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三章 広がる世界
5.争いの在り方
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星黎宮に戻る輿に、朱華は炎俊と同乗することになった。
「重くはないでしょうか……?」
「女ひとりが増えたところで何も問題はない。そなたは羽根のように軽いのだから」
平伏する担い手の宦官たちを見下ろしながら、炎俊はこともなげにそんなことを言う。そういう炎俊自身だって、さほどの重さはないだろうに。でも、この女が自身を女に数えないのにももう慣れてきた。だから異を唱えることで時間を無駄にしたりはしない。
「……では、失礼いたします」
一応は宦官たちを気遣ってそっと腰を下ろした朱華とは裏腹に、炎俊は遠慮なく輿に乗り込んできた。ふたりが乗っても、確かに内部には十分な余裕があるけれど、それでも閨の中よりもよほど狭い空間にふたりきりだから、少々落ち着かなくはある。
外の者の目と耳を遠ざける帳が下ろされると、炎俊は朱華の頭をぽん、と撫でた。官吏たちを下がらせて、これから宮に帰るだけとなった今は、髪型が崩れるのを心配する必要もないのだけど、やっぱり犬の仔扱いされている気がしてならない。
「宮まで眠っていると良い。あちこち視たから疲れただろう」
「別に、大丈夫よ。あんただって同じじゃない」
輿は既に動き出し、規則正しい振動が朱華を揺らしている。言われてみれば、ふかふかとした座席に座り込んでしまうともう動きたくなかったし、眠気も忍び寄ってきている。けれど朱華は気力を振り絞って首を振った。だって炎俊は涼しい顔をしているのだから、自分だけ寝るのは何だか悔しい。寝顔を見られるのは、閨の中だけで十分だ。
それに、炎俊に伝えなければいけないこともある。
「……遠くを視たのは楽しかったわ。ああいう見方もあると教えてくれて……ありがとう」
「自在な《目》を持つ者は私にとっても貴重だからな。楽しめたなら何よりだ」
「今日集めた人たちだけじゃなくて、役人は沢山いるんでしょ? 私の出番ってあるの?」
炎俊の政策は、誰でも同じように視ることができるようにすること、つまり、《力》の強弱に関わらず一定の質で情報を集められるようにすること、らしい。
朱華が永州までの標として辿った石塚も、まさにその一環で、炎俊の命で設置されたものだとか。どうやら並み程度の遠見だと距離や方角を把握するのが難しいのは本当らしい。でも、たとえ自身が視たのがどの場所か確信が持てなかったとしても、遠見の視界に目印を見つけることができれば特定はぐんと楽になる。厄介なことに《力》の弱さを恥じてもっともらしい嘘を拵える者もいるという話も出ていた。そういう場合にも、第三者による検証がしやすくなるのは確かに利点だ。
炎俊たちは、街道に限らず、州内のあちこちに塚を建てる予定なのだという。時見の者たちのために、月や日によって異なる色と意匠の旗を掲げることも炎俊たちは検討していた。費用も手間もかかるから、効率とも相談しつつ様子を見ながら、ということだけど。
「あと、名家の方々の出番も。……試挙出身の人たちや下級官吏は多分あんたを歓迎するんでしょうね。でも、歓迎しない人たちも、大勢いそう」
「さすが、我が妃は聡明だ。幸せなこと」
子供が簡単な計算をこなしたのを褒めるような物言いに、朱華は眉を顰めた。この程度の考えも働かないと思われているなら、ずいぶんと舐められたものだ。朱華自身の――ひいては雪莉の身の安全にも関わることなのだから、気になって当然だ。
だから、また頭を撫でようとしてくる手を避けて、夫である相手を睨む。
「誤魔化さないでよ。今はまだ四番目だから相手にされてないのかもしれないけど。ずっとその位置にいる訳にはいかないんでしょ?」
「そう、確かに。名家と呼ばれる者どもは、力を削がれる恐怖を感じるかもしれないな」
「じゃあ……!」
碧羅宮で会った妃たちの、美しくも底が見えない笑みを思い出すと朱華の体温は一気に冷えた。今はあの方々も炎俊を好意的に見ているようだけど、夫君や実家を脅かす存在と見做されたらどうだろう。
(どうしてそう他人事みたいに言えるのよ……!)
炎俊の平然とした笑みが不思議でならない。自身の危険はもとより、朱華も巻き込むかもしれないのに、どうして悪びれた風も見せないのかも。皇族というのが人に頭を下げないものだとしたら、やっぱり朱華はこの女を信用することなどできそうにない。
朱華の目が険しくなったの気付いているのかいないのか、炎俊は顔を前に向けたまま唇を動かす。目に映るのは帳に折り込まれた紋様だけだろうに、この女が思い描く国の未来だとか謀の絵図が見えているかのよう。その全容は、朱華にはまだ窺い知ることができない。だから、その片鱗なりと掴もうと、朱華は夫の横顔に目を凝らした。
「昊耀の歴史は血腥いものでもあるだろう。帝位争いの形が変わったように、一応の対策も考えられてはいる」
「対策って?」
「四つの宮の皇子のうち、誰かひとりでも欠ければ全ての宮の主を入れ替えることになる」
「へ……?」
ひと言も聞き漏らすまいと神経を尖らせていたはずなのに。炎俊の言葉を理解しかねて、朱華は自分の耳を疑うことになった。炎俊は第四皇子と聞かされていて、つまりは皇帝の四番目の息子だとごく自然に理解していたのだけど。この言い方だと――
「……皇帝の子供って四人だけじゃないの!?」
「百花園を設けておいて、それだけで済むはずがないだろう。顔も名前も曖昧だが、空きを待っている人数は両手の指では足りないはず」
ちょうど良くと言うか悪くというか、輿が急な角を曲がり、朱華は身体の均衡を崩して炎俊に身を寄せる格好になった。邪魔そうに身体を押し退けられながら、間近に迫った白い顔を睨め上げる。
「聞いてないんだけど!」
輿がどこを通っているか、朱華は知らない。警戒のために声は潜めつつ、それでも精一杯不快と憤りを目線と表情に込めた。炎俊は軽く肩を竦めただけだったけれど。
「身代わりの姫になど大して期待していなかったのだろうな。とはいえ、百花園の雑草どもならばそなたの知識と大差ないはず。要は見た目さえ美しければ良いのだから」
つまり、朱華は雑草扱いされていたようだ。そして、その程度の知識しかないのに繚乱たる花々の間で競わなければならないらしい。目眩がしそうな気分を味わいながら、朱華は炎俊を問い質した。
「……欠ける、っていうのは!? 死んだら、ってこと?」
「そうだ。対立する兄弟の手によって殺されたと自然に考えられるためだ。肉親殺しの疑いがある者に帝位を渡す訳には行かぬ」
「事故や病気でも?」
「そのように仕組まれた恐れもあるからな。そもそも四人に選ばれる時点で心身共に健康でなければ務まらぬ」
輿の振動と、炎俊が纏うほのかな香を感じながら、朱華は瞬いて沈思した。炎俊が語るのが真実ならば、ずいぶんと優しい倣いのように思える。権勢が陰ることを恐れた名門が、炎俊を狙うということもないのだろうし、何より──
「じゃあ――」
「とはいえ反逆はさすがに話が別だ。簒奪を目論んだ皇子が処刑された例もある」
「そ、そうなの……」
炎俊の秘密がバレても大したことにはならないのではないか、と聞こうとしたのを先回りされて、朱華は口を噤んだ。女が皇子を名乗っているのは、叛逆に相当するのだろうか。妃やその実家にも累が及ぶような罪と見做されるのだろうか。前例があるか否かを尋ねるのは、揺れる輿の中では憚られた。厚い帳はふたりの声を吸い込んでくれるのかもしれないけれど、宦官たちの耳目はすぐ傍にいるのだから。第一――前例がないのだとしたら、皇帝や他の皇子たちが目溢ししてくれる方に賭けるのは分が悪い。
「そなたの力が必要になるとしたら兄上たちとの牽制のし合いにおいて、だろうな。義姉上たちと会って分かっただろうが、なかなか厄介な方々だから」
「……ええ。それは、すごくよく分かったわ……」
何だかんだで、炎俊は聞いたことには答えてくれたらしい。どうして朱華が必要なのか。何をさせるつもりなのか。絶対に順番は間違っているし、知識が増えても全くと言って良いほど喜びも満足感もなかったけれど。
結局、朱華と炎俊が秘密で縛り合った関係だということに変わりはないのだ。そして関係を進めて信頼し合えるかというと――どうだろう。まだ、朱華が知らないことが多すぎるのではないかという気がしてならなかった。
「……やっぱり、少し寝るわ……」
「そうすると良い」
急に疲れが押し寄せた気がして呟くと、炎俊は少し笑ったようだった。朱華はもう目を閉じて、相手の顔も見たくない気分だったから、分からないのだけど。
「重くはないでしょうか……?」
「女ひとりが増えたところで何も問題はない。そなたは羽根のように軽いのだから」
平伏する担い手の宦官たちを見下ろしながら、炎俊はこともなげにそんなことを言う。そういう炎俊自身だって、さほどの重さはないだろうに。でも、この女が自身を女に数えないのにももう慣れてきた。だから異を唱えることで時間を無駄にしたりはしない。
「……では、失礼いたします」
一応は宦官たちを気遣ってそっと腰を下ろした朱華とは裏腹に、炎俊は遠慮なく輿に乗り込んできた。ふたりが乗っても、確かに内部には十分な余裕があるけれど、それでも閨の中よりもよほど狭い空間にふたりきりだから、少々落ち着かなくはある。
外の者の目と耳を遠ざける帳が下ろされると、炎俊は朱華の頭をぽん、と撫でた。官吏たちを下がらせて、これから宮に帰るだけとなった今は、髪型が崩れるのを心配する必要もないのだけど、やっぱり犬の仔扱いされている気がしてならない。
「宮まで眠っていると良い。あちこち視たから疲れただろう」
「別に、大丈夫よ。あんただって同じじゃない」
輿は既に動き出し、規則正しい振動が朱華を揺らしている。言われてみれば、ふかふかとした座席に座り込んでしまうともう動きたくなかったし、眠気も忍び寄ってきている。けれど朱華は気力を振り絞って首を振った。だって炎俊は涼しい顔をしているのだから、自分だけ寝るのは何だか悔しい。寝顔を見られるのは、閨の中だけで十分だ。
それに、炎俊に伝えなければいけないこともある。
「……遠くを視たのは楽しかったわ。ああいう見方もあると教えてくれて……ありがとう」
「自在な《目》を持つ者は私にとっても貴重だからな。楽しめたなら何よりだ」
「今日集めた人たちだけじゃなくて、役人は沢山いるんでしょ? 私の出番ってあるの?」
炎俊の政策は、誰でも同じように視ることができるようにすること、つまり、《力》の強弱に関わらず一定の質で情報を集められるようにすること、らしい。
朱華が永州までの標として辿った石塚も、まさにその一環で、炎俊の命で設置されたものだとか。どうやら並み程度の遠見だと距離や方角を把握するのが難しいのは本当らしい。でも、たとえ自身が視たのがどの場所か確信が持てなかったとしても、遠見の視界に目印を見つけることができれば特定はぐんと楽になる。厄介なことに《力》の弱さを恥じてもっともらしい嘘を拵える者もいるという話も出ていた。そういう場合にも、第三者による検証がしやすくなるのは確かに利点だ。
炎俊たちは、街道に限らず、州内のあちこちに塚を建てる予定なのだという。時見の者たちのために、月や日によって異なる色と意匠の旗を掲げることも炎俊たちは検討していた。費用も手間もかかるから、効率とも相談しつつ様子を見ながら、ということだけど。
「あと、名家の方々の出番も。……試挙出身の人たちや下級官吏は多分あんたを歓迎するんでしょうね。でも、歓迎しない人たちも、大勢いそう」
「さすが、我が妃は聡明だ。幸せなこと」
子供が簡単な計算をこなしたのを褒めるような物言いに、朱華は眉を顰めた。この程度の考えも働かないと思われているなら、ずいぶんと舐められたものだ。朱華自身の――ひいては雪莉の身の安全にも関わることなのだから、気になって当然だ。
だから、また頭を撫でようとしてくる手を避けて、夫である相手を睨む。
「誤魔化さないでよ。今はまだ四番目だから相手にされてないのかもしれないけど。ずっとその位置にいる訳にはいかないんでしょ?」
「そう、確かに。名家と呼ばれる者どもは、力を削がれる恐怖を感じるかもしれないな」
「じゃあ……!」
碧羅宮で会った妃たちの、美しくも底が見えない笑みを思い出すと朱華の体温は一気に冷えた。今はあの方々も炎俊を好意的に見ているようだけど、夫君や実家を脅かす存在と見做されたらどうだろう。
(どうしてそう他人事みたいに言えるのよ……!)
炎俊の平然とした笑みが不思議でならない。自身の危険はもとより、朱華も巻き込むかもしれないのに、どうして悪びれた風も見せないのかも。皇族というのが人に頭を下げないものだとしたら、やっぱり朱華はこの女を信用することなどできそうにない。
朱華の目が険しくなったの気付いているのかいないのか、炎俊は顔を前に向けたまま唇を動かす。目に映るのは帳に折り込まれた紋様だけだろうに、この女が思い描く国の未来だとか謀の絵図が見えているかのよう。その全容は、朱華にはまだ窺い知ることができない。だから、その片鱗なりと掴もうと、朱華は夫の横顔に目を凝らした。
「昊耀の歴史は血腥いものでもあるだろう。帝位争いの形が変わったように、一応の対策も考えられてはいる」
「対策って?」
「四つの宮の皇子のうち、誰かひとりでも欠ければ全ての宮の主を入れ替えることになる」
「へ……?」
ひと言も聞き漏らすまいと神経を尖らせていたはずなのに。炎俊の言葉を理解しかねて、朱華は自分の耳を疑うことになった。炎俊は第四皇子と聞かされていて、つまりは皇帝の四番目の息子だとごく自然に理解していたのだけど。この言い方だと――
「……皇帝の子供って四人だけじゃないの!?」
「百花園を設けておいて、それだけで済むはずがないだろう。顔も名前も曖昧だが、空きを待っている人数は両手の指では足りないはず」
ちょうど良くと言うか悪くというか、輿が急な角を曲がり、朱華は身体の均衡を崩して炎俊に身を寄せる格好になった。邪魔そうに身体を押し退けられながら、間近に迫った白い顔を睨め上げる。
「聞いてないんだけど!」
輿がどこを通っているか、朱華は知らない。警戒のために声は潜めつつ、それでも精一杯不快と憤りを目線と表情に込めた。炎俊は軽く肩を竦めただけだったけれど。
「身代わりの姫になど大して期待していなかったのだろうな。とはいえ、百花園の雑草どもならばそなたの知識と大差ないはず。要は見た目さえ美しければ良いのだから」
つまり、朱華は雑草扱いされていたようだ。そして、その程度の知識しかないのに繚乱たる花々の間で競わなければならないらしい。目眩がしそうな気分を味わいながら、朱華は炎俊を問い質した。
「……欠ける、っていうのは!? 死んだら、ってこと?」
「そうだ。対立する兄弟の手によって殺されたと自然に考えられるためだ。肉親殺しの疑いがある者に帝位を渡す訳には行かぬ」
「事故や病気でも?」
「そのように仕組まれた恐れもあるからな。そもそも四人に選ばれる時点で心身共に健康でなければ務まらぬ」
輿の振動と、炎俊が纏うほのかな香を感じながら、朱華は瞬いて沈思した。炎俊が語るのが真実ならば、ずいぶんと優しい倣いのように思える。権勢が陰ることを恐れた名門が、炎俊を狙うということもないのだろうし、何より──
「じゃあ――」
「とはいえ反逆はさすがに話が別だ。簒奪を目論んだ皇子が処刑された例もある」
「そ、そうなの……」
炎俊の秘密がバレても大したことにはならないのではないか、と聞こうとしたのを先回りされて、朱華は口を噤んだ。女が皇子を名乗っているのは、叛逆に相当するのだろうか。妃やその実家にも累が及ぶような罪と見做されるのだろうか。前例があるか否かを尋ねるのは、揺れる輿の中では憚られた。厚い帳はふたりの声を吸い込んでくれるのかもしれないけれど、宦官たちの耳目はすぐ傍にいるのだから。第一――前例がないのだとしたら、皇帝や他の皇子たちが目溢ししてくれる方に賭けるのは分が悪い。
「そなたの力が必要になるとしたら兄上たちとの牽制のし合いにおいて、だろうな。義姉上たちと会って分かっただろうが、なかなか厄介な方々だから」
「……ええ。それは、すごくよく分かったわ……」
何だかんだで、炎俊は聞いたことには答えてくれたらしい。どうして朱華が必要なのか。何をさせるつもりなのか。絶対に順番は間違っているし、知識が増えても全くと言って良いほど喜びも満足感もなかったけれど。
結局、朱華と炎俊が秘密で縛り合った関係だということに変わりはないのだ。そして関係を進めて信頼し合えるかというと――どうだろう。まだ、朱華が知らないことが多すぎるのではないかという気がしてならなかった。
「……やっぱり、少し寝るわ……」
「そうすると良い」
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