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殿下に説き伏せられました

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私が泣き止んだ頃には部屋はすっかり薄暗くなっていた。
完全に暗くなる前に明かりを、とぼんやりした頭で考える。
「…申し訳ありません、殿下」
私は殿下の胸に手をついて体を離しながら謝る。
久しぶりに嗚咽以外の音を出した喉はひりついたし声はしゃがれていた。
酷く醜く聞きづらい音だったろうに、殿下は「もういいのか?」と優しく聞いてくれる。
見えないだろうと思いながらも私は今できる中で最上の笑顔を浮かべて頷き、「明かりを取って参ります」と告げてベッドを降りようとした。
理由も告げずに泣き続けて忙しい殿下の邪魔をしてしまったのだから、早く解放して差し上げなければ。
これ以上殿下の優しさに甘えて迷惑も面倒もかけたくない。
そう思ったのだが、殿下は私の肩を掴んで止めると「俺が取ってこよう」と言ってさっさと部屋を出てしまった。
開いた扉から差し込む明かりに浮かんだシルエットを見て、胸がきゅうっと苦しくなる。
何故あの時来たのが殿下だったんだろう。
何故もっと早くに私は死ななかったのだろう。
どうしようもない後悔だけが胸に押し寄せてくる。
「明かりのついでに果実水をもらってきた。飲めるか?」
「……ありがとうございます」
温かな光源と共に戻ってきた殿下は冷えたグラスを持っていて、私に差し出してくれた。
泣いて水分が枯渇していた私はありがたくそれを受け取り、勢いよく一息に飲み干す。
後からはしたなかったかと思ったが、それよりも余程はしたない姿を見せ続けていたのだからどうでもいいとまでは言わないが心境的には別に構わなかった。
「いい飲みっぷりだな」
殿下が小さく笑いながらそんなことを言わなければ、だが。
この人は本当に空気が読めないと何度目かわからないが改めて思う。
いつか指摘してやろうと本気で考えた。
……殿下と結ばれる資格のない私にそれを言う機会など来るわけないか。
「殿下、お引止めした私が言うのもなんですが、お時間はよろしいのですか?」
「ん?」
空になったグラスをサイドテーブルに置き、こほんと空咳を一つして気持ちを静めてから私は殿下に言う。
殿下はそれに不思議そうに首を傾げたが、すぐに「ああ」と頷くと、
「今日の予定は全てアンネローゼで埋めてきたからな、問題ないぞ」
なんてことをさらりと言った。
「は……」
予想外の回答に、私は思わず「はぁ!?」と声を上げかけたが寸でのところで止めることができたのを誰かに褒めてほしい。
漏れた音が一音程度ではバレない、わよね?
などと一瞬現実逃避したが、それが事実であるならばいっそ好機と捉え、今日で全て終わらせるのが得策ではないだろうか。
つまり、殿下に全てを思い出したことを告げ、私には嫁ぐ資格がなかったのだということを話すべきだ。
そうすればこれ以上殿下を好きになることもないだろうし、これ以上絶望を抱くことも傷つくこともなくなるはず。
「だが今日はもう休んだ方がいいだろう。眠るまで傍にいるからまた眠るといい。それとも食事でも取るか?」
だから殿下の気遣いに「いえ、大丈夫です」と答え、ベッドの上でできるだけ居ずまいを正した。
殿下はそれを訝しみ、私が呼びかけるとピクリと片眉を跳ね上げて私の目を覗き込むと、そこにあった緊張を見て取って目を瞠った。
「殿下、私は貴方に言わなくてはいけないことがあります」
そして覚悟を決めた私の目を見て「ああ…」と頷きとも嘆息とも取れない僅かな応えだけを返した。
彼もわかったのだろう。
私が全ての記憶を取り戻したと。
「私には、貴方に嫁ぐ資格がありません」
だから私は端的に結論だけを伝えた。
それだけで察しがついていた殿下には全て伝わるはずだから。
「そんなわけないだろう」
けれど殿下はすぐさま私の言葉を否定する。
苦虫を噛み潰したような顔をしながら、それでもそれが嫌悪故ではないことはわかる。
あの顔はきっと後悔。
私がああなる前に助けられなかったからだろうか。
……そんなこと、貴方が気にすることじゃないのに。
私は一瞬歪みそうになった目にぐっと力を入れて何とか微笑みを浮かべて首を振る。
「あの場にいらっしゃった殿下は私がされたことを全てご承知なのでしょう?ならおわかりになるはずです」
私がなにをされたのか、どれほど汚れた人間になったのか。
王家に嫁ぐ人間として、如何に不適格な存在になったのかを。
「他の人ならばいざ知らず。唯一そのことを知っていらっしゃる殿下に、私は自分を誇れない」
「馬鹿な」
「例え馬鹿でも!私はこんな私を愛していると言ってくださった殿下に誇れる人間でありたいのです。けれどそれはもう叶わない。過去は消せない。……この身の穢れは雪げない!!」
殿下の言葉を否定するしかないせいで、せっかく止まった涙が再び頬を伝ってしまったのを感じる。
でももう堪えられなかった。
殿下は私に希望を見せようとする。
そんなもの、もうどこにもないのに。
私の穢れは消えないのに。
その言葉に縋りそうになって、でも駄目なんだと必死に打ち消して。
極端から極端へ揺れ動かされている私の心はとっくに悲鳴を上げていて、本当なら無慈悲にも思える言葉を口にする殿下を詰ってやりたかった。
八つ当たりだとわかっていても、当たれる相手は殿下しかいない。
それでも心の奥底にある殿下にだけは嫌われたくないという思いがなんとかそれを止めていた。
「……それは違うぞ、アンネローゼ」
溢れ出る思いを抑えようと肩で呼吸をしているような私に向かって殿下がそっと口を開く。
「君の記憶にあるそれは、確かに過去の出来事だろう。だが今にとってみれば、それは『これから起こらない未来の話』だ」
「そんなの」
詭弁だ。
そう言いたかったけれど、殿下が不意に私の頭を抱えるように抱きしめたから言葉が続かなかった。
「事実今の君は盗賊団の一員でもなければ行く当てのない追放者でもない。それらの経験を忘れろとは言わないが、それとこれとは分けて考えるべきだ」
「でもっ」
「そうでなければ、俺は自ら手に掛けた君に求婚などできるはずもない」
殿下は説得に反論しようとする私を抱く腕に力をこめる。
それは自分の決意の強さを示すような力強さだった。
でも反論を力業で封じるのはずるいと思った。
「アンネローゼ、君の考えていることはわかっている。だが俺はすでにその道を通り、そして乗り越えた。だから俺にその言い訳は通じない」
殿下の腕の力が弱まらないから、私はまだ反論ができない。
言葉を紡ごうとする度に喉が震えるのは、殿下の力が強すぎて息が詰まっているからだ。
「過去ならば消せない。だが未来ならば変えられる。俺は君を殺した過去を抱えて、それでもこれからは君を愛して生きていく」
「……ふっ、ぅ」
そんな言い訳をしていたのに、とうとう口からは嗚咽が漏れてしまった。
「君が汚れていると、穢れていると言ったその過去ごと、俺は君の全てを受け入れる」
「…ぅああ、ああっ……!!」
殿下の腕の力はますます強くなっていく。
そしてその力に負けないくらい強い力で、私は殿下に必死にしがみついていた。
心に淀んでいた澱を押し流すみたいな涙は殿下の服に吸い込まれ、今まで堪えていた悲鳴のような嗚咽は部屋の空気に溶けていく。
「…できることなら君が自分を殺した男でも愛してくれると嬉しいが」
それは高望みか。
苦笑しながら呟かれた殿下の言葉に「もうとっくに愛している」と返したいのに、次から次へと出てくる嗚咽がそれを邪魔して、私はすぐにその言葉を口にできなかった。
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