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六章 翰鷹皇子

2.本題

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「……兄上が何のことを仰っているのか分からない。星黎宮と同様、皓華宮には時見も遠見も通じない。よくご存じのことと思うが」
「視えるものが全てではないし、視えぬものから見えることもある。それこそ、そなたなら承知しているだろう」

 翰鷹皇子は、朱華と炎俊の動揺を誘おうとしているに違いなかった。惚けようとする炎俊に比べて、不敵な微笑を口元に浮かべる翰鷹皇子の舌鋒はいかにも鋭い。

(聞いてたのと違うお人柄じゃない……?)

 朱華は、夫を横目で窺った。というか、睨んだ。

 彼女たちが翰鷹皇子を星黎宮に招き入れるのを決めたのは、もちろん第一には佳燕の身に何が起きたのか、翰鷹皇子が弟とその妃に対してどのような疑いを抱いているか確かめたかったからだ。そして、それに加えて危険がないだろうと判断したからでもある。
 皇帝候補の皇子たちはお互いを害してはならない、という制約は好都合だった。翰鷹皇子が何を考えているとしても、正気なら炎俊に手を出すことはあり得ない。さらには、翰鷹皇子は穏やかな人柄で、乱暴に訴える方ではないということだったのだ。

『皓華宮を得たのが不思議なくらい、競うということを好まない上に無欲な方なのだ。正直、争うことになるとはあまり考えていなかった』

 そんな舐めたことを言っていた癖に。炎俊の人を見る目など信用できるものではなかったのだ。あるいは、愛する妃の変事は、本来なら温厚な人柄を豹変させるのに十分だったということかもしれないけれど。いずれにしても、今の朱華にできるのは、心配そうな眼差しを装って隣の夫を見上げることだけだ。

 どうするつもりか、と背に冷や汗が伝うのを感じながら見守っていると、炎俊は大きく溜息を吐いた。目下の立場にあるまじき無作法にぎょっとする間に、兄に対して「弟」が投げた言葉もまた、どこか不貞腐れたような敬意の薄いものだった。

「……ならば、何が起きたかはっきりと教えていただきたい。というか、そもそも教えていただきたかった。余計な気を回すことになったではないですか」
「それについては謝る。だが、書簡を託した者も信じる訳にはいかなかったのでな。こうして、そなたたちと直接会う機会を何としても設けたかったのだ」

 炎俊が小さく唇を尖らせているのに気付いて、朱華はますます目を丸くした。弟皇子の非礼を咎めず、あっさりと矛を引いた翰鷹皇子にも驚きだ。炎俊は純粋に態度が悪いし、翰鷹皇子は――炎俊が評した通りに――ごく穏やかに鷹揚に、苦笑と共に弟を許しているように見えた。それに、気になることも聞いてしまった。

(自分のとこの人間が信じられないってどういうことよ……)

「あの、三の君様」

 黙って見ていることができなくて、朱華はつい口を挟んだ。それでも演技を忘れてはいない。弱々しく控えめに、深窓の姫君が勇気を振り絞って声を上げた風を装うのだ。炎俊に任せていては、朱華に分かるように話を持って行ってもらえるとは期待できない。多少慎みがない振舞いだとしても、気になることは自分で聞いてしまった方が良さそうだった。

「ご無礼をお許しくださいませ。あの、佳燕様――白妃様に、いったい何があったのでしょうか。あの方は、ご無事なのですか……!?」

 炎俊が何かもの言いたげに唇を開けかけたのは、流し目で睨んで黙らせる。そしてそれも一瞬にも満たない間だけ、胸の前で手を組んで、必死を装った目で見つめるのは、あくまでも翰鷹皇子の方。多分、佳燕を案じる姿を見せておいた方が得だろう。

「……佳燕を気に懸けてくれていたというのは本当だったか……」

 翰鷹皇子が感慨深げに呟いたのが居心地悪く、少し申し訳なかった。不本意ながら炎俊の評は実は的確だったのかもしれない。陰謀渦巻く天遊林の中心にいる割に、この方は朱華の演技を真に受けているようだから。もちろん、それもまた演技かもしれないのだけど。

碧羅へきら宮でお会いした時は、麗しいのになぜか憂いを帯びたお顔をなさっていました。幸せでいらっしゃるはずなのに――僭越ではございますが、心を痛めておりました」

 『良い人』を欺いているなら申し訳ないし、計算を見透かされているなら呆れられているだろう。いずれにしても、胸の前で指先を弄《いら》い、上目遣いに翰鷹皇子を窺ってか弱い風情を装いながら、朱華の冷や汗は止まらなかった。

「――兄上は、我らを疑っておられると考えておりました。ですが、違う……ということでよろしいでしょうか」
「もちろんだ。そなたは私を敵と見做してなどいないだろう。佳燕を害するはずもないし、万が一その策を採ったとしても、疑われることがないように万全を期すはずだ」
「……ご慧眼に感謝申し上げなければなりませんね」

(あら、お見通しなのね)

 炎俊が口元を引き攣らせるのを、朱華は興味深く横目で眺めた。自分なら疑われるようなことはしない、と。自信たっぷりに断言した炎俊は彼女の記憶にも新しい。弟の性格を割と正確に把握しているらしい翰鷹皇子は、無能ではないということなのかもしれない。事実彼は、まるでこちらが気付くか試すかのように、不穏な言葉を漏らしていた。

「あの、害する、と仰いましたが……佳燕様は、やはり……?」
「ああ、心配をさせてしまったな」

 翰鷹皇子が朱華に向ける微笑みは、意外にも優しい。とはいえ、炎俊に視線を戻した時には、翰鷹皇子は既に真剣な眼差しに戻っている。いよいよ、本題に入る気配を感じて、朱華も炎俊も身構える。

「不穏な言葉を使いはしたが、無事かどうかで言うなら佳燕には傷ひとつ加えられていないはずだ。ただ――私では助け出せない。時見も遠見も、私にはさほどの才はないのだ」
「兄上の本分は水竜だからな……。では、白妃は何者かに攫われたのですか?」

 炎俊は相槌のように呟いて、朱華に新しい情報を教えてくれた。翰鷹皇子は平伏した朱華の顔を視たけれど、それくらいでは皇族としては遠見の範疇には入らないらしい。
 水を自在に操る水竜は、朱華としては時見よりもなお想像がつかない《力》だった。ただ、人探しには向かない《力》だろうということは何となく分かる。そして、分かると同時に、嫌な予感がじわじわと足元から這い上がってくる。

 「弟」の問いに、翰鷹皇子はすぐには答えなかった。代わりに言うのは、彼にとっては恐らく分かり切ったこと。言うまでもないはずのこと。

「炎俊、そなたは劉氏の時見の力を強く引き継いでいる。それに、雪莉姫は優れた遠見で天遊林を騒がせたと聞いた」
「まあ、私のことをお聞き及びになっていたなんて……お耳汚しでございます」

 恐縮した体を装ってわずかに笑みながら、朱華は口元が引き攣らないようにするのに苦労した。嫌な予感が当たりつつあるのを察してしまったのだ。

(まさか、そんなこと言わないわよね……?)

 しかし、朱華の願いは空しかった。炎俊と朱華を交互に見据えながら、翰鷹皇子は大真面目な表情で告げたのだ。

「星黎宮を訪ねたのは他でもない、そなたたちに佳燕を探し出して欲しいのだ」

(ああ、やっぱり!)

 心中で頭を抱えた朱華の目の端に、露骨に顔を顰めた炎俊が映っていた。
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