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番外 側近、瀬来月光 3
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父が、手裏と通じているのを知ったのは、月光が十四歳の年だ。
子飼いの隠密を、月光は父親のそばにつけていた。
それは、赤穂と話す機会を奪われたくないから。そして父が感づいても、すぐに赤穂を逃がせるように。そんな可愛らしい理由でつけていたのだけど。
いや、月光としては、それはとても重要なことなのだ。
色恋話ばかりではなく、手裏の動向や、作戦会議や、人事案なども話していたのだから。
父は歪んでいるから、ふたりが会っていれば、すぐに色恋だと勘違いして、大騒ぎする。
まぁ、丸っきり勘違いでもないから、ややこしいのだが。
少なくとも、この時点ではまだ、月光は赤穂と復縁していなかった。
だからこそ、痛くない腹を探られたくなかったのだ。
父につけていた隠密は、父が、手裏と書状のやり取りをしていることを、月光に話し。指示をあおいできた。
どうする?
書状の内容はわからないが。将堂の要所を預かる者が、手裏とやり取りをしている時点で、もう駄目なのだ。
勘違い、誤解だったら、あとでなんとかして、将堂家に謝って、許してもらうしかない。
「全く、なにをしてくれるんだ? 父上」
良くて領地没収、悪くてお家断絶案件だった。
「とりあえず、領地に戻る。そこで、証拠の書状をおさえよう。その後、赤穂に相談する」
そのとき月光は『将堂の宝玉の意見を聞きたい』という政治的な相談を受け、本拠地にいて。
赤穂は、超過勤務で、左軍を率いて前線基地にいた。
そして瀬来家の領地は、富士山の東側、愛鷹山から海までを守る要所に位置している。
月光は富士山に向けて、馬を走らせた。
季節はもうすぐ春、というところで。高い山のそばだから、空気は冷え込んでいるが。雪などは、積もっていない。日によっては、麗らかな日差しが街を明るく照らす、そんな気候だった。
漁師業が盛んな村は、活気があり。村人も村を守る兵士たちも、特に変わった様子はない。
瀬来一族の者も、月光の突然の帰還に、驚きつつも歓迎しているように見える。
何事もないようにと祈りながら、月光は隠密から書状のありかを教えてもらい、内容を確認した。
すると、近日中に、手裏軍が領地を制圧するという計画が書かれたものを発見してしまった。
これは、マズイ。
誰が敵か味方かわからないから、一族の者には相談ができない。
そして、事は一刻を争う。
月光ひとりで、どうにかできる域を超えていた。
「このまま、前線基地の赤穂の元へ行く。おまえは再び、父について動向を探ってくれ」
よく相談してくれた、と月光は報告してくれた隠密をねぎらい。赤穂の元へ向かったのだ。
書状を持った月光は、入ってきた関東方面の北門を出て、富士山を大きく迂回して前線基地に入った。
どこかで父が、月光の動きを見張っていたら、悪事を暴露できなくなるので。慎重に動いたのだ。
ここで、月光は。父親のことを見限った。
家が没落しても、当主の座から父を引きずりおろす。
将堂に、赤穂に、邪魔になる存在はいらないのだ。
たとえ父親でも。
赤穂のそばには、瀬間と堺がついていた。
左軍は頼りないが。ふたりは、それ以上に頼りになる。
月光はさっそく、赤穂に書状を見せ。指示をあおいだ。
「瀬来、これは…秘密裏に対応する方がいいんじゃないか? 家が潰れるぞ」
名家である瀬間が、月光の家の心配をして、聞いてくるが。
月光は首を振る。
「いや、父は将堂にとって、もはや有害だ。いずれ、赤穂の足を引っ張る存在になる。…もう、なってるか。僕は、赤穂の邪魔者は、誰であっても排除する。ここで、決着をつけると、腹をくくった」
いつもは可愛らしい月光の、決意に引き締まった表情を見て。
赤穂も、瀬間も、堺も、腰をあげた。
「よし、一大隊を率いて、瀬来側近を捕縛しに行く」
兵士が用意を整え、基地を出立するときには、こうこうとした満月が頭上高く昇っていた。
兵士を引き連れ、瀬来一族が守りを固める領地に、南門から入ろうとするが。もうすでに、領地の中には手裏軍が入り込んでいた。
村には火が放たれ、一族の守りは、手裏軍によって蹂躙されている。
逃げ惑う人々を、赤穂たちは保護し。手裏兵を倒しながら、瀬来の屋敷へと向かう。
「月光、さま…」
父に張りつかせていた隠密が、月光の姿を見て声をかけてきた。
しかし、手裏兵に斬られていて、重傷だ。
月光は馬を降り、隠密を介抱する。
「すぐに手当てをする。しっかりしろ」
「側近は、屋敷に…。一族の、方々は、側近の手の者と、手裏兵に挟まれ。手の打ちようも、なく…」
「もう喋るな。手当てを…する、から…」
涙をあふれさせながら、月光は言うが。彼はすでに、事切れていた。
子飼いの隠密というのは、子供も同然だ。
年齢は、月光と同じか。もしくはそれ以上の、大人だけど。
隠密として、月光が一から育てた。
月光が、どんな情報を欲し、どう生かそうとしているのか。
どうしたら、うまく隠れられるのか。一緒になって試行錯誤した、月光の手足だったのに。
「月光、行くぞ」
彼の死を無駄にするなと、赤穂に暗に言われ。
月光は涙を拭って、騎乗した。
ほぼ計画と同時期に、将堂軍が現れたため。手裏兵は東へ抜けることができず、大半が捕縛され。
月光の父と、手の者は、屋敷に籠城していた。
しかし屋敷も、手裏兵の放った火が移り、燃え始めている。
「月光さま、なぜ我らを裏切るのですかっ?」
屋敷から出てきて、戸惑いの目を向ける兵を、月光は斬っていった。
「裏切る? 貴様らが、我が一族を裏切ったのだ」
元は味方だった者を斬るのは、胸が痛かったが。愚行を犯した者の後始末を、しなければならない。
ここが破られたら、手裏が東へ進出し、将堂の喉元まで迫るのだ。
絶対に阻止しなければならない…赤穂の為にも。
瀬来の屋敷は、珍しい二階建て家屋で。月光は、父を探して階段を登っていく。
すると、声が聞こえた。
誤解だ、私のせいではない。そう命乞いをしている。
半開きの引き戸を大きく開けると、中には床に膝をつく父と、父に剣を向ける赤穂がいた。
大きく開いた二階の窓からは、月光に白く輝くススキ野原がよく見えたのだが。今は、紅蓮の炎が立ち昇り、夜闇を火が赤々と照らしていた。
火勢で、赤穂の長い黒髪が揺れている。
赤穂は普段、後ろ髪を三つ編みに結えているが。戦闘中にほどけてしまったようだ。
炎を背景に、髪を振り乱し剣を突きつける赤穂は、さながら地獄の沙汰の審判人のようだった。
「月光、助けてくれ。おまえなら、将堂の宝玉であるおまえなら…」
「この場を言い逃れられるとでも? いかに将堂の宝玉と言えど、それは無理な相談ですよ。証拠の書状がここにある」
胸を叩いて、月光は冷たい眼差しで父親を見下ろした。
「愚かなことをして、一族までも皆殺しにするとは…どういう了見なのです?」
父は観念したのか、逆切れしたのか。奥歯を噛んで、月光を睨みつける。
「私を認めぬ一族など、死んで当然だ。これからは、手裏の時代なんだよ。それがわからない、馬鹿ばっかりで、嫌になる。おまえもだ、月光。将堂の宝玉などと祭り上げられ、いい気になって父を見下す、愚かな息子よ。その女のようなナリで、この男をたぶらかして。男の風上にも置けないっ」
この男で赤穂を指差し、父はとにかく呪詛を吐き散らかす。
「大体、おまえが生まれたのが間違いなのだ。トンビが鷹を生んだなどと言われることもなかった。おまえさえ、いなければ。私は将堂を裏切ることもなく、一族も死に絶えることはなかった。みんなおまえが殺したのだっ」
「聞くに堪えない。月光」
赤穂に目でうながされ、月光は廊下に出た。
赤穂は、側近を捕縛するつもりだったが。
すべてを月光のせいにする醜悪さに、我慢ならず。斬り捨てた。
大仰な断末魔が、部屋の中から聞こえたが。
月光はもはや、なにもできずに唇を噛んだ。
男の嫉妬心がこれほどの暴挙を引き起こすとは…しかも、それが実の父親の手によるものだとは。
将堂家に取り入り、名家の顔色をうかがい、世の中をうまく、狡猾に渡り歩いてきた、その才覚は。確かに瀬来家の血によるものだと、月光は思うのだが。
己の良い部分を知らず、若い才能をうらやんだ。
その一点が、父の過ちだった。
だが、もう。なにもかも、終わる。
父は死に、一族は絶え。
おそらく、己も。これほどの事態を引き起こした家の者として、責任を取らなければならないだろう。
「月光、早まるな」
悲しげにうつむく月光を、部屋から出てきた赤穂が抱き締めた。
「すまない。おまえの父親を手にかけた。おまえをないがしろにする、数々の汚い言葉に我慢ならなかったのだ」
わかっているよ。赤穂は己よりも己のことを大事にしてくれるのだ。
全然平気、と表層で思っていても。
深いところで傷ついている月光を、思いやってくれる。優しい人なのだ。
「仕方がない。父は、なんの罪もない一族の者と村人を、殺したのだ」
「おまえは俺が守る。俺に任せてくれ」
そうは言っても、無理だろうなと、月光は思った。
領地没収、お家断絶のうえ、責任取って死罪が妥当なのだ。
「屋敷が燃え落ちる。急いでここを出よう」
赤穂に肩を抱かれて、月光は避難し。外へ出た。
赤い赤い炎が、子供の頃過ごした、思い出の屋敷を包み。飲み込んでいく。
月光は、燃える火を、桃色の瞳に映し。思う。
この炎は、己の過去も現在も未来も焼き尽くす、父の呪いなのだと。
だけど満月の光は優しくて、大丈夫だよと励ましているようにも思えた。
★★★★★
数日後、月光は。多くの兵士に踏み荒らされた領地で、復興の手伝いをしていた。
将堂からの処分が出るまで、領地で待機しろということだが。つまり謹慎である。
赤穂は、俺に任せろと言ったが。死罪を覆すのは難しい。それだけのことを、父はしたのだ。
月光も、父親に加担したのではないかと疑われているらしい。
そりゃ、そうだ。
自分が判定者なら、そこを真っ先に追求するね。
でも、尋問などもなく。ただただ体を動かす日々が続いた。
赤穂と逢引きしたススキ野原は、焼け野原と化していた。
火は、思い出の地も焼き尽くしてしまうから、恐ろしい。
「ここにいたのか、月光」
荒野にたたずむ月光の横に、赤穂が立った。
とうとう処分が決まったのかなと思い、目を向けるが。
「まだ…なにも決まっていない。もうしばらく、領地にいてくれるか?」
うなずく月光を、赤穂は悲しげな目の色でみつめる。
「また、手が届かなくなってしまうのか。こんなに。こんなに、おまえは近くにいるのに。また俺から遠ざかってしまう」
そう言って、手を握った。
赤穂の手は、大きくて、温かくて、力強い。
頼もしい、親友。
でも、優しすぎるから。
いつまでも、月光の父親を斬ったことを悔やんでしまう。
赤穂がやらなかったら、自分がやったかもしれない。それほどに父との関係は険悪だったというのに。
おそらく。
赤穂は、家族に恵まれず、義父から愛情を受けなかったから。父親というものに憧れがあるのだろう。
月光の父親は、子供を連れて名家に挨拶回りするような人だったから。愛情深いのだと思っているのかもしれないな。
いや、あれは保身なんだ、とか。理想の父親像を思い描いている赤穂には、言えないけど。
だから、一言、言った。
「赤穂は、悪くない…」
でも、たぶん、こんな言葉では、赤穂の罪悪感を払拭できない。
それに、自分を望む赤穂に、応えることもできない。
謀反を疑われている自分が、赤穂と復縁したら。今度は赤穂が不義を疑われるかもしれない。
それは駄目だ。
なので。月光は赤穂の手を握る。
なにも言わず。ただ寄り添って。赤穂の手を握ることしかできなかった。
その後、処分が決まった。
領地没収。瀬来家は月光以降の存続を認められない。
いわゆる、お家断絶だが。
月光が瀬来家の当主になることは、許された。
そして赤穂と婚姻を結ぶことで、将堂の監視下に入る。
この決定には、驚いたが。
将堂の宝玉と呼ばれる頭脳を失えない、ということである。
婚姻とは名ばかりで、ただ月光を将堂に引き留めたい、役立てたいということなのだ。
婚姻は行き過ぎな気もするが、手っ取り早く、古参の家臣を納得させるためらしい。
わかりやすいね。納得した。
言葉通りに、赤穂が奮闘してくれたのだと、沙汰を告げに来た瀬間が教えてくれた。
父親の謀反を暴露するのは、息子としては痛恨の極み。それでも将堂への忠義で報せてくれた。早く対処したから、大事には至らなかったのだ。と、強く主張してくれたようだ。
ありがとう、赤穂。
こうして死罪を免れた月光は、もう自分の領地ではないが、踏み荒らされた村の復興を、私財を投じて手伝っていた。
なんとなく、一族への弔いの気持ちも込めて。
一族の者は、期待を大きくかけてきて、煩わしいこともあったが。将堂の宝玉である月光を敬い、尊重してくれていた。
彼らには、落ち度など、なにもなかったのだ。
なのに、訳がわからないままに、父の手にかかって命を落とした。哀れな者たち。さぞ、無念であっただろう。
彼らが守った村を再生できれば、彼らも浮かばれるだろうと思った。
しかし、そこで。村人に紛れ込んでいた手裏の残党に、月光は斬られてしまった。
月光の隠密が命を懸けて、その手裏兵と戦い、相討ちに持ち込んでくれたのだが。
月光は、また大切な隠密を失ってしまう。
彼がいなかったら、二撃目で、確実に殺されていた。謹慎中だったから防具もつけていなくて。致命傷ではなかったが、胸に大きな刀傷を負ってしまったのだ。
やっぱり、死ぬ運命だったのかもしれないな…。
ともに復興の手伝いをしていた、村人たちの手により。月光は愛鷹山の中にある、旧瀬来家の別荘に運び込まれた。治療を受け、命は取りとめる。
しかし経過は一進一退で、起き上がれなかった。
胸の傷は、高熱を引き起こし。
元々風邪をひきやすい体質だった月光は、高熱が出るたびに生死の境をさまよう。
月光が斬られたことを知り、すぐに赤穂が駆けつけてくれた。
慣れない看病までしてくれたよ。
「赤穂…忙しいのに、ずっとついていなくていいんだよ」
「馬鹿な。俺は夫だ。おまえの、夫。ようやくおまえを、俺のものにできたんだ。離すものか」
熱がこもる月光の、熱い手を握り締め。赤穂が告げる。
嬉しかった。離さないでと思った。
でも、看病疲れなのか、赤穂は日に日にやつれていき。
月光と目を合わせるのも、つらそうになってきた。
赤穂はまだ、父を殺したことを気に病んでいて。そして月光の顔に死の影を見て、恐れているのだ。
月光は、自分が赤穂を追い込んでいることが、嫌だった。
赤穂に重いものを背負ってもらいたくない。
なのに、今は。自分が一番、彼にとっての重荷なのだ。だから。
「ねぇ、赤穂。僕は死なない。赤穂がそばにいないときに、死んだりしないと約束する」
少し具合の良いときに。身は起こせなかったけれど、しっかりとした言葉と声で、赤穂に言った。
「赤穂、結婚話があるのなら、受けてくれ。赤穂ほどの甲斐性があれば、伴侶はひとりでなくてもいいんだから。僕は、名ばかりの伴侶だし」
赤穂が己の命を助けるために、伴侶にしてくれた。
なのに自分は、伴侶らしいことをひとつもできなくて。
彼を愛することも、子孫を残すことも、将堂の宝玉として役に立つことも…できないなんて。
「馬鹿な。おまえを生かすためだけに結婚したわけじゃない」
「わかってる。赤穂はいつだって、僕に優しいから。でも、伴侶の務めを果たせていないことは、事実。だから、僕に気を遣うことはない。大丈夫。赤穂が誰と結ばれても、僕と赤穂は、永遠の友達だからね?」
たとえ、もう、赤穂の為に、なにもしてやれなくても。
友達の地位だけは、譲らないさ。
あぁ…愛しているよ、赤穂。親友で、優しい恋人。
だから、己が彼の重荷になるなんて。許さない。
「俺は、どれほどつらくても耐えられる。でも、おまえは。そんな俺を見ているのがつらいのか?」
そうだよ。己の顔を、赤穂がつらそうに見る。それが、つらいんだ。
言わないけれど。そう思ってみつめるだけで、赤穂は月光の意を汲んでくれた。
「約束したぞ。俺の前以外で死なないと」
立ち上がった赤穂は、そうして月光の前から去っていった。
★★★★★
療養しているうちに、謹慎は解け。軽い散歩に出られるくらい、体が回復してから、月光は己の屋敷に戻った。
富士山の東側にあった領地は、将堂に返還してしまったが。
屋敷は、いくつか残っている。
幹部は、本拠地の中に屋敷があるが。名家の者は本拠地の外にも、家族と暮らすための本邸を持っている。
瀬来家も、それがあるのだ。
本拠地からほど近い場所に、将堂本家、それを守るように名家の屋敷が並ぶ町がある。
そうは言っても、ひとつひとつの屋敷が、かなり大きいし。お隣さんと言っても、視認できないくらいには離れている。
その中でも、瀬来家の本邸は町はずれにあった。
謀反騒動を起こした引け目があるから、人目につかない立地なのがありがたい。
だだっ広い本邸に、月光は三人の隠密とともに住み着いた。
でも、やはり体調は一進一退で。
季節の変わり目でも寝込んでしまうような、思わしくない容体だった。
十五歳の冬の終わり。赤穂とは、一年ほど会っていなかった。
時々、瀬間が、本邸に報告に来てくれる他に。たずねてくる者はいない。
人の機微に疎くて、考え方が大雑把な、剣道馬鹿だけど。こういうところ、律儀というか。
好きじゃないけど、嫌いにはなれないところだ。
寝間着に、綿入れ半纏姿だが。瀬間を客間に通し、なんとか最低限の儀礼を整え、相対した。
「瀬来と時雨の廃嫡が決まっただろ? 世間の目は、麟義と美濃に集まった。金蓮様が大将になられて、代替わりが加速しているんだ。うちは、すぐにも俺が家督を継いで。美濃様も息子に家督を譲り、一線を退いた。それで右軍は、赤穂様主導の若手体制に移行したぞ」
「そういう微妙な話を、瀬間はぶっこんで来るよねぇ」
そう、現当主限りで、廃嫡の決まった瀬来家の月光には。この手の話を、誰もしてこない。
「だが、おまえは。一番、こういう話が知りたいのだろう? 今の軍内部の勢力図だ。准将、赤穂様。右将軍、堺。右次将軍が俺な」
「わかってるじゃないか。伊達に十年も同僚していないよね。古狸がいなくなって、すっきりしたな。まぁ、美濃様は、それほど悪意のある方ではないが。赤穂の下に甘んじていられるかはわからないし。赤穂の周りに味方しかいない状態は好ましい」
「側近は、おまえだぞ。月光」
「…こんな死にぞこないに地位をくださるとは。ありがたいことだ。つか、おまえ次将軍なのか? ウケる」
「はぁ? 仕方ねぇだろ。単純に、堺には勝てなかったんだ。でも、次は勝つ」
地位なんか、ころころ変わるものじゃないのに、次ってなに? って月光は思う。
が、ツッコまない。面倒くさいから。
怪我の前なら、嫌味と揶揄で、瀬間をコテンパンにしてやれるのに、今はそこまで元気じゃない。
「金蓮様が体調を崩していて、今、赤穂様は、左を率いて前線基地にいる」
「また超過勤務か。赤穂はずっと、前線にいるのではないか?」
「あぁ。だが、動いている方が、気がまぎれるようだ。赤穂様はいろいろ背負い過ぎる」
「…僕のことは、気に掛けなくていいのに」
「そう、おまえが言ったところで、気にしてしまうのが、我らが赤穂様ではないか。軍では、凶戦士だの血に飢えた黒豹だの言われているが、彼が情に厚いことは、幹部はみんな知っている」
そんな近況を教えてくれて。瀬間は帰っていった。
赤穂が准将になり、いよいよ彼の時代になる。
金蓮様は、軍の仕事は、なにかと赤穂に頼っているようだから。
きっと、もう。赤穂が将堂の中で孤独になることはないだろう。
自分の役割は、もう終わったかな。もう、いいかな?
瀬間の相手をしていて、少し疲れた。
月光は布団に体を横たえ、そう考えていた。
そうしたら、玄関を叩く音がしたのだ。
隠密が、赤穂が来たと言うので。月光は重い体を起こし、玄関に向かう。
ついさっき瀬間から、赤穂は前線基地にいると聞いたばかりなのに。
でもやはり、訪問者は赤穂だった。
なにやら布を抱いて。あの傲岸不遜な男が、ちょっとすがるような目を月光に向ける。
「月光、この子を助けてくれ」
この子? と思い。月光は布の中身をのぞき込んだ。
すると、黒髪の、小さい小さい赤ちゃんが…ええ? 赤ちゃんがいるではないかっ!
「かっわいいぃぃ。って言ってる場合じゃない。早く上がって」
なんか危なっかしい持ち方してるから、早く赤穂から、赤ちゃんを取り上げたい。
っていうか、抱っこさせてぇ。
なんか、瀬間が来て疲れたとか思っていたけど。
赤ちゃん見たら、一瞬で疲れが吹き飛んだよ。
「生まれたての赤子で、軽く拭いただけだから。体が冷えているかもしれない。泣き声も弱くて、もしかしたら助けられないかも」
どんな猛者や手練れが相手でも、身を震わせるようなことはなく、むしろ薄笑いで相手を挑発するような闘将なのに。
赤穂は、子供を抱いて、震えていた。
そして随分、気弱なことを言う。
高熱を出した月光の顔を見るのと、同じ表情だった。
だから月光は。赤穂の背中を、思いっきり手で叩いてやった。
「大丈夫。必ず助ける。任せてよ。まずはお風呂だね。隠密さん、全員集合。手伝ってぇ」
しんと静まった大きな屋敷の奥から、わらわらと月光の隠密が現れ始め、赤穂は目を丸くした。
「月光さま、すぐに、お風呂は用意できます」
「赤子はなにを食べるのですか? おかゆですか?」
「馬鹿者、脱脂乳だ。すぐに買い付けてまいります」
シャキシャキ動く隠密に、いろいろ任せ、月光は赤穂の手を取った。
緊張したのか、手はこわばって、固まっている。
「怖かったんだね。赤ちゃんなんて、初めて抱いたろう? ましてこんな小さな子。ね、赤穂。僕に抱かせて?」
ぎくしゃくした動きで、赤穂が月光に赤子を渡す。
月光は小さな命を腕に抱いて、感動した。
「小さい、柔らかい」
「ギュッとするなよ。潰れるぞ」
「わかってるよ。さぁ、お風呂に行くよ」
「月光」
とっさに腕を引かれ、月光は赤穂に目を向ける。
すごく神妙で、恐る恐るという様子だった。
「この子は…龍鬼だ」
囁く小声で、赤穂が言う。なるほど。でも、それがなに?
「ううん、赤穂の子だろ?」
赤穂はギョッとした顔をして。月光に問いかけた。
「わかるのか?」
「目は開いてないけど、しっかりした黒髪に生意気そうな口元。僕が初めて赤穂を認識したときの顔とそっくり」
「あぁ。あぁ、俺の子だ」
問答は終わり。
早く温めてやらないと、助けられない。月光は急いで風呂場に向かった。
子飼いの隠密を、月光は父親のそばにつけていた。
それは、赤穂と話す機会を奪われたくないから。そして父が感づいても、すぐに赤穂を逃がせるように。そんな可愛らしい理由でつけていたのだけど。
いや、月光としては、それはとても重要なことなのだ。
色恋話ばかりではなく、手裏の動向や、作戦会議や、人事案なども話していたのだから。
父は歪んでいるから、ふたりが会っていれば、すぐに色恋だと勘違いして、大騒ぎする。
まぁ、丸っきり勘違いでもないから、ややこしいのだが。
少なくとも、この時点ではまだ、月光は赤穂と復縁していなかった。
だからこそ、痛くない腹を探られたくなかったのだ。
父につけていた隠密は、父が、手裏と書状のやり取りをしていることを、月光に話し。指示をあおいできた。
どうする?
書状の内容はわからないが。将堂の要所を預かる者が、手裏とやり取りをしている時点で、もう駄目なのだ。
勘違い、誤解だったら、あとでなんとかして、将堂家に謝って、許してもらうしかない。
「全く、なにをしてくれるんだ? 父上」
良くて領地没収、悪くてお家断絶案件だった。
「とりあえず、領地に戻る。そこで、証拠の書状をおさえよう。その後、赤穂に相談する」
そのとき月光は『将堂の宝玉の意見を聞きたい』という政治的な相談を受け、本拠地にいて。
赤穂は、超過勤務で、左軍を率いて前線基地にいた。
そして瀬来家の領地は、富士山の東側、愛鷹山から海までを守る要所に位置している。
月光は富士山に向けて、馬を走らせた。
季節はもうすぐ春、というところで。高い山のそばだから、空気は冷え込んでいるが。雪などは、積もっていない。日によっては、麗らかな日差しが街を明るく照らす、そんな気候だった。
漁師業が盛んな村は、活気があり。村人も村を守る兵士たちも、特に変わった様子はない。
瀬来一族の者も、月光の突然の帰還に、驚きつつも歓迎しているように見える。
何事もないようにと祈りながら、月光は隠密から書状のありかを教えてもらい、内容を確認した。
すると、近日中に、手裏軍が領地を制圧するという計画が書かれたものを発見してしまった。
これは、マズイ。
誰が敵か味方かわからないから、一族の者には相談ができない。
そして、事は一刻を争う。
月光ひとりで、どうにかできる域を超えていた。
「このまま、前線基地の赤穂の元へ行く。おまえは再び、父について動向を探ってくれ」
よく相談してくれた、と月光は報告してくれた隠密をねぎらい。赤穂の元へ向かったのだ。
書状を持った月光は、入ってきた関東方面の北門を出て、富士山を大きく迂回して前線基地に入った。
どこかで父が、月光の動きを見張っていたら、悪事を暴露できなくなるので。慎重に動いたのだ。
ここで、月光は。父親のことを見限った。
家が没落しても、当主の座から父を引きずりおろす。
将堂に、赤穂に、邪魔になる存在はいらないのだ。
たとえ父親でも。
赤穂のそばには、瀬間と堺がついていた。
左軍は頼りないが。ふたりは、それ以上に頼りになる。
月光はさっそく、赤穂に書状を見せ。指示をあおいだ。
「瀬来、これは…秘密裏に対応する方がいいんじゃないか? 家が潰れるぞ」
名家である瀬間が、月光の家の心配をして、聞いてくるが。
月光は首を振る。
「いや、父は将堂にとって、もはや有害だ。いずれ、赤穂の足を引っ張る存在になる。…もう、なってるか。僕は、赤穂の邪魔者は、誰であっても排除する。ここで、決着をつけると、腹をくくった」
いつもは可愛らしい月光の、決意に引き締まった表情を見て。
赤穂も、瀬間も、堺も、腰をあげた。
「よし、一大隊を率いて、瀬来側近を捕縛しに行く」
兵士が用意を整え、基地を出立するときには、こうこうとした満月が頭上高く昇っていた。
兵士を引き連れ、瀬来一族が守りを固める領地に、南門から入ろうとするが。もうすでに、領地の中には手裏軍が入り込んでいた。
村には火が放たれ、一族の守りは、手裏軍によって蹂躙されている。
逃げ惑う人々を、赤穂たちは保護し。手裏兵を倒しながら、瀬来の屋敷へと向かう。
「月光、さま…」
父に張りつかせていた隠密が、月光の姿を見て声をかけてきた。
しかし、手裏兵に斬られていて、重傷だ。
月光は馬を降り、隠密を介抱する。
「すぐに手当てをする。しっかりしろ」
「側近は、屋敷に…。一族の、方々は、側近の手の者と、手裏兵に挟まれ。手の打ちようも、なく…」
「もう喋るな。手当てを…する、から…」
涙をあふれさせながら、月光は言うが。彼はすでに、事切れていた。
子飼いの隠密というのは、子供も同然だ。
年齢は、月光と同じか。もしくはそれ以上の、大人だけど。
隠密として、月光が一から育てた。
月光が、どんな情報を欲し、どう生かそうとしているのか。
どうしたら、うまく隠れられるのか。一緒になって試行錯誤した、月光の手足だったのに。
「月光、行くぞ」
彼の死を無駄にするなと、赤穂に暗に言われ。
月光は涙を拭って、騎乗した。
ほぼ計画と同時期に、将堂軍が現れたため。手裏兵は東へ抜けることができず、大半が捕縛され。
月光の父と、手の者は、屋敷に籠城していた。
しかし屋敷も、手裏兵の放った火が移り、燃え始めている。
「月光さま、なぜ我らを裏切るのですかっ?」
屋敷から出てきて、戸惑いの目を向ける兵を、月光は斬っていった。
「裏切る? 貴様らが、我が一族を裏切ったのだ」
元は味方だった者を斬るのは、胸が痛かったが。愚行を犯した者の後始末を、しなければならない。
ここが破られたら、手裏が東へ進出し、将堂の喉元まで迫るのだ。
絶対に阻止しなければならない…赤穂の為にも。
瀬来の屋敷は、珍しい二階建て家屋で。月光は、父を探して階段を登っていく。
すると、声が聞こえた。
誤解だ、私のせいではない。そう命乞いをしている。
半開きの引き戸を大きく開けると、中には床に膝をつく父と、父に剣を向ける赤穂がいた。
大きく開いた二階の窓からは、月光に白く輝くススキ野原がよく見えたのだが。今は、紅蓮の炎が立ち昇り、夜闇を火が赤々と照らしていた。
火勢で、赤穂の長い黒髪が揺れている。
赤穂は普段、後ろ髪を三つ編みに結えているが。戦闘中にほどけてしまったようだ。
炎を背景に、髪を振り乱し剣を突きつける赤穂は、さながら地獄の沙汰の審判人のようだった。
「月光、助けてくれ。おまえなら、将堂の宝玉であるおまえなら…」
「この場を言い逃れられるとでも? いかに将堂の宝玉と言えど、それは無理な相談ですよ。証拠の書状がここにある」
胸を叩いて、月光は冷たい眼差しで父親を見下ろした。
「愚かなことをして、一族までも皆殺しにするとは…どういう了見なのです?」
父は観念したのか、逆切れしたのか。奥歯を噛んで、月光を睨みつける。
「私を認めぬ一族など、死んで当然だ。これからは、手裏の時代なんだよ。それがわからない、馬鹿ばっかりで、嫌になる。おまえもだ、月光。将堂の宝玉などと祭り上げられ、いい気になって父を見下す、愚かな息子よ。その女のようなナリで、この男をたぶらかして。男の風上にも置けないっ」
この男で赤穂を指差し、父はとにかく呪詛を吐き散らかす。
「大体、おまえが生まれたのが間違いなのだ。トンビが鷹を生んだなどと言われることもなかった。おまえさえ、いなければ。私は将堂を裏切ることもなく、一族も死に絶えることはなかった。みんなおまえが殺したのだっ」
「聞くに堪えない。月光」
赤穂に目でうながされ、月光は廊下に出た。
赤穂は、側近を捕縛するつもりだったが。
すべてを月光のせいにする醜悪さに、我慢ならず。斬り捨てた。
大仰な断末魔が、部屋の中から聞こえたが。
月光はもはや、なにもできずに唇を噛んだ。
男の嫉妬心がこれほどの暴挙を引き起こすとは…しかも、それが実の父親の手によるものだとは。
将堂家に取り入り、名家の顔色をうかがい、世の中をうまく、狡猾に渡り歩いてきた、その才覚は。確かに瀬来家の血によるものだと、月光は思うのだが。
己の良い部分を知らず、若い才能をうらやんだ。
その一点が、父の過ちだった。
だが、もう。なにもかも、終わる。
父は死に、一族は絶え。
おそらく、己も。これほどの事態を引き起こした家の者として、責任を取らなければならないだろう。
「月光、早まるな」
悲しげにうつむく月光を、部屋から出てきた赤穂が抱き締めた。
「すまない。おまえの父親を手にかけた。おまえをないがしろにする、数々の汚い言葉に我慢ならなかったのだ」
わかっているよ。赤穂は己よりも己のことを大事にしてくれるのだ。
全然平気、と表層で思っていても。
深いところで傷ついている月光を、思いやってくれる。優しい人なのだ。
「仕方がない。父は、なんの罪もない一族の者と村人を、殺したのだ」
「おまえは俺が守る。俺に任せてくれ」
そうは言っても、無理だろうなと、月光は思った。
領地没収、お家断絶のうえ、責任取って死罪が妥当なのだ。
「屋敷が燃え落ちる。急いでここを出よう」
赤穂に肩を抱かれて、月光は避難し。外へ出た。
赤い赤い炎が、子供の頃過ごした、思い出の屋敷を包み。飲み込んでいく。
月光は、燃える火を、桃色の瞳に映し。思う。
この炎は、己の過去も現在も未来も焼き尽くす、父の呪いなのだと。
だけど満月の光は優しくて、大丈夫だよと励ましているようにも思えた。
★★★★★
数日後、月光は。多くの兵士に踏み荒らされた領地で、復興の手伝いをしていた。
将堂からの処分が出るまで、領地で待機しろということだが。つまり謹慎である。
赤穂は、俺に任せろと言ったが。死罪を覆すのは難しい。それだけのことを、父はしたのだ。
月光も、父親に加担したのではないかと疑われているらしい。
そりゃ、そうだ。
自分が判定者なら、そこを真っ先に追求するね。
でも、尋問などもなく。ただただ体を動かす日々が続いた。
赤穂と逢引きしたススキ野原は、焼け野原と化していた。
火は、思い出の地も焼き尽くしてしまうから、恐ろしい。
「ここにいたのか、月光」
荒野にたたずむ月光の横に、赤穂が立った。
とうとう処分が決まったのかなと思い、目を向けるが。
「まだ…なにも決まっていない。もうしばらく、領地にいてくれるか?」
うなずく月光を、赤穂は悲しげな目の色でみつめる。
「また、手が届かなくなってしまうのか。こんなに。こんなに、おまえは近くにいるのに。また俺から遠ざかってしまう」
そう言って、手を握った。
赤穂の手は、大きくて、温かくて、力強い。
頼もしい、親友。
でも、優しすぎるから。
いつまでも、月光の父親を斬ったことを悔やんでしまう。
赤穂がやらなかったら、自分がやったかもしれない。それほどに父との関係は険悪だったというのに。
おそらく。
赤穂は、家族に恵まれず、義父から愛情を受けなかったから。父親というものに憧れがあるのだろう。
月光の父親は、子供を連れて名家に挨拶回りするような人だったから。愛情深いのだと思っているのかもしれないな。
いや、あれは保身なんだ、とか。理想の父親像を思い描いている赤穂には、言えないけど。
だから、一言、言った。
「赤穂は、悪くない…」
でも、たぶん、こんな言葉では、赤穂の罪悪感を払拭できない。
それに、自分を望む赤穂に、応えることもできない。
謀反を疑われている自分が、赤穂と復縁したら。今度は赤穂が不義を疑われるかもしれない。
それは駄目だ。
なので。月光は赤穂の手を握る。
なにも言わず。ただ寄り添って。赤穂の手を握ることしかできなかった。
その後、処分が決まった。
領地没収。瀬来家は月光以降の存続を認められない。
いわゆる、お家断絶だが。
月光が瀬来家の当主になることは、許された。
そして赤穂と婚姻を結ぶことで、将堂の監視下に入る。
この決定には、驚いたが。
将堂の宝玉と呼ばれる頭脳を失えない、ということである。
婚姻とは名ばかりで、ただ月光を将堂に引き留めたい、役立てたいということなのだ。
婚姻は行き過ぎな気もするが、手っ取り早く、古参の家臣を納得させるためらしい。
わかりやすいね。納得した。
言葉通りに、赤穂が奮闘してくれたのだと、沙汰を告げに来た瀬間が教えてくれた。
父親の謀反を暴露するのは、息子としては痛恨の極み。それでも将堂への忠義で報せてくれた。早く対処したから、大事には至らなかったのだ。と、強く主張してくれたようだ。
ありがとう、赤穂。
こうして死罪を免れた月光は、もう自分の領地ではないが、踏み荒らされた村の復興を、私財を投じて手伝っていた。
なんとなく、一族への弔いの気持ちも込めて。
一族の者は、期待を大きくかけてきて、煩わしいこともあったが。将堂の宝玉である月光を敬い、尊重してくれていた。
彼らには、落ち度など、なにもなかったのだ。
なのに、訳がわからないままに、父の手にかかって命を落とした。哀れな者たち。さぞ、無念であっただろう。
彼らが守った村を再生できれば、彼らも浮かばれるだろうと思った。
しかし、そこで。村人に紛れ込んでいた手裏の残党に、月光は斬られてしまった。
月光の隠密が命を懸けて、その手裏兵と戦い、相討ちに持ち込んでくれたのだが。
月光は、また大切な隠密を失ってしまう。
彼がいなかったら、二撃目で、確実に殺されていた。謹慎中だったから防具もつけていなくて。致命傷ではなかったが、胸に大きな刀傷を負ってしまったのだ。
やっぱり、死ぬ運命だったのかもしれないな…。
ともに復興の手伝いをしていた、村人たちの手により。月光は愛鷹山の中にある、旧瀬来家の別荘に運び込まれた。治療を受け、命は取りとめる。
しかし経過は一進一退で、起き上がれなかった。
胸の傷は、高熱を引き起こし。
元々風邪をひきやすい体質だった月光は、高熱が出るたびに生死の境をさまよう。
月光が斬られたことを知り、すぐに赤穂が駆けつけてくれた。
慣れない看病までしてくれたよ。
「赤穂…忙しいのに、ずっとついていなくていいんだよ」
「馬鹿な。俺は夫だ。おまえの、夫。ようやくおまえを、俺のものにできたんだ。離すものか」
熱がこもる月光の、熱い手を握り締め。赤穂が告げる。
嬉しかった。離さないでと思った。
でも、看病疲れなのか、赤穂は日に日にやつれていき。
月光と目を合わせるのも、つらそうになってきた。
赤穂はまだ、父を殺したことを気に病んでいて。そして月光の顔に死の影を見て、恐れているのだ。
月光は、自分が赤穂を追い込んでいることが、嫌だった。
赤穂に重いものを背負ってもらいたくない。
なのに、今は。自分が一番、彼にとっての重荷なのだ。だから。
「ねぇ、赤穂。僕は死なない。赤穂がそばにいないときに、死んだりしないと約束する」
少し具合の良いときに。身は起こせなかったけれど、しっかりとした言葉と声で、赤穂に言った。
「赤穂、結婚話があるのなら、受けてくれ。赤穂ほどの甲斐性があれば、伴侶はひとりでなくてもいいんだから。僕は、名ばかりの伴侶だし」
赤穂が己の命を助けるために、伴侶にしてくれた。
なのに自分は、伴侶らしいことをひとつもできなくて。
彼を愛することも、子孫を残すことも、将堂の宝玉として役に立つことも…できないなんて。
「馬鹿な。おまえを生かすためだけに結婚したわけじゃない」
「わかってる。赤穂はいつだって、僕に優しいから。でも、伴侶の務めを果たせていないことは、事実。だから、僕に気を遣うことはない。大丈夫。赤穂が誰と結ばれても、僕と赤穂は、永遠の友達だからね?」
たとえ、もう、赤穂の為に、なにもしてやれなくても。
友達の地位だけは、譲らないさ。
あぁ…愛しているよ、赤穂。親友で、優しい恋人。
だから、己が彼の重荷になるなんて。許さない。
「俺は、どれほどつらくても耐えられる。でも、おまえは。そんな俺を見ているのがつらいのか?」
そうだよ。己の顔を、赤穂がつらそうに見る。それが、つらいんだ。
言わないけれど。そう思ってみつめるだけで、赤穂は月光の意を汲んでくれた。
「約束したぞ。俺の前以外で死なないと」
立ち上がった赤穂は、そうして月光の前から去っていった。
★★★★★
療養しているうちに、謹慎は解け。軽い散歩に出られるくらい、体が回復してから、月光は己の屋敷に戻った。
富士山の東側にあった領地は、将堂に返還してしまったが。
屋敷は、いくつか残っている。
幹部は、本拠地の中に屋敷があるが。名家の者は本拠地の外にも、家族と暮らすための本邸を持っている。
瀬来家も、それがあるのだ。
本拠地からほど近い場所に、将堂本家、それを守るように名家の屋敷が並ぶ町がある。
そうは言っても、ひとつひとつの屋敷が、かなり大きいし。お隣さんと言っても、視認できないくらいには離れている。
その中でも、瀬来家の本邸は町はずれにあった。
謀反騒動を起こした引け目があるから、人目につかない立地なのがありがたい。
だだっ広い本邸に、月光は三人の隠密とともに住み着いた。
でも、やはり体調は一進一退で。
季節の変わり目でも寝込んでしまうような、思わしくない容体だった。
十五歳の冬の終わり。赤穂とは、一年ほど会っていなかった。
時々、瀬間が、本邸に報告に来てくれる他に。たずねてくる者はいない。
人の機微に疎くて、考え方が大雑把な、剣道馬鹿だけど。こういうところ、律儀というか。
好きじゃないけど、嫌いにはなれないところだ。
寝間着に、綿入れ半纏姿だが。瀬間を客間に通し、なんとか最低限の儀礼を整え、相対した。
「瀬来と時雨の廃嫡が決まっただろ? 世間の目は、麟義と美濃に集まった。金蓮様が大将になられて、代替わりが加速しているんだ。うちは、すぐにも俺が家督を継いで。美濃様も息子に家督を譲り、一線を退いた。それで右軍は、赤穂様主導の若手体制に移行したぞ」
「そういう微妙な話を、瀬間はぶっこんで来るよねぇ」
そう、現当主限りで、廃嫡の決まった瀬来家の月光には。この手の話を、誰もしてこない。
「だが、おまえは。一番、こういう話が知りたいのだろう? 今の軍内部の勢力図だ。准将、赤穂様。右将軍、堺。右次将軍が俺な」
「わかってるじゃないか。伊達に十年も同僚していないよね。古狸がいなくなって、すっきりしたな。まぁ、美濃様は、それほど悪意のある方ではないが。赤穂の下に甘んじていられるかはわからないし。赤穂の周りに味方しかいない状態は好ましい」
「側近は、おまえだぞ。月光」
「…こんな死にぞこないに地位をくださるとは。ありがたいことだ。つか、おまえ次将軍なのか? ウケる」
「はぁ? 仕方ねぇだろ。単純に、堺には勝てなかったんだ。でも、次は勝つ」
地位なんか、ころころ変わるものじゃないのに、次ってなに? って月光は思う。
が、ツッコまない。面倒くさいから。
怪我の前なら、嫌味と揶揄で、瀬間をコテンパンにしてやれるのに、今はそこまで元気じゃない。
「金蓮様が体調を崩していて、今、赤穂様は、左を率いて前線基地にいる」
「また超過勤務か。赤穂はずっと、前線にいるのではないか?」
「あぁ。だが、動いている方が、気がまぎれるようだ。赤穂様はいろいろ背負い過ぎる」
「…僕のことは、気に掛けなくていいのに」
「そう、おまえが言ったところで、気にしてしまうのが、我らが赤穂様ではないか。軍では、凶戦士だの血に飢えた黒豹だの言われているが、彼が情に厚いことは、幹部はみんな知っている」
そんな近況を教えてくれて。瀬間は帰っていった。
赤穂が准将になり、いよいよ彼の時代になる。
金蓮様は、軍の仕事は、なにかと赤穂に頼っているようだから。
きっと、もう。赤穂が将堂の中で孤独になることはないだろう。
自分の役割は、もう終わったかな。もう、いいかな?
瀬間の相手をしていて、少し疲れた。
月光は布団に体を横たえ、そう考えていた。
そうしたら、玄関を叩く音がしたのだ。
隠密が、赤穂が来たと言うので。月光は重い体を起こし、玄関に向かう。
ついさっき瀬間から、赤穂は前線基地にいると聞いたばかりなのに。
でもやはり、訪問者は赤穂だった。
なにやら布を抱いて。あの傲岸不遜な男が、ちょっとすがるような目を月光に向ける。
「月光、この子を助けてくれ」
この子? と思い。月光は布の中身をのぞき込んだ。
すると、黒髪の、小さい小さい赤ちゃんが…ええ? 赤ちゃんがいるではないかっ!
「かっわいいぃぃ。って言ってる場合じゃない。早く上がって」
なんか危なっかしい持ち方してるから、早く赤穂から、赤ちゃんを取り上げたい。
っていうか、抱っこさせてぇ。
なんか、瀬間が来て疲れたとか思っていたけど。
赤ちゃん見たら、一瞬で疲れが吹き飛んだよ。
「生まれたての赤子で、軽く拭いただけだから。体が冷えているかもしれない。泣き声も弱くて、もしかしたら助けられないかも」
どんな猛者や手練れが相手でも、身を震わせるようなことはなく、むしろ薄笑いで相手を挑発するような闘将なのに。
赤穂は、子供を抱いて、震えていた。
そして随分、気弱なことを言う。
高熱を出した月光の顔を見るのと、同じ表情だった。
だから月光は。赤穂の背中を、思いっきり手で叩いてやった。
「大丈夫。必ず助ける。任せてよ。まずはお風呂だね。隠密さん、全員集合。手伝ってぇ」
しんと静まった大きな屋敷の奥から、わらわらと月光の隠密が現れ始め、赤穂は目を丸くした。
「月光さま、すぐに、お風呂は用意できます」
「赤子はなにを食べるのですか? おかゆですか?」
「馬鹿者、脱脂乳だ。すぐに買い付けてまいります」
シャキシャキ動く隠密に、いろいろ任せ、月光は赤穂の手を取った。
緊張したのか、手はこわばって、固まっている。
「怖かったんだね。赤ちゃんなんて、初めて抱いたろう? ましてこんな小さな子。ね、赤穂。僕に抱かせて?」
ぎくしゃくした動きで、赤穂が月光に赤子を渡す。
月光は小さな命を腕に抱いて、感動した。
「小さい、柔らかい」
「ギュッとするなよ。潰れるぞ」
「わかってるよ。さぁ、お風呂に行くよ」
「月光」
とっさに腕を引かれ、月光は赤穂に目を向ける。
すごく神妙で、恐る恐るという様子だった。
「この子は…龍鬼だ」
囁く小声で、赤穂が言う。なるほど。でも、それがなに?
「ううん、赤穂の子だろ?」
赤穂はギョッとした顔をして。月光に問いかけた。
「わかるのか?」
「目は開いてないけど、しっかりした黒髪に生意気そうな口元。僕が初めて赤穂を認識したときの顔とそっくり」
「あぁ。あぁ、俺の子だ」
問答は終わり。
早く温めてやらないと、助けられない。月光は急いで風呂場に向かった。
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