上 下
20 / 49
四章 気持ちの授業

3.真面目で勤勉な旦那様

しおりを挟む
「……おはよ」
「おはよう」

 炎俊は寝覚めも寝相も良いのは、何度か共に過ごした朝からはっきり分かっている。閨を囲む帳を透かして朝の光が射し、一日の始まりの気配に朱華が伸びをすると、炎俊は目を擦ることもなく半身を起こしているのが常だった。寝相が良い証拠に襟元もしっかりと閉じているから、女であることをつい忘れそうになるほどだ。

長春君ちょうしゅんくん様、陶妃様。今日もご機嫌うるわしゅういらっしゃいますか」

 ふたり分の身じろぎを素早く感じ取って、紫薇がすかさず声を掛けてくるのもいつも通りだった。これから着替えて髪を整え、朝食を摂る。その後で政に赴く炎俊を見送るのが、星黎宮に来てからの朱華の日課だったのだけど――

「今日は一日星黎宮ここで過ごす。表にそのように遣いを出しておくれ」
「かしこまりました」

 今日に限って、炎俊は床に素足をつけながらそう命じ、朱華の目を瞠らせた。炎俊がごく真面目で勤勉なのは既に分かっている。だらだらと引き籠って一日を無駄にするなど、この女には似合わないのに。

「……なんで? 具合でも悪いの?」
「いいや」

 顔色からして違うのを知りつつ尋ねてみると、やはり否定が返ってくる。ならばなぜ、と。顔に浮かんだのを読みとったのだろう、炎俊は口に出さない問いにも答えてくれた。

「昨晩、教えると言っただろう。……もう忘れたのか?」
「……まさか。あんたが覚えていたことにちょっと驚いただけよ」

 朱華が一層目を見開いたのを見て、夫は咎めるように軽く目を細めた。逃がさない、とでも言うかのように。

(本当に……真面目で勤勉なのね……!)

 朱華としては、早くて今日の夜にでも話すことだろうと思っていたのに。好奇心旺盛で勉強熱心、と。朱華は夫の美徳をまた幾つか思い知らされることになった。人の都合や気持ちを考えないという欠点と併せて、ではあるけれど。

      * * *

 朝食を終えた後、朱華は炎俊と並んで星黎宮の庭を散策することになった。本来なら朱華以外にも何人もの妃がいてもおかしくない場所だから、連日見て回ってもまだ飽きない程度の規模がある。

 季節は初夏。木々の緑は色鮮やかで、石畳で整えられた小路や小ぢんまりとした東屋あずまやなども様々な花に彩られている。足を進めるうちに辿り着いた池には白や薄桃色、紫色の睡蓮が咲き乱れ、水面を渡る風が額に薄く浮いた汗を乾かしてくれる。美しくも穏やかで和やかな光景だけど、あいにく、今の朱華にそれを楽しむ余裕はない。炎俊に思い遣りとはいかなるものかを教えるのは、想像以上の難題だったのだ。

「だからね、要は相手の立場になって考えるってことよ。自分のことを考えてくれてる――覚えてくれてるとか、配慮してくれてるとか、そういう気持ちが嬉しいの」

 もどかしさに、絹のくつの爪先で青草を軽く蹴りながら、朱華はどうにか夫を納得させようとしている。炎俊はごく真面目な面持ちで彼女の言葉に耳を傾けてはいるけれど、真剣だからこそこの「生徒」の問いは鋭くて、即席の教師の手に余る。

「皇族が臣下の立場に、など……考えるだけでもおぞましい」
「何も別にへりくだれってことじゃなくて……」

 娼館の客にも娼婦にも手管は色々ある。少しやり方を変えるだけで、後宮や皇宮でも立派に通用するのではないかとも思う。でも、皇族がそれに倣う訳にはいかないのも分かるから、朱華の語勢は頼りなく弱まってしまう。

「文官に乱を鎮圧しろとは命じないし、武官に飢饉の対策を命じたりはしない、でしょ?」
「それは各々の能力を見て人を配するということ。当然のことだ」
「そこからもう少し進みましょうか。そうね、得意な分野を任せてあげるとか、希望の任地に送ってあげるとか。病気の奥さんとか親がいたら、楽な仕事に回してあげるとか」

 炎俊が軽く眉を寄せたのを見て、朱華は溜息を吐いた。形の良い唇はまだ動いていないけれど、次に何を言おうとしているのか、はっきりと聞こえた気がしたのだ。

「……面倒なことをわざわざしてくれたと思うから、ありがたがるんだと思うわよ……?」

 供の者を一切連れて来なくて正解だった、と思う。物分かりが良いのだか悪いのだか分からない「生徒」を相手に、名家の姫君らしく振る舞い続けるなんて考えただけでもおかしくなりそうだ。唸ったり溜息を吐いたり、時に地団駄を踏んだりしなければやってられない。それに、爽やかな木々や花や水の香りもあって良かった。これが屋内で、目に入るのが炎俊の整った顔ばかりだったら、さぞ鬱憤が溜まったことだろう。

 紫薇たちは今頃、朱華だけの寝室を整えていてくれる。名ばかりの夫と一緒の部屋ではなく、ひとりで思い切り手足を伸ばして眠れるようになれば、毎日の気力も湧くだろうか。

(寝る時くらいは何も考えたくないものね……)

 偽物であることの気の重さも、陰謀渦巻く後宮の恐ろしさも。……配慮の足りない夫のことも。当の夫である炎俊はというと、麗しい庭も朱華の呆れも、目に映ってはいないかのような真顔で首を傾げているのだけど。

「働きに報いて褒美を与えるのとはどう違う?」
「それも必要なんでしょうね。でも、それだけじゃなくて――その人だから、ということよ。特別扱いされるのは嬉しいものでしょう。頼られたり、信じられたり。重んじているってことを、見せてあげるの。……私は、妃なのに何も知らされないのは嫌だったわ。皇子様だからって、誰でも黙って従う訳じゃないのよ」
「妃はともかく、臣下に対しての寵の偏りは諸悪のもとだろう」

(今ひとつ通じないわね……)

 どこまでも真面目で正しく、けれどズレている炎俊に、朱華はもうひとつ溜息をこぼす。この公平さと真っ直ぐさを、拾挙上がりの官吏たちは支持してくれているのかもしれない。でも、彼女と同じ調子で接しているのだとしたら、この先が不安で仕方ない。

「だから、そこを上手くやるんだって。皆が皆、自分は他の連中とは違う、って思うようにさせるの。何をしてもらって喜ぶかは人それぞれよ。お金や地位だけじゃなくて……名誉だったり、色々あるでしょ」
「ふむ……?」
「秘密を教えてもらう、っていうのもあるわね。あんたが私にしたことよ。逃げられないのもあるけど、私はあんたにとって特別なはずって思っちゃうのね」

 秘密を握り合って逃げられない関係に持ち込まれた以上、朱華は炎俊と運命を共にするしかない。帝位まで上り詰めるか、秘密を暴露されて断罪されるか。後者の末路を避けるためにも、この女にはしっかりしてもらわなければならない。――でも、それだけではない。頼りにさせてほしい、と囁かれた初夜のことは――炎俊にそんなつもりは全くなかっただろうけど――朱華の根っこに大分深く刺さってしまったような気もする。

「あとは――ほら、昨日会ったさい弘毅こうき様とか。あの人は多分あんたが好きよ。だから優しい言葉をかけてあげるだけで大分違うんじゃない? 人からどう思われてるか、そこもよく見れば利用できたりとか――」
「そうなのか? それは、困るな」
「ふうん? 意外とお子様なのね?」

 炎俊の呟きを、朱華は男に好かれたからだと思った。こいつの常識からすれば、男が男に好意を寄せるなど考えられなくてもおかしくない。だから、思いもよらない世界もあるのだと吹き込んで、驚かせてやろうと思ったのだけど――

「あの者はそなたの相手に良いだろうと思っていたのに」
「……なんで?」
「私の身体のことを知っているから。だから、話が早いし秘密を知る者の数も抑えられる」

 揶揄うつもりの笑顔を浮かべたまま、朱華は固まった。目に映る炎俊の笑みは美しく、耳元をくすぐる風は爽やかだ。ただ、全てが遠く現実味がない。朱華の脳は言われたことを理解するのに精いっぱいで、それ以外の感覚に意識を向ける余裕がないのだ。

 炎俊の身体のこと、とは女であること、だろう。主君が妃と子を生せないのを知っているなら、確かに不貞に手を染めるにも抵抗が少ないかもしれない。事情を知らない者に秘密を打ち明ける必要がないのも素晴らしい。理に適っている。

(あの人が……全て知ってる……!?)

 なるほどそうだ、とは――でも、朱華は決して思えなかった。

「全っ然! 良くっ、なーいっ!」

 もう何度目のことになるだろう。朱華の怒声は晴天に響いて炎俊の顔を顰めさせた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

迦国あやかし後宮譚

シアノ
キャラ文芸
旧題 「茉莉花の蕾は後宮で花開く 〜妃に選ばれた理由なんて私が一番知りたい〜 」 第13回恋愛大賞編集部賞受賞作 タイトルを変更し、「迦国あやかし後宮譚」として現在3巻まで刊行しました。 コミカライズもアルファノルンコミックスより全3巻発売中です! 妾腹の生まれのため義母から疎まれ、厳しい生活を強いられている莉珠。なんとかこの状況から抜け出したいと考えた彼女は、後宮の宮女になろうと決意をし、家を出る。だが宮女試験の場で、謎の美丈夫から「見つけた」と詰め寄られたかと思ったら、そのまま宮女を飛び越して、皇帝の妃に選ばれてしまった! わけもわからぬままに煌びやかな後宮で暮らすことになった莉珠。しかも後宮には妖たちが驚くほどたくさんいて……!?

視える宮廷女官 ―霊能力で後宮の事件を解決します!―

島崎 紗都子
キャラ文芸
父の手伝いで薬を売るかたわら 生まれ持った霊能力で占いをしながら日々の生活費を稼ぐ蓮花。ある日 突然襲ってきた賊に両親を殺され 自分も命を狙われそうになったところを 景安国の将軍 一颯に助けられ成り行きで後宮の女官に! 持ち前の明るさと霊能力で 後宮の事件を解決していくうちに 蓮花は母の秘密を知ることに――。

逃げるための後宮行きでしたが、なぜか奴が皇帝になっていました

吉高 花
恋愛
◆転生&ループの中華風ファンタジー◆ 第15回恋愛小説大賞「中華・後宮ラブ賞」受賞しました!ありがとうございます! かつて散々腐れ縁だったあいつが「俺たち、もし三十になってもお互いに独身だったら、結婚するか」 なんてことを言ったから、私は密かに三十になるのを待っていた。でもそんな私たちは、仲良く一緒にトラックに轢かれてしまった。 そして転生しても奴を忘れられなかった私は、ある日奴が綺麗なお嫁さんと仲良く微笑み合っている場面を見てしまう。 なにあれ! 許せん! 私も別の男と幸せになってやる!  しかしそんな決意もむなしく私はまた、今度は馬車に轢かれて逝ってしまう。 そして二度目。なんと今度は最後の人生をループした。ならば今度は前の記憶をフルに使って今度こそ幸せになってやる! しかし私は気づいてしまった。このままでは、また奴の幸せな姿を見ることになるのでは? それは嫌だ絶対に嫌だ。そうだ! 後宮に行ってしまえば、奴とは会わずにすむじゃない!  そうして私は意気揚々と、女官として後宮に潜り込んだのだった。 奴が、今世では皇帝になっているとも知らずに。 ※タイトル試行錯誤中なのでたまに変わります。最初のタイトルは「ループの二度目は後宮で ~逃げるための後宮でしたが、なぜか奴が皇帝になっていました~」 ※設定は架空なので史実には基づいて「おりません」

私は白い結婚を勘違いしていたみたいです~夫婦の仮面は剥がれない、三十路女性の孤独と友情と愛憎~

釈 余白(しやく)
恋愛
 今まで男性に縁の無かった三十路のバーバラは、ある時、何の前触れもなく同僚のグラムエルに結婚を申し込まれた。もちろん恋人同士ではなかったし、特別親しいわけでもなかった。しかしグラムエルが発した「白い結婚」と言う言葉が気になってしまう。 「結婚なんて所詮は契約、だったらひとりより二人のほうがたのしいだろう?」  そんな口車に乗ってしまい寿退社をして結婚をしたのだが、どうもなにかがおかしかった。確かに家で好きにしていていいと言うのは本当だった。しかしそれはただ退屈で怠惰なだけの生活である。  一体グラムエルは何を望んでいるのか、お互いに何かメリットがあるのだろうかと考え込んでしまうバーバラ。誰にも言えない結婚生活の秘密を抱えながら、表面上は完璧な妻を演じなくてはならない苦悩。かと言って今突然一人になることには恐怖や抵抗があるのだった。  そんな時、元同僚のカトリーヌと偶然出会った。退職までずっと仲良くしていた彼女に思い切って現在の結婚生活を打ち明けてしまったのだ。しかしこれは大失敗だった。  このことを知ったグラムエルに、他人へ夫婦のことを打ち明けるのは恥ずべきことだと言われてしまう。とうとう感情を爆発させたバーバラは、グラムエルと夫婦生活への不満をぶちまけた。それを聞いたグラムエルはバーバラを心配してくれ家庭内の改善を約束した。  翌日、夫婦生活の改善のためにと二人の家に加えられたのは、新たな同居人である友人のカトリーヌだった。

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

ギリシャ神話における略奪婚のその後。

真守 輪
キャラ文芸
親子ほども歳の離れた夫との退屈な結婚生活の中で、久しぶりに出逢った幼馴染の少年は、昔とはまるで違っていた。野生的な美貌。これ見よがしにはだけたシャツの胸元もあたしには、いやらしく見えて不安になる。 親しげに話しかけてくる彼のペースにあたしは、巻き込まれていく。

諦めて溺愛されてください~皇帝陛下の湯たんぽ係やってます~

七瀬京
キャラ文芸
庶民中の庶民、王宮の洗濯係のリリアは、ある日皇帝陛下の『湯たんぽ』係に任命される。 冷酷無比極まりないと評判の皇帝陛下と毎晩同衾するだけの簡単なお仕事だが、皇帝陛下は妙にリリアを気に入ってしまい……??

処理中です...