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序章
別れと旅立ち
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朱華の荷物を纏め終えると、部屋はずいぶんと広く感じられた。すっきりした、というよりも寒々しいと感じるのは、後に残す人がいるからだろう。
「朱華……いよいよ明日、なのね……?」
「ええ。行って来ますわ、雪莉様。すぐにまた会えるように励みますから」
明日旅立つ彼女自身よりも、残される雪莉が涙ぐんでいるのが気の毒で、朱華は同い年の友人の身体を抱き締めた。ぎゅっと背に回される腕の力を感じて、彼女の方こそ泣きそうになってしまいそうなのは、何としても隠さなければ。
「朱華、やっぱりいけないわ。危ないこと、畏れ多いことだもの。今からでも逃げれば──あの、使用人に紛れて……」
「あら、娼館生まれの卑しい娘にはもったいないお話でしょう? ふいにするなんてもったいない。私は、行って参ります」
雪莉の衣の肩口でこっそりと目を拭ってから、朱華は晴れやかに微笑んだ。
ここは、雪莉の生家である名門陶家の屋敷。雪莉は、本来ならば皇族の妃にもなれる生まれなのだ。けれど、それは叶わない。容姿や教養に不足がある訳では決してない。雪莉は、昊耀の国を支える皇家に捧げるための才を持っていないのだ。
広大な帝国を支えるために、天は昊耀の開祖に幾つかの《力》を与えたという。彼方の出来事を見通す遠見、来るべき災害や外敵の襲来を予見する時見。水を御す水流に加護は治水を大きく助け、戦場にあっては闘神の《力》は並の将兵を寄せ付けない。昊耀が長きに渡って栄える理由が、それらの人知を超えた《力》なのだ。
昊耀の皇帝は代々、《力》を受け継ぎ、そして時代が下るにつれて仕える諸家にも婚姻によってその恩恵が分け与えられてきた。そして今では、《力》の継承こそが昊耀の皇族と貴族に課せられた最大の義務とさえ言えるようになっている。ある意味では、血統よりも。名門に生まれた雪莉が《力》を持たない一方で、卑しい生まれの朱華がそれを宿していることもある。朱華は、雪莉の身代わりとして後宮に上がるために育てられてきたのだ。
「衣装も宝石も沢山持たせてもらったし、宮殿を見るのも偉い方々にお目にかかるのも楽しみなんです。ね、だから笑って送り出してくださいな」
「でも、見つかってしまったら……貴女が企んだことではないのに……!」
確かに、皇族に捧げる姫の出自を偽るのは大罪だろう。露見すれば、朱華も雪莉も、陶家の一門もきっと重い罰を賜ることになる。でも──これは、好機でもあるのだ。
「……無事に皇子様の寵愛を賜ることができれば、何もかも私の思い通りになるわ。貴女を助け出すことだって。どこか景色の良いところにお屋敷をもらったりして、私も遊びに行ったりするんです。素敵じゃないですか?」
「でも──」
「大丈夫。私は割と綺麗だし頭も悪くないでしょう? 《力》も強いということだし……きっと、皇子様の御目に留まりますから」
明るい──明るすぎるほどの夢物語は、雪莉だけでなく朱華自身に聞かせるものでもあった。きっと大丈夫だと、自分を騙し切らなければ雪莉の誘いに乗って逃げてしまいそうだから。そんなことをすれば、雪莉がどんな罰を与えられるか知れたものではないのに。
「ほんの少しの間のお別れです。だから、どうか笑って送り出してくださいませ」
「ええ……ええ……」
口ではそんなことを言いながら、ふたりの声は涙に濡れて震えていた。
明日、朱華はこの屋敷を出て皇宮に上がる。朱華という名を捨てて、陶家の雪莉姫として皇子の寵愛を狙うのだ。別の人間になり変わらなければならない朱華と、名もなき者、いるはずのない者に貶められる雪莉と。また互いに会えるかどうかは、誰にも分からない。
「朱華……いよいよ明日、なのね……?」
「ええ。行って来ますわ、雪莉様。すぐにまた会えるように励みますから」
明日旅立つ彼女自身よりも、残される雪莉が涙ぐんでいるのが気の毒で、朱華は同い年の友人の身体を抱き締めた。ぎゅっと背に回される腕の力を感じて、彼女の方こそ泣きそうになってしまいそうなのは、何としても隠さなければ。
「朱華、やっぱりいけないわ。危ないこと、畏れ多いことだもの。今からでも逃げれば──あの、使用人に紛れて……」
「あら、娼館生まれの卑しい娘にはもったいないお話でしょう? ふいにするなんてもったいない。私は、行って参ります」
雪莉の衣の肩口でこっそりと目を拭ってから、朱華は晴れやかに微笑んだ。
ここは、雪莉の生家である名門陶家の屋敷。雪莉は、本来ならば皇族の妃にもなれる生まれなのだ。けれど、それは叶わない。容姿や教養に不足がある訳では決してない。雪莉は、昊耀の国を支える皇家に捧げるための才を持っていないのだ。
広大な帝国を支えるために、天は昊耀の開祖に幾つかの《力》を与えたという。彼方の出来事を見通す遠見、来るべき災害や外敵の襲来を予見する時見。水を御す水流に加護は治水を大きく助け、戦場にあっては闘神の《力》は並の将兵を寄せ付けない。昊耀が長きに渡って栄える理由が、それらの人知を超えた《力》なのだ。
昊耀の皇帝は代々、《力》を受け継ぎ、そして時代が下るにつれて仕える諸家にも婚姻によってその恩恵が分け与えられてきた。そして今では、《力》の継承こそが昊耀の皇族と貴族に課せられた最大の義務とさえ言えるようになっている。ある意味では、血統よりも。名門に生まれた雪莉が《力》を持たない一方で、卑しい生まれの朱華がそれを宿していることもある。朱華は、雪莉の身代わりとして後宮に上がるために育てられてきたのだ。
「衣装も宝石も沢山持たせてもらったし、宮殿を見るのも偉い方々にお目にかかるのも楽しみなんです。ね、だから笑って送り出してくださいな」
「でも、見つかってしまったら……貴女が企んだことではないのに……!」
確かに、皇族に捧げる姫の出自を偽るのは大罪だろう。露見すれば、朱華も雪莉も、陶家の一門もきっと重い罰を賜ることになる。でも──これは、好機でもあるのだ。
「……無事に皇子様の寵愛を賜ることができれば、何もかも私の思い通りになるわ。貴女を助け出すことだって。どこか景色の良いところにお屋敷をもらったりして、私も遊びに行ったりするんです。素敵じゃないですか?」
「でも──」
「大丈夫。私は割と綺麗だし頭も悪くないでしょう? 《力》も強いということだし……きっと、皇子様の御目に留まりますから」
明るい──明るすぎるほどの夢物語は、雪莉だけでなく朱華自身に聞かせるものでもあった。きっと大丈夫だと、自分を騙し切らなければ雪莉の誘いに乗って逃げてしまいそうだから。そんなことをすれば、雪莉がどんな罰を与えられるか知れたものではないのに。
「ほんの少しの間のお別れです。だから、どうか笑って送り出してくださいませ」
「ええ……ええ……」
口ではそんなことを言いながら、ふたりの声は涙に濡れて震えていた。
明日、朱華はこの屋敷を出て皇宮に上がる。朱華という名を捨てて、陶家の雪莉姫として皇子の寵愛を狙うのだ。別の人間になり変わらなければならない朱華と、名もなき者、いるはずのない者に貶められる雪莉と。また互いに会えるかどうかは、誰にも分からない。
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