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番外 氷龍、時雨堺 2
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◆氷龍、時雨堺 2
美濃家の別荘で、ある男を赤穂の身代わりに仕立てろと。金蓮に命令された、堺は。悩んでいた。
いや、悩むというより。
苦しさに打ちひしがれていた。
囲炉裏の間とは、別の部屋に用意された寝床に、男は横たわっている。
先ほどとは違い、粗末な衣服から、清潔な寝衣に着替えさせられ。静かに目を閉じている。
普通に、将堂赤穂が眠っているように見えた。
彼の枕元に、堺は座っている。
龍鬼の能力を使うときは、集中力がいると言って。幹部や燎源、医者の井上も、部屋から追い出し。
彼とふたりきりになったのだ。
彼の面差しを、堺はじっくりと見やる。
鼻筋、口元、容貌や体つき、翼の模様まで、赤穂に瓜二つだ。
違う点と言えば、赤穂は長い髪をゆるく三つ編みにして、垂らしていたが。
彼は、髪を肩の下辺りで、無造作に切っている。
そして左目の下に、泣きぼくろがあることだ。
髪は、療養中に切ったと言えばよい。
泣きぼくろも、赤穂は左目尻に傷があって、それを隠すようにして、前髪を長くしていたから。赤穂に泣きぼくろがなかったことを指摘する者は、ほぼいないだろう。
なによりオオワシの翼を持って、これほど似ていたら。誰も意義など唱えられない。
彼が、赤穂に成り代わることは、できると思う。
ただ、堺自身が。
記憶を消すことで、この者の人生を消し去ってしまうことと。戦とは無縁の世界で生きてきた彼を、戦の世界に引きずり込むこと。
その覚悟を決め切れていないだけだ。
だが、将堂の駒のひとつである己が、大将の命令に背くことなどできない。
龍鬼の力で、彼の記憶を消すしか。道はないのだ。
堺はそう、己に言い聞かせていた。
あぁ、ここに紫輝がいたら。
紫輝は、なんて言うだろう?
そんな命令に従わなくていいと、言うだろうか。
それとも仕方がないと、言うだろうか。
ふと、先ほど井上にもらった紫輝からの手紙が気になって。堺は懐に手を入れる。
そこに答えなどないと、わかってはいたけれど。
「貴方は、誰ですか?」
指先が手紙に触れたとき、声をかけられ。堺は男に目をやる。
いつの間にか、男の目が開いていた。
切れ長の目元は、赤穂より柔らかい印象で。
赤穂は、尊大な様子でニヤリと笑うのに、男はなんの含みもなくニコリと笑った。
それを見て、堺は息をのんだ。
違う。
ただ一言、脳裏に浮かんだ。
「お、お目覚めですか?」
男はのそりと身を起こし。頭を手でさすってイテテとつぶやく。
「あぁ、俺。誰かに殴られたんだっけ? 集めた焚き木は、どうしたかな…」
赤穂はもっと物騒で、不愛想な男だ。
赤穂と寸分たがわぬ顔で、このような、爽やかな笑みを見せるなんて。
烈火のごとくという言葉が似合った赤穂の、激情の欠片さえも、彼からは見受けられない。
この任務を引き受けなければならない、己の立場を。堺は嘆いた。
己が、龍鬼でさえなければ。
精神を操る能力を持っていなければ。
彼は、戦とは関係ない場所で、その笑顔のまま、ずっといられたかもしれないのに。
「貴方が俺を助けてくれたんですか? ありがとうございます」
声は、赤穂と似ている。
ただ、その声質で。赤穂は、乱暴で荒々しく言い放つ感じだったが。
彼は穏やかな、耳を包む優しげな声だった。
弾んだ声で、お礼なんて言わないで、と。堺は思う。
己はこれから貴方を、地獄へ突き落す悪魔なのだから。
「…貴方の名前を教えてもらえませんか?」
無言の堺に、男は対応に困ったのか、そう質問してきた。
堺は、苦しい胸のうちを隠して、彼に告げた。
「すみませんでした、名乗りもせず。私は時雨堺と申します」
小さく頭を下げると。彼は堺が反応したことに喜びを見せ、すぐに表情を引き締めた。
「時雨さん。あの、不躾ですけど…」
彼は布団の上に正座して居住まいを正すと、意を決して、告げた。
「貴方のような美しい人を見るのは、初めてです。どうか、俺と結婚してくれませんか?」
純粋に、堺は驚いた。
龍鬼である自分に、そんなことを言ってくる者など。いないと思っていたし。
初対面だし。
なにより、赤穂の顔で、そんなことを言われるなんて。
堺は、赤穂にはあまり好かれていないと思っていたのだ。
いつも、厳しい声をかけてくるし。横柄で。すぐに小突いてくる乱暴者だし。
紫輝に言わせると。見苦しいから部屋に戻れという厳しい声は、いつまでも汚れたままでは他の人が恐れるよ、という忠告らしく。
横柄なのは照れ隠しで。
小突いてくるのは、すきんしっぷという、なにやらよくわからないものらしいが。
とにかく堺は。赤穂の気持ちが、理解できず、苦手に思っていたのだ。
それでも、己より強くて、金蓮からかばってくれて、たまに笑いかけてくれるから。
一生懸命、彼についていったのに。
その赤穂が、もういないなんて。
知らず。堺は涙をこぼしていた。
「え、そんな…泣くほど嫌でしたか? まぁ、確かに俺はきこりで、貧乏かもしれませんが。必ず幸せにします」
彼に言われ。堺は、頬を伝う涙を拭う。
泣いたのは、いつ以来かな?
そんなことより。堺は返事をしなければならないと思い。彼に目を合わせる。
答えはひとつだった。
「はい。貧乏でも構いません。私は貴方と一緒になります」
龍鬼である己を恐れず、美しいと言ってくれた彼を、拒む理由などない。
それに…贖罪でもある。
「ほ、本当に? やった。こんな綺麗な人と結婚できるなんて、夢みたいだ」
慌てたり、素直に喜んで明るく笑ったり、そういうところは。どことなく、紫輝を思い出させる。
そういえば、紫輝は。赤穂の息子なのだから。赤穂と面差しの似ている彼とも、通じるところがあるのかもしれない。
赤穂も、将堂家という重い家名を背負わなければ、紫輝や目の前の彼のように、邪気のない性格になったのかもしれない。
無邪気な赤穂とか、全く想像はできないが。
「貴方が望むのなら、私は一生、貴方のそばにいます」
布団の上に座る彼の手を、堺はギュッと握り締める。
「嬉しいな。時雨さん、俺、きっと貴方を幸せにしてみせますからね」
吊り気味の、切れ長の目を、優しく微笑ませる彼に。堺は顔を寄せ。
くちづける瞬間。彼の記憶を消した。
唇と唇は、つく寸前に離れ。
彼は。気を失って、ガクリと頭を反らした。
脱力した彼を、抱き止めた堺は。
懺悔するように、彼の胸元に額を当て、囁いた。
「貴方の笑顔も言葉も、生涯、私の記憶に留めます。貴方の、代わりに。結婚はできませんが。嘘ではない。私の一生は、貴方のものです」
彼の人生を狂わせた自分には、彼を見届ける責任がある。
彼の望むことは、できるだけ叶えてあげよう。
記憶を失い、心細い思いをするだろう彼を支え、道しるべとなろう。
彼の通る道筋のすべてを、この胸に刻もう。
彼の命を、この身に変えても守り抜こう。
それが、堺の彼への償いだ。
「私のすべてを貴方に捧げると、誓います」
次に目を覚ましたら、彼は将堂青桐となる。その、青桐となる前の彼に、堺は誓ったのだ。
★★★★★
記憶を消した彼を、布団に再び寝かせ。堺は庭に出た。
それほど手入れの行き届いている庭ではないが、雪が積もっていて。寒椿の花が赤く、葉は濃い緑で、色彩は美しい。
なにより、能力を行使して息詰まった己の肺に、冷たく、新鮮な空気が入り込めば。己の悪事が洗い流されるような気がする。
罪が消えるわけもないが。
堺の心は、さいなまれていた。
戦でなら、将堂のために、いくらでも力を発揮できる。
だが、こういう形で、戦とは関係ないところで、この能力を使用したくはなかった。
精神に干渉する能力を持っているから、自分には誰も寄って来ないのだ。
忌避されるのだ。
だから、能力を使わないように、気を遣ってきた。
心を覗かないようにしてきた。
そんな自分を評価して、紫輝も心を開いて、手を握ったり、抱きついたりしてくれたのだ。
この能力は、人間に対して使ってはならないものだ。
そう思うのに。
この忌まわしい能力の使い道を、間違った方向に向けないよう、気に掛けていたのに。
命令されたから、駄目だと思うのに、使ってしまった。
こんな能力、いらない。
龍鬼だから、自分は人道を外れてしまうのだ。
人間が人間として生きていくのに、特別な力などいらないのに。なんで龍鬼などというものが、生まれ出でるのだろう。
それとも、龍鬼は…人間ではないのか?
龍鬼が、人並みの暮らしや幸せを求めるのは間違いなのだろうか?
ふと堺は『貴方を幸せにしてみせます』と言った彼の顔を思い出した。
こんな、記憶を消すような悪魔に。結婚を申し込んだ、お人好しの彼の顔。
きこりとして、穏やかに、朴訥に、暮らしていたのだろうと想像できる。
そんな彼が、准将なんて苛烈な地位について、やっていけるわけがない。
生活習慣や品位は、身に染みついているものだ。人の本質というものは、記憶を失ったくらいでは変わらない。
普段、怒ってばかりいる者は。眉間の皺が消えないだろうし。
普段、笑ってばかりいる者は。どんな場面でも、微笑むのだろう。
もしも、にこやかに暮らしてきた彼が、赤穂の替え玉になれなかったら。
大将は、どうするつもりだろうか?
いや。己の任務は、記憶を消すことだけ。
あとのことは、金蓮や燎源がなんとかするのだろう。そうであってほしい。
この先、どうなっても。なにが起ころうと。
どうか、彼が笑ってすごしていけますように。そう、堺は願った。
「任務、御苦労。うまくやれたか?」
一番、会いたくない人物に、堺は声をかけられた。
監視役の燎源だ。
「できる限りは…」
気の進まぬことをやらされた不本意さを、堺は口調に表す。
燎源はただ、苦笑した。
「あまり表情を出さない貴方が、そんな顔をするなんて。余程、今回の任務はつらかったようだな? でも、任務として割り切るのが一番だ。いつまでも引きずらないように、な?」
細面で細い目、いつも微笑みをたたえているので、燎源は菩薩のようだと称されている。
大将である金蓮の後ろには、常に菩薩の燎源と龍鬼の藤王が付き従っているので。将堂は安泰だ…などと言われていた時期もあった。
服装も、金蓮のそば近くにいるだけあって、煌びやかで、清潔な着物を重ね着していて。いつもおしゃれだ。
ゆるく波打つ長い髪を、結い上げて、髪留めで止めている。
ただ、一応、戦場であるので。そんな衣装で大丈夫なのかと、堺は思わないでもない。
「燎源、あの方は…どのような身の上で、どこからさらってきたのだ? 彼はきこりだと言っていたが」
「そのようなことを聞いて、どうなる? 彼は将堂家の者になるというのに」
不思議そうな顔で燎源に聞かれるが。人がひとり忽然と姿を消すのは大変なことだと堺は思うのだ。
東の大家である将堂家に入るからといって、それでいいということにはならない。
「しかし。彼にだって、家族があったかもしれないではないか? 探している者が…」
「その点は安心しろ。彼は天涯孤独の身だった。彼を探す者も、彼の稼ぎで暮らしていた者もいない」
自分に求婚するくらいだから、嫁や子供などはいないだろうとは思っていたが。
十六になれば、結婚を視野に入れる世の中なので。そういうことも無きにしも非ずだと思っていた。
そうでなくても、もしも彼がいなくなったことで、つらい思いや苦しい生活に追い込まれたりする誰かが、いたとしたら。悲しいことだ。
でも、少なくともそのようなことはなさそうで、安心する。
まぁ、燎源の話を信じるなら、だが。
「氷の魔物、などと聞くこともあるが。そうして彼の背景まで気を配るところなどは。昔の、獲物のウサギを逃がしてと言って泣いた、心優しかった堺が残っているようで、嬉しく思うよ」
フと思い出し笑いをする燎源を、堺は睨んだ。
燎源は、堺の兄である藤王と、同時期に金蓮の側仕えになった。
同僚として、ふたりは仲が良かったので。燎源はたびたび、時雨家に遊びに来ていて。堺とも顔馴染みだ。
年の差があるので、幼馴染みというより、ふたり目の兄のような想いで、堺は燎源を慕っていた。
ただ。燎源は左の側近なので。
今回のように、右の堺と対立してしまう状況も多く、心の距離は以前ほど近くない。
「ところで、彼の名前は、青桐様と改名することになった」
濡れ縁に腰かけ、燎源は話を続ける。
「あぁ、井上先生に聞いた。随分、手回しが良いのですね」
「嫌味に聞こえるのは、気のせいということにしておくよ、堺。赤穂様は落馬をし、重傷だ。しかし一命は取りとめた。これから養生に入るが、これまでの不運を一掃するために改名することになったと…本拠地の方にも知らせてある」
「そういう脚本か。替え玉とすり替えるのには、絶好の機会というわけか?」
「もう、そのようなことを口にしてはならない。赤穂様の死を知る者はごく一部の者だけ。このことが外部に漏れたときは。そなたら右軍幹部が、一番に疑われるということを、肝に銘じておけ」
赤穂の死を知る者は、この別荘にいる六人。そして金蓮、瀬来。と燎源は思っているだろうが。
おそらく紫輝も知っているのだろうと。堺は思う。
紫輝は、赤穂の息子。
しかし、そのことが知れたら、命の危機だということは。この前、心を読んだときに知った。
だから。赤穂の死を知っても、それを触れ回ることはないと思うが。
戦を終結させるという彼の計画が、赤穂の死によって狂っていなければよいのだが…と思案した。
「できれば、四月までに青桐様が回復されるのを、金蓮様は望んでいる」
は? と口には出さないが、堺は胸のうちで舌打ちする気分になった。
「たかだか数ヶ月の研修期間で、青桐様を赤穂様の水準まで引き上げろと言うのか? 無茶もはなはだしい」
「左軍は例年通りここで冬を越すのだ。右軍は春から。それが金蓮様のお達しだ」
「金蓮様が始めたことだ、彼の教育は燎源がするのではないのか?」
「私の剣術では、青桐様は春には亡くなってしまうが。それでいいのか?」
確かに、と堺は尻込みする。
左軍は政治に重きを置いていることから、剣術はイマイチだ。
しかし。それを堂々と言い切ってしまう燎源に、呆れてしまう。
「そんなことで、金蓮様をお守りできるのか?」
「見くびるな、堺。私とて、最低限の剣術は身につけている。いざとなれば、この身に変えてもお守りする覚悟はしているさ。だが、青桐様がこれから向かう先は、右軍。春には激戦となる戦場だ。並では駄目だろう?」
そのとおりだ。下手な者に教育を任せ、戦場で死なれたら、夢見が悪すぎる。
ならば、己が教育係となって、青桐の剣術を引き上げるしかない。
それに教育係という立場なら、約束通りそばにいて、彼を守ってやることもできる。
彼を殺させない。
堺はようやく、腹をくくった。
もう記憶を消してしまったのだから、やるしかないのだ。
「堺、おまえは右将軍、彼は准将青桐として、右の総司令官の座に就く。死にたくなければ、幹部の力を総動員して青桐様を赤穂様の力量まで仕上げるのだ…四月までに、な」
「わかりました。尽力いたします」
「年明けまでは、ここで調整し。青桐様がそれらしく振舞えるようになったら本拠地へ帰還してよい」
そう言って、燎源は別荘を去っていった。
★★★★★
堺は、去り行く燎源の後ろ姿を見送りながら、考える。
二週間ほどで、青桐が赤穂のようになれるかは、疑問だ。
でも幸い、赤穂は将堂家の次男ではあるが、それほど上品な立ち居振る舞いではなかった。
逆に、粗野で、乱暴、激烈。
丸々、赤穂のようにしなくてもいいのではないか?
青桐は青桐として。
ただ、赤穂ではないと、露見しなければいいだけだ。
少しの違和感は、大怪我の折に記憶を失ったからだ、などと言っておけばいい。
将堂家の者に、おいそれと話しかける者も少ないだろうから、大丈夫だろう。
そんなことを考えながら、青桐の眠る部屋に戻る。
障子を開けたら、彼はすでに、布団の上で上半身を起こしていて。
堺はギクリとした。
ちゃんと、記憶は封じられているだろうか?
ちょっとした忘却の術は、使ったことがあるが。記憶をすべて奪うという大規模な術は、初めてだったので、不安だ。
「起きていらっしゃいましたか、青桐様」
部屋に入る前に、堺は正座をして、彼に深く頭を下げた。
顔を上げ、彼と目を合わせる。
用心深くうかがっているような、顔つきをしている。
そんな表情は、赤穂の面影があった。それでもまだ、優しげな印象が残っているが。
「青桐様? それは俺のことですか?」
「はい。貴方は将堂青桐様です」
念を押すように、己にも言い聞かせるように、堺は告げた。
しかし彼は、うーんと唸って、なにやら腑に落ちない様子。
彼は、堺の顔から下へ視線をずらしていき、薄青の軍服をしげしげと見やり。自分の衣服にも目を向ける。
白い寝衣を身につける己を確認し、小首を傾げた。
「…どうかなさいましたか?」
表情には出さないが、堺はひやりとしていた。
もしかしたら、術が失敗しているのかと思って。
もし、失敗していたら…人の記憶を消し去るというのはかなりの大技で、施行したら半年以上は使えないものなのだ。
心を読んだり、物を動かしたり、意識せずにできるような小さな技は使えるが。
「君は俺のことを知っているのか? なんだか、さっきから全く思い出せないんだ。名前とか。ここがどこで、どうしてここで寝ているのかとか、さ」
彼は少し苦笑して、つぶやく。
思い出せない己を、情けないと思っているのかもしれない。
だが、どうやら術は成功しているようで、堺はホッとした。
「まずは、君の名前を教えてくれないか?」
記憶を無くして不安だろうに、慌てたり取り乱したりもしない。彼は意外と大きな器なのかもしれないと感じた。
堺は、彼の布団の脇に移動し、かたわらに座ると、うやうやしく頭を下げた。
「私は時雨堺と申します。見ての通り、私は龍鬼ですが。貴方の部下。右将軍を務めております」
先ほどのように、いきなり求婚されないよう、堺はちょっとだけ牽制した。
龍鬼だとわかれば、結婚しようなどとは思わないはず。
もしかしたら、さっきは翼がないことに気づいていなかったのかもしれない、と思って。
「…部下」
顔を上げると、彼は堺をみつめつつ、思案していた。
部下とか龍鬼とか、生活で必要な言葉などは封じられていないはずだ。
「貴方は将堂軍の准将なのです。私は青桐様にお仕えしています」
「そ、そうなんだ…」
ほんのり頬を染め、青桐は布団の上に正座した。
なんだか、あの、求婚されたときの流れと似ていて。堺は少しドキドキしてしまった。
そうそう同じようなことにはならないと思うのだが。
「なら、堺さん。貴方の知っている俺のことを、教えてくれないか? なんだか、頭がもやもやしていて、このままでは気分が悪い」
「ご説明はさせていただきます。でもその前に。私のことは、どうか堺と呼び捨てにしていただきたい」
「でも。堺さんだって、俺を様をつけて呼ぶだろう? 俺だけそういう扱いなのは、嫌だな」
良いや嫌を、はっきり口に出せるのは、上官に向いていると思う。
青桐に素質を感じ、堺は嬉しくなった。
「しかし、青桐様は。私の上官です。貴方は将堂家の次男として、下の者とは一線を引かなければなりません」
「じゃあ…俺は貴方を堺と呼び捨てにする。堺も俺を青桐と呼んでくれ」
「そんな、大それたこと…困ります」
ぎょっとする。
そんな、将堂家の方を、友達のように呼び捨てるなど。考えたこともなかった。
堺は、将堂に仕える家に生まれたので、骨の髄まで上下関係が染み込んでいる。
でも、ふと思う。
彼は、生粋の将堂家の者ではない。
「人目が気になるなら、ふたりのときだけでもいい。俺、今、なにもわからなくて心細いんだ。そうして距離を置かれると、なんだかひとりぼっちのような気になって、悲しくなる」
落ち着いて見えていたが、やはりなにもわからないということは心もとないのだろう。
己は、彼から記憶を奪うとき、彼の望みを叶え、彼の道しるべとなろう、心を寄り添わせようと誓った。
彼に、心細い思いをさせないようにしようと。
名を呼び捨てにすることで、彼が少しでも悲しみを癒せるのなら。
将堂家の我が儘で、このようなところに連れて来られた彼だ。多少の甘えは聞いてあげたい。
彼が寂しくならない程度に、親密に付き合ってあげよう、と思い。堺はうなずいた。
「わかりました。ふたりのときだけ、青桐と呼ばせていただきます」
「良かった。よろしくな、堺?」
身を乗り出し、青桐は堺の手をギュッと握った。
先ほどは、己が握った手を。
今度は、青桐の方から。
もう、龍鬼だとわかっているはずだが。それでも躊躇することなく触れてくる彼に。堺は心を揺さぶられる。
紫輝が言う、すきんしっぷとやらに、己は弱すぎだと、堺は自戒した。
触れ合うことで、親密さを深めていくというのが、すきんしっぷの意味らしい。
龍鬼だから、そのような場面は滅多になく。
慣れない行為だからこそ、すぐにどきどきしてしまうのだろうと自己分析した。
「あの、青桐の今の状況を説明したいのだが。よろしいですか?」
「はい。お願いします」
少し頬を赤らめて、青桐は手を離し。布団の上に正座をし直す。
真正面から一生懸命みつめられると、やりにくい。
まぁ、記憶の手掛かりを掴みたいだろうから、彼は真剣なのだろう。
「青桐は。どうやら記憶を失っているようです。実は、敵に矢を射掛けられ、貴方は落馬しました。そのときに頭を打ち、しばらく気を失っていたのです」
「うん。確かに頭は痛いな」
手でそっと頭に触れ、青桐は痛みを今思い出したかのように顔をしかめる。
燎源…やり過ぎだ。
「今現在、将堂家は領地を守るため、手裏家と戦をしています。敵というのは、手裏の兵のことです。貴方は将堂家の次男。兵を率いて手裏軍と戦う将堂軍の准将であり、右軍の総司令官なのです」
「ふーん、なんだか物語を聞いているようだ。全く、自分の話のように思えない」
痛む場所をさすりながら、青桐は眉間にしわを寄せる。
「そうですね…ひと息にすべてを話しても、混乱するだけでしょう。まずは。貴方は将堂家の次男で、人の上に立つ御方ということだけ、理解してください」
「あの、俺に家族は、いますか? なんとなく…堺は俺の家族のように思うのですが。気のせいですか?」
息苦しそうに、一言一言口にする青桐を、堺は痛々しそうに見やる。
先ほど、燎源は。彼が天涯孤独だと言っていた。
ならば、彼に本当の家族はいない。
けれど。堺は。先ほどのやり取りを思い出してしまった。
結婚してくださいと言われ、承諾した、あれだ。
まさか、覚えているはずはないのだが。口頭でも、伴侶になりえるので、自分は彼の家族と言えるのかもしれない。
そう思うと、なんだか、胸の奥がくすぐったいような気になる。
でも、それは己だけが知っていればいいこと。
彼には、これから新しい家族ができるのだから。
「…貴方には、兄上様がいらっしゃる。将堂金蓮様という、将堂家の当主であり、将堂軍の大将です。御両親は他界されていますが、青桐様には、兄弟も親戚も、大勢いらっしゃいます」
そう説明するが、青桐は違うというように、大きく首を横に振った。
「わからない。思い出そうとすると…頭が締めつけられるように、痛い」
彼が思い出そうとする力と、記憶を封じる龍鬼の能力が反発するのだろう。
頭痛に困惑する彼の背中を、堺は撫でてなだめた。
「無理をしてはいけません。今、医者を呼びます。少し安静にしましょう」
青桐を再び横たわらせ、布団に寝かせると。
彼が堺の袖口を掴んで、言った。
「堺。そばにいてくれないか」
「…医者を呼びに行くだけです。青桐。もしも、なにもわからなくて、不安なら。知りたいことは、なんでも教えますから。安心して、今はゆっくり休んでください」
うっすらと口を開け、青桐はすがるような目を向けるが。手を離して、ひとつうなずいた。
堺は、青桐を可哀想にと思いながらも。井上を呼びに行くため部屋を出た。
彼にべったりと、くっついているわけにもいかないし。
幹部にも報告しなければならない。
★★★★★
囲炉裏の間に行くと、三人の幹部と井上医師が夕食をとっているところだった。
堺は、井上のそばに膝をつく。
「井上先生。彼の記憶を奪いました。今は混乱して、頭痛を訴えています。記憶喪失という説明をしてありますが。できれば、無理に思い出そうとしないよう、青桐様に助言をしていただけませんか?」
「あぁ、わかったよ。心が落ち着くお茶をお出しして、気休めの、頭の診察もしてこよう」
井上は慰めるように、堺の肩をポンと叩き。部屋を出て行った。
そして堺は。幹部に目を向ける。
「今、言ったとおりだ。私は、彼の記憶を消した」
その言葉に、一同はサッと顔を青くする。
今更ながら、龍鬼の能力に恐れおののいているのかもしれないと、堺は思う。
それはそうだ。自分だって、忌まわしい力だと思うのだから。
「燎原の脚本は、こうだ。赤穂様は落馬して大怪我を負われたが、一命は取りとめた。不運を一掃するため青桐様と改名する。養生するため、しばらく軍務は行わない。そして右軍幹部への指示だが。この屋敷で彼が赤穂様として振舞えるよう教育したのち、年明け頃に本拠地へ戻れということだ。養生期間は丸三ヶ月、その間に彼に剣技を仕込み。四月には、彼は『准将、青桐』として戦場に立つ」
「は? 三ヶ月で素人を赤穂様にするってか? 馬鹿な。無茶苦茶だ」
言い放ったのは、瀬間だ。
無茶苦茶でも、そういう冷酷無慈悲な指令なのだから、やるしかないのだが。
「幸直、屋敷に使用人を入れてくれ。青桐様を、赤穂様として扱い、彼が軍の生活に慣れるよう、暮らしの基本は、ここであらかた詰め込む」
堺は、別荘の主である幸直に頼む。
赤穂と青桐の入れ替えのために、人払いをしていて。今、この別荘には、働き手がひとりもいない。
しかし、きこりとしての生活習慣は、記憶を消されたとしても染みついているだろう。
立ち居振る舞いでボロが出ないよう、本拠地に戻る前に、使用人に世話をされることに慣れさせたかった。
「俺は…簡単には認められねぇ。気持ちが追いつかねぇよ」
苦しげに、幸直は嘆く。
彼は、直情な気性のせいで、たびたび問題を起こすが。
赤穂は、彼のその性格を逆手に取り、兵を鼓舞して士気を高めたり。血気盛んさを、敵兵にぶつけることで、戦果を上げたりした。
だから幸直は、自分でも持て余していた己を能力を、引き出し、生かしてくれた、赤穂への思い入れが人一倍強い。
それゆえに、替え玉の件は容易に承諾できないのだろう。
「でも、もう、後戻りできないよ。彼の記憶を消した。計画は動いている」
しかし巴は、冷静に状況を分析し、つぶやく。
そうだ。堺が記憶を消す以前から、計画は進んでいた。
自分たちは、激流を下る船に、しがみついていくしかない。
「幸直。無理に認めなくてもいいんだ。彼は赤穂様ではないのだから。私は、青桐様として接するつもりでいる。赤穂様はふたりいらない」
「どういうことだよ、それ?」
幸直は堺の言葉がのみ込めず、奥歯を噛みしめる。
「青桐様を、赤穂様に仕立てるのではなく。彼自身の才覚で、准将になってもらうということだ。燎源も言っていたが。死にたくなければ。善良な民であった彼を殺したくなければ。青桐様の正体を知っている我らが、彼を、赤穂様と遜色ないよう育て上げなくてはならない」
幹部一人一人を説得する気持ちで、堺は各々に目を合わせて告げる。
彼らは、唇を引き結び、神妙な顔で考えを巡らせていた。
青桐を赤穂の域に引き上げるには、幹部の協力が必須だ。
龍鬼である堺が、関われない部分…主に政治や左に関わることや、将堂家に関わることなどは。親戚筋である幸直や、名家の瀬間の力が、必要になることもあるだろうから。
「仕方ない。俺は堺に乗る。元より上には逆らえないしな」
まずは、瀬間がうなずいた。
名家である麟義家の当主としても、この最高機密は漏らせないとわかっているのだろう。
そして巴も。同意した。
「僕は、堺が彼の後ろ盾になるなら、大丈夫だと思う。堺は、必ず彼を守り切るでしょう? なら心配ない」
しかし幸直は。整った顔をしかめたままで、苦々しくつぶやく。
「俺は、保留だ。堺は彼の才覚で、と言ったが。そもそも奴に、俺たちの上に立つ素質があるのか、確かめたい。彼の教育に対して、邪魔立てはしないが。彼を見極める時間が欲しい」
「それほど、時間はないぞ」
「あぁ。本拠地に戻る年明けまでには、決める」
おおよそだが、幹部の意志が固まり。堺は安堵する。
良かった。人の教育など、ひとりでできるものではない。
「あぁあ、彼が紫輝だったら。俺は一も二もなく、うなずくんだがなぁ」
がっかりしたような、脱力したような感じで、幸直は言うが。
堺はどきりとした。
赤穂の息子である紫輝は、本来ならその位置に、一番、近い男だった。
公にはできないことだから、夢物語だが。
でも、幸直が。核心にかすっているから、驚いたのだ。そのことは知らないはずなのに。
「なんで、間宮? 俺は見たことないんだが。素質ありか?」
面白がって、瀬間が幸直をいじり始める。
「ありあり。それに、紫輝に睨まれると、赤穂様の眼力って、思うんだよな」
「でも、彼は龍鬼だから、将軍以上の職にはつけないよ。翼ないから、赤穂様の替え玉にはなりえないし」
ふたりの悪ふざけに、巴が冷静にツッコんだ。
幸直は半泣きになって、食べかけのおにぎりを頬張る。
「わかってるよ。冗談だよ。できっこないけどぉ、現実逃避させてくれよぉ」
彼の様子を見て、瀬間も巴も、悲しげにうつむいた。
みんな、急転直下の悲しみに、ついていけずに。なんとか、気丈に振舞っているのだ。
堺だって。いろいろすることがあって、深く考えないでいただけで。
本当に、どうしたらいいのかわからず。
目の前のことを、ひとつずつ、言われるままに片付けていただけだった。
そして、紫輝の話が出たから。思い出したのだ。
懐にある手紙の存在を。
どうして、忘れていられたのだろう? 紫輝からの手紙なんか、嬉しくて、すぐにも開けたいと思うはずなのに。
でも、赤穂のことが書いてあったらと思うと。少しためらってしまうが。
堺は、そっと囲炉裏の間を抜け出し、再び外に出た。
もう夜になっていたので、暗くて手紙が読めないかもと思ったが。
ちょうど満月で。
寒椿に積もる雪に、月明かりが射して、キラキラ光っていた。
堺は、懐から手紙を取り出し、月光にあてた。
三つ折りの紙を、ろうそくの溶けたもので封してある、簡単な手紙だ。
封をはがして紙を開くと、そこには紫輝らしい、大きくて大胆な書き文字が記されていた。
『落ち着いたら、連絡を入れる』
たった一言で、堺は笑ってしまう。
堺だったらもっと、時候の挨拶とか、取り留めのない前置きとか、書いてしまいそうだから。
でも、これが紫輝だよな、と思うのだ。
そのとき、ふと。
どこかから、声が聞こえた。紫輝の声。
いるはずも、ないのに。
堺は辺りを見回してしまった。やっぱり、いないけれど。
恋しくて。幻聴を聞いてしまったのだろうか。
でも、そうではなかった。手紙の、あるところに指が触れると、聞こえるのだ。
堺は、手紙をひっくり返す。
封されていた部分から、声がする。
堺はそっと、額を手紙に押し当てた。
『赤穂は、生きている』
その紫輝の声に、堺は鼓動を跳ね上げた。
おそらく、紫輝が蝋で封をするとき、この言葉を脳裏で唱えていたのだろう。
紫輝が、一番言いたかったことが。紙に乗り移っていた。
残留思念。
堺だから感じ取れる、物に移ってしまった人の意識が、聞こえたのだ。
『赤穂は、生きている』
もう一度、聞けば。涙がドッとあふれてきた。
堺は手紙を胸に抱き、地に膝をつく。
雪が積もっていたが、冷たさなんか感じなかった。
「…紫輝っ」
良かった。それだけ。その言葉だけに、埋め尽くされる。
でも、すぐに。青桐のことを思い浮かべてしまう。
もっと早くこの手紙を読んでいたら、自分は青桐の記憶を奪わなくて済んだのではないか?
赤穂が、戻って来れるなら…。
しかし、そこまで考えて、違うと思う。
赤穂は、なにか訳があって、出てこられないのだ。
紫輝も瀬来も、赤穂が死んだということにしなければならなかった。
それは、おそらく。
金蓮が迅速に、替え玉を用意したことと関係があるのだろう。
だったら、青桐の記憶を奪ったことは、間違いではなかった?
手紙を早く見たところで、自分は記憶を奪っていたのか? 仕方がなかった?
そんなことあるわけない。
人ひとりの人生を消してしまうことが、仕方がないなんて。そんな軽く言えるようなことではない。
どうするのだ? 青桐はどうなるのだ?
堺は、自分の所業を恐ろしく感じていた。
赤穂が生きていたことの、歓喜の涙。そして、己に戦慄する恐怖の涙。
堺は。その涙を消したくて、顔を雪の地面に埋め込んだ。
ひやりとした雪が、熱い涙を隠してくれる。
「堺っ!」
そこに、堺の胸を締めつける声が響く。
いつの間にか、青桐が堺のそばに来ていたようだ。
土下座のような格好で、顔を雪に埋めている堺の身を、青桐は起き上がらせて心配そうに見やる。
「大丈夫か? 泣いて、いるのか?」
いかにも、泣き濡れた顔で、堺は間近からのぞき込む青桐の顔を、みつめる。
あぁ。もう手遅れなのだ。事態は進んでいる。
自分では止められない。青桐を生け贄にするしかないのだ。
優しい顔で、そっと笑いかけてくる青桐を見て。
堺は、申し訳なくて。もうひと粒、涙を落とした。
「…どうかしたか? その、胸に抱えている手紙に、なにか悪いことでも書いてあったのか?」
己を気遣う青桐を、これ以上、心配させないように。堺も微笑んで見せた。
「いいえ、これは、嬉しい知らせです」
「そうか。嬉しい知らせで、顔を雪につけてしまうなんて。案外、子供のようなことをするのだな。ほら、頬がこんなに冷たくなって…」
手のひらが、堺の頬を包む。
彼の手は、ごわついた、働き者の手だ。
そして、意外と大きくて分厚い。
青桐の軽く曲げた中指が、頬の輪郭をなぞり。そのまま髪をすいていった。
「絹糸のように、綺麗な髪だ。それに…堺は可愛らしい」
うっとりと彼に囁かれ、堺は唐突に我に返った。
「かっ!? なんてことを…。それに私は、貴方より年上なのに、子供のようだなんて…」
「なぜ? 大人でも、可愛らしい人は可愛らしいものです」
「そんなこと、言われたことがない」
堺は、闘将と呼ばれた赤穂と並ぶ、猛者だ。
子供の体重ほどもある重さの大剣を、振り回し。ひとりで、大隊を壊滅させてしまうほどの剣技がある。
戦場の白い魔物と、目が合ったら死ぬ。と噂され。人々は、堺に近寄らないのに。
さらに龍鬼なのだから。
堺は孤独を極めなければならなかったのだ。
「なら、俺が初めてなんだ」
ゆっくりと、青桐が立ち上がる。純白の着物を身につける彼の背後には、凍る満月と寒椿。
なんて美しい光景だろうと、堺は思わず見惚れてしまった。
絵師に、この場面を描いてもらいたいと思うほどに、素敵だ。
「貴方の初めては、全部、俺が貰う。いいな、堺?」
男同士だとか、龍鬼なのにとか、そんなこと吹っ飛ばされて。ただただ格好良くて。堺は頬を赤らめた。
忌み嫌われている龍鬼を相手に、なにを言うのだ?
そんな文句も。喉の奥に引っかかって。声も出なかった。
「なんて。ちょっと格好つけちゃったかな?」
赤穂だったら、ここで皮肉げにニヤリと笑うところだが。
青桐は爽やかに笑うのだ。
青白い月の光に、輪郭を光らせ。青桐は、堺に手を差し伸べる。
雪の地べたに座り込んでいた堺は、彼の手を取って、立ち上がった。
「わ、俺より背が高いんだ。こんなに美しいのに」
青桐とは、ずっと座って相対していたので、堺の大きさがわからなかったのだろう。
薄青の軍服を身につけ、すらりと背を伸ばす立ち姿は、青桐よりも頭半分ほど高く。その長身に、彼は、素直に驚いていた。
「身長と美しいは、関係ありません」
彼の手を握ったまま、堺は彼を見る。
その目線の位置は、赤穂もそのような感じだった。体格の差はない。
「大丈夫。これくらいの身長差なら、障害にはならないよ」
なんの障害? と堺は思うが。
先ほどは、頭痛に苦しんでいた彼が。今は元気そうなので。それは良かったと思える。
だが薄着の上、素足に草履という格好を改めて確認し、堺は慌てた。
「こんな寒空に外に出て、風邪をひきますよ? 早く部屋に戻りましょう」
「あぁ。堺も一緒に、温かい部屋へ戻ろう」
つないだ手の甲を、青桐が親指で撫でる。
堺の手も、こんなにも冷たいと言うように。
でもその些細な指の動きに、堺は心臓がギュッと握られたみたいな、初めての感覚を受けた。
ふと、紫輝の声が。また聞こえたような気がした。
あのススキ野原で言われた言葉。
『…いつか、堺にも現われるよ』と。
でも。いいえ、彼は違います。と、堺は心の中で誰にともなく言ったのだ。
美濃家の別荘で、ある男を赤穂の身代わりに仕立てろと。金蓮に命令された、堺は。悩んでいた。
いや、悩むというより。
苦しさに打ちひしがれていた。
囲炉裏の間とは、別の部屋に用意された寝床に、男は横たわっている。
先ほどとは違い、粗末な衣服から、清潔な寝衣に着替えさせられ。静かに目を閉じている。
普通に、将堂赤穂が眠っているように見えた。
彼の枕元に、堺は座っている。
龍鬼の能力を使うときは、集中力がいると言って。幹部や燎源、医者の井上も、部屋から追い出し。
彼とふたりきりになったのだ。
彼の面差しを、堺はじっくりと見やる。
鼻筋、口元、容貌や体つき、翼の模様まで、赤穂に瓜二つだ。
違う点と言えば、赤穂は長い髪をゆるく三つ編みにして、垂らしていたが。
彼は、髪を肩の下辺りで、無造作に切っている。
そして左目の下に、泣きぼくろがあることだ。
髪は、療養中に切ったと言えばよい。
泣きぼくろも、赤穂は左目尻に傷があって、それを隠すようにして、前髪を長くしていたから。赤穂に泣きぼくろがなかったことを指摘する者は、ほぼいないだろう。
なによりオオワシの翼を持って、これほど似ていたら。誰も意義など唱えられない。
彼が、赤穂に成り代わることは、できると思う。
ただ、堺自身が。
記憶を消すことで、この者の人生を消し去ってしまうことと。戦とは無縁の世界で生きてきた彼を、戦の世界に引きずり込むこと。
その覚悟を決め切れていないだけだ。
だが、将堂の駒のひとつである己が、大将の命令に背くことなどできない。
龍鬼の力で、彼の記憶を消すしか。道はないのだ。
堺はそう、己に言い聞かせていた。
あぁ、ここに紫輝がいたら。
紫輝は、なんて言うだろう?
そんな命令に従わなくていいと、言うだろうか。
それとも仕方がないと、言うだろうか。
ふと、先ほど井上にもらった紫輝からの手紙が気になって。堺は懐に手を入れる。
そこに答えなどないと、わかってはいたけれど。
「貴方は、誰ですか?」
指先が手紙に触れたとき、声をかけられ。堺は男に目をやる。
いつの間にか、男の目が開いていた。
切れ長の目元は、赤穂より柔らかい印象で。
赤穂は、尊大な様子でニヤリと笑うのに、男はなんの含みもなくニコリと笑った。
それを見て、堺は息をのんだ。
違う。
ただ一言、脳裏に浮かんだ。
「お、お目覚めですか?」
男はのそりと身を起こし。頭を手でさすってイテテとつぶやく。
「あぁ、俺。誰かに殴られたんだっけ? 集めた焚き木は、どうしたかな…」
赤穂はもっと物騒で、不愛想な男だ。
赤穂と寸分たがわぬ顔で、このような、爽やかな笑みを見せるなんて。
烈火のごとくという言葉が似合った赤穂の、激情の欠片さえも、彼からは見受けられない。
この任務を引き受けなければならない、己の立場を。堺は嘆いた。
己が、龍鬼でさえなければ。
精神を操る能力を持っていなければ。
彼は、戦とは関係ない場所で、その笑顔のまま、ずっといられたかもしれないのに。
「貴方が俺を助けてくれたんですか? ありがとうございます」
声は、赤穂と似ている。
ただ、その声質で。赤穂は、乱暴で荒々しく言い放つ感じだったが。
彼は穏やかな、耳を包む優しげな声だった。
弾んだ声で、お礼なんて言わないで、と。堺は思う。
己はこれから貴方を、地獄へ突き落す悪魔なのだから。
「…貴方の名前を教えてもらえませんか?」
無言の堺に、男は対応に困ったのか、そう質問してきた。
堺は、苦しい胸のうちを隠して、彼に告げた。
「すみませんでした、名乗りもせず。私は時雨堺と申します」
小さく頭を下げると。彼は堺が反応したことに喜びを見せ、すぐに表情を引き締めた。
「時雨さん。あの、不躾ですけど…」
彼は布団の上に正座して居住まいを正すと、意を決して、告げた。
「貴方のような美しい人を見るのは、初めてです。どうか、俺と結婚してくれませんか?」
純粋に、堺は驚いた。
龍鬼である自分に、そんなことを言ってくる者など。いないと思っていたし。
初対面だし。
なにより、赤穂の顔で、そんなことを言われるなんて。
堺は、赤穂にはあまり好かれていないと思っていたのだ。
いつも、厳しい声をかけてくるし。横柄で。すぐに小突いてくる乱暴者だし。
紫輝に言わせると。見苦しいから部屋に戻れという厳しい声は、いつまでも汚れたままでは他の人が恐れるよ、という忠告らしく。
横柄なのは照れ隠しで。
小突いてくるのは、すきんしっぷという、なにやらよくわからないものらしいが。
とにかく堺は。赤穂の気持ちが、理解できず、苦手に思っていたのだ。
それでも、己より強くて、金蓮からかばってくれて、たまに笑いかけてくれるから。
一生懸命、彼についていったのに。
その赤穂が、もういないなんて。
知らず。堺は涙をこぼしていた。
「え、そんな…泣くほど嫌でしたか? まぁ、確かに俺はきこりで、貧乏かもしれませんが。必ず幸せにします」
彼に言われ。堺は、頬を伝う涙を拭う。
泣いたのは、いつ以来かな?
そんなことより。堺は返事をしなければならないと思い。彼に目を合わせる。
答えはひとつだった。
「はい。貧乏でも構いません。私は貴方と一緒になります」
龍鬼である己を恐れず、美しいと言ってくれた彼を、拒む理由などない。
それに…贖罪でもある。
「ほ、本当に? やった。こんな綺麗な人と結婚できるなんて、夢みたいだ」
慌てたり、素直に喜んで明るく笑ったり、そういうところは。どことなく、紫輝を思い出させる。
そういえば、紫輝は。赤穂の息子なのだから。赤穂と面差しの似ている彼とも、通じるところがあるのかもしれない。
赤穂も、将堂家という重い家名を背負わなければ、紫輝や目の前の彼のように、邪気のない性格になったのかもしれない。
無邪気な赤穂とか、全く想像はできないが。
「貴方が望むのなら、私は一生、貴方のそばにいます」
布団の上に座る彼の手を、堺はギュッと握り締める。
「嬉しいな。時雨さん、俺、きっと貴方を幸せにしてみせますからね」
吊り気味の、切れ長の目を、優しく微笑ませる彼に。堺は顔を寄せ。
くちづける瞬間。彼の記憶を消した。
唇と唇は、つく寸前に離れ。
彼は。気を失って、ガクリと頭を反らした。
脱力した彼を、抱き止めた堺は。
懺悔するように、彼の胸元に額を当て、囁いた。
「貴方の笑顔も言葉も、生涯、私の記憶に留めます。貴方の、代わりに。結婚はできませんが。嘘ではない。私の一生は、貴方のものです」
彼の人生を狂わせた自分には、彼を見届ける責任がある。
彼の望むことは、できるだけ叶えてあげよう。
記憶を失い、心細い思いをするだろう彼を支え、道しるべとなろう。
彼の通る道筋のすべてを、この胸に刻もう。
彼の命を、この身に変えても守り抜こう。
それが、堺の彼への償いだ。
「私のすべてを貴方に捧げると、誓います」
次に目を覚ましたら、彼は将堂青桐となる。その、青桐となる前の彼に、堺は誓ったのだ。
★★★★★
記憶を消した彼を、布団に再び寝かせ。堺は庭に出た。
それほど手入れの行き届いている庭ではないが、雪が積もっていて。寒椿の花が赤く、葉は濃い緑で、色彩は美しい。
なにより、能力を行使して息詰まった己の肺に、冷たく、新鮮な空気が入り込めば。己の悪事が洗い流されるような気がする。
罪が消えるわけもないが。
堺の心は、さいなまれていた。
戦でなら、将堂のために、いくらでも力を発揮できる。
だが、こういう形で、戦とは関係ないところで、この能力を使用したくはなかった。
精神に干渉する能力を持っているから、自分には誰も寄って来ないのだ。
忌避されるのだ。
だから、能力を使わないように、気を遣ってきた。
心を覗かないようにしてきた。
そんな自分を評価して、紫輝も心を開いて、手を握ったり、抱きついたりしてくれたのだ。
この能力は、人間に対して使ってはならないものだ。
そう思うのに。
この忌まわしい能力の使い道を、間違った方向に向けないよう、気に掛けていたのに。
命令されたから、駄目だと思うのに、使ってしまった。
こんな能力、いらない。
龍鬼だから、自分は人道を外れてしまうのだ。
人間が人間として生きていくのに、特別な力などいらないのに。なんで龍鬼などというものが、生まれ出でるのだろう。
それとも、龍鬼は…人間ではないのか?
龍鬼が、人並みの暮らしや幸せを求めるのは間違いなのだろうか?
ふと堺は『貴方を幸せにしてみせます』と言った彼の顔を思い出した。
こんな、記憶を消すような悪魔に。結婚を申し込んだ、お人好しの彼の顔。
きこりとして、穏やかに、朴訥に、暮らしていたのだろうと想像できる。
そんな彼が、准将なんて苛烈な地位について、やっていけるわけがない。
生活習慣や品位は、身に染みついているものだ。人の本質というものは、記憶を失ったくらいでは変わらない。
普段、怒ってばかりいる者は。眉間の皺が消えないだろうし。
普段、笑ってばかりいる者は。どんな場面でも、微笑むのだろう。
もしも、にこやかに暮らしてきた彼が、赤穂の替え玉になれなかったら。
大将は、どうするつもりだろうか?
いや。己の任務は、記憶を消すことだけ。
あとのことは、金蓮や燎源がなんとかするのだろう。そうであってほしい。
この先、どうなっても。なにが起ころうと。
どうか、彼が笑ってすごしていけますように。そう、堺は願った。
「任務、御苦労。うまくやれたか?」
一番、会いたくない人物に、堺は声をかけられた。
監視役の燎源だ。
「できる限りは…」
気の進まぬことをやらされた不本意さを、堺は口調に表す。
燎源はただ、苦笑した。
「あまり表情を出さない貴方が、そんな顔をするなんて。余程、今回の任務はつらかったようだな? でも、任務として割り切るのが一番だ。いつまでも引きずらないように、な?」
細面で細い目、いつも微笑みをたたえているので、燎源は菩薩のようだと称されている。
大将である金蓮の後ろには、常に菩薩の燎源と龍鬼の藤王が付き従っているので。将堂は安泰だ…などと言われていた時期もあった。
服装も、金蓮のそば近くにいるだけあって、煌びやかで、清潔な着物を重ね着していて。いつもおしゃれだ。
ゆるく波打つ長い髪を、結い上げて、髪留めで止めている。
ただ、一応、戦場であるので。そんな衣装で大丈夫なのかと、堺は思わないでもない。
「燎源、あの方は…どのような身の上で、どこからさらってきたのだ? 彼はきこりだと言っていたが」
「そのようなことを聞いて、どうなる? 彼は将堂家の者になるというのに」
不思議そうな顔で燎源に聞かれるが。人がひとり忽然と姿を消すのは大変なことだと堺は思うのだ。
東の大家である将堂家に入るからといって、それでいいということにはならない。
「しかし。彼にだって、家族があったかもしれないではないか? 探している者が…」
「その点は安心しろ。彼は天涯孤独の身だった。彼を探す者も、彼の稼ぎで暮らしていた者もいない」
自分に求婚するくらいだから、嫁や子供などはいないだろうとは思っていたが。
十六になれば、結婚を視野に入れる世の中なので。そういうことも無きにしも非ずだと思っていた。
そうでなくても、もしも彼がいなくなったことで、つらい思いや苦しい生活に追い込まれたりする誰かが、いたとしたら。悲しいことだ。
でも、少なくともそのようなことはなさそうで、安心する。
まぁ、燎源の話を信じるなら、だが。
「氷の魔物、などと聞くこともあるが。そうして彼の背景まで気を配るところなどは。昔の、獲物のウサギを逃がしてと言って泣いた、心優しかった堺が残っているようで、嬉しく思うよ」
フと思い出し笑いをする燎源を、堺は睨んだ。
燎源は、堺の兄である藤王と、同時期に金蓮の側仕えになった。
同僚として、ふたりは仲が良かったので。燎源はたびたび、時雨家に遊びに来ていて。堺とも顔馴染みだ。
年の差があるので、幼馴染みというより、ふたり目の兄のような想いで、堺は燎源を慕っていた。
ただ。燎源は左の側近なので。
今回のように、右の堺と対立してしまう状況も多く、心の距離は以前ほど近くない。
「ところで、彼の名前は、青桐様と改名することになった」
濡れ縁に腰かけ、燎源は話を続ける。
「あぁ、井上先生に聞いた。随分、手回しが良いのですね」
「嫌味に聞こえるのは、気のせいということにしておくよ、堺。赤穂様は落馬をし、重傷だ。しかし一命は取りとめた。これから養生に入るが、これまでの不運を一掃するために改名することになったと…本拠地の方にも知らせてある」
「そういう脚本か。替え玉とすり替えるのには、絶好の機会というわけか?」
「もう、そのようなことを口にしてはならない。赤穂様の死を知る者はごく一部の者だけ。このことが外部に漏れたときは。そなたら右軍幹部が、一番に疑われるということを、肝に銘じておけ」
赤穂の死を知る者は、この別荘にいる六人。そして金蓮、瀬来。と燎源は思っているだろうが。
おそらく紫輝も知っているのだろうと。堺は思う。
紫輝は、赤穂の息子。
しかし、そのことが知れたら、命の危機だということは。この前、心を読んだときに知った。
だから。赤穂の死を知っても、それを触れ回ることはないと思うが。
戦を終結させるという彼の計画が、赤穂の死によって狂っていなければよいのだが…と思案した。
「できれば、四月までに青桐様が回復されるのを、金蓮様は望んでいる」
は? と口には出さないが、堺は胸のうちで舌打ちする気分になった。
「たかだか数ヶ月の研修期間で、青桐様を赤穂様の水準まで引き上げろと言うのか? 無茶もはなはだしい」
「左軍は例年通りここで冬を越すのだ。右軍は春から。それが金蓮様のお達しだ」
「金蓮様が始めたことだ、彼の教育は燎源がするのではないのか?」
「私の剣術では、青桐様は春には亡くなってしまうが。それでいいのか?」
確かに、と堺は尻込みする。
左軍は政治に重きを置いていることから、剣術はイマイチだ。
しかし。それを堂々と言い切ってしまう燎源に、呆れてしまう。
「そんなことで、金蓮様をお守りできるのか?」
「見くびるな、堺。私とて、最低限の剣術は身につけている。いざとなれば、この身に変えてもお守りする覚悟はしているさ。だが、青桐様がこれから向かう先は、右軍。春には激戦となる戦場だ。並では駄目だろう?」
そのとおりだ。下手な者に教育を任せ、戦場で死なれたら、夢見が悪すぎる。
ならば、己が教育係となって、青桐の剣術を引き上げるしかない。
それに教育係という立場なら、約束通りそばにいて、彼を守ってやることもできる。
彼を殺させない。
堺はようやく、腹をくくった。
もう記憶を消してしまったのだから、やるしかないのだ。
「堺、おまえは右将軍、彼は准将青桐として、右の総司令官の座に就く。死にたくなければ、幹部の力を総動員して青桐様を赤穂様の力量まで仕上げるのだ…四月までに、な」
「わかりました。尽力いたします」
「年明けまでは、ここで調整し。青桐様がそれらしく振舞えるようになったら本拠地へ帰還してよい」
そう言って、燎源は別荘を去っていった。
★★★★★
堺は、去り行く燎源の後ろ姿を見送りながら、考える。
二週間ほどで、青桐が赤穂のようになれるかは、疑問だ。
でも幸い、赤穂は将堂家の次男ではあるが、それほど上品な立ち居振る舞いではなかった。
逆に、粗野で、乱暴、激烈。
丸々、赤穂のようにしなくてもいいのではないか?
青桐は青桐として。
ただ、赤穂ではないと、露見しなければいいだけだ。
少しの違和感は、大怪我の折に記憶を失ったからだ、などと言っておけばいい。
将堂家の者に、おいそれと話しかける者も少ないだろうから、大丈夫だろう。
そんなことを考えながら、青桐の眠る部屋に戻る。
障子を開けたら、彼はすでに、布団の上で上半身を起こしていて。
堺はギクリとした。
ちゃんと、記憶は封じられているだろうか?
ちょっとした忘却の術は、使ったことがあるが。記憶をすべて奪うという大規模な術は、初めてだったので、不安だ。
「起きていらっしゃいましたか、青桐様」
部屋に入る前に、堺は正座をして、彼に深く頭を下げた。
顔を上げ、彼と目を合わせる。
用心深くうかがっているような、顔つきをしている。
そんな表情は、赤穂の面影があった。それでもまだ、優しげな印象が残っているが。
「青桐様? それは俺のことですか?」
「はい。貴方は将堂青桐様です」
念を押すように、己にも言い聞かせるように、堺は告げた。
しかし彼は、うーんと唸って、なにやら腑に落ちない様子。
彼は、堺の顔から下へ視線をずらしていき、薄青の軍服をしげしげと見やり。自分の衣服にも目を向ける。
白い寝衣を身につける己を確認し、小首を傾げた。
「…どうかなさいましたか?」
表情には出さないが、堺はひやりとしていた。
もしかしたら、術が失敗しているのかと思って。
もし、失敗していたら…人の記憶を消し去るというのはかなりの大技で、施行したら半年以上は使えないものなのだ。
心を読んだり、物を動かしたり、意識せずにできるような小さな技は使えるが。
「君は俺のことを知っているのか? なんだか、さっきから全く思い出せないんだ。名前とか。ここがどこで、どうしてここで寝ているのかとか、さ」
彼は少し苦笑して、つぶやく。
思い出せない己を、情けないと思っているのかもしれない。
だが、どうやら術は成功しているようで、堺はホッとした。
「まずは、君の名前を教えてくれないか?」
記憶を無くして不安だろうに、慌てたり取り乱したりもしない。彼は意外と大きな器なのかもしれないと感じた。
堺は、彼の布団の脇に移動し、かたわらに座ると、うやうやしく頭を下げた。
「私は時雨堺と申します。見ての通り、私は龍鬼ですが。貴方の部下。右将軍を務めております」
先ほどのように、いきなり求婚されないよう、堺はちょっとだけ牽制した。
龍鬼だとわかれば、結婚しようなどとは思わないはず。
もしかしたら、さっきは翼がないことに気づいていなかったのかもしれない、と思って。
「…部下」
顔を上げると、彼は堺をみつめつつ、思案していた。
部下とか龍鬼とか、生活で必要な言葉などは封じられていないはずだ。
「貴方は将堂軍の准将なのです。私は青桐様にお仕えしています」
「そ、そうなんだ…」
ほんのり頬を染め、青桐は布団の上に正座した。
なんだか、あの、求婚されたときの流れと似ていて。堺は少しドキドキしてしまった。
そうそう同じようなことにはならないと思うのだが。
「なら、堺さん。貴方の知っている俺のことを、教えてくれないか? なんだか、頭がもやもやしていて、このままでは気分が悪い」
「ご説明はさせていただきます。でもその前に。私のことは、どうか堺と呼び捨てにしていただきたい」
「でも。堺さんだって、俺を様をつけて呼ぶだろう? 俺だけそういう扱いなのは、嫌だな」
良いや嫌を、はっきり口に出せるのは、上官に向いていると思う。
青桐に素質を感じ、堺は嬉しくなった。
「しかし、青桐様は。私の上官です。貴方は将堂家の次男として、下の者とは一線を引かなければなりません」
「じゃあ…俺は貴方を堺と呼び捨てにする。堺も俺を青桐と呼んでくれ」
「そんな、大それたこと…困ります」
ぎょっとする。
そんな、将堂家の方を、友達のように呼び捨てるなど。考えたこともなかった。
堺は、将堂に仕える家に生まれたので、骨の髄まで上下関係が染み込んでいる。
でも、ふと思う。
彼は、生粋の将堂家の者ではない。
「人目が気になるなら、ふたりのときだけでもいい。俺、今、なにもわからなくて心細いんだ。そうして距離を置かれると、なんだかひとりぼっちのような気になって、悲しくなる」
落ち着いて見えていたが、やはりなにもわからないということは心もとないのだろう。
己は、彼から記憶を奪うとき、彼の望みを叶え、彼の道しるべとなろう、心を寄り添わせようと誓った。
彼に、心細い思いをさせないようにしようと。
名を呼び捨てにすることで、彼が少しでも悲しみを癒せるのなら。
将堂家の我が儘で、このようなところに連れて来られた彼だ。多少の甘えは聞いてあげたい。
彼が寂しくならない程度に、親密に付き合ってあげよう、と思い。堺はうなずいた。
「わかりました。ふたりのときだけ、青桐と呼ばせていただきます」
「良かった。よろしくな、堺?」
身を乗り出し、青桐は堺の手をギュッと握った。
先ほどは、己が握った手を。
今度は、青桐の方から。
もう、龍鬼だとわかっているはずだが。それでも躊躇することなく触れてくる彼に。堺は心を揺さぶられる。
紫輝が言う、すきんしっぷとやらに、己は弱すぎだと、堺は自戒した。
触れ合うことで、親密さを深めていくというのが、すきんしっぷの意味らしい。
龍鬼だから、そのような場面は滅多になく。
慣れない行為だからこそ、すぐにどきどきしてしまうのだろうと自己分析した。
「あの、青桐の今の状況を説明したいのだが。よろしいですか?」
「はい。お願いします」
少し頬を赤らめて、青桐は手を離し。布団の上に正座をし直す。
真正面から一生懸命みつめられると、やりにくい。
まぁ、記憶の手掛かりを掴みたいだろうから、彼は真剣なのだろう。
「青桐は。どうやら記憶を失っているようです。実は、敵に矢を射掛けられ、貴方は落馬しました。そのときに頭を打ち、しばらく気を失っていたのです」
「うん。確かに頭は痛いな」
手でそっと頭に触れ、青桐は痛みを今思い出したかのように顔をしかめる。
燎源…やり過ぎだ。
「今現在、将堂家は領地を守るため、手裏家と戦をしています。敵というのは、手裏の兵のことです。貴方は将堂家の次男。兵を率いて手裏軍と戦う将堂軍の准将であり、右軍の総司令官なのです」
「ふーん、なんだか物語を聞いているようだ。全く、自分の話のように思えない」
痛む場所をさすりながら、青桐は眉間にしわを寄せる。
「そうですね…ひと息にすべてを話しても、混乱するだけでしょう。まずは。貴方は将堂家の次男で、人の上に立つ御方ということだけ、理解してください」
「あの、俺に家族は、いますか? なんとなく…堺は俺の家族のように思うのですが。気のせいですか?」
息苦しそうに、一言一言口にする青桐を、堺は痛々しそうに見やる。
先ほど、燎源は。彼が天涯孤独だと言っていた。
ならば、彼に本当の家族はいない。
けれど。堺は。先ほどのやり取りを思い出してしまった。
結婚してくださいと言われ、承諾した、あれだ。
まさか、覚えているはずはないのだが。口頭でも、伴侶になりえるので、自分は彼の家族と言えるのかもしれない。
そう思うと、なんだか、胸の奥がくすぐったいような気になる。
でも、それは己だけが知っていればいいこと。
彼には、これから新しい家族ができるのだから。
「…貴方には、兄上様がいらっしゃる。将堂金蓮様という、将堂家の当主であり、将堂軍の大将です。御両親は他界されていますが、青桐様には、兄弟も親戚も、大勢いらっしゃいます」
そう説明するが、青桐は違うというように、大きく首を横に振った。
「わからない。思い出そうとすると…頭が締めつけられるように、痛い」
彼が思い出そうとする力と、記憶を封じる龍鬼の能力が反発するのだろう。
頭痛に困惑する彼の背中を、堺は撫でてなだめた。
「無理をしてはいけません。今、医者を呼びます。少し安静にしましょう」
青桐を再び横たわらせ、布団に寝かせると。
彼が堺の袖口を掴んで、言った。
「堺。そばにいてくれないか」
「…医者を呼びに行くだけです。青桐。もしも、なにもわからなくて、不安なら。知りたいことは、なんでも教えますから。安心して、今はゆっくり休んでください」
うっすらと口を開け、青桐はすがるような目を向けるが。手を離して、ひとつうなずいた。
堺は、青桐を可哀想にと思いながらも。井上を呼びに行くため部屋を出た。
彼にべったりと、くっついているわけにもいかないし。
幹部にも報告しなければならない。
★★★★★
囲炉裏の間に行くと、三人の幹部と井上医師が夕食をとっているところだった。
堺は、井上のそばに膝をつく。
「井上先生。彼の記憶を奪いました。今は混乱して、頭痛を訴えています。記憶喪失という説明をしてありますが。できれば、無理に思い出そうとしないよう、青桐様に助言をしていただけませんか?」
「あぁ、わかったよ。心が落ち着くお茶をお出しして、気休めの、頭の診察もしてこよう」
井上は慰めるように、堺の肩をポンと叩き。部屋を出て行った。
そして堺は。幹部に目を向ける。
「今、言ったとおりだ。私は、彼の記憶を消した」
その言葉に、一同はサッと顔を青くする。
今更ながら、龍鬼の能力に恐れおののいているのかもしれないと、堺は思う。
それはそうだ。自分だって、忌まわしい力だと思うのだから。
「燎原の脚本は、こうだ。赤穂様は落馬して大怪我を負われたが、一命は取りとめた。不運を一掃するため青桐様と改名する。養生するため、しばらく軍務は行わない。そして右軍幹部への指示だが。この屋敷で彼が赤穂様として振舞えるよう教育したのち、年明け頃に本拠地へ戻れということだ。養生期間は丸三ヶ月、その間に彼に剣技を仕込み。四月には、彼は『准将、青桐』として戦場に立つ」
「は? 三ヶ月で素人を赤穂様にするってか? 馬鹿な。無茶苦茶だ」
言い放ったのは、瀬間だ。
無茶苦茶でも、そういう冷酷無慈悲な指令なのだから、やるしかないのだが。
「幸直、屋敷に使用人を入れてくれ。青桐様を、赤穂様として扱い、彼が軍の生活に慣れるよう、暮らしの基本は、ここであらかた詰め込む」
堺は、別荘の主である幸直に頼む。
赤穂と青桐の入れ替えのために、人払いをしていて。今、この別荘には、働き手がひとりもいない。
しかし、きこりとしての生活習慣は、記憶を消されたとしても染みついているだろう。
立ち居振る舞いでボロが出ないよう、本拠地に戻る前に、使用人に世話をされることに慣れさせたかった。
「俺は…簡単には認められねぇ。気持ちが追いつかねぇよ」
苦しげに、幸直は嘆く。
彼は、直情な気性のせいで、たびたび問題を起こすが。
赤穂は、彼のその性格を逆手に取り、兵を鼓舞して士気を高めたり。血気盛んさを、敵兵にぶつけることで、戦果を上げたりした。
だから幸直は、自分でも持て余していた己を能力を、引き出し、生かしてくれた、赤穂への思い入れが人一倍強い。
それゆえに、替え玉の件は容易に承諾できないのだろう。
「でも、もう、後戻りできないよ。彼の記憶を消した。計画は動いている」
しかし巴は、冷静に状況を分析し、つぶやく。
そうだ。堺が記憶を消す以前から、計画は進んでいた。
自分たちは、激流を下る船に、しがみついていくしかない。
「幸直。無理に認めなくてもいいんだ。彼は赤穂様ではないのだから。私は、青桐様として接するつもりでいる。赤穂様はふたりいらない」
「どういうことだよ、それ?」
幸直は堺の言葉がのみ込めず、奥歯を噛みしめる。
「青桐様を、赤穂様に仕立てるのではなく。彼自身の才覚で、准将になってもらうということだ。燎源も言っていたが。死にたくなければ。善良な民であった彼を殺したくなければ。青桐様の正体を知っている我らが、彼を、赤穂様と遜色ないよう育て上げなくてはならない」
幹部一人一人を説得する気持ちで、堺は各々に目を合わせて告げる。
彼らは、唇を引き結び、神妙な顔で考えを巡らせていた。
青桐を赤穂の域に引き上げるには、幹部の協力が必須だ。
龍鬼である堺が、関われない部分…主に政治や左に関わることや、将堂家に関わることなどは。親戚筋である幸直や、名家の瀬間の力が、必要になることもあるだろうから。
「仕方ない。俺は堺に乗る。元より上には逆らえないしな」
まずは、瀬間がうなずいた。
名家である麟義家の当主としても、この最高機密は漏らせないとわかっているのだろう。
そして巴も。同意した。
「僕は、堺が彼の後ろ盾になるなら、大丈夫だと思う。堺は、必ず彼を守り切るでしょう? なら心配ない」
しかし幸直は。整った顔をしかめたままで、苦々しくつぶやく。
「俺は、保留だ。堺は彼の才覚で、と言ったが。そもそも奴に、俺たちの上に立つ素質があるのか、確かめたい。彼の教育に対して、邪魔立てはしないが。彼を見極める時間が欲しい」
「それほど、時間はないぞ」
「あぁ。本拠地に戻る年明けまでには、決める」
おおよそだが、幹部の意志が固まり。堺は安堵する。
良かった。人の教育など、ひとりでできるものではない。
「あぁあ、彼が紫輝だったら。俺は一も二もなく、うなずくんだがなぁ」
がっかりしたような、脱力したような感じで、幸直は言うが。
堺はどきりとした。
赤穂の息子である紫輝は、本来ならその位置に、一番、近い男だった。
公にはできないことだから、夢物語だが。
でも、幸直が。核心にかすっているから、驚いたのだ。そのことは知らないはずなのに。
「なんで、間宮? 俺は見たことないんだが。素質ありか?」
面白がって、瀬間が幸直をいじり始める。
「ありあり。それに、紫輝に睨まれると、赤穂様の眼力って、思うんだよな」
「でも、彼は龍鬼だから、将軍以上の職にはつけないよ。翼ないから、赤穂様の替え玉にはなりえないし」
ふたりの悪ふざけに、巴が冷静にツッコんだ。
幸直は半泣きになって、食べかけのおにぎりを頬張る。
「わかってるよ。冗談だよ。できっこないけどぉ、現実逃避させてくれよぉ」
彼の様子を見て、瀬間も巴も、悲しげにうつむいた。
みんな、急転直下の悲しみに、ついていけずに。なんとか、気丈に振舞っているのだ。
堺だって。いろいろすることがあって、深く考えないでいただけで。
本当に、どうしたらいいのかわからず。
目の前のことを、ひとつずつ、言われるままに片付けていただけだった。
そして、紫輝の話が出たから。思い出したのだ。
懐にある手紙の存在を。
どうして、忘れていられたのだろう? 紫輝からの手紙なんか、嬉しくて、すぐにも開けたいと思うはずなのに。
でも、赤穂のことが書いてあったらと思うと。少しためらってしまうが。
堺は、そっと囲炉裏の間を抜け出し、再び外に出た。
もう夜になっていたので、暗くて手紙が読めないかもと思ったが。
ちょうど満月で。
寒椿に積もる雪に、月明かりが射して、キラキラ光っていた。
堺は、懐から手紙を取り出し、月光にあてた。
三つ折りの紙を、ろうそくの溶けたもので封してある、簡単な手紙だ。
封をはがして紙を開くと、そこには紫輝らしい、大きくて大胆な書き文字が記されていた。
『落ち着いたら、連絡を入れる』
たった一言で、堺は笑ってしまう。
堺だったらもっと、時候の挨拶とか、取り留めのない前置きとか、書いてしまいそうだから。
でも、これが紫輝だよな、と思うのだ。
そのとき、ふと。
どこかから、声が聞こえた。紫輝の声。
いるはずも、ないのに。
堺は辺りを見回してしまった。やっぱり、いないけれど。
恋しくて。幻聴を聞いてしまったのだろうか。
でも、そうではなかった。手紙の、あるところに指が触れると、聞こえるのだ。
堺は、手紙をひっくり返す。
封されていた部分から、声がする。
堺はそっと、額を手紙に押し当てた。
『赤穂は、生きている』
その紫輝の声に、堺は鼓動を跳ね上げた。
おそらく、紫輝が蝋で封をするとき、この言葉を脳裏で唱えていたのだろう。
紫輝が、一番言いたかったことが。紙に乗り移っていた。
残留思念。
堺だから感じ取れる、物に移ってしまった人の意識が、聞こえたのだ。
『赤穂は、生きている』
もう一度、聞けば。涙がドッとあふれてきた。
堺は手紙を胸に抱き、地に膝をつく。
雪が積もっていたが、冷たさなんか感じなかった。
「…紫輝っ」
良かった。それだけ。その言葉だけに、埋め尽くされる。
でも、すぐに。青桐のことを思い浮かべてしまう。
もっと早くこの手紙を読んでいたら、自分は青桐の記憶を奪わなくて済んだのではないか?
赤穂が、戻って来れるなら…。
しかし、そこまで考えて、違うと思う。
赤穂は、なにか訳があって、出てこられないのだ。
紫輝も瀬来も、赤穂が死んだということにしなければならなかった。
それは、おそらく。
金蓮が迅速に、替え玉を用意したことと関係があるのだろう。
だったら、青桐の記憶を奪ったことは、間違いではなかった?
手紙を早く見たところで、自分は記憶を奪っていたのか? 仕方がなかった?
そんなことあるわけない。
人ひとりの人生を消してしまうことが、仕方がないなんて。そんな軽く言えるようなことではない。
どうするのだ? 青桐はどうなるのだ?
堺は、自分の所業を恐ろしく感じていた。
赤穂が生きていたことの、歓喜の涙。そして、己に戦慄する恐怖の涙。
堺は。その涙を消したくて、顔を雪の地面に埋め込んだ。
ひやりとした雪が、熱い涙を隠してくれる。
「堺っ!」
そこに、堺の胸を締めつける声が響く。
いつの間にか、青桐が堺のそばに来ていたようだ。
土下座のような格好で、顔を雪に埋めている堺の身を、青桐は起き上がらせて心配そうに見やる。
「大丈夫か? 泣いて、いるのか?」
いかにも、泣き濡れた顔で、堺は間近からのぞき込む青桐の顔を、みつめる。
あぁ。もう手遅れなのだ。事態は進んでいる。
自分では止められない。青桐を生け贄にするしかないのだ。
優しい顔で、そっと笑いかけてくる青桐を見て。
堺は、申し訳なくて。もうひと粒、涙を落とした。
「…どうかしたか? その、胸に抱えている手紙に、なにか悪いことでも書いてあったのか?」
己を気遣う青桐を、これ以上、心配させないように。堺も微笑んで見せた。
「いいえ、これは、嬉しい知らせです」
「そうか。嬉しい知らせで、顔を雪につけてしまうなんて。案外、子供のようなことをするのだな。ほら、頬がこんなに冷たくなって…」
手のひらが、堺の頬を包む。
彼の手は、ごわついた、働き者の手だ。
そして、意外と大きくて分厚い。
青桐の軽く曲げた中指が、頬の輪郭をなぞり。そのまま髪をすいていった。
「絹糸のように、綺麗な髪だ。それに…堺は可愛らしい」
うっとりと彼に囁かれ、堺は唐突に我に返った。
「かっ!? なんてことを…。それに私は、貴方より年上なのに、子供のようだなんて…」
「なぜ? 大人でも、可愛らしい人は可愛らしいものです」
「そんなこと、言われたことがない」
堺は、闘将と呼ばれた赤穂と並ぶ、猛者だ。
子供の体重ほどもある重さの大剣を、振り回し。ひとりで、大隊を壊滅させてしまうほどの剣技がある。
戦場の白い魔物と、目が合ったら死ぬ。と噂され。人々は、堺に近寄らないのに。
さらに龍鬼なのだから。
堺は孤独を極めなければならなかったのだ。
「なら、俺が初めてなんだ」
ゆっくりと、青桐が立ち上がる。純白の着物を身につける彼の背後には、凍る満月と寒椿。
なんて美しい光景だろうと、堺は思わず見惚れてしまった。
絵師に、この場面を描いてもらいたいと思うほどに、素敵だ。
「貴方の初めては、全部、俺が貰う。いいな、堺?」
男同士だとか、龍鬼なのにとか、そんなこと吹っ飛ばされて。ただただ格好良くて。堺は頬を赤らめた。
忌み嫌われている龍鬼を相手に、なにを言うのだ?
そんな文句も。喉の奥に引っかかって。声も出なかった。
「なんて。ちょっと格好つけちゃったかな?」
赤穂だったら、ここで皮肉げにニヤリと笑うところだが。
青桐は爽やかに笑うのだ。
青白い月の光に、輪郭を光らせ。青桐は、堺に手を差し伸べる。
雪の地べたに座り込んでいた堺は、彼の手を取って、立ち上がった。
「わ、俺より背が高いんだ。こんなに美しいのに」
青桐とは、ずっと座って相対していたので、堺の大きさがわからなかったのだろう。
薄青の軍服を身につけ、すらりと背を伸ばす立ち姿は、青桐よりも頭半分ほど高く。その長身に、彼は、素直に驚いていた。
「身長と美しいは、関係ありません」
彼の手を握ったまま、堺は彼を見る。
その目線の位置は、赤穂もそのような感じだった。体格の差はない。
「大丈夫。これくらいの身長差なら、障害にはならないよ」
なんの障害? と堺は思うが。
先ほどは、頭痛に苦しんでいた彼が。今は元気そうなので。それは良かったと思える。
だが薄着の上、素足に草履という格好を改めて確認し、堺は慌てた。
「こんな寒空に外に出て、風邪をひきますよ? 早く部屋に戻りましょう」
「あぁ。堺も一緒に、温かい部屋へ戻ろう」
つないだ手の甲を、青桐が親指で撫でる。
堺の手も、こんなにも冷たいと言うように。
でもその些細な指の動きに、堺は心臓がギュッと握られたみたいな、初めての感覚を受けた。
ふと、紫輝の声が。また聞こえたような気がした。
あのススキ野原で言われた言葉。
『…いつか、堺にも現われるよ』と。
でも。いいえ、彼は違います。と、堺は心の中で誰にともなく言ったのだ。
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