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番外 筆頭参謀、里中巴 3
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異例の大抜擢で、三十八組の組長になったあと。巴は勢いづいて、どんどん出世していった。
十八になった幸直が、参謀として幹部入りした、そのあとを引き継いで。
巴は、第八大隊長を任される。
しかしそれは、後ろに幸直がついている、というか。指導している、というか。
幹部からの指示を忠実にこなす、主軸的な動きをさせられたのだ。
つまり、上から言われるままにやっていた、というか。
大体が、幸直がああして、こう動いて、と指示してきて。そのままやっていたら。使いやすい大隊だと評価された、というか…。
これでいいのかと、思いはするが。
自分の思い入れや、こう動いた方がいいんじゃね? みたいな意見もなかったものだから…まあいいか、的な。
ところで、大隊長になると、屋敷を貰えるのだが。
幸直が以前住んでいたところで、勝手知ったるという感じだったので。なんの気負いもなく、その屋敷に入った。
道場、使い放題。最高。
いや、巴は決して、剣術が好きなわけではない。むしろ、その時間を、絵の制作にあてたいくらい。
しかし、腕が衰えると。剣術で人の上に立った身としては、いつ下克上されるかわからないだろう?
生きるために、腕は磨いておかなければならないのだ。
生きるって、大変だ。
だけど、好きなことをやるためならば、苦手だと思っていたことでも、案外やれちゃうものだから、不思議だよね。
手裏にいたときは、絵を描くために切り捨てていた剣術を。
今は生きて絵を描くために、剣術を極めているのだから。
そして大隊長になって、無尽蔵に紙が買えるようになった。
ようやく、心のままに、気の向くままに、絵を描ける。
描き倒してやるっ。とは思うが。
大隊長というのは、案外やることが多くて。余暇など、ほんのわずかしかないという。
寝る間を惜しんで、描きたい。
けれど。寝不足で戦場に出たら、命がヤバいので、それもほどほどに、だ。
巴は華奢な体つきをしていて、腕力が少ない。
一般兵士なら、何人でもへこませる剣術を身につけはしたが。
剛力の者が相手だと、押し負けることもあるし。
いまだに幸直に、力押しされると、ぐうの音も出ない。
幸直は細身に見えるが、中身は案外、がっしりみっしりしていて、力強い。
いや、見たわけではない。
だが服の上からでも、巴は、骨格や可動域などを見て、大体の体つきを想像できる。
引き締まった筋肉に覆われた極上の体躯を、一度、この目で拝んで見たいものだが…。
それはともかく。
力強い相手への対処法として、巴は重めの剣を持つことで、遠心力を足して、力をつけようと思っていた。
木刀も重くして、鍛錬しているところだ。
ガツガツ素振りして、汗が道場を濡らすほどになって、ようやく休憩に入る。
羽を広げて、道場のひんやりした床に寝転んだ。
床に平行に翼を広げると、背中の羽毛が生えた部分に床の冷たさが伝わって、心地いいのだ。
あんまり気持ち良いので、目をつぶる。
今日は、新兵訓練に付き合って、長距離走なんかしたものだから。疲労が溜まっていた。
ふと、唇になにかが当たって。目を開ける。
すでに見慣れた顔である幸直の美貌が、間近にあった。
あれ、寝ていたかな?
と巴が首を傾げると。
幸直は、無防備に投げ出していた巴の手を、指を絡めて床に縫い留め。さらに顔を近づけてくる。
本格的に深いくちづけをしてきた。
閉じた目蓋を縁取る、薄茶のまつ毛が、長い。
明るい性格で、少し軽いと思う男だが、眉の形は男らしい。
太すぎてオス味が強すぎるわけでも、細くて女々しい感じもない、ちょうど良い…どちらかというと、彼に似合った太めの眉。
舌を舐めてくる感触は、優しく、甘く。
彼の目蓋が開いて、丸い薄茶の瞳が現われる。
虹彩の鮮やかさに、目を奪われた。べっこう飴を太陽に透かしたみたいな、キラキラ…。
「おい、なんで目を開けたままなんだ?」
唇を離した幸直が、戸惑い気味に聞いてくる。
ま、キスした相手が、目、ガン開きだと、引くよな。
でも巴は、そんな幸直も、つぶさに見やる。
厚みのある色っぽい唇が濡れて、目の際も赤くなって…色艶が増しているぞ。
「だって、盛ったオスの顔をする幸直は珍しいからな」
「…感想は」
「美形は、盛っていても美形、ということが判明した。間近で見ても、きめの細かい肌質は、女性もうらやむつるつる具合」
「見すぎだろ」
幸直は頬をひきつらせ、フンと鼻で笑った。
巴は上半身を起こして、翼をたたむ。
「どうして、キスなんか?」
「いやぁ、無防備に寝てる巴が、可愛いと思っちゃって。ま、起きてるときも可愛いけど」
「どうして、上官が来たのに、知らせが来なかったのかな?」
「いやぁ、巴が道場にいるのがわかっていたから、使用人には、驚かせたいから直接行かせてって頼んだ」
ここの使用人は、以前、幸直が住んでいたときと変わらぬ顔ぶれだ。
ハグレである己が、使用人をいちから集めるのは大変だろうということで、幸直が残していってくれたのだ。
つまり、使用人の主人は、いまだ幸直のようなものだった。
そりゃ、幸直の言うことを優先するよな。
「どうして、既婚者で子供もいる幸直が、僕にキスをするのかな? 幸直は僕に恋愛感情はないはずだが」
「あ、そこに戻るんだ」
そことは、キスの理由だ。
幸直と出会って、一年以上になるが。その間に、幸直は父親になった。
結婚は、巴と会う前にしていたようで。
幸直が結婚していると知ったのは、子供が生まれたという噂を人伝に聞いたときだった。
そのとき彼が言ったのは。『俺と巴の間に、俺が結婚している情報なんかいらなくね?』
ま、いらんけど。
でも、ちょっとだけ、己にとっては重要情報なんだけどな。
「恋愛感情なんか、ないよ。親愛の表れかな?」
「親愛の表れで、ベロちゅうするのか? 僕は、初めてだったんだが」
「マジ? 俺も俺も。キスしたの、巴が初めて」
軽い。そして、言い方がチャラい。
「つか、既婚者がキス初めてなんて、そんなわけないだろ」
あ、心の声が漏れてしまった。
まぁ、いい。おおよそ、そのようなことが言いたかったので。
「結婚っつってもさ。血脈を残すための血族婚だからな。向こうがその気になったときに、タネを与えるだけさ。キスなんかしないよ。向こうはお姫様みたいな感じで、周りにいっぱい人がいてさ。すること済んだら、サッと引き上げてしまう。顔もまともに見たことないかも」
なんだろう、その歪な夫婦生活は。
将堂側の名家というのは、そんなに血脈重視なのか?
しかし、手裏基成であった巴だから、少しはわかる、その事情。
巴も、もしも手裏の総帥になっていたなら、ハクトウワシ血脈の見知らぬ誰かと結婚しただろうから。
「で、僕なんかで、初めてのチュウを済ませて、良かったのか?」
幸直はフッと笑い、巴の後頭部に手を回すと。自然な感じで顔を引き寄せ、くちづけた。
「初めてのチュウが巴で良かった」
巴は、全く無の表情であったが。
心の中では『カッコイイかよっ』と叫んでいた。
幸直が、幹部の屋敷に戻り。巴は自室にひとり入る。
人払いをしたから、当分、誰もここには来ない。
文机の引き出しを開け、そこに詰まった紙の束を、無造作に手で掴んで、床にばら撒く。
その紙、一枚一枚には。
いろんな表情の幸直が描かれていた。
屈託ない笑顔、不敵な笑み、怒った顔、真剣な表情。剣術をしているときの姿勢、立ち姿、後ろ姿。
巴は、安曇眞仲も相当描いたが。幸直と出会ってからは、もっぱら絵の題材は幸直だった。
「恋愛感情は、ない…か」
つぶやいた声に、寂しい響きがあり。巴は苦笑する。
別に、幸直とどうにかなりたいなど、そんな感情は持っていない。
キスなんかされたから。
ちょっと。
少しだけ。心が浮いただけだ。
初めは、安曇に次いで絵に映える題材がみつかったことに、心の内側で興奮していたのだ。
安曇は、見栄えはとても美しいが、死に抗うあの顔以外は、お人形のような完璧な造形で、生命力があまり感じられなかった。
いつも同じ顔つき、という感じ。
だが幸直は、会うたびに、いろいろな表情を見せてくれて、面白かった。
当初は、紙が思うように買えなかったから、脳裏に焼きつけるように、幸直の一瞬一瞬を、一生懸命みつめていたものだ。
ただ、性格も、彼は良くて。
男に言い寄られて困っている巴を、何度も救ってくれたし。そのために剣技を身につけたいと願えば、そのように手配もしてくれて。
今では、そういう輩は自分で対処できるようになったし。おまけで出世もして。絵も描けるようになった。
それもこれも、幸直のおかげ。
彼自身に、巴は魅かれていった。
そうは言っても。巴は腐っても手裏基成であり。
相手は、将堂に次ぐ格式高い名家の当主。
敵と味方。
黒と白。
西と東。
決して相容れぬ関係性。
さらに彼は既婚者だ。
絶対に好きになってはいけない相手。
「なのに、あいつは。簡単に触れてきやがる。こっちの気も知らないで」
心に制御をかけ、純粋に絵の題材として、彼の見た目だけを愛し。それを絵に起こせれば満足。
彼とどうにかなろうなんて、おこがましい。
そんなふうに、思おうとしているのに。
あちらはお構いなしに距離を詰めてくるから、困る。
あの距離感ゼロな感じは、いかがなものか。
「とにかく、先ほどのチュウはなかったことにしよう。…見たものは描くが」
近距離で見た、まつ毛の長さや。
キスしたあとの、色気満載な幸直だけは、描きたいと思う巴だった。
★★★★★
巴の、出世快進撃は続いた。
幸直が組織する奇襲隊に、何度か誘われ、任務を成功させたことで。巴の剣の腕は、幹部にも認められた。
参謀であった幸直の補佐を経て、ニ十歳には幹部入りし、正式に参謀に任命される。
一兵士からの叩き上げで、二十で幹部入りというのは、本当に前例のない快挙であった。
基礎がしっかり固まっている巴の戦術論は、しばらく戦列を離れていた側近の瀬来も、唸るほどで。
「よく勉強しているね。派手なことをかましたがる幸直は、彼を見習うべきだよ」
巴のことは褒めてくれたが、幸直には辛辣なことを言う。
瀬来は可愛い顔して、毒舌な男だった。
ところで、幹部の仕事をやるようになって。たとえば作戦がひとつ上がって、それの裁定待ちという時間。
絵も描けないし、鍛錬もできない、という中途半端な余り時間がチョイチョイできるのだが。
そういうときは、羽を抜く、というのが癖になってしまった。
手持無沙汰というか。中途で折られた翼は、先端の神経が痺れていて、羽を抜いてもあまり痛くないのだ。
ハクトウワシの翼は生きていて、次々大きな羽を作り出そうとする。
それを抜かないと、カラスを装えないから、巴は暇なときに抜いているのだが。
「駄目だよ、巴」
幸直に見咎められると、手を握って止められてしまう。
それでなくても、みすぼらしい翼が、より見るに耐えなくなる、というところか。
しかし、抜かないとカラスでないことがバレる。
それは死活問題なので。やめろと言われてもやめられないのだ。
「巴、なにか、気掛かりでもあるのか? まだ、誰かに言い寄られているのか? なにかあるなら俺に相談してくれ。友達だろ?」
幸直。いくら友達でも、言えないことだ。
名家の当主に、己が手裏基成であることなど。
だからにっこり笑って、言ってやる。
「なにもない。これはただの癖だから、気にしないで」
心に抱えるものは、いろいろあるよ。
分不相応な淡い恋とか。
絵を描いていることを内緒にしているとか。
手裏基成とか。
ま、全部言えないじゃん。
というか、羽を抜く行為は心の病ではない。自分の場合はな。
そうは言っても、心優しい幸直は、己を心配そうにみつめるのだ。
そういうの、奥さんに向けてやったらいいのに、と思う巴だった。
幸直の恋愛観は、初めてチュウされたときとあまり変わらない。
奥さんとの仲は、相変わらず。
というか、幸直はあまり家族の話をしたがらない。
この間、ふたり目の子供が生まれたようなので、することはしているようなのだが。その報告を、巴にはしてくれないので。巴は知らないフリをしている。
奥さんとの間に、恋も愛もない。というか、この世に恋も愛も存在しない。
心が近い相手と話をし、触れて、笑いあう、それが楽しい。そんな感じ。
ある意味、彼の恋愛観は、お子様のまま止まっているのかもしれないな。
恋愛より、友達と遊んでいた方が楽しい、というのは。人によっては、十代前半で終了する感覚だ。
幸直にとって、一番そばにいて楽なのは、巴らしい。
好きな相手に、そう言ってもらえるのは、嬉しいが。
巴は期待しない。
なにせ、幸直自身が、それは恋ではないと断言しているからだ。
幸直にとって、巴は。親友の位置づけなのだろう。楽しいことがあれば抱きつくし、心のままに笑顔を見せ、肩を抱いて笑い合い。
心が高ぶると、キスをする。
しかし、そこまでだ。それは…親友で、あっているよね?
ともかく巴は、己の気持ちを隠して、幸直に親友の顔を向ける。
たまに邪険にもする。
あんまり嬉しそうにばかりしていたら、淡い恋心が透けて見えそうなので。
慎重に、彼との距離を測りながら、彼の笑顔が曇らないよう、静かに、静かに、そばにいる。
推しの笑顔のためならば、己の心など、どれだけ踏みつけにしても構わないのだ。
十八になった幸直が、参謀として幹部入りした、そのあとを引き継いで。
巴は、第八大隊長を任される。
しかしそれは、後ろに幸直がついている、というか。指導している、というか。
幹部からの指示を忠実にこなす、主軸的な動きをさせられたのだ。
つまり、上から言われるままにやっていた、というか。
大体が、幸直がああして、こう動いて、と指示してきて。そのままやっていたら。使いやすい大隊だと評価された、というか…。
これでいいのかと、思いはするが。
自分の思い入れや、こう動いた方がいいんじゃね? みたいな意見もなかったものだから…まあいいか、的な。
ところで、大隊長になると、屋敷を貰えるのだが。
幸直が以前住んでいたところで、勝手知ったるという感じだったので。なんの気負いもなく、その屋敷に入った。
道場、使い放題。最高。
いや、巴は決して、剣術が好きなわけではない。むしろ、その時間を、絵の制作にあてたいくらい。
しかし、腕が衰えると。剣術で人の上に立った身としては、いつ下克上されるかわからないだろう?
生きるために、腕は磨いておかなければならないのだ。
生きるって、大変だ。
だけど、好きなことをやるためならば、苦手だと思っていたことでも、案外やれちゃうものだから、不思議だよね。
手裏にいたときは、絵を描くために切り捨てていた剣術を。
今は生きて絵を描くために、剣術を極めているのだから。
そして大隊長になって、無尽蔵に紙が買えるようになった。
ようやく、心のままに、気の向くままに、絵を描ける。
描き倒してやるっ。とは思うが。
大隊長というのは、案外やることが多くて。余暇など、ほんのわずかしかないという。
寝る間を惜しんで、描きたい。
けれど。寝不足で戦場に出たら、命がヤバいので、それもほどほどに、だ。
巴は華奢な体つきをしていて、腕力が少ない。
一般兵士なら、何人でもへこませる剣術を身につけはしたが。
剛力の者が相手だと、押し負けることもあるし。
いまだに幸直に、力押しされると、ぐうの音も出ない。
幸直は細身に見えるが、中身は案外、がっしりみっしりしていて、力強い。
いや、見たわけではない。
だが服の上からでも、巴は、骨格や可動域などを見て、大体の体つきを想像できる。
引き締まった筋肉に覆われた極上の体躯を、一度、この目で拝んで見たいものだが…。
それはともかく。
力強い相手への対処法として、巴は重めの剣を持つことで、遠心力を足して、力をつけようと思っていた。
木刀も重くして、鍛錬しているところだ。
ガツガツ素振りして、汗が道場を濡らすほどになって、ようやく休憩に入る。
羽を広げて、道場のひんやりした床に寝転んだ。
床に平行に翼を広げると、背中の羽毛が生えた部分に床の冷たさが伝わって、心地いいのだ。
あんまり気持ち良いので、目をつぶる。
今日は、新兵訓練に付き合って、長距離走なんかしたものだから。疲労が溜まっていた。
ふと、唇になにかが当たって。目を開ける。
すでに見慣れた顔である幸直の美貌が、間近にあった。
あれ、寝ていたかな?
と巴が首を傾げると。
幸直は、無防備に投げ出していた巴の手を、指を絡めて床に縫い留め。さらに顔を近づけてくる。
本格的に深いくちづけをしてきた。
閉じた目蓋を縁取る、薄茶のまつ毛が、長い。
明るい性格で、少し軽いと思う男だが、眉の形は男らしい。
太すぎてオス味が強すぎるわけでも、細くて女々しい感じもない、ちょうど良い…どちらかというと、彼に似合った太めの眉。
舌を舐めてくる感触は、優しく、甘く。
彼の目蓋が開いて、丸い薄茶の瞳が現われる。
虹彩の鮮やかさに、目を奪われた。べっこう飴を太陽に透かしたみたいな、キラキラ…。
「おい、なんで目を開けたままなんだ?」
唇を離した幸直が、戸惑い気味に聞いてくる。
ま、キスした相手が、目、ガン開きだと、引くよな。
でも巴は、そんな幸直も、つぶさに見やる。
厚みのある色っぽい唇が濡れて、目の際も赤くなって…色艶が増しているぞ。
「だって、盛ったオスの顔をする幸直は珍しいからな」
「…感想は」
「美形は、盛っていても美形、ということが判明した。間近で見ても、きめの細かい肌質は、女性もうらやむつるつる具合」
「見すぎだろ」
幸直は頬をひきつらせ、フンと鼻で笑った。
巴は上半身を起こして、翼をたたむ。
「どうして、キスなんか?」
「いやぁ、無防備に寝てる巴が、可愛いと思っちゃって。ま、起きてるときも可愛いけど」
「どうして、上官が来たのに、知らせが来なかったのかな?」
「いやぁ、巴が道場にいるのがわかっていたから、使用人には、驚かせたいから直接行かせてって頼んだ」
ここの使用人は、以前、幸直が住んでいたときと変わらぬ顔ぶれだ。
ハグレである己が、使用人をいちから集めるのは大変だろうということで、幸直が残していってくれたのだ。
つまり、使用人の主人は、いまだ幸直のようなものだった。
そりゃ、幸直の言うことを優先するよな。
「どうして、既婚者で子供もいる幸直が、僕にキスをするのかな? 幸直は僕に恋愛感情はないはずだが」
「あ、そこに戻るんだ」
そことは、キスの理由だ。
幸直と出会って、一年以上になるが。その間に、幸直は父親になった。
結婚は、巴と会う前にしていたようで。
幸直が結婚していると知ったのは、子供が生まれたという噂を人伝に聞いたときだった。
そのとき彼が言ったのは。『俺と巴の間に、俺が結婚している情報なんかいらなくね?』
ま、いらんけど。
でも、ちょっとだけ、己にとっては重要情報なんだけどな。
「恋愛感情なんか、ないよ。親愛の表れかな?」
「親愛の表れで、ベロちゅうするのか? 僕は、初めてだったんだが」
「マジ? 俺も俺も。キスしたの、巴が初めて」
軽い。そして、言い方がチャラい。
「つか、既婚者がキス初めてなんて、そんなわけないだろ」
あ、心の声が漏れてしまった。
まぁ、いい。おおよそ、そのようなことが言いたかったので。
「結婚っつってもさ。血脈を残すための血族婚だからな。向こうがその気になったときに、タネを与えるだけさ。キスなんかしないよ。向こうはお姫様みたいな感じで、周りにいっぱい人がいてさ。すること済んだら、サッと引き上げてしまう。顔もまともに見たことないかも」
なんだろう、その歪な夫婦生活は。
将堂側の名家というのは、そんなに血脈重視なのか?
しかし、手裏基成であった巴だから、少しはわかる、その事情。
巴も、もしも手裏の総帥になっていたなら、ハクトウワシ血脈の見知らぬ誰かと結婚しただろうから。
「で、僕なんかで、初めてのチュウを済ませて、良かったのか?」
幸直はフッと笑い、巴の後頭部に手を回すと。自然な感じで顔を引き寄せ、くちづけた。
「初めてのチュウが巴で良かった」
巴は、全く無の表情であったが。
心の中では『カッコイイかよっ』と叫んでいた。
幸直が、幹部の屋敷に戻り。巴は自室にひとり入る。
人払いをしたから、当分、誰もここには来ない。
文机の引き出しを開け、そこに詰まった紙の束を、無造作に手で掴んで、床にばら撒く。
その紙、一枚一枚には。
いろんな表情の幸直が描かれていた。
屈託ない笑顔、不敵な笑み、怒った顔、真剣な表情。剣術をしているときの姿勢、立ち姿、後ろ姿。
巴は、安曇眞仲も相当描いたが。幸直と出会ってからは、もっぱら絵の題材は幸直だった。
「恋愛感情は、ない…か」
つぶやいた声に、寂しい響きがあり。巴は苦笑する。
別に、幸直とどうにかなりたいなど、そんな感情は持っていない。
キスなんかされたから。
ちょっと。
少しだけ。心が浮いただけだ。
初めは、安曇に次いで絵に映える題材がみつかったことに、心の内側で興奮していたのだ。
安曇は、見栄えはとても美しいが、死に抗うあの顔以外は、お人形のような完璧な造形で、生命力があまり感じられなかった。
いつも同じ顔つき、という感じ。
だが幸直は、会うたびに、いろいろな表情を見せてくれて、面白かった。
当初は、紙が思うように買えなかったから、脳裏に焼きつけるように、幸直の一瞬一瞬を、一生懸命みつめていたものだ。
ただ、性格も、彼は良くて。
男に言い寄られて困っている巴を、何度も救ってくれたし。そのために剣技を身につけたいと願えば、そのように手配もしてくれて。
今では、そういう輩は自分で対処できるようになったし。おまけで出世もして。絵も描けるようになった。
それもこれも、幸直のおかげ。
彼自身に、巴は魅かれていった。
そうは言っても。巴は腐っても手裏基成であり。
相手は、将堂に次ぐ格式高い名家の当主。
敵と味方。
黒と白。
西と東。
決して相容れぬ関係性。
さらに彼は既婚者だ。
絶対に好きになってはいけない相手。
「なのに、あいつは。簡単に触れてきやがる。こっちの気も知らないで」
心に制御をかけ、純粋に絵の題材として、彼の見た目だけを愛し。それを絵に起こせれば満足。
彼とどうにかなろうなんて、おこがましい。
そんなふうに、思おうとしているのに。
あちらはお構いなしに距離を詰めてくるから、困る。
あの距離感ゼロな感じは、いかがなものか。
「とにかく、先ほどのチュウはなかったことにしよう。…見たものは描くが」
近距離で見た、まつ毛の長さや。
キスしたあとの、色気満載な幸直だけは、描きたいと思う巴だった。
★★★★★
巴の、出世快進撃は続いた。
幸直が組織する奇襲隊に、何度か誘われ、任務を成功させたことで。巴の剣の腕は、幹部にも認められた。
参謀であった幸直の補佐を経て、ニ十歳には幹部入りし、正式に参謀に任命される。
一兵士からの叩き上げで、二十で幹部入りというのは、本当に前例のない快挙であった。
基礎がしっかり固まっている巴の戦術論は、しばらく戦列を離れていた側近の瀬来も、唸るほどで。
「よく勉強しているね。派手なことをかましたがる幸直は、彼を見習うべきだよ」
巴のことは褒めてくれたが、幸直には辛辣なことを言う。
瀬来は可愛い顔して、毒舌な男だった。
ところで、幹部の仕事をやるようになって。たとえば作戦がひとつ上がって、それの裁定待ちという時間。
絵も描けないし、鍛錬もできない、という中途半端な余り時間がチョイチョイできるのだが。
そういうときは、羽を抜く、というのが癖になってしまった。
手持無沙汰というか。中途で折られた翼は、先端の神経が痺れていて、羽を抜いてもあまり痛くないのだ。
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それを抜かないと、カラスを装えないから、巴は暇なときに抜いているのだが。
「駄目だよ、巴」
幸直に見咎められると、手を握って止められてしまう。
それでなくても、みすぼらしい翼が、より見るに耐えなくなる、というところか。
しかし、抜かないとカラスでないことがバレる。
それは死活問題なので。やめろと言われてもやめられないのだ。
「巴、なにか、気掛かりでもあるのか? まだ、誰かに言い寄られているのか? なにかあるなら俺に相談してくれ。友達だろ?」
幸直。いくら友達でも、言えないことだ。
名家の当主に、己が手裏基成であることなど。
だからにっこり笑って、言ってやる。
「なにもない。これはただの癖だから、気にしないで」
心に抱えるものは、いろいろあるよ。
分不相応な淡い恋とか。
絵を描いていることを内緒にしているとか。
手裏基成とか。
ま、全部言えないじゃん。
というか、羽を抜く行為は心の病ではない。自分の場合はな。
そうは言っても、心優しい幸直は、己を心配そうにみつめるのだ。
そういうの、奥さんに向けてやったらいいのに、と思う巴だった。
幸直の恋愛観は、初めてチュウされたときとあまり変わらない。
奥さんとの仲は、相変わらず。
というか、幸直はあまり家族の話をしたがらない。
この間、ふたり目の子供が生まれたようなので、することはしているようなのだが。その報告を、巴にはしてくれないので。巴は知らないフリをしている。
奥さんとの間に、恋も愛もない。というか、この世に恋も愛も存在しない。
心が近い相手と話をし、触れて、笑いあう、それが楽しい。そんな感じ。
ある意味、彼の恋愛観は、お子様のまま止まっているのかもしれないな。
恋愛より、友達と遊んでいた方が楽しい、というのは。人によっては、十代前半で終了する感覚だ。
幸直にとって、一番そばにいて楽なのは、巴らしい。
好きな相手に、そう言ってもらえるのは、嬉しいが。
巴は期待しない。
なにせ、幸直自身が、それは恋ではないと断言しているからだ。
幸直にとって、巴は。親友の位置づけなのだろう。楽しいことがあれば抱きつくし、心のままに笑顔を見せ、肩を抱いて笑い合い。
心が高ぶると、キスをする。
しかし、そこまでだ。それは…親友で、あっているよね?
ともかく巴は、己の気持ちを隠して、幸直に親友の顔を向ける。
たまに邪険にもする。
あんまり嬉しそうにばかりしていたら、淡い恋心が透けて見えそうなので。
慎重に、彼との距離を測りながら、彼の笑顔が曇らないよう、静かに、静かに、そばにいる。
推しの笑顔のためならば、己の心など、どれだけ踏みつけにしても構わないのだ。
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ナルン王国の下町に暮らす ルカ。
この国は一部の人だけに使える魔法が神様から贈られる。ルカはその一人で武器や防具、アクセサリーに『加護』を付けて売って生活をしていた。
ある日、配達の為に下町を歩いていたら指輪が落ちていた。見覚えのある指輪だったので届けに行くと…。
国を救った英雄(強面の可愛い物好き)と出生に秘密ありの痩せた青年のお話。
☆英雄騎士 現在28歳
ルカ 現在18歳
☆第11回BL小説大賞 21位
皆様のおかげで、奨励賞をいただきました。ありがとう御座いました。
【第1部完結】悪役令息ですが、家族のため精一杯生きているので邪魔しないでください~僕の執事は僕にだけイケすぎたオジイです~
ちくわぱん
BL
【11/28第1部完結・12/8幕間完結】(第2部開始は年明け後の予定です)ハルトライアは前世を思い出した。自分が物語の当て馬兼悪役で、王子と婚約するがのちに魔王になって結局王子と物語の主役に殺される未来を。死にたくないから婚約を回避しようと王子から逃げようとするが、なぜか好かれてしまう。とにかく悪役にならぬように魔法も武術も頑張って、自分のそばにいてくれる執事とメイドを守るんだ!と奮闘する日々。そんな毎日の中、困難は色々振ってくる。やはり当て馬として死ぬしかないのかと苦しみながらも少しずつ味方を増やし成長していくハルトライア。そして執事のカシルもまた、ハルトライアを守ろうと陰ながら行動する。そんな二人の努力と愛の記録。両片思い。じれじれ展開ですが、ハピエン。
子悪党令息の息子として生まれました
菟圃(うさぎはたけ)
BL
悪役に好かれていますがどうやって逃げられますか!?
ネヴィレントとラグザンドの間に生まれたホロとイディのお話。
「お父様とお母様本当に仲がいいね」
「良すぎて目の毒だ」
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「僕達の子ども達本当に可愛い!!」
「ゆっくりと見守って上げよう」
偶にネヴィレントとラグザンドも出てきます。
音楽の神と呼ばれた俺。なんか殺されて気づいたら転生してたんだけど⁉(完)
柿の妖精
BL
俺、牧原甲はもうすぐ二年生になる予定の大学一年生。牧原家は代々超音楽家系で、小さいころからずっと音楽をさせられ、今まで音楽の道を進んできた。そのおかげで楽器でも歌でも音楽に関することは何でもできるようになり、まわりからは、音楽の神と呼ばれていた。そんなある日、大学の友達からバンドのスケットを頼まれてライブハウスへとつながる階段を下りていたら後ろから背中を思いっきり押されて死んでしまった。そして気づいたら代々超芸術家系のメローディア公爵家のリトモに転生していた!?まぁ音楽が出来るなら別にいっか!
そんな音楽の神リトモと呪いにかけられた第二王子クオレの恋のお話。
完全処女作です。温かく見守っていただけると嬉しいです。<(_ _)>
異世界で8歳児になった僕は半獣さん達と仲良くスローライフを目ざします。……やっぱり狙われちゃう感じ?
み馬
BL
※ 完結しました。お読みくださった方々、誠にありがとうございました!
志望校に合格した春、桜の樹の下で意識を失った主人公・斗馬 亮介(とうま りょうすけ)は、気がついたとき、異世界で8歳児の姿にもどっていた。
わけもわからず放心していると、いきなり巨大な黒蛇に襲われるが、水の精霊〈ミュオン・リヒテル・リノアース〉と、半獣属の大熊〈ハイロ〉があらわれて……!?
これは、とある加護を受けた8歳児が、しゃべる動物たちとスローライフ?を目ざす、ファンタジーBLです。
おとなサイド(半獣×精霊)のカプありにつき、R15にしておきました。
※ 独自設定、造語、下ネタあり。出産描写あり。幕開け(前置き)長め。第21話に登場人物紹介を載せましたので、ご参考ください。
★お試し読みは、第1部(第22〜27話あたり)がオススメです。物語の傾向がわかりやすいかと思います★
★第11回BL小説大賞エントリー作品★最終結果2773作品中/414位★応援ありがとうございました★
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