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一章 偽の姫、天遊林に入る
2.退屈の終わり
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「はあ……退屈……」
朱華は、自室の長椅子にしどけなく座って干した棗を齧っていた。物憂げな溜息、と麗しく形容するには、不機嫌も露な呟きは吐き捨てるような響きがあるだろう。
雪莉を名乗って天遊林に入って早ひと月が過ぎようとしている。この間、新入りを品定めしようと、茶会だの庭遊びだのの誘いが絶えなかった。そのいずれも、朱華は上手く切り抜けた、と思う。《力》と美貌と、ついでに陶家が気合を入れた華やかな装いで、女たちを黙らせてやったはずだ。……なぜ黙ってしまうのか、朱華にはとても不思議でならないのだけれど。
「そりゃあね? 礼儀作法は完璧に仕込まれたし、お姫様たちの名前も顔もご実家の来歴もきっちりしっかり暗記してたわよ? でも、誰かひとりくらいはもっと突っ込んでくるかと思ってたのに」
朱華には話し相手になるような親しい侍女や召使はいない。だから、愚痴めいた呟きはひたすら宙に向けての独り言だ。これが陶家の屋敷だったら、雪莉が優しく頷いて彼女を宥めてくれただろうに。
(《力》を持っている人たちのはずなのに何も視てないのよね。楽だけど、拍子抜け、というか……かえって疲れる、かも)
力を試す類の遊びも、何度もやった。複雑なからくり仕掛けを遠見を使って解いてみせた者もいたし、時見の者なら朝食に何を食べたとか、数日後の天気を言い当てる者もいた。未来視をした場合は、答え合わせがまた集まる口実になったりもするのだ。
「でも……それってお遊びじゃない……」
余興の場での力の使い方に優れた者はいても、誰ひとりとして朱華の正体を言い当てる者はいなかった。安堵すべきことなのかもしれないけれど、気負って乗り込んで来た身としては肩透かしも甚だしい。
「天遊林って変なとこ!」
再び溜息を吐きつつ、やや乱暴に脚を組む。姫にはあるまじきはしたなさだが、誰に見られることもないから良いだろう。遠見の《力》は間諜にも最適だけど、貴人の住まいは覗き見を防ぐための諸々の呪いが施されているものだ。完璧な淑女を演じるのは肩が凝るもの。私室で息抜きをするくらいは許してほしいものだった。でも――
「何と無作法な。陶家の名を汚す振る舞いは慎むが良い」
低い、けれどよく通る声に叱責されて、朱華は慌てて背筋を正した。音もなく影のように彼女の間近に迫っていたのは、峯という老侍女だった。背高く痩せて、鋭い目つきは猛禽のよう。陶家から送り込まれた、朱華の目付役だ。
「……人前ではちゃんとしてるでしょ。時と場合は弁えてるわ」
峯の筋ばった指先が不穏に蠢いたのを見て、朱華の声は硬く尖る。陶家に拾われた彼女を躾けたのがこの女だった。主家の血を引かない、生まれの卑しい子供に対して容赦はされず、手を上げられたり鞭が持ち出されたりすることもしばしばだった。天遊林に入った今、痣を残すようなことはしいだろうけど、身体に刻まれた恐れが蘇ってしまうのだ。
峯は、朱華を怯えさせたのを見てとりあえず満足したようだった。薄く色のない唇が弧を描いて余裕ある笑みを形作る。
「お前がしくじれば罪は雪莉様にも及ぶ。心することだ」
「……分かってる」
主家の「本当の」姫を盾にする物言いに、朱華の腸(はらわた)は煮えくり返る。けれど逆らうことはできなかった。彼女の素性が露見すれば、陶家の者は幼児だろうと使用人だろうとひとり残らず死を賜るだろう。朱華に名を貸した雪莉がどのような罰を与えられるか、考えるだけで恐ろしい。
峯の――陶家の言いなりになるしかないと、頭では分かっている。けれどこちらを見下ろす老女の冷ややかな目は気に入らなかった。だから朱華は精一杯、反抗的な口調と目つきで食い下がる。
「雪莉様はお元気なんでしょうね」
「無論。正式に宮を賜れば侍女なりとしてお呼びすることも叶うと言っているであろう。全てはお前の働き次第ということだ」
問い質したところで、峯の冷然とした笑みに跳ね返されて、唇を噛むしかないのだけど。
(本当に? 信用できたものじゃない……!)
厳重に呪が施された陶家の屋敷は、朱華の目をもってしても視ることができない。家名にふさわしい《力》を持たなかったゆえに屋敷の奥で隠されるように暮らす方の様子を知るには、峯たち陶家の者の言葉に頼るしかない。せめて手紙のやり取りをしようにも、万が一にも他家の者の手に渡ることを恐れて許されないくらいなのだ。
贅を凝らした衣装が、枷のように重く煩わしかった。多くの女にとって、天遊林に入って妃の位を得るのが夢であり憧れなのだろう。けれど朱華にとってはそれは手段でしかない。陶家の支配を逃れるため、それだけの力を得るための。
歯噛みする朱華に、峯は意味ありげに微笑んだ。
「喜ぶが良い。陶家の姫の評判は、皇族方にも届いたようだ」
「へえ?」
間を持たせた割に、峯の報せは驚くべきものではなかった。天遊林で行われることの全ては、皇族、特に帝位を競い合う皇子たちの耳目に入っているはず。皇子たち自身が遠見を使って視ていてもおかしくはない。むしろ、予定通りとさえ言えるだろう。
(このババア、ちょっとはしゃぎすぎじゃないかしら?)
表情を変えない朱華に、でも、峯は笑みを深めた。萎びた顔に深い皺が寄り、それがなぜか朱華に嫌な予感を覚えさせる。
「第四皇子の炎俊殿下がお前を望んでおられる。今宵、早速閨に侍るのだ。今から支度をしなくては」
「……へえ?」
辛うじて先ほどと同じ相槌を打ちながら、朱華は内心で舌打ちしていた。朱華を動揺させたのがよほど愉しいのだろう、峯は糸のように目を細めていた。
「どうした? まさか恐ろしいなどとは言い出すまいな?」
「……まさか。待っていたくらいよ」
朱華の顔だか《力》だか分からないけど、皇子の目に留まったならめでたいことだ。身体を捧げるのも、覚悟してきたこと。雪莉が同じ目に遭うよりはよほど良い。ただ、彼女の予想よりも話が急だった。だから、少し驚いただけ。本当に、それだけのことだ。
朱華は、自室の長椅子にしどけなく座って干した棗を齧っていた。物憂げな溜息、と麗しく形容するには、不機嫌も露な呟きは吐き捨てるような響きがあるだろう。
雪莉を名乗って天遊林に入って早ひと月が過ぎようとしている。この間、新入りを品定めしようと、茶会だの庭遊びだのの誘いが絶えなかった。そのいずれも、朱華は上手く切り抜けた、と思う。《力》と美貌と、ついでに陶家が気合を入れた華やかな装いで、女たちを黙らせてやったはずだ。……なぜ黙ってしまうのか、朱華にはとても不思議でならないのだけれど。
「そりゃあね? 礼儀作法は完璧に仕込まれたし、お姫様たちの名前も顔もご実家の来歴もきっちりしっかり暗記してたわよ? でも、誰かひとりくらいはもっと突っ込んでくるかと思ってたのに」
朱華には話し相手になるような親しい侍女や召使はいない。だから、愚痴めいた呟きはひたすら宙に向けての独り言だ。これが陶家の屋敷だったら、雪莉が優しく頷いて彼女を宥めてくれただろうに。
(《力》を持っている人たちのはずなのに何も視てないのよね。楽だけど、拍子抜け、というか……かえって疲れる、かも)
力を試す類の遊びも、何度もやった。複雑なからくり仕掛けを遠見を使って解いてみせた者もいたし、時見の者なら朝食に何を食べたとか、数日後の天気を言い当てる者もいた。未来視をした場合は、答え合わせがまた集まる口実になったりもするのだ。
「でも……それってお遊びじゃない……」
余興の場での力の使い方に優れた者はいても、誰ひとりとして朱華の正体を言い当てる者はいなかった。安堵すべきことなのかもしれないけれど、気負って乗り込んで来た身としては肩透かしも甚だしい。
「天遊林って変なとこ!」
再び溜息を吐きつつ、やや乱暴に脚を組む。姫にはあるまじきはしたなさだが、誰に見られることもないから良いだろう。遠見の《力》は間諜にも最適だけど、貴人の住まいは覗き見を防ぐための諸々の呪いが施されているものだ。完璧な淑女を演じるのは肩が凝るもの。私室で息抜きをするくらいは許してほしいものだった。でも――
「何と無作法な。陶家の名を汚す振る舞いは慎むが良い」
低い、けれどよく通る声に叱責されて、朱華は慌てて背筋を正した。音もなく影のように彼女の間近に迫っていたのは、峯という老侍女だった。背高く痩せて、鋭い目つきは猛禽のよう。陶家から送り込まれた、朱華の目付役だ。
「……人前ではちゃんとしてるでしょ。時と場合は弁えてるわ」
峯の筋ばった指先が不穏に蠢いたのを見て、朱華の声は硬く尖る。陶家に拾われた彼女を躾けたのがこの女だった。主家の血を引かない、生まれの卑しい子供に対して容赦はされず、手を上げられたり鞭が持ち出されたりすることもしばしばだった。天遊林に入った今、痣を残すようなことはしいだろうけど、身体に刻まれた恐れが蘇ってしまうのだ。
峯は、朱華を怯えさせたのを見てとりあえず満足したようだった。薄く色のない唇が弧を描いて余裕ある笑みを形作る。
「お前がしくじれば罪は雪莉様にも及ぶ。心することだ」
「……分かってる」
主家の「本当の」姫を盾にする物言いに、朱華の腸(はらわた)は煮えくり返る。けれど逆らうことはできなかった。彼女の素性が露見すれば、陶家の者は幼児だろうと使用人だろうとひとり残らず死を賜るだろう。朱華に名を貸した雪莉がどのような罰を与えられるか、考えるだけで恐ろしい。
峯の――陶家の言いなりになるしかないと、頭では分かっている。けれどこちらを見下ろす老女の冷ややかな目は気に入らなかった。だから朱華は精一杯、反抗的な口調と目つきで食い下がる。
「雪莉様はお元気なんでしょうね」
「無論。正式に宮を賜れば侍女なりとしてお呼びすることも叶うと言っているであろう。全てはお前の働き次第ということだ」
問い質したところで、峯の冷然とした笑みに跳ね返されて、唇を噛むしかないのだけど。
(本当に? 信用できたものじゃない……!)
厳重に呪が施された陶家の屋敷は、朱華の目をもってしても視ることができない。家名にふさわしい《力》を持たなかったゆえに屋敷の奥で隠されるように暮らす方の様子を知るには、峯たち陶家の者の言葉に頼るしかない。せめて手紙のやり取りをしようにも、万が一にも他家の者の手に渡ることを恐れて許されないくらいなのだ。
贅を凝らした衣装が、枷のように重く煩わしかった。多くの女にとって、天遊林に入って妃の位を得るのが夢であり憧れなのだろう。けれど朱華にとってはそれは手段でしかない。陶家の支配を逃れるため、それだけの力を得るための。
歯噛みする朱華に、峯は意味ありげに微笑んだ。
「喜ぶが良い。陶家の姫の評判は、皇族方にも届いたようだ」
「へえ?」
間を持たせた割に、峯の報せは驚くべきものではなかった。天遊林で行われることの全ては、皇族、特に帝位を競い合う皇子たちの耳目に入っているはず。皇子たち自身が遠見を使って視ていてもおかしくはない。むしろ、予定通りとさえ言えるだろう。
(このババア、ちょっとはしゃぎすぎじゃないかしら?)
表情を変えない朱華に、でも、峯は笑みを深めた。萎びた顔に深い皺が寄り、それがなぜか朱華に嫌な予感を覚えさせる。
「第四皇子の炎俊殿下がお前を望んでおられる。今宵、早速閨に侍るのだ。今から支度をしなくては」
「……へえ?」
辛うじて先ほどと同じ相槌を打ちながら、朱華は内心で舌打ちしていた。朱華を動揺させたのがよほど愉しいのだろう、峯は糸のように目を細めていた。
「どうした? まさか恐ろしいなどとは言い出すまいな?」
「……まさか。待っていたくらいよ」
朱華の顔だか《力》だか分からないけど、皇子の目に留まったならめでたいことだ。身体を捧げるのも、覚悟してきたこと。雪莉が同じ目に遭うよりはよほど良い。ただ、彼女の予想よりも話が急だった。だから、少し驚いただけ。本当に、それだけのことだ。
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