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九章 佳燕の真意

3.芝居の準備

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 寝台に上がり込むなり、炎俊は不満そうに唇を尖らせた。

「白妃を星黎宮ここに匿うとは、そもそもそなたの案だったではないか。どうして今さら異を唱えるのだ」
「そりゃ、佳燕様が三の君様をお嫌いだと思っていたからよ。あんなにお慕いしているのに引き離すのもお気の毒でしょ」
「なぜ私をいて、皓華宮に肩入れする。そなたは私の妃ではないのか」

 炎俊も、佳燕たちの前では言えないことを心に溜めていたらしい。薄闇の中で、彼女の目が冷ややかに朱華を睨んでいた。声を荒げてこそいないけれど、紛れもない詰問だった。

「だから……! 三の君様も佳燕様も、望んだ結果になる方が、喜んであんたに従ったり協力したりしてくださるでしょ……!? 結局は、あんたのためよ」

 本来は口答えも許されない立場であることを思い出して、朱華の背を冷や汗が伝う。これまで無礼な態度が許されてきたのは、朱華が強い遠見の《力》の持ち主で、炎俊の役に立つと思われていたから。その前提が崩れれば、この女は朱華にも容赦しないのだろう。

「白妃がこちらの手中にあれば、兄上は逆らえない。白妃自身は取るに足らない。結果は同じではないのか」

 炎俊は、子供にごく簡単な道理を説くときの口調と表情をしていた。一方的に命じたり、ましてや非礼を罰するのではなく、物分かりの悪い小娘──つまり朱華だ! ──に教え諭してやるということだ。そして、炎俊の理屈は、理屈としてはやはり正しい。でも、その上で、佳燕のことを取るに足らないなどと言い切るのが朱華の気に入らない。

 世間には、炎俊が言うところの「取るに足らない」者が溢れているのだ。ほとんどの者は、炎俊にとってはいてもいなくても同じなのだろう。朱華が守りたいと願う雪莉だってそうだ。そのような考えの女に従うことは難しいし、今後のことが怖すぎる。

「似たようなことを何度も言った気がするけど! 無理矢理従わせるのと喜んで協力してもらうのは、全っ然違うの。帝位争いなんて大ごとが絡んだらなおのこと、あんたのためなら、って思ってもらえるくらいの恩を売れる形にした方が良いと思うの」

 だから、この機会に炎俊には人の心の機微というものを分かってもらいたいのだけど──朱華の夫は、ひたすらに面倒臭そうな顔をするだけなのだ。そんなことをしなくても、翰鷹皇子を黙らせる手札と状況は揃っているのに、とでも言いたげだ。

「ならば、白妃を兄上に返すのか。そなたはそれも気に入らぬようだが。私は兄上を降すことができればどちらでも良いのだぞ」

 紫薇は酒と菓子も用意してくれていたけれど、朱華も炎俊も手を付けていない。お互いに、相手を黙らせる言葉を探すので忙しいのだ。

 目も声も醒め切った炎俊には、朱華は我が儘な子供に見えているに違いない。解決方法は見えているのに、訳の分からない理屈を捏ねている、と、表情が雄弁に語っていた。妃として妻として、夫を思っての諫言だと分かってもらうにはどうすれば良いのだろう。

「……おふたりとも、お相手の心を知らないから拗れているのよ。佳燕様は、三の君様のご寵愛を心からは信じていない。三の君様は、目に余るほどのご寵愛を示すことで佳燕様が喜ぶと思われている。だから……だから、おふたりのお心を、言葉にして引き出すのよ。夫婦としての絆を、改めて結んでいただくの」

 朱華が必死に言い募るのは、翰鷹皇子でも佳燕でもなく、炎俊のためだ。自然に出る感謝の思いこそが何よりの助けになり得ることを、実施で教えてあげたいのに。

「私に何度も同じことを問わせるな。どのようにすればそのようなことが叶うというのだ」

 炎俊の声がわずかながら波立って、苛立ちを露わに滲ませた。朱華の気の迷いに付き合うのも限界だ、とでも言うかのよう。というか、実際警告なのだろうけど。でも──朱華は、怯まず微笑んだ。緊張のために少し引き攣って、満面の笑顔とはいかなかったけれど。暗がりでは分からないだろうから、まあ良いだろう。

「もう一度だけよ。機会をちょうだい。あんたにはバカバカしくて仕方ないんでしょうけど、良い役をあげるから──お芝居に付き合ってくれないかしら」

 炎俊は、朱華の献策に眉を顰めるだろう。でも、これで駄目なら朱華も諦める。最後の機会ということで、皓華宮も巻き込んだ茶番劇を演じるのだ。

      * * *

 その朝、化粧のために朱華の頬に触れた紫薇は軽く眉を顰めた。

「陶妃様……よくお休みになれていないご様子ですのね」

 寝不足によって、肌が荒れているのかくすんでいるのか。彼女自身には分からないけれど、紫薇には見逃しがたい瑕疵らしい。

「ええ、さすがに緊張したからかしら。長春君様が羨ましい」

 化粧筆が肌を撫でるくすぐったさに耐えながら、朱華の口から零れるのは炎俊へのちらりとした嫌味だった。

 今日は、星黎宮に翰鷹皇子を迎えるのだ。皇子が暇なはずは絶対にないけれど、お妃のことで、と書簡に書いたら一も二もなく駆け付けるとの返事が来たらしい。

「さすが長春君様でいらっしゃいます。英気を養うことの大切さをよくご存じなのですね」
「私も分かってはいたのだけどね……。ええ、でも、朝餉はしっかりいただくけど」

 食べる時に食べて寝る時に寝る、が朱華の信条なのに、緊張でよく眠ることができなかったのは不覚だった。昨夜、朱華は炎俊の安らかな寝息を恨めしい思いで聞いたものだ。炎俊にしてみればどう転んでも良いのかもしれないけど、朱華の方は、結局まともに夢の国を訪ねることはできなかった。今日の「舞台」にかかっているものが多すぎて。

「陶妃様は長春君様に本当によくお似合いですわね」
「……そうかしら……?」

 紫薇の言葉に首を傾げながら、朱華は佳燕のことに思いを馳せた。客人に与えられた部屋で、今頃は繍栄によって身支度を整えられているだろう。主従揃って、今の朱華以上に憔悴した顔をしていそうなのが心配だった。

(でも、喜んでもいらっしゃったわ……)

 翰鷹皇子が来ると聞いて、佳燕の頬は愛らしく染まったのだ。怖れよりも喜びが先に来るのだとしたら、希望はあるのかもしれない。

 と、朱華が向き合う鏡の中に、新たに人影が入り込んだ。先に身支度を終えた炎俊が、暇を持て余したのか朱華の様子を覗きに来たらしい。

「『我が妃は美しい。どのような手段を用いても、掌中に収めておきたいと思わずにはいられない』」
「うわ……」

 およそ炎俊らしくない歯が浮くような台詞は、事実、朱華が考えた「台詞」だった。翰鷹皇子の前で演じる茶番の練習を、今のうちにしておこうということなのか。内容自体も我ながら気持ち悪いけれど、あまりにもあからさまな棒読みに朱華は呻いた。

「……下手な台詞ね。もっと感情を篭めてくれないと」
「兄上の前となれば、一段と熱が入るだろう。どのような顔をなさるか楽しみだ」

 鏡に映る炎俊は、何らの不安を感じていない様子なのが憎らしいけど。結局、この女は今日の配役に大層満足しているようだ。戯れに台詞を口にするくらいには。今日の結果がどうなろうと朱華は従うと約束している。全てが片付くと思えばこその上機嫌なのだろう。

「女の支度は手間がかかるな。そろそろ食事にしたいのだが」
「ええ、そろそろ終わるわ。しっかり食べておかないとね」

 とにかく、舞台に上がらなければならないのは朱華も同じ。睡眠に関してこそ遅れをとってしまったけれど、食事に関してはしっかりと信条を全うしなくては。そう──少なくとも、食と睡眠に関してだけは、朱華と炎俊は同じ信念で臨んでいるようだ。
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