背中越しの恋人

雨宮 瑞樹

文字の大きさ
上 下
19 / 57

すれ違い6

しおりを挟む
 唯は大きなボストンバッグを手に門を出て、ガタンと閉める。家から出た途端、カバンが重たくなって一度態勢を立て直そうと、下におろし肩にかける。ショルダーがぐっと食い込んでくるけれど、そんな痛みなんて感じなかった。なのに視界が滲んでいきそうだ。首を振って、そのまま駅へと続く道を歩みを進めようとしたとき背中から今一番会っては不味い声に呼び止められた。
「唯ちゃん」
 重たいはずの肩が勢いよく跳ねる。その声を無視することなんかできるはずもなく、慌てて目元に溜まっていた水をふき取って振り返って笑顔を作った。
「あかりさん、どうしたんですか?」
 ショートカットの髪が乱れ、肩で息をしながているあかり。整った顔立ちの大きな瞳にはっきりと唯を心配していると書いてあった。
「そのセリフは、私の方よ。どうしたの、それ?」
 そう聞かれて、驚く唯。指した指の先はこの大きな重たいボストンバッグ。こんな朝っぱらの平日にこんな大きな荷物を持っていたら不審に思われても仕方がないと、冷静に考えたらわかるはずなのに色んなことが頭に絡んでうまく回転できず黙り込む。
「あのバカ息子が原因よね?」
 そういわれて、唯は少し外れた的への指摘に何と答えたらいいのかわからず黙り込む。一方のあかりはこの場にいない息子を思い浮かべたのか、憤慨していた。

「どういう経緯で、あんな写真撮られたのか知らないけど、何かの間違いだと思うの。だから、あんなの信じないで。今度亮が帰ってきたら、私から思い切りお灸をすえてやるわ。本当にあのバカは、昔から脇が甘すぎるのよ」
 この場にいない亮に対して、ものすごい剣幕で捲し立てるあかり。そのあとも「大体、渡米してから今の今まで連絡一切よこさないってどいうことよ」と、不満をぶちまけ始めるあかりに、唯は思わずふふっと笑ってしまう。
 この数年。変わったことの方が断然多かったけれど、あかりさんは、昔から本当に変わらないなと思う。あかりさんだけは、小さい頃から記憶にあるままずっとあかりさんのままだ。そのことに心底ほっとする。

「亮のことは、私だってちゃんとわかってますよ」
 思いつめていた顔が穏やかになった唯にあかりにも笑顔が灯った。でも、それは一瞬で唯の持っている重たいバッグに吸い取られていく。
「じゃあ、どうしてその荷物?」
 唯は少しだけ思案する。あかりさんには心配かけたくない。旅行にでも行くと言おうかと思った。けれど、それ以上にやっぱりあかりには嘘はつきたくなくなかった。誠実でありたかった。
「……母と喧嘩しちゃって。それで、ちょっと頭を冷やそうと思ったんです」
 さらりと言って唯はすこしだけ困ったような笑顔を作るとあかりの眉間に深いしわが刻まれていた。
「……そうだったの。私から、美穂さんに言ってあげようか? ほら、身内から言われると聞く耳は持たなくても、他人から言われるとすんなり入ってくるっていうのあるでしょう?」
「ううん、大丈夫。私もちょっと変わらないとなって思っていたところだから。丁度よかったの」
 そういって笑う唯をみて、あかりはまたぎゅっと色白の肌の眉間に濃い皺を寄せていた。唯の持つ大きなバッグをじっと見つめた。
「……じゃあ、出ていくってこと? どこか行く当てあるの? 何ならうちに来たら? その方が美穂さんも安心するし、亮だって喜ぶわ」
 ね? そうしましょうよ。と、強引にでも話をまとめようとするあかりに、唯は静かに首を横に振った。
「ありがとう。だけど、私ももうそろそろ大人にならないと。ほら、一人暮らしをするとまた色々モノの見方変わると思うし」
「……ねぇ、亮はこのこと知ってる?」
 その問いに、唯はただニコリと笑っただけだった。そして、少し照れるように胸元にある髪の毛先をいじると唯はあかりさんの亮とそっくりな黒い瞳を見つめていった。
「私ね、本当にあかりさんには感謝してもしきれない。あかりさんがいなかったら、今頃私どうなってたかって今でも思う。こんなこと言ったら、語弊があるかもしれないけど、あかりさんが本当のお母さんだったらどんなによかったかって思ったこと何度もあった。でも、そんなこと言ったら今の自分が崩れちゃいそうで。自分を奮い立たせるためにも、言わないほうがいいと思ったし、言えなかった」

 まるで別れを告げているようであかりは焦りを覚えた。「唯ちゃん、ちょっと待って」と遮ろうとしたが、その声を押しのけて、唯は笑顔で言い切った。
「あかりさん、本当にありがとう」
 深々と頭を下げる唯に、あかりはただ絶句し、踵を返し唯が歩いていく滲む後ろ姿をただ茫然と見送っていた。

 憎らしいほど晴れている空を睨みながら、あかりは痛いくらいこぶしを握って、その場にたたずむ。
 唯が家を出ようと決意したのは、母が原因。それに嘘はないと思う。けれど、そのきっかけとなったのはやはり亮以外にいないと、あかりは直感していた。
 バカ息子。何でもっとちゃんと唯ちゃんを捕まえておかないのよ。
 あかりは、忌々しいとばかりに思い浮かんだ能天気に笑っている亮を睨みつける。そして、あかりはこの怒りをぶつけるべき相手が早く現れないかとずっと待ち構え続けていた。
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫は私を愛してくれない

はくまいキャベツ
恋愛
「今までお世話になりました」 「…ああ。ご苦労様」 彼はまるで長年勤めて退職する部下を労うかのように、妻である私にそう言った。いや、妻で“あった”私に。 二十数年間すれ違い続けた夫婦が別れを決めて、もう一度向き合う話。

心の声が聞こえる私は、婚約者から嫌われていることを知っている。

木山楽斗
恋愛
人の心の声が聞こえるカルミアは、婚約者が自分のことを嫌っていることを知っていた。 そんな婚約者といつまでも一緒にいるつもりはない。そう思っていたカルミアは、彼といつか婚約破棄すると決めていた。 ある時、カルミアは婚約者が浮気していることを心の声によって知った。 そこで、カルミアは、友人のロウィードに協力してもらい、浮気の証拠を集めて、婚約者に突きつけたのである。 こうして、カルミアは婚約破棄して、自分を嫌っている婚約者から解放されるのだった。

夫の不貞現場を目撃してしまいました

秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。 何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。 そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。 なろう様でも掲載しております。

三度目の結婚

hana
恋愛
「お前とは離婚させてもらう」そう言ったのは夫のレイモンド。彼は使用人のサラのことが好きなようで、彼女を選ぶらしい。離婚に承諾をした私は彼の家を去り実家に帰るが……

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

【完結】夫もメイドも嘘ばかり

横居花琉
恋愛
真夜中に使用人の部屋から男女の睦み合うような声が聞こえていた。 サブリナはそのことを気に留めないようにしたが、ふと夫が浮気していたのではないかという疑念に駆られる。 そしてメイドから衝撃的なことを打ち明けられた。 夫のアランが無理矢理関係を迫ったというものだった。

十年目の離婚

杉本凪咲
恋愛
結婚十年目。 夫は離婚を切り出しました。 愛人と、その子供と、一緒に暮らしたいからと。

「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。

木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。 因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。 そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。 彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。 晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。 それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。 幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。 二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。 カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。 こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。

処理中です...