛かってきても、暁子の盾になれるよう、宵子は辺りを見渡そうとした。
でも、できなかった。
「宵子。なんであんたが……!」
守っていたはずの暁子が、宵子の寝間着の背中を掴んで、強く引き寄せ、そして突き飛ばしたのだ。
(……え?)
目を見開いた宵子の視界に、鋭い牙がずらりとならんだ真っ赤な口が映った。宵子を呑み込んでしまいそうなくらいに大きな口。舌は長くだらりとして、涎をまとってぬめぬめと光って。
何がなんだか分からなくて。立ち竦む宵子の耳に、暁子の喚き声が刺さる。
「宵子の癖に! 私の、盾になりなさいよ……!」
牙が迫るのが、やけにゆっくりと見えた。暁子を狙って跳躍したであろう犬は、苦衷では体勢を変えることもできず、まっすぐに彼女に突っ込んでくる。
(……なんだ)
暁子は、宵子よりも犬の動きをよく見ていたらしい。
宵子が庇っても何とも思わず、手近なところに盾があるとしか思わなかったらしい。
土壇場だからか、力もずいぶん強くて、宵子を軽く振り回せるようだし。
では、宵子は無駄なことをしたようだ。
驚くよりも怯えるよりも、無性におかしくて。宵子が唇を引き攣らせた時──銀の光が、放たれた矢の速さで飛び込んできた。
ぎゃん!
今にも宵子の身体を押し潰しそうだった巨体が、銀の光に弾き飛ばされて悲鳴を上げる。
(貴方……!)
瞬くと、銀の毛並みが月の光に輝いていた。しなやかな四肢を、一点の染みもない美しい毛皮が覆っている。三角の耳は油断なくぴんと立ち、宝石のような青い目は鋭く、起き上がろうとする黒犬を睨みつけている。
流星と見紛う銀の疾風は、いつかも宵子を助けてくれた、銀色の大きな犬だった。
(お父様。なぜ。どうして)
父の手から落ちた洋燈が、異様な光景を下から照らし出していた。
いつもと変わらない笑みを浮かべた春彦の隣に、控えるように座った黒い大きな犬。その毛並みがしっとりと濡れて見えるのは、宵子と同じく父の血を浴びたからだろう。
洋燈の灯りは、暁子の影をも映し出している。
動かなくなった父に取りすがる双子の妹の影は長く引き伸ばされて、宵子には大げさな芝居のよう似も見えた。目の前で繰り広げられたことが現実だなんて、自分でも信じたくないのだろう。
「お父様……お父様! ──兄様! なんで!? なんでその子、お父様を……っ」
宵子が口に出せない疑問を声高く喚いて、暁子は黒い犬を指さした。
先ほどまでは、子犬のように大人しく暁子に撫でられていたのに。何人もの命を屠った恐ろしい犬は、今は父の血で濡れた牙を暁子に対して剥き出しにしている。
夜の闇そのもののような黒い毛皮を撫でるのは、今は春彦の指だった。たった今、父を噛み殺したばかりの獰猛さを見せたばかりなのに、少しも恐れる気配はない。
「犬神は、造った者に従う。当たり前のことだろう? これまでは、父上や君に従うように僕が命じていたというだけだ」
ぐるるるるる──
春彦の言葉を裏付けるかのように、黒い犬は暁子に向けて低く唸った。暁子の喉からひっ、という悲鳴が漏れて、そこに春彦のくすくすと笑う声が重なる。
「さあ、暁子。どうして君がこの場に呼ばれたのか分かるかな?」
春彦の問いかけと同時に、犬の前脚が一歩進む。血濡れた牙がそれだけ迫り、暁子は地面を這って逃げる。色鮮やかな振袖が血と泥に塗れるのが無残だった。
「しょ、宵子を食わせれば、その子が完成するって──犬神の力を取り込むって。きっとすごいことが起きるからって、だから……」
震える声で答える暁子には、嘘を吐いたり取り繕ったりする余裕はないだろう。だから──たぶん本当なのだろう。
(暁子。私をそこまで……?)
嫌っていた、というのはまた違うのかもしれない。
暁子にとって、宵子は姉妹でもなんでもなかったのだ。犬に食い殺させても心が痛まない。むしろ面白い見せ物になる。そのていどの存在だったのだ。
気付いてしまうと、宵子にはもう立ち上がる気力は残っていなかった。
下半身を濡らす不快な感触は、もしかしたら夜露だけでなく、父の血が生み出したぬかるみなのかもしれないけれど。すぐ傍で、おぞましく恐ろしい黒犬が牙を剥きだしているけれど。
宵子は、ただ、人形のようにぽかんと春彦を見上げ、暁子とのやり取りに耳を傾けることしかできなかった。
「実の姉が食い殺されるところを見物しようなんて悪い子だ。知ってるかな? ドイツ辺りでの昔話では、悪い子は狼に食べられるそうだ。犬神の呪いを負ってなくても、真上家の娘なら贄としては十分じゃないかな」
「わ、私……良い子にしているわ! 今夜のことも誰にも言わない! 兄様の言うことを聞くから……!」
暁子は、必死に後ずさりながら懇願した。春彦に取り縋りたいけれど、犬が怖くて近づけないようだ。
夜の闇に加えて、恐怖で視界が塞がれているのだろう。宵子がへたり込むすぐ傍まで来ているのにも、暁子は気付いていない。
「駄目だよ」
でも、春彦は違う。彼は、この場のすべてを把握している。優しい笑顔を向けられたことで、宵子はそう気付いた。
(兄様……!?)
暁子の訴えに首を振りながら、宵子に微笑みかけるのは、おかしい。とても嫌な感じがする。
その予感は、すぐに的中した。
「だって君はうるさいじゃないか。耳障りな声──ずっと、舌を抜いてやりたいと思ってた……!」
初めて、春彦の声と表情に苛立ちが浮かんだ。彼が鋭く吐き捨てた言葉に応じて、黒い犬が跳ねる。大きく開いた口が狙うのは──暁子の、首だ。
(駄目!)
宵子の身体は、辛うじて思い通りに動いてくれた。
「な──」
どさ、べちゃ、という音がして、暁子の身体が地面に倒れる。彼女の上に覆いかぶさった宵子の髪を、風のように駆け抜けた犬が揺らす。
(ま、間に合った……)
一秒でも遅れていたら、暁子は父のように首を噛みちぎられていただろう。
安堵──している場合ではないのだろうけれど。それでも、全身を冷や汗と脂汗が濡らすのを感じながら、宵子は息を吐いた。そこへ、ぱちぱちと、手を叩く音が聞こえる。
「暁子を庇うなんて、やっぱり宵子は良い子だね。静かで大人しい──都合の、良い子」
暁子を庇ったまま、肩越しに春彦を振り向く。すると、彼はやはりいつもの微笑みを浮かべていた。
いつも通りに見えるのに──なぜか、月の光でも洋燈の灯りでも拭えないどす黒い影が、彼の顔を覆っている気がしてならなかった。朗らかな声も、毒々しい悪意とか嘲りが滲んでいるような。
「真上子爵は、人喰い犬を退治しようとして返り討ちに遭った。暁子嬢も同様に。だから、遠方で療養中だった宵子嬢を呼び寄せて、この僕と結婚させて家を繋ぐ。どこからも文句は出ないだろうね」
宵子と暁子が息を呑む微かな音が、重なった。双子でありながら、同時に何かをするということは十年以上なかったというのに。
「……嘘。兄様。なんで」
暁子のこんな震える声も、初めて聞くかもしれない。
無理もない。
今までずっと甘やかされて、苦労も我慢もしてこなかった娘なのに。突然目の前で惨劇が起きた上に、信頼していた春彦に裏切られたのだから。
宵子と暁子。よく似た顔、よく似た背格好のふたりに向き合いながら、けれど春彦は宵子だけを見つめていた。手を差し伸べるのも、宵子に対してだけ。
「どうせ同じ顔なんだ。口が利けないほうが何かと楽だろう? 君は、私の傍で笑っているだけで良い」
そして、春彦が告げた言葉は、なんて残酷なものだっただろう。暁子だけでなく、宵子の心をも踏み躙る、とてもとてもひどい言葉。
(私にも……言いたいことは、あるのよ!?)
口が利けなくても、心がない訳ではない。
春彦から見れば、扱いやすい従順な子供に見えていたのかもしれないけれど──それが間違っていたことには、もう気付いた。
想いを文字にして綴ることの楽しさ。そのために学ぶことの大切さを、今の宵子は知っている。クラウスが教えてくれた。
(人形みたいに扱われるなんて、絶対に嫌!)
怒りを、身体を支える盾にして。宵子は暁子を背にして、両腕を広げて春彦と黒犬の前に立ちはだかった。
思い通りにはさせない。暁子を食い殺そうというなら、先に自分を──無言の決意を感じたのだろう、春彦は溜息を吐きながら肩を竦めた。
「無駄なことを。怪我をしないように下がっていなさい」
ざりっ、と。暗闇のどこかで犬が跳躍した音がした。どこから襲い掛かってきても、暁子の盾になれるよう、宵子は辺りを見渡そうとした。
でも、できなかった。
「宵子。なんであんたが……!」
守っていたはずの暁子が、宵子の寝間着の背中を掴んで、強く引き寄せ、そして突き飛ばしたのだ。
(……え?)
目を見開いた宵子の視界に、鋭い牙がずらりとならんだ真っ赤な口が映った。宵子を呑み込んでしまいそうなくらいに大きな口。舌は長くだらりとして、涎をまとってぬめぬめと光って。
何がなんだか分からなくて。立ち竦む宵子の耳に、暁子の喚き声が刺さる。
「宵子の癖に! 私の、盾になりなさいよ……!」
牙が迫るのが、やけにゆっくりと見えた。暁子を狙って跳躍したであろう犬は、苦衷では体勢を変えることもできず、まっすぐに彼女に突っ込んでくる。
(……なんだ)
暁子は、宵子よりも犬の動きをよく見ていたらしい。
宵子が庇っても何とも思わず、手近なところに盾があるとしか思わなかったらしい。
土壇場だからか、力もずいぶん強くて、宵子を軽く振り回せるようだし。
では、宵子は無駄なことをしたようだ。
驚くよりも怯えるよりも、無性におかしくて。宵子が唇を引き攣らせた時──銀の光が、放たれた矢の速さで飛び込んできた。
ぎゃん!
今にも宵子の身体を押し潰しそうだった巨体が、銀の光に弾き飛ばされて悲鳴を上げる。
(貴方……!)
瞬くと、銀の毛並みが月の光に輝いていた。しなやかな四肢を、一点の染みもない美しい毛皮が覆っている。三角の耳は油断なくぴんと立ち、宝石のような青い目は鋭く、起き上がろうとする黒犬を睨みつけている。
流星と見紛う銀の疾風は、いつかも宵子を助けてくれた、銀色の大きな犬だった。
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