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三章 広がる世界

2.遠見の本領

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「……まあ、そのようなこと――父や兄ならば容易いのでしょうが。女の身には、できますかどうか……」

 無茶な命令に声が尖りそうになるのを必死にこらえて、朱華は淑やかに首を傾げてみせた。多分、本物の名家の姫君が同じことを命じられた時にするであろうように。

「陶家では、姫君には統治の教育は施されないのですね?」

 目を輝かせて尋ねてきた文官の名は何だっただろう。趙だったか、王だったか──何だか四角い顔のやつ、とだけ認識しながら朱華は答える。権門の出ではないという炎俊の側近たちに反感を買われないよう、いかにも勉強不足が恥ずかしいという体を装って。

「はい。私には才がないと思われたのかもしれませんね」

 とはいえ心の中では、何ら恥じ入ってなどいないけれど。だって、礼儀作法や詩歌の教養を教え込まれるだけでも十年近くかかったのだ。他の姫君たちだってそれ以上のことを仕込まれる余裕はそうそうないはずだ。

(試挙も拾挙も、領地ある名家も――男の方が大変なのでしょうね)

 父や兄――もちろん、朱華ではなく「陶家の雪莉姫」から見ての話だ――ならできる、と言ったのには根拠がある。遠見の力は、本来は広い領地をひとところに居ながらにして統治するためのものだ。外敵の侵入や、領内での不穏な動き。山崩れや水害の兆候。名家の当主というものは、屋敷に座しているように見えても、意識は領地のあちこちを油断なく監視して異変の種を探しているのだ。そう、理解していたのだけれど――

「義姉上たちもそこまでの躾をされている方は少ないはずだ。そして雪莉、そなたの父も兄も、永州を視ろと言われてもこの場ではすぐに、とはいかないだろう」
「まあ、陶家の力を信じていただけないのでしょうか」

 炎俊に言われて、朱華は思わず声を上げていた。ろくに言葉を交わしたこともない陶家の主やその息子のためではなく、純粋な驚きのために。陶家の領地だってかなりの広さを誇るはずなのだから、当主たちの視界は当然永州にも届くだろうと思うのに。

 けれど炎俊はあの艶然とした微笑みを浮かべて首を振る。

「陶家に限ったことではない。諸侯は自領のどこに目を配るべきか、代々語り伝えるものなのだ。春を告げる花が咲く枝、初雪が降りる峰。流通に滞りがないかどうかなら、幾つかの街を定めて門や市を視れば良い。何もかも、全てを視る必要はないということだ」
「それは――それでも、簡単なことではございませんでしょう? 視る範囲、越えなければいけない距離も……」

 そうだったのですか、とは言えない気がして、朱華は実家を庇う体裁を守った。炎俊の側近たちも、時に頷き、時に視線を交わしながら彼女と炎俊の会話に注目している。彼らもまた、名家の実態を熱心に知ろうとしているようだった。

 場にいる全員に向けた講義ででもあるかのように、炎俊は大庁をぐるりと見渡した。多分、朱華は集った男たちにとっての教材なのだ。名家の姫という生き物がどのような生態なのか、よく見ておくが良い、と。炎俊は側近たちに目で語っているようだった。

「その通り。だから名家に連なる者たちは、決まった方角、決まった距離を視るのに目が慣れ過ぎてているのだ。他所を視ようとしても上手く焦点が合わせられないほどに」
「そんな。視ようとすれば視えますわ。遠見とはそういう《力》なのですから」

 何も知らないからと揶揄われているのを疑って、彼女は眉を顰めて不本意を夫たちに伝える。壁や距離に遮られないだけで、遠見は生身の目に映るものを見るのと何も変わらない。本当に、視ようとすれば視える、としか言えないのだ。

 もちろん、見通すことのできる距離の長短が、すなわち《力》の強弱ではあるのだろう。《力》が弱い者が視えないというのはまだ分かる。けれど、名家に連なる者たちが、自領以外にはその力を発揮できないというのは今ひとつ理解できないことだった。

(そんなはず、ないでしょうよ……)

 どういうつもりか、とじっとりと睨んだ――はずが、どういう訳か朱華の夫は破顔した。

「私もそう思う。そなたならそう言ってくれると思っていた」
 晴れやかな、心から嬉しそうな笑顔は、もしかしたら初めて見るものかもしれない。まるで、朱華の言葉に我が意を得たりとでも言うかのような。
「遠見を名乗るならば本来そうあらねばならぬ。だから雪莉、試してみるが良い。そなたにはできるはずだ。──私も手伝うから」

 朱華が戸惑い瞬く隙に、炎俊はそう囁くと彼女の手を握ってきた。長い指に硬い掌は、同じ女のものとは思えない。けれどしなやかで美しく、不覚にもどきりとしてしまう。

「て、手伝う……?」

 少し、顔が赤くなってしまっているかもしれない。急に夫に手を握られた新妻だとすれば、不審ではないだろうけれど。上擦る声での呟きに応えるのは、先ほどと同じ、楽しげな満面の笑みだった。それに、自信に満ちた迷いない声。その声が、標(しるべ)となって朱華の目を導いてくれる。

「永州はあちらの方角だ。皇宮の外に広がる皇都の街並みを越えて、建祥門――北の城門の向こう。街道を辿って進め。鳥になったような気で」

 炎俊に言われたままの光景が、朱華の《目》に浮かんだ。これほどに遠くの景色を視ようとしたのは初めてだったけれど、そこに視るべきものがあると教えられれば、視線を届けるのは容易かった。本物の雪莉と陶家の庭で遊んだ時を思い出す。木の枝に止まった小鳥、葉の影に隠れた蝶――一度そこにいると気付けば、見過ごしようもない。それと同じように、今まで見ていなかった世界があると、炎俊の言葉が教えてくれた。

(あ、面白い……!)

 眼前を覆った幕が次々と取り払われて、世界が広がっていくかのようだった。目の前の卓も男たちももはや意識になく、朱華の《目》は遥かな外を追う。壮麗な皇宮を出て、下々が暮らす街並みを通り過ぎて。城門を出た先は、朱華が直に見たことがない景色だ。

 皇都へ入ろうとする者、これから出て行こうとする者。あるいは荷を背負い、牛や馬に車を曳かせて。馬車や牛車の荷台に積まれたか樽やら箱やらは何かしらの商品だろうか。薄汚れた衣服で汗を拭う御者の横を、金持ちの物見遊山なのか瀟洒な輿が通り過ぎる。
 遠見では音を聞くことはできないけれど、城門の辺りの喧騒や賑わいはよく分かった。皇都は旅の始まりか終わりの場所だから、屯する人々の顔は明るく、彼らのしきりに動く口が紡ぐのが明るい言葉だろうと容易に思い浮かべることができるから。

 朱華のそれを握る炎俊の手に、少し力が篭った。市場で目移りして、ふらふらとさ迷って迷子になりそうな子供を御するかのよう。

「青い|甕(かめ)を積んだ牛車がいるのが視えるか?」
「ええ。白い髭のおじいさんと――孫かしら。ふふ、男の子が草の葉を振り回して……」

 とはいえ、浮かれている自覚はあるから、子供扱いでも今はそう気にならない。むしろ、炎俊とふたりで皇都の城門辺りを散策しているような感覚は楽しかった。同じ《力》を持つ者と同じ光景を視るのも、彼女には初めてのことだった。

「南方の酒を仕入れた帰り道かな。彼らが進む方向が永州だ」
「白い石碑が続いている方?」

 街道の脇に、人の腰の高さほどの石碑が立っている。その方向に《目》を向ければ、肉眼ならば見えるか見えなくなるか、くらいの距離にまたひとつ、同じような白が見える。そして視界の果てるあたりに、またひとつ。街道に沿って並ぶ石碑の表面には、数字が順番に彫りつけられている。皇都から離れるほど大きくなる数字は、まるで――

「これは、目印なのかしら?」
「そうだな、旅人にとっても、遠見にとっても。石碑に目が追いついたら、次を探せ。そうして辿るうちに永州に着く」
「分かったわ」

 炎俊の言葉は本当だった。城壁の外の世界はあまりに広くて、漫然と見渡すだけではどこに焦点を当てれば良いか分からなくなってしまっただろう。でも、街道に加えて石碑という標があれば分かりやすい。
 旅人や商人を追い抜いて、川を越え丘を登り、豊かな緑や道端の花、草を食む牛や羊の群れも目に留めつつ、途中の小さな村や町の暮らしもちらりと眺めて――そうして、石碑の数が二十を越えた頃に、朱華はやっと辿り着いた。

「『永』の字の旗が立つ城門――この先が、永州、なのね?」

 尋ねると、炎俊が手を握ったまま笑う気配がした。すぐ傍らにいるのに、今の朱華には遠い。彼女の《目》は、遥かな地を見ているから。炎俊もきっと同じだろう。

「そうだ。もう少し、行けるか? 我が領を案内してやろう」

 肉眼でも遠見でもない幻の光景が、朱華には見える気がした。一歩先を進む炎俊が、彼女の手を引いて振り返りながら微笑むのだ。もしかしたら、夫婦での小旅行とか散歩とか、そんなものに相当するのかもしれなかった。
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