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五章 皓華宮からの誘い

1.《時見》の限界

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 紫薇しびが差し出した書状を見た炎俊えんしゅんは、ずいぶん長いこと眉を寄せて宙を睨んでいた。朱華しゅかには分かる。この、どこか焦点を結ばない眼差しは、遠見か時見で彼方の場所か今ではない時を見つめている時の表情だ。でも、皓華こうか宮を視ようとしたところで、星黎せいれい宮と同じく厳重に呪によって守られているはず。皇族の力をもってしても、皓華宮の中を窺うことはできないだろうに。昨日から、皇子たちの争いのことばかり聞かされているから、他の宮からの接触が良い報せだとは思えなかった。

 かなりの時間、朱華はそよ風が草葉を揺らす微かな音を聞いて待った。炎俊に心行くまで遠見だか時見だかをさせてあげたいけれど、気を揉みながら佇むうちに汗もかくし、東屋あずまやの屋根が落とす影の中とはいえ、地に平伏し続ける紫薇のことも心配だった。だから、できるだけ控えめに穏やかに炎俊に呼び掛ける。

「……何が書いてあるの? 何の用だったの?」
「ああ……そなたには――」

 炎俊は、関係ない、と続けようとしたのだろう。けれど、朱華の目に険が浮かんだのを素早く察知したらしく、すぐに首を振って、恐らく予定していたのとは違うことを告げた。

「いや、黙っていると機嫌を損ねるのだろうな。……中に入るか。座ってゆっくり話をした方が良さそうだ」

 それだけ言うと、朱華が否とも応とも答える前に、炎俊はすたすたと歩き始めている。指先で――というかその動きが作る影で、紫薇に立って従うように命じながら。

「ちょっと、待ちなさいよ――」

 抗議の呟きを漏らしながら、朱華は慌てて炎俊の背を追った。炎俊は男の格好だから良いけれど、裾を引きずる女の衣装では同じ速さで歩くのは無理だというのに。

とう妃様、お気をつけて」

 よろめきそうになったところを紫薇に支えてもらいながら、気付く。炎俊の足取りは、先ほど一緒に庭を歩いた時よりも早い。この女なりに焦っているのが表に出てしまっているのだ。やはり、よほど差し迫った事態なのか、と不安を募らせかけた時――炎俊が、肩越しにちらりと朱華の方を振り向いた。

「兄上は、そなたにも会いたがっているようだ」

(私にも思いっきり関係あるんじゃない!)

 そして掛けられた短い言葉に、朱華は衣装の裾を掴むようにして大股に踏み出した。炎俊は、また勝手に話を進めようとしていたのだ。憤りは朱華の足を速めさせて、少し先を行く相手に追いつくことができたから、それだけは良かったかもしれないけれど。

      * * *

 宮に戻ると、紫薇は茶菓を用意するために一旦朱華たちの前を辞した。その間に、朱華は皓華宮から届いた書面に目を通す。炎俊から奪うようにして手に取ったのだ。
 と言っても、内容は当たり障りのない招待でしかない。末の「弟」が妻帯したのを祝い、新たに入った妃に挨拶がしたいと述べているだけだった。

翰鷹かんよう様と仰るのね……」

 書状から朱華が新たに得た知見があるとすれば、第三皇子の名くらいだ。それも、面と向かって呼ぶ機会はまずないから知ったところでさほど意味はないだろう。
 炎俊は黒檀で造られた卓を苛立たしげに指先で叩き、また目を細めている。どうにかして兄皇子の思惑を視ようとしているかのよう。夫に倣って朱華も遠見の焦点を皓華宮――百花園ひゃっかえんの西の宮に合わせようとするけれど、やはり、できない。何十里という距離を越える《力》があっても、皇宮に施された呪を破るには足りないのだ。

(こいつには、何か視えてるのかしら)

 頼るような気分で夫の白い顔を眺ていると──やがて、引き締まっていた形の良い唇が綻びて、苦々しい溜息を漏らした。炎俊でもはかばかしい成果は得られなかったらしい。

「兄上は、こういう不躾な招き方をする方ではない。妃同士は知己を得ているのだからそちらから誘えば良いはずなのだ」

 確かに、朱華も佳燕かえんだったら会いたかった。あの女性は控えめで儚げで、碧羅へきら宮で顔を合わせた他の妃たちに比べれば、まだ怖くはなかった。皇子と一対一で過ごす境遇も共通しているから、参考になる話も聞けたかもしれない。佳燕を口実にした上で、いかにもたまたま翰鷹皇子が現れた――という体を装えば、朱華も逃げられなかっただろう。

(いや、逃げるのが必要な人かは分からないんだけど)

 翰鷹皇子は佳燕ひとりだけを寵愛しているというから、朱華としては誠実な印象を持っていた。何の企みもなく、単に弟の妻に挨拶したいだけでは──というのは、あまりにも甘い考えなのだろうか。

「ね、さっきから何を視てるの? っていうか、視えるの?」

 ちょうど紫薇が運んできた菓子に手を伸ばしながら問うと、炎俊も眉を寄せたままで朱華に倣う。そう、食べられる時に食べるべきなのだ。

「皓華宮に行くのは怖い。だから、兄上や白妃を星黎宮に呼べるかどうかを視ていた」
「……時見で、ってことよね? 呼べるかどうかって? 皓華宮の中まで視えるの?」

 菓子を呑み込んだ炎俊が直截に不安を口にしたので、朱華は少なからず驚いた。警戒心があるのはまあ分かっていたけれど、こいつに人並みの感情があるなんて。それに──

(また分からないことを言うんだから……!)

 第三皇子たちとの対面は、「今」起きていることではないから、炎俊が言うのは多分時見の領分に属することだ。でも、そこから何が分かるのかは朱華には計り知れない。

「皓華宮を視通すことは私にもできない。が、星黎宮の中ならどうにかなる。出かける支度をしている時点や、いつ頃帰るか――帰れるのかを視れば、参考程度にはなる」
 
 とはいえ、炎俊は朱華の機嫌を取ることを覚えてくれたようだった。大声を出されるのが面倒なだけかもしれないけれど、とにかく、意外なほど長々と答えてくれる。

「未来は定まってはいないからな。皓華宮に行った場合と行かなかった場合、そなたを伴うか否か――道は幾らでも分かれるであろう?」
「道……?」

 ただ、答えてくれたどころで、理解できるかどうかはまた別だったけど。本物の雪莉と話した時、遠見の視界をどう説明すれば良いか困ったことを思い出す。視える者からすれば当たり前のことでも、その《力》を持たない者にはどうにも分かりづらいらしい。時見の話になると、炎俊の喩えは漠として捉えることができなかった。
 首を傾げたままの朱華を前に、炎俊はもうひとつ焼き菓子を平らげると、茶を卓の上に少し零した。控えていた紫薇がぴくりと身体を揺らしたけれど、主が意図があってしたこととすぐに察したらしく、差し出がましく動くことはなかった。

 艶やかな木目に広がる小さな水たまりを、炎俊は指先で伸ばしていく。細く長く、幾つにも枝分かれした支流を持つ川を模すかのように。

「時の流れを川の流れ、と考えても良い。どの流れを選べば、どうなるか。その行き着く先を、ひとつひとつ視ていた、ということだ」
「未来って選べるものなの? こう……この道だろうと思って対策したとするじゃない? でも、本当はこっちのことが起きたりしたら?」

 零れた茶で描かれた頼りない川を指で示して、朱華は炎俊を問い詰めた。高価なはずの木材に染みができるのを心配しながら。さっさと拭《ふ》いた方が良い気もするけれど、炎俊には哀れな卓を案じるつもりはないようだった。卓上の川は、炎俊の指によってさらに細かな支流に分かたれて染みを広げていく。

「流れの太さ、というか道の幅というか……これが本流なのだろうな、という感覚がある。視えづらい未来は起こりづらいということだ」

 炎俊は後から作った「支流」を無造作にぬぐった。すると残るのは最初に零された水たまりと、そこから伸びた「本流」だけ。未来見とはそれを見極めること、らしい。

「じゃあ、今回は? 皓華宮の御方の目的は、分かる? お断りした方が良いのか、素直に行った方が良いのか……あと、こっちに来てもらえるかどうかも、だっけ?」
「兄上の目的など、視ても分かるものではないだろう。時見でも遠見でも音を聞くことはできないものだ。呪のない場所で会うなら唇を読むこともできるかもしれなかったが」

 分かったような分からないような気分のまま尋ねると、炎俊はあっさりと首を振った。

「会ってる時の顔色とかで推測することも、今回はできないってことね……」

 朱華が生まれ育った娼館や、陶家で駆使してきた技は使えないということだ。褒められるのか叱られるのか事前に分かるだけでも、だいぶ気は楽になるというのに。
 未来は定まっておらず、視覚に頼って得られる状況も限られている。今回は、厳重な呪を施された皇宮の中のことだから、特に制限が多いのだろうけど。朱華にはない《力》だけに、どうも時見に過大な期待をしていたような気がしてならない。

「言いづらいんだけど……時見って実はあんまり役に立たないんじゃない?」
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