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四章 気持ちの授業

4.惚れた弱み

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「あんたと私は秘密を握り合ってるんでしょ!? あんたが終わったら私も終わるんでしょ!? だったら秘密を知ってる奴はひとり残らず教えときなさいよっ!」

 昼日中の屋外でのこと、お互いの命を脅かしかねない秘密のことを大声で捲し立てるのはどうか、と思わないでもなかったけれど――でも、炎俊への憤りはあまりに強くて、朱華は舌を止めることができなかった。どうせ強力な呪を巡らされた星黎宮の内部なのだ、いかなる《目》を持つ者であろうとも、この場面を盗み視ることはできないだろう。

「その声は一体どこから出ているのだ……?」

 炎俊も、朱華の言葉を咎めはしなかった。というか、この女が慌てているところを見たことがない。いつでも落ち着いた様子で、今だって朱華が訳もなく怒りだした、とでも言いたげな面倒そうな顔をしているのが実に気に入らない。

「別に隠そうとしていた訳ではない」

 いや、さすがに今は面倒がっているだけではないかもしれない。朱華の手を引いて歩き出す炎俊の口調は、いつもより少しだけ早口に聞こえる気がした。どうやら東屋に連れて行かれているようなのは、座らせれば落ち着くとでも思っているのだろうか。妃の不機嫌を宥めなければならないという発想が生まれたなら、それ自体は歓迎すべきことかもしれない。でも、こいつにまともな言い訳が期待できるとも思えないのだ。

「昨晩、伝えるつもりだった。そなたの好みを尊重するが、蔡弘毅を選んでおけば話が早いと。それを、そなたが騒ぎ出したから言う隙もなかったのだ」
「私のせいにしないでよ!」

 声を荒げた時には、もう東屋に着いていた。屋根の下に入れば、日差しが遮られて涼しい空気が火照った肌を撫でる。半ば無理矢理に座らされた石造りの椅子もひんやりとして心地良い。けれどもちろん、怒りを収める理由にはならない。怒りだけでなく不安も疑問も、尽きることなく湧いてくる。

「……どうしてバレたの? 本当に黙っててくれるの? 他には漏れてないでしょうね」

 並べたてる間に炎俊も朱華の隣に掛けたから、その動きにつれて目線も下げることになった。最後には夫の横顔を覗き込みながらの問いかけになる。聡明ではあるらしい皇子が放置しているなら大丈夫だろう、と信じたくても、炎俊の人を見る目に全幅の信頼など置けない。ついさっきまで、人の心を慮るところから教えようとしていたくらいなのだから。

「あの者の他には星黎宮に仕える者、特に私の身辺にまで近づく者たちだけだ。後は母が選んだ教師も、か。しかし、母の実家の者たちでさえ知らぬ。知っていたらこの宮を得るのには反対しただろうからな」
「そう、なの……」

 炎俊は軽く溜息を吐いてから口を開いた。多分、朱華の怒声を恐れているのだろう。朱華としては、面倒がるくらいなら、適切な口の利き方や情報の与え方をさっさと学んで欲しいものだと思う。

「あの者については……拾挙の合格者と手合わせをする機会があった。その場では何事もなかったが、あの者が後日訪ねてきたのだ。私の身体の使い方にどうも違和感を覚えてならなかった、もしかしたら、と」

 しかも、肝心の蔡弘毅に話が及ぶと、朱華のほんのわずかの安堵も吹き飛んだ。

「え……男と女でそんなに違うの? 手合わせすれば分かっちゃうくらい……?」

 皇族に、直に技量を見せる機会はきっと大層な名誉なのだろう。だから、緊張も興奮もするのだろうに。蔡弘毅がその程度の切っ掛けで気付いたのだとしたら、他の者が気付くことだって十分にあり得るのではないだろうか。

 怒る以上に不安になって口元を抑える朱華を横目に、炎俊はごくあっさりと肩を竦めた。

「あの者の他に言われたことはないし聞いたこともない。皇子のために選ばれた教師の誰も、だ。よくよく問い質してみたが、蔡の目と勘が良すぎるとしか考えられぬ」
「だから側近に加えたのね……?」
「そう。どの方面であろうと並外れた《力》の持ち主は貴重だからな。……その方が目も届きやすいし」

 文官の中にただひとり武官が混じっていた理由はそういうことか、と。朱華はやっと得心する。同時に、わずかに低くなった炎俊の声が季節に合わない寒気を覚えさせる。蔡弘毅に不審な動きがあれば、この女は何をする気だろう。身分ある大の男だから、舌を抜くことはできないだろうに。

「あの人が……他の皇子様とかに言わない確信はある? 人質でも取ってるとか……?」

 何か非道な手を打っているからこそ放置しているのでは。そう思って恐る恐る炎俊の横顔を窺ったのだけど。炎俊は、どこか居心地が悪そうに、歯切れ悪く答えた。

「私を陥れるつもりならば、真っ先に兄たちのところに行っていただろう。そもそも私に告げて警戒させる必要もないのだ。脅す気かとも思ったがそのようなことも言い出さなかったし――だから、特別に愚かなのだろうと考えることにした」
「愚か……なのかしらねえ」

 炎俊を見つめていた蔡弘毅の熱い眼差しを思い出して、朱華は肩の力を抜いた。傍で見ているだけで、あの男は主である炎俊皇子に並々ならぬ感情を抱いているようだった。要は一目ぼれで、惚れた弱みというやつだろう。好きな相手に仕えたい、守りたいというならごく自然な感情だ。朱華に平伏したのも納得が行く。皇子と閨を共にした妃は当然その秘密を知っているのだろうから。その上で傍にいる存在だからこそ、頼もしくも思ってくれたのかもしれない。

 朱華の呟きが意外とでもいうように、炎俊は彼女とは逆の方向に首を傾げた。怒鳴られるのを予想していたのに肩透かしだ、と。軽く目を瞠った表情が語っている。

「下手をすれば自身の命もないと、考えなかったのは迂闊ではあろう? 私を脅そうとするほど愚かではなかった、とも言えるが。そなたと子をさせることで罪を負わせればより安心できるだろう?」
「うーん、あの人にとっては可哀想だけどね」

(本当に秘密で縛るのが好きなのね……)

 その意味では、人を信じることを知らない炎俊も哀れなのかもしれないけれど。朱華がこの瞬間に案じるのは、蔡弘毅の心中の方だ。好いた女、主と仰ぐ相手の妻を寝取れと、当の主人から命じられる気分はどのようなものなのだろう。それで忠誠が揺らぐのかどうかは分からないけど、とりあえず辛く悲しいものだろうな、とは分かる。

(私も顔を覚えてるから、そこは良いっちゃ良いけど)

 蔡弘毅を哀れみながら、朱華も狡く勝手なことを考える。炎俊の秘密を知った上で誰にも言わないでいるというなら、少なくとも正直で誠実な人柄ではあるのだろう。閨を共にすることになっても、そう酷い目には合わされないと、期待できるかもしれない。

「可哀想、とは……?」

そして、炎俊にその辺りの機微を説明するのにひと悶着ありそうだった。この女を納得させる言葉を捻り出そうとした朱華は、ぱたぱたという軽い足音に気を逸らされる。東屋へ向かってくる者がいるのだ。先ほど辿った小路に遠見の焦点を合わせると、すぐに侍女の紫薇が、半ば走るような足取りで駆けてきているのが視える。

 遠見を使ったのは炎俊も同じだったのだろう。紫薇が東屋に辿り着いて平伏する頃には、彼女は既に立ち上がっていた。

「長春君様、陶妃様。こちらにいらっしゃいましたか」
「何事か」

 いつもは落ち着いた様子の紫薇が息を乱しているのを見るのは初めてだ。どんな理由があってのことか──朱華もことの次第を確かめようと、慌てて炎俊の横に並んだ。
皓華こうか宮より使いが参りました。三の君様が、取り急ぎ我が君様にお会いしたいと――」

(皓華宮って……あの、佳燕かえん様の……?)

 皓華宮といえば、第三皇子の宮だ。その名を聞いて、妃たちの茶会で会った佳人の姿が朱華の脳裏を過ぎる。夫君たる第三皇子の寵愛を独占している方だ。にも関わらずどこか陰りのあった表情を思い出すと、なんとなく、嫌な予感がしてならなかった。
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