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十章 琴瑟相和すか

3.誤解はあれども一件落着?

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「炎俊、雪莉姫。耳に痛い諫言ではあったが、聞き入れねばならぬようだ。どうやらずいぶんな迷惑をかけたようだ。そもそも始めから難題を押し付けて──佳燕のために心を砕いてくれたことに、心から礼を言う」
「……別に私は何もしていない。妃の願いを叶えたまでで……」

 炎俊の声から一切の感情が消えたのは、翰鷹皇子がその腕の中にしっかりと佳燕を抱え込んでいたからだろう。まるで、二度と離しはしないとでも言うかのように。恥ずかしそうに頬を染めた佳燕を見る眼差しの熱いこと、傍からはとても見ていられない。でも──佳燕は嫌そうには見えなかった。他所の宮でのほんの一時のやり取りであっても、この夫婦の関係は少しでも変わったのだろう。翰鷹皇子の表情も晴れ晴れとしている。

「そなたにも雪莉姫にも、感謝の言葉は尽きぬが、一端皓華宮に戻らせて欲しい。佳燕には休息が必要だからな。それに、今後のことについて──いかに白家を満足させるか、話し合わねばならぬ」

 やや声を低めた兄皇子の言葉を聞いて、炎俊は我に返ったように目を開き、一歩足を踏み出した。

「他の娘を娶られるのか? 兄上が? 帝位についてはどうなさるおつもりか?」
「そなたと兄上たちのいずれかに譲ろう。そう警戒するな」

 炎俊の関心は、やはり帝位を争う相手を蹴落とせるかどうかにしかないのだろう。翰鷹皇子にまで苦笑されてしまうほどに。

(まあ、ほんとうに譲ってくださるなら炎俊こいつも満足、よね……?)

 疑い深げに目を細める炎俊に、翰鷹皇子は屈託なく笑った。憑き物が落ちたかのように、とはこういうことを言うのだろうか。

「帝位に就かずとも、便宜を図ることは可能であろう。脅しも方便も交えて交渉すれば良いのだ。炎俊、そなたは身をもって教えてくれたのだろう?」
「私は──」

 そんなつもりはなかった、と。炎俊が今まさに言おうとしていたのがはっきりと分かったので、朱華は敢えて皇子たちのやり取りに口を挟む非礼を犯した。

「佳燕様! お気持ちを伝えられたようで、大変よろしゅうございました! 私も嬉しく存じます!」
「雪莉様……」

 炎俊は分かっていなかっただろうけど、朱華の意図は確かにそれだった。翰鷹皇子が本当に純愛を貫けるかは分からないし、皓華宮に新しい妃を迎えることにでもなれば、佳燕は傷つくかもしれないけれど。でも──試みる気になってくれただけでも大きな収穫のはずだった。だから、佳燕の頬にゆっくりと笑みが広がる様は、美しく愛らしいだけでなくて、朱華を喜ばせ舞い上がらせるに十分だった。

「ありがとうございます。雪莉様のお陰ですわ」
「いいえ、私なんて──」
「雪莉様は四の君様にも恐ろしいくらいに真っ直ぐに意見なさるのですもの。夫婦とは、妃とはかくあるべきなのだと──私も、教えていただきました」
「はい……?」

 けれど、はにかんだように微笑む佳燕の言葉に、朱華の笑顔は固まってしまった。彼女自身と炎俊が夫婦のあるべき姿なのだと──そのようなことは、あり得ない。

「あの、佳燕様──」
「お妃の諫言にも耳を傾けてくださる御方です。きっと、民のためにも心を砕いてくださるのでしょう。だから──その、私の長春君様には畏れ多いことですけれど、これで良かったのではないかと思います」

(何か、誤解をされている気がするわ!?)

 晴れやかに笑う佳燕に、頷くことも首を振ることもできず、朱華は曖昧に微笑むしかなかった。そんなつもりではなかった、などとは彼女も口にできないのだから。
 炎俊の方は、と見ると、この女も口を噤むことの賢明さを一応分かってはいるようだった。何もかもが面倒臭いとか、訳が分からないといった思いが強いのかもしれないけれど。とにかく、上手くまとまりかけているのだから余計なことを言ってはならないのだ。

 手を取り合って帰途に就く皓華宮の夫婦を見送る、星黎宮の夫婦は、多分貼り付けたような笑みを浮かべていたはずだ。

      * * *

 床に跪いた宦官が、翰鷹皇子が作った茶の染みを拭き取っている。水竜の《力》で作られた竜が、中空で崩れ落ちた痕だ。床にさえも種類の違う様々な木材と石材を組み合わせて精緻な模様が描かれる、星黎宮は代々の皇子が使った宮。次の王子にもいずれ引き継ぐべき建物なのだろうから、こんなことで染みが残らないように掃除して欲しいものだ。

 翰鷹皇子と佳燕を見送った後、侍女の紫薇は茶を淹れ直し、菓子のお代わりを運んでくれた。気が重く、かつ面倒な一幕を乗り切ったご褒美の意味もあるのかどうか、砂糖で練った生地を油で揚げた、甘さも重さも格別の菓子だ。いつもの炎俊なら、無表情のまま幾つでも平らげているところだろうに、なぜか茶をひと口啜った後、何やら考え込んでいる。この女に限って、太り過ぎや肌の調子を気にすることもないだろうに。

「──食べないの? 冷めちゃうわよ」
「……食べる」

 仮にも夫が手を付けないのでは、朱華だけが楽しむ訳にはいかない。相手を気遣ってというよりは自らの舌のために朱華が進めると、炎俊もやっと菓子に手を伸ばした。

「兄上は、笑っていらっしゃったな。多分、心から」
「ええ、佳燕様が戻られたのがよほど嬉しかったのでしょうね」

 口中に広がる甘さと油を味わいながら、朱華はおざなりに相槌を打った。彼女だって癒しが欲しい。心身の疲労を思えば多少の暴食で太ることもないだろう。
 欲望に駆られるままに揚げ菓子をふたつ、平らげて──朱華は炎俊がまだひとつ目を齧っていることに気付いた。

「……ねえ、何か不満なの?」

 まさか、もっと兄皇子に対して嫌がらせがしたかったのか、芝居の尺が短すぎたのか、と。夫の人格を疑って眉を寄せた朱華に、炎俊はゆっくりと首を振った。

「いや。私にとっても最良の結果ではあるのだろう。兄上は帝位争いから身を退くと仰ってくださった。だが、そなたの言う通りになったのが解せぬ」
「私、何か言ったっけ?」

 菓子の山が幾らか小さくなるうちに、宦官たちは掃除を終えて部屋を辞している。部屋の中にふたりきり──とはいえ、閨の紗幕の内に比べれば、翰鷹皇子を迎えたこの部屋はかなり広い。炎俊の整った顔にも慣れてきている。それでもなお、間近で、それも真顔で見つめられるのはどこか居心地の悪いことだった。

「喜んで協力させた方が良い、私のお陰だと思わせた方が良い、と……まあ、兄上たちはそなたのお陰だと思ったようだが」
「うん……何か、誤解をされていたようだったわね……」

 しかも、炎俊の言おうとしていることが今ひとつ掴めない上に、翰鷹皇子と佳燕の晴れやか過ぎる笑顔を思い出すと喜びよりも不安が勝る。朱華の筋書き通りと言えば確かにそうなのだけど、あまりにも上手く行き過ぎて怖い、というか。実際以上の善人だと思われてしまったようで、居心地が悪い。

「白妃を見つけた時点で、兄上を降すこと自体はどうとでもなったのだ。義姉上を返そうと返すまいと、な。だが、仮に義姉上をそのまま渡した場合でも、兄上はあれほど笑わなかっただろう。礼は述べるだろうし、私も恩に着せていたが」
「恩に、着せるんだ……兄君に?」

 炎俊がいちいち引っかかる物言いが混ざるのが実に不穏だった。でも、この言い方をしてくれるということは──

(ちょっとは分かってくれたの?)

 半信半疑で朱華が見つめていると、炎俊はもうひとつ、揚げ菓子を口に放り込んだ。形の良い顎が動いて菓子を咀嚼し、喉が動く。そして朱華に向き直った時、炎俊は美しい微笑を浮かべていた。

「そなたの案に乗ったのはこうなってみると正解だったな。私が敢えて脅さずとも、兄上は自ら譲歩を申し出てくれた。だが、そなたはどうしてそれを知っていた?」
「大抵の人間は知ってるわよ……実現できるかどうかは別なんだろうけど」

 下手に出て人を動かす、その気になってもらう。下々ならば日々のやり取りや取引で当たり前にしていることだ。高貴な人々だって、きっとある程度はそうだろう。それが、最も高位の皇族まで行くと、どうしてそんなことも知らない人間が出来上がるのか。朱華は、そもそも翰鷹皇子の依頼が舞い込む前に必死に伝えようとしていたのに。

「ふむ。さすがは我が妃だ」

 朱華ががっくりと肩を落としたのにも無頓着に、炎俊は優雅な角度で首を傾けた──その涼しげな目が、どういう訳かあの茫洋とした眼差しを浮かべているのに気付いて、朱華は背筋を正す。遠見か時見をしている時の表情だ。まだ何か懸念があるというなら、菓子を食べている場合ではない。

「ねえ、何を視ているの?」
「うむ、少しな……ああ、やはりそなただったか」
「何……何なのよ……?」

 炎俊が時か地平の彼方に意識を彷徨わせていたのは、ほんの数秒だった。黒い目はすぐに焦点を結び、朱華はそこに映った自分自身を覗き込むことになる。菓子の屑や脂がついていたのかと、慌てて口元を拭う間に、炎俊は何やらひとり満足げに頷いている。
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