サラシ屋0

雨宮 瑞樹

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灰本探偵事務所

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『本日、十七時に事務所までお越しください』
 
 電車内でスマホのメールを開き、何度も日付と時間を確認し、メールの最後に添付されている画像をタップする。
 地図を開いたスマホと鞄をぎゅっと握りしめて、私は空が黄昏色に染まる新宿へ降り立った。
 西口の帰宅を急ぐ人込みを潜り抜けて、赤い印が付いた場所へと足を動かす。時折、吹き付ける湿気の少ない秋のさらりとした風が心地よかった。そして、歩くこと十分ほど。目的地に辿り着いた。
 赤印は、五十階以上ありそうな高層ビル群のど真ん中。地図を何度も見返してみても、間違いない。まさか、この高層ビルの中? 確信が持てず、もう一度地図を拡大と縮小を繰り返してみると、下の方に住所が書かれていたことに気づいた。
 
『片隅ビル 四階』
 
 高層ビルとは、違う名前だった。周囲を見回すと、高層ビルの色濃い影に隠れていて、気づけなかった雑居ビルを見つけた。その前まで行き、六階建てくらいのビルを見上げる。『灰本探偵事務所』と大きく書かれている文字が目に飛び込んできた。
 この立地、あの文字。世間から目につかないように、カモフラージュしているだろうと思っていたが、予想外に堂々としていた。驚きながら、雑居ビルの階段を上がる。
 四階までくると、古いガラスドアがあった。経年劣化で傷ついて、すりガラスのようになっていた。外から中は見えない。ドアの上部にやはり「灰本探偵事務所」とあった。
 ふうっと全身の酸素を吐き出し、緊張感を追い出す。そして、私はドアを押した。
 
 ドアを開けると、埃っぽい匂いが鼻についた。掃除が行き届いていないのだろう。
 その奥にソファーとテーブルの応接セット。その奥にいかにも重役ですといっているかのような、古そうなデスクの上に「灰本誠一」と書かれたプレートがのっている。
 そして、こちらへ背を向けた皮張りの椅子が見えた。名前や家具の古くささからして、座っているのは、白髪に長い髭を生やした掃除嫌いのおじいさんなのかもしれない。
 そんな想像をしていたら、その椅子がくるりと向き直って、私は目を見開いた。

「お待ちしておりました」
 椅子から、すっと立ち上がったのは手足の長い、高身長の若い男だった。机の向こう側から私の方へゆっくりとした足取りで近づい来てくる。
 グレーのスーツに黒の革靴がよく似合っていた。その顔も、スタイルに負けるどころか、勝ち誇っている。二重の涼しい目元。鼻筋もすっと通っていて、口角はもともと上向いるのか、人当たりがよい。黒髪のオールバックのお陰なのか、各パーツがとてもよく整っていることが強調されているようにみえた。年齢も、私とほとんど変わらないように見える。部屋の埃っぽさなど、気にならなくなってしまうほど見惚れてしまう。言葉が出なかった。
 そんな私をみて、緊張しているのかと思ったのだろう。男は安心させるような笑顔を浮かべて、背広の内ポケットから名刺入れを取り出していた。
「ここの代表を務めております灰本誠一はいもとせいいちです」
 すっと両手で名刺を差し出してきて、おずおずと受け取る。
 こちらは、まだ大学四年生。名刺を受け取るのも慣れていないし、こちらから渡す名刺も、持ち合わせていない。とりあえず、肩くらいの短めの髪を両耳にかけて、就活で学んできた社会人らしいお辞儀をしてみせる。
「私が、依頼の連絡をさせていただいた柴田理穂しばたりほと申します」
 ぱっと顔を上げると、星が瞬いているかのような笑顔が返ってきて、心臓が跳ね上がってしまう。
 
「お茶でも入れましょうか」
 灰本はそういうと、パーテーションの奥へと消えていった。
 何ときめきかけてるんだ、私。本来の目的を見失うな。私は亜由美のために来たんだぞ。突っ立ったまま首をぶんぶん振って言い聞かせていると、灰本がすでに、二人分の緑茶が両手に持って戻ってきていた。
 
「すみません。ここは、僕一人で切り盛りしているもので。男一人の場所に、女性が入ってくるのには不安ですよね? 女性スタッフを雇えればいいのですが……」
 親しみある笑顔を振り撒くと、穏やかな口調で、どうぞ座ってくださいと促され、ゆっくり腰を下ろす。
 灰本も、正面のソファに座って、コップをそっと私の前に置いた。
 出された飲み物。コップ。それを見た瞬間、有島亜由美ありしまあゆみの涙がフラッシュバックして、怒りが一気に蘇った。手が勝手に、震えていた。それに気付いた灰本は、私の前に出したコップをテーブルの端へ寄せて、眉を潜めていた。
「すみません。飲み物に手を付けなくて結構ですよ。ご友人が被害に遭われた矢先なのに。僕も配慮が足りず、申し訳ありません」
「いえ」
 堅い声が出た。浮ついた心は、あっという間に、地面の更に奥へと沈んでいく。
 一方の灰本は、そんな私を見定めるな視線をよこしている。涼しげな瞳の奥にわずかな警戒心が見え隠れしていることに初めて気づいた。
 こんな仕事を生業にしているのだ。当然のことだろう。下手をしたら、依頼者本人に弱みを握られる可能性もあるのだから。

「では、本題に入りましょうか。これまでメールでやり取りしていましたが、改めてご依頼主である柴田様ご自身の口から、依頼内容について説明いただけますか?」
 灰本は、あくまで穏やかにいうが、本当に依頼してきた本人なのか、確認を含めてなのだろう。
 その意図を察しながら、亜由美の顔を思い出す。
 煮えたぎるような熱が全身を駆け巡って、体の奥が燃えるように熱くなった。その勢いのまま、私は口を開いた。
 
「私の親友が、就職内定した企業の人事に呼び出され、襲われました。私は親友を呼び出し、襲った男に、復讐したい」

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