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97 幸直の誤算

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     ◆幸直の誤算

 体中を、刺し貫くような。鮮烈な痛みが走り抜け。幸直はうめき声とともに、目を開いた。
 己の顔をのぞき込んできたのは、赤穂だった。
 青桐ではない。
 後ろ髪を三つ編みにし、左目を長い前髪で隠している、威圧的な眼差しの、赤穂だ。
 それで幸直は。あぁ、己は死んだのだ、と思った。

「赤穂様、俺なんかを、迎えに来てくれたのですか?」
「目を覚ましたか? 幸直。つか、なにがあったか報告しろ」
「…なにが」

 見慣れた臙脂えんじ色の軍服ではなく、作務衣に丹前という軽装で、違和感はあるが。
 出し抜けに報告を求めるとか、いかにも赤穂だ。
 赤穂が亡くなって、まだひと月くらいだが。すごく懐かしい気になってしまった。

「幸直、目を覚ましたの?」
 そうしたら、赤穂に続いて、月光まで出てきたので。幸直は目を丸くした。
 月光は赤穂の墓を守るため、軍を抜けたはず。
 桃色の翼に似合う赤い着物と前掛け姿は、だいぶ女の子寄りの着衣だが。

「そ、側近まで。もう、はかなくなったのですか?」
 月光は毒舌で、幸直は振り回されたけれど。病弱でもあったから。赤穂の死に傷心し、まさか、あとを追うように亡くなってしまったのか…。

「失礼だな。僕は生きてますけどぉ? つか、幸直。女ごときに刺されて気を失うとか、どんだけヘタレなのぉ? 幹部としてあるまじきなんだけどぉ? 美濃家の名前に胡坐かいているようなら、マジで、降格させるからねっ」
 この、目の覚めるような毒舌は、まさしく側近。
 つか、生きてる? ここはどこだっ?
 そうして、ようやく本当の意味で、幸直は目を覚ました。

 巴は、どこだっ?

 幸直は、反射的に起き上がろうとしたが、右肩に強い痛みが走って、寝床に突っ伏した。
「ほらほら、まだ動いちゃダメだよ。傷口が開くだろ? 馬鹿なの? 脳みそないの?」

「相変わらず、ひでぇな、側近。つか、赤穂様、生きていたんですか?」
 痛みにうめいて、幸直は額を布団にこすりつけ、身悶えながら痛みをこらえるが。
 どちらかというと、月光の毒舌攻撃の方にこそ、命の危機を感じる。
 赤穂に話を向けたのは、この状況がいったいなんなのか、わからないからだ。

「あぁ? 紫輝から聞いてないのか? 俺が生きてることは言ってもいいって、言ってあったんだがな」
「あれじゃない? 仲間外れは嫌だよぉ、とか言ったあと。巴とこじれて、もうなんも聞かねぇって、幸直が泣きながら部屋を出て行ったって、紫輝が言ってたじゃん? それで、赤穂のことは言いそびれたんだよ、きっと」

 したり顔で月光が言うのに、幸直は顔を赤くしたり青くしたりした。
 つか、紫輝、いろいろひどい。

「ええぇ? 確かに、なんも聞かねぇとは言ったけど。赤穂様のことは教えてくれよぉ。俺、赤穂様が亡くなって、すっごい落ち込んでたのに。つか…泣いてねぇし」
 いや、泣いたけど。
 そういうことは、武士の情けで言わないもんだろうが?
 今まで紫輝のことを、生意気そうだけど、そこが可愛い弟分、的な目で見ていたけど。
 意地悪小悪魔に見えてきた。
 よく、青桐が紫輝のことを『あの黒猫耳めっ』と苦々しくつぶやいていたが。
 己もこれからは黒猫耳って言ってやるからなっ。

「そんなことより。おまえのことだ。おまえは、右肩と左腿を刺されて、重傷だ。紫輝に、知らせを出したから、誰かを連れて、こちらに向かっているとは思うが。紫輝が来る前に、おまえがこうなった経緯を知っておきたい」
「と、巴が…」
「順番に」
 いきなり核心を言おうとした幸直を、赤穂は冷静にツッコむ。
 順番に、と口の中でつぶやき。
 幸直は脱力して布団に身を沈めると。口を開いた。

 楽しい旅になるはずだった休暇の話だ。

     ★★★★★

 一月十五日。
 長らく堺の屋敷で逗留していた幹部たちが、青桐の屋敷に移動した。
 荷物運びや、部屋の支度などで、一日を費やしたが。引っ越し作業を終えたら、幸直と巴は休みに入っていいと、堺が言ってくれたのだ。
 一月に入ってからずっと、書類業務を一手に引き受けてきた。
 そのご褒美というか、お詫びというか、労いというか。かな。

「そろそろ、青桐様にも書類の扱いや、報告書の書き方など、覚えていただこうと思っている。この前は視察として、我らが席を外したので。同じ二泊三日だが、羽を伸ばしてきてくれ」
 休暇が欲しいと打診はしていたが、こんなに早く貰えるとは思っていなくて。
 なんの準備もしていなかったのだが。
 幸直が巴に、どうするか相談したら。

「どちらにしろ、遠出など、できはしないのだから。近場で楽しもう。僕は、絵が描きたいな。大自然とか。この季節だと、雪景色か。水墨画なら映えるかな。色鮮やかな季節は、我らは戦場にいることが多いから、つまらないんだ」
「雪景色か。栃木方面は、ちょっと遠いな。奥多摩秩父辺りかな? 俺は巴とゆっくりできたら、いいんだけど、買い物とか、逢引き的な?」
「じゃあ、奥多摩方面に行きがてら、大きな町で買い物して、一泊して。二日目は良い風景を探しながら絵を描いて、一泊して。三日目に帰るってことで」

 ふたりの要望が叶う、旅の計画が立てられ。幸直と巴は、十六日に、馬に乗って本拠地を旅立ったのだ。

 一応、なにが起きるかわからないので、軍服着用し。帯剣もして。
 巴は、黒翼を隠したいので、ふたりで防寒がてら、濃茶のマントを羽織る姿だった。

 本拠地と奥多摩の中間地点に、大きめの町があるのだが。そこは大通りに店が立ち並び、人通りも多く、にぎやかだった。
 幸直と巴は、そこで一泊することにし。宿を決めて馬を預けると、町に繰り出した。

 軍の仕事や、剣の鍛錬に明け暮れて、幸直も巴も、遊びで外に出たり、買い物したりすることがなかったので。ふたりで、あれが良い、これが美味しいなんて言いながら、店を見て回るのが、新鮮だった。

 買い物も楽しいのだが。
 幸直が一番楽しかったのは、巴と手をつないで、身を寄せて歩くことだった。
 緊張して、手に汗をかいてしまう。
 好きな人と、同じ歩調で歩く。たったそれだけのことを、幸直は十年以上夢見てきたので。
 それが叶って、幸せだった。

 店には、女性が好む装身具や、男性が好む革製品や武器屋などもあったが。
 巴が吸い寄せられていったのは、筆を扱う店で。
 そんな独自の好みみたいなものも知れて、嬉しかった。

 自分たちを誰も知らない、仕事に追われることもなく、自分たちを誰も見咎めない。そんな心休まる環境を、幸直と巴は存分に楽しんだ。
 旅館で美味しい食事を味わい、ふたりきりの時間を満喫する。

 食事のあとは、体に触れて、互いの存在を確かめ合う。
 自分は、美濃ではなく。
 巴は、手裏ではなく。
 ただの幸直と巴として愛を確かめ、燃え上がった。

 一月十七日は、晴天で。雲ひとつなく、青い空が広がる気持ちの良い写生日和だった。

 巴はかいがいしく、幸直の後ろ髪を三つ編みに結えたり。軍服を着せ掛けたりして。
 これぞ、愛妻という感じ。もう、好きっ。

 幸直は伴侶に、特別なことを求めていない。
 なので巴の『幸直が望むことをするけど、できることだけしかできないよ?』という姿勢が。逆に、いちいち心に刺さるのだ。
 そういうありふれた日常のやり取りこそ、幸直の求めているものだから。

 幸直と巴は、そうして、一日目の宿を良い気分で出立したのだった。
 そして、再び奥多摩方面へと馬を走らせる。

 山に囲まれたその土地は、本拠地よりも肌寒く、雪解けもしていない。川の上流に向かって行くと、天然の氷塊があり。渓谷の複雑な地形や川の流れによって、自然の力で作られたその形は、日の光にキラキラと輝いて神々しく見えた。
 他にも、木の枝を凍らせる樹氷じゅひょうや、小さな滝と雪の見事な景色など。巴が興味をかれる場所で馬を止め、写生するのだった。

 彼が絵画に没頭している時間は、幸直は暇になってしまう。
 話しかけても、集中している巴は応えてくれないので。
 でも、その真剣な横顔は。普段ぼんやりしている目元がキリリとして、なんだか可愛くて。ずっと見ていられる。
 だけど、彼の顔ばかり見ていると、今度は巴が集中できなくなってしまうので。
 幸直は適当に、辺りを散策して歩くのだ…。

 幸直が巴から離れる、その瞬間まで、確かに幸せだった。
 なのに、あんなことになるなんて。

 想像もつかない、幸直の誤算だった。

     ★★★★★

 そんなことを、幸直は。赤穂と月光に話していった。
 ふたりは、己と巴が付き合っていることを知っていたっけ?
 でも、そんなことどうでもよくて。
 なんでこんなことになってしまったのかと、幸直はただただ、状況を説明しながら悔やんでいたのだ。

 そうするうちに、屋敷の奥から足音が聞こえ、あの紫の鮮やかな軍服が目に飛び込んできた。
 部屋の中に入ってきたのは、紫輝と、補佐の大和。
 そして第五大隊長の廣伊と隠密の千夜だ。

「幸直、なにがあった? 怪我はひどいのか?」
 紫輝が月光に聞くと。月光は首を横に振った。

「大丈夫、幸い、大きな血管は避けられていたから。拷問の心得を持った者のようだな、生かさず殺さずってやつ」
「ひえぇ、嫌な感じ。あのね、幸直。青桐と堺も来たがったんだけど、本拠地を幹部不在にできないので。でも、今回のはヤバそうだから、廣伊に一緒に来てもらった。巴がさらわれた、その経緯を俺たちに話してくれ」

 幸直は、目頭が熱くなるのをこらえながら。口を開いた。

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