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プロローグ 1 ここ、異世界ですか?

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     ◆プロローグ

 頬になにかが押し当てられる。布団のぬくもりと、マシュマロのような柔らかさに包まれた心地よさの中で。間宮紫輝は、目を覚ました。
 長毛白猫のライラがピンクの肉球で、紫輝の頬をパフパフと叩いている。
 ご飯の催促だ。

「ライラさん、朝の五時なんですけど」
 カーテンの隙間からのぞく窓の向こうは、まだ暗い。
 枕元の時計を見て、紫輝はライラに言うが。
 起きてくれないと感じたか、彼女はにょっきりと爪を出してきた。

「痛い、爪、爪、つか…七時まで寝たい」
 つぶやきながら、なにげなく横を向くと。
 無駄にキラキラしい弟の金髪が。寝起きの目に、まぶしい。
 マシュマロの感触は、どうやら絶妙な力加減でやんわりと紫輝の体に巻きついた彼の腕のようだった。

 眠っていても、美麗な容貌が損なわれることはない。
 金のまつ毛がふち取るまぶたの下に、夏の空のように澄んだ青い瞳があることを。紫輝は知っていた。

 ただ、自室があるのになぜここで寝るのか。

 少々、イラッとして。幸せそうな寝顔をさらす弟の鼻を、指でつまんだ。
 すると彼は布団を抱えたまま寝返りを打ち…離したくないぬくもりが、紫輝の手元から無情にも奪われた。

 これはもう『起きろ』ということだろう。

 弟をまたいでベッドから出ると。紫輝はライラと共に階下へと降り、台所に向かう。
 今日は紫輝の十八歳の誕生日だ。
 しかし、誕生日に肉球攻撃で起こされるのは自分くらいだろう。

 哀愁漂うため息をつく。

 でも、用意した食事をぺろりと完食し。満足した様子で口の周りを丸い手で撫で、舐め舐めするライラを見れば。紫輝も微笑ましい気分になる。
 今日も元気で、可愛いねぇ。

 天に向かって両手を伸ばし、体をびびびっと震わせると。体も頭もしっかりくっきり目覚めるような気がした。
 そのとき、無防備な脇腹になにかが触れ。
 紫輝はうひゃっと、変な声を出した。

「兄さん、おはよう」
 振り返ると、先ほど紫輝のベッドの半分を占領していた、弟の天誠がいた。

 スポーツウェア姿の弟は、程よい筋肉がついていてスタイル抜群である。
 紫輝よりも頭ひとつ分、背が高い。
 弟の男らしい体格が、紫輝は心底うらやましかった。

「おはよう…ってか、朝からふざけんな。母さんたち、起きちゃうだろ」
 再びくすぐろうとする天誠から、身をかわし。紫輝は囁き声で弟を叱る。
 だが天誠は、遠慮のない声で普通に返した。

「母さんも父さんも、昨日からアメリカ。寝惚けてんの?」
 そうだっけ?
 笑う弟に、紫輝は苦笑を返す。

 父は、有名な俳優で。ハリウッド映画ゲスト出演時、共演した金髪碧眼美人女優と意気投合し、結婚。
 しばらく、日本を拠点に活躍していたが。
 ハリウッド映画のオファーを受け、夫婦共々、昨日アメリカへ旅立ったところだった。

「大体、兄さんが鼻をつまむから、こんなに早起きしちゃったんだよ」
 己の高い鼻梁に、天誠は人差し指でチョンと触れる。

 両親のスイートマスク遺伝子をたっぷり受け継いだ天誠は、文句なしの美男子だ。
 切れ長の目元は、剣道しているときなどは眼光鋭いが。いつもは笑みの形に和ませているから、優しげな印象だ。
 薄めの唇は艶やかで、どこか色っぽさがある。

 日本のマダムを骨抜きにしている、父の、華はあるけど濃すぎない顔立ちを継承しているので。
 母から譲り受けた金髪はサラサラのキラキラだが、いかにも外国人という見目ではない。
 日本と欧米の良いとこ取り。
 ゆえに、誰も彼もが天誠を好きになった。

「そりゃ悪かった…じゃねぇよ。高校生にもなって兄貴のベッドにもぐり込むなっつうの」
「夢見が悪かったんだ。いいじゃんなぁ、ライラ?」

 前半は、紫輝に。後半は抱き上げたライラに、天誠は言う。
 むむっ、絶対普通じゃないことなのに。文句を言う、己が悪いみたいではないか?

「ランニングしてくる。でも兄さんは、これを直して」
 天誠はライラを床にそっと下ろすと、紫輝の髪を両手でわしゃわしゃと掻き回した。
 毎朝、髪が猫耳の形に固まるほどに、ひどい寝癖なのだ。
 手ぐしでサッと直る、天誠の今どきヘアを恨みがましく見やる。

「オケ。じゃ、朝飯用意しとくから、早めに戻れよ」
「兄さんも、二度寝するなよ」
 外国人ばりに、紫輝のこめかみに挨拶のキスをして。天誠は外に出て行った。

 その一連の動作が、スタイリッシュだ。

 弟を見送った紫輝は、寝癖を直すため洗面所へ入る。
 鏡の中に映る己の姿をじっとみつめ。ごわごわで真っ黒な髪に、指を差し入れた。
 鼻も口も小さく、いかにも日本人という、彫りの浅い顔。
 なのに、目だけは猫みたいに大きくて。バランスが悪い。

 芸能界で活躍する両親とも。すれ違えば、振り返ってもう一度顔を拝みたくなる、格好いい弟とも。
 紫輝は、全く似ていなかった。

「俺は、カッコウの卵だ」
 カッコウは自分で巣を作らず、ホオジロの巣に産卵し、ホオジロに育児もさせる。
 その行為を托卵たくらんという。
 小さなホオジロが、ヒナのうちから自分よりも大きなカッコウの子供に、せっせと餌を与えているところを。テレビで見たことがある。
 なんで気づかないのかなぁと、紫輝がつぶやくと。
 天誠は笑顔で言った。

「そんなの、いとしいからに決まっている」

 さらりとそう言える弟の優しさに。紫輝はずいぶん助けられてきた。
 紫輝は、養子だから。
 家族の誰とも、血縁関係がないのだ。

 でも自分は、両親にも弟にも愛されて育ったのだから。良いのだ。
 カッコウのように、いかにも家族と不似合いな姿かたちだったとしても。

 軽く息をつき。紫輝は、寝間着代わりのTシャツを脱いだ。
「シャワー浴びた方が早い。ライラも一緒にお風呂入るか?」
 足元にいたライラにたずねると、お風呂というワードに過剰反応し、いやーんと鳴きながら洗面所を出て行った。
 ライラは、お風呂嫌いだよねぇ?

     ★★★★★

 停車したバスから、生徒たちが続々と降車する。
 学校の敷地内にある停留所に降り立った、紫輝と天誠も。生徒たちの波に乗り、昇降口へと歩いていった。
 制服は、紺色のブレザーに白いシャツ、臙脂色のネクタイ。
 シンプル過ぎて、面白みに欠けるんだよな。

「おはよう、間宮くん」
 すかさず、天誠の隣に並びたい願望の女子たちが集まってきた。
 さりげなく、ふたりの間に割って入ってくる女子により。天誠を中心とする群れから、紫輝はペッと吐き出されてしまう。マジか?

 紫輝は高等部三年生。天誠は二年だ。
 しかし地味メンの紫輝と違い、天誠の人気は絶大である。
 幼稚舎から大学まである、エスカレーター式の学校なので。持ち上がりの生徒は、みんな顔見知り。
 そんな中、天誠は高等部に上がって早々に生徒会長に選ばれるくらいの人望がある。

 天誠を知らぬ者など、この学園にはいないのだ。

「おはよう、紫輝。今日もおまえの弟、すげぇな?」
 同じクラスの大木に声を掛けられ、紫輝も『おぅ』と気安い挨拶を返す。
 天誠の周りに、女子が集まるのと比例し。
 紫輝は、男友達に声を多くかけられた。

 天使降臨のごとき微笑み、怒った顔も素敵…と褒められる弟と違い。
 紫輝は、女子にはモテないが。お兄ちゃん気質の世話焼きに加え、純粋で素直な性格が好まれ、友達は多くいる方だった。

「金髪碧眼のハーフイケメン、スポーツ万能、品行方正で成績優秀。あと、なんだ…あぁ、中等部でも高等部でも生徒会長か。まじハイスペック。モテないわけがない」
 指折り数えて言う大木に、紫輝は首を傾げた。

「いやぁ、あいつにも欠点はあるよ」
「まっさかぁ…」
 否定の言葉を大木が返した、そのそばから。女子の小さな悲鳴が上がる。
 声がした方を見ると、天誠が手紙を破っているところだった。

「こんな手紙、兄さんに押しつけないでくれませんか? 迷惑です」
 ロングヘアのアイドル顔女子、加藤麗奈が。青い顔で天誠をみつめている。
 その光景を見て、紫輝は盛大なため息をついた。

 昨日、紫輝は同じクラスの麗奈に天誠宛ての手紙を託されたのだ。
 しかし過去の実例から、弟がこういうアプローチを毛嫌いするのはわかっていた。
 絶対に無理だからと、何度も断ったのだが。
 彼女は、帰国子女の転入生。いわゆる才女で、細くて小さくて可愛い。守ってあげたくなる系の美少女だから、とにかく自信満々だった。

 結局、紫輝は手紙を押しつけられてしまったのだった。

「だって、天誠くん。麗奈が生徒会室に出入りするようになって、すぐに名前覚えてくれたじゃない? 夜も家まで送ってくれたし。麗奈は特別なんでしょ?」
「役員の名前を覚えるのは、当たり前のこと。生徒会業務で、たまたま帰りが遅くなり、割り当てられた女子を家に送るのも当然です。特別? 僕にとって特別なのは兄さんだけですが?」

 いつもは優しい表情の天誠が、有無を言わせぬ迫力で麗奈を拒絶する。
 昨日、紫輝が手紙を渡したとき。
 天誠の空色の瞳は、瞬間冷凍のごとくアイスブルーに変化した。

 今思い出しても、恐ろしくて背筋が震えてしまう。

 つまり、昨日の夜から。現在、繰り広げられているこの最悪な結末は。残念ながら予期できていたのだ。
「あぁ、これがあったか。間宮天誠、超ブラコン説」
 なんとも残念な響きで、大木がつぶやく。
 持ち上がりの生徒なら、ほとんどが知っている話なのだが、転入生の麗奈は知らなかったのだろう。
 弟は、確かに。普段は極めて温厚な性格だ。

 しかし兄の紫輝が引くほど、度が過ぎるブラコンだった。

 天誠の取り巻きの女の子たちも、間宮(兄)に橋渡しを頼むのはあり得ない、とか。
 有名なジンクスを知らないなんて、とか。
 ひそひそ囁いている。

「間宮っ、天誠くんになにを言ったのよ! まさか麗奈が、天誠くんを好きなことに嫉妬したわけ?」
 そのいたたまれない空気にキレ、麗奈はそばにいた紫輝に猛然と向かっていった。

「醜い男のひがみでしょ。あんたなんか、天誠くんと兄弟ってとこしか価値ないし。その極悪ノラ猫顔で、彼と張り合えるとでも思っているの?」
「はぁ? そこまで言うか…」

 いくらなんでも、極悪ノラ猫顔はひどい。
 そう思い。紫輝は彼女に言うが。

 麗奈の怒りは紫輝のさらに上をいっていた。
 可愛いアイドル顔を醜く歪ませ、ヒステリックにわめく。

「うるさい、うるさいっ。優しい天誠くんがこんなこと言うなんて…よっぽど麗奈の悪口言ったとしか考えられないんだからぁ」
 短いスカートを揺らし、麗奈が手を振り上げた。
 うわっ、と。避ける間がなく、紫輝はぎゅっと目をつぶる。
 彼女の平手の衝撃を、覚悟したのだが。
 あれ? いつまでたっても頬を打つ乾いた音が響かない。

 恐る恐る、紫輝が目を開けてみると。
 振り上げた彼女の手を、天誠が掴んでいた。

 思いもよらない麗奈の行動に、天誠だけが反応していたようだ。
 おおぉっ。ぶたれなくて済んで、ホッとしたよ。
 みんなも胸を撫で下ろす中。
 天誠は、止めた彼女の手をさらにひねり上げていく。キャッと痛そうな悲鳴が上がった。

「天誠、やめろ」
 短い紫輝の一声で、天誠は渋々彼女から手を離す。
 もう、やりすぎだぞ。

「加藤先輩、二度と僕の視界に入らないでくださいね」
 天誠は、ただただ冷たい目で彼女を見る。
 その抑揚のない言葉の羅列が、弟の強い怒りを示していた。

 気を利かせた女子たちが、麗奈を天誠から遠ざけ。なんとか騒ぎはおさまりをみせる。
 しかし女性を傷つけようとしたことは良くないので。
 ここは兄として、弟に厳重注意をしないとな。

「こら、女の子に乱暴するな。弱い者は守ってやるのが武士道だろ?」
 天誠は剣道や古武術をかじっているので、この言い方で納得してもらえると紫輝は思ったのだが。

「兄さんに手を上げようとした時点で、彼女は弱者ではなくなった。さらに、僕に近づくために兄さんを利用しようとした、腹黒非常識女に認定だ」
 鼻息荒く、天誠はそう言い捨てた。
 いやいや、そこまで言わなくても。

「大袈裟だな。女子のビンタなんて、当たってもたいしたことない」
「兄さんを傷つけるやつは、女でも容赦しない。兄さんがなんと言おうと、ここは譲れないよ」
 ものっすごくキラッキラな笑顔を浮かべる天誠を見て、周囲の女子たちがギャーとざわめく。

「兄さんは、僕が守る」

「ブラコンでなきゃ、完璧なのに」
 残念そうにつぶやく紫輝に、周囲の男子たちは同意のうなずきを返した。

     ★★★★★

 授業が終わり、紫輝と天誠は帰宅の途についた。
 自宅は、学校からバスに乗って十八分。
 高台の、閑静な住宅地にある一戸建てだ。
 交通の便は良いのだが、バス停を降りてから急こう配の坂を上らなくてはならないのがデメリットである。

 玄関扉を開けると、さっそくライラがリビングから顔を出した。
 二十一歳のライラは、猫的にはご長寿さんだが。
 白く、長い毛並みが美しく、年を感じさせない。
 鼻はピンク。瞳はゴールデングリーンアイズ。とてもゴージャスな女の子だ。
 紫輝は心の中で、密かに女王様とか姫とか呼んでいた。

「ただいま、ライラ。良い子にしてたか?」
 いつもの場所に行きたいわ、と。ライラが、自慢のフサフサ尻尾を振りながら、廊下を進む。

 紫輝は家に上がると。玄関先に荷物を置いて、庭に面した広縁へ向かう。
 おんもに出たい、という彼女の願いを叶えるため。紫輝はサッシを開けた。

 芝生が敷き詰められた小ぶりな庭に、ライラは降り立ち。
 紫輝は、そこに常備してあるサンダルを履く。
 玄関を入らず、直接庭に来た天誠は。紫輝の隣に並んで、しばしライラを見やる。

 ご長寿猫の足取りは、よちよちしていて少し危なっかしいが。ライラは張り切って庭をパトロールしていた。
 この、ライラをみつめるだけののんびりとした時間が、紫輝と天誠にとって最高のご褒美タイムなのだ。

「兄さん、誕生日おめでとう」
 ふいに、天誠は紫輝の左手を引っ張り、手首に革製のアクセサリーをつけた。

「これ、春休みに革細工の講習を受けて、僕が作ったんだ」
「え、天誠の手作りなのか?」
 プレゼントの腕輪を、紫輝はしげしげと見た。

 中央にドーム型の紫水晶がついている。
 地金に開けられた穴に、革紐が通され。手首をぐるりと一周する部分は複数の革紐が複雑な模様で編み込まれていて、結び目はみつからない。
 円に、手をずぼっと突っ込むタイプの腕輪だ。

「すごいなぁ…どうやって作ったんだぁ?」
「だから、教えてもらったんだって。水晶の固定はさすがにプロに任せたけど…他は全部、僕が作ったんだからな。水晶は天然石、地金はプラチナ。本革仕様で、素材選びにもこだわったんだ」
「なんか、戦隊ものの変身アイテムみたいでチョーカッコイイ」

 天誠はすでに手首につけていた自分の腕輪も、紫輝に見せた。
「ほら、僕も同じものを作った。兄さんは紫水晶で、僕は黒水晶にしたんだ。この黒、兄さんの髪の色みたいですごく綺麗だったから」
 言って、天誠は腕輪の黒水晶を満足げにみつめた。

「色が違っても、水晶っていう本質は変わらない。僕たち、本当の兄弟じゃないけどさ、本当の兄弟よりも強い絆で結ばれている自信、あるよ。その気持ちは、なにがあってもずっと変わらないから。そんな意味を込めたよ」
「俺と天誠の…絆」
 紫輝の言葉にうなずいて、天誠はにっこり笑った。

「そう。だから、いつまでも僕のそばにいてよ、兄さん」

 黒と紫、表面上は掛け離れて見えるけど、本質はどちらも水晶であるように。
 容姿も性格も、全く違うし。血縁もないけれど。
 永遠に切れることのない強固な絆が、ふたりの間にはある。
 そんな天誠の想いが腕輪から伝わるようで。紫輝は感動した。

「ありがとう、天誠。俺すっごく嬉しいよ」
 湧き上がってくる感謝や愛しさや、幸せな気持ちを。紫輝は思いっきりの笑顔で、天誠に示した。

 オレンジ色の夕日が、目に入ったのか。
 天誠は、少しまぶしそうに目を細め。
 一流のモデルも裸足で逃げ出す、麗しい微笑みを浮かべた。

「ほら、天誠が作ってくれたよ。似合うか?」
 紫輝は足元にいたライラを抱っこして、腕輪を見せた。
 ライラは喉をゴロゴロと鳴らしている。

 なんだか、とても幸せで。夢のようで。
 紫輝は、ちょっと涙ぐんだ。
 ライラをきゅっと抱き締めて。紫輝は天誠と向かい合う。
 この素晴らしい気持ちに包まれながら、彼に伝えたいことがあった。

「…天誠。あのさ、俺…」
 天誠を見上げると、夏の空を思わせる青い瞳がきらりと輝いた…そのとき。

 ゴゴゴッと地響きをたてて地面が大きく揺れた。

「…え? なに?」
 いつの間にか、庭に大きな穴が開いていて。その暗い淵から、大きな手が伸び上がってきた。
 紫輝の身長よりもはるかに大きな手で、三メートルくらいはありそうだ。

 理解しがたいその光景を、紫輝たちはただ呆然と見上げるしかなかった。
「兄さん、危ない」

 紫輝はライラごと、天誠にギュッと抱き締められた。
 その刹那、大仏の手のようなものが、ふたりと一匹を握り込んで…。


   ◆ここ、異世界ですか?


 目を覚まし、最初に紫輝の目に映ったものは、木々の緑だった。
 木漏れ日の細かい光がチラチラと目によぎる。
 庭で寝てしまったのかと思った。

 つか、さっきのアレはなんだったんだろう?
 夢だよな、夢。
 大体、あんなでかい手が出てくるとか、ありえないし。

 そういえば、朝。ライラに、肉球ビンタで起こされたんだった。
 学校でも、加藤にビンタされそうになったし。
 だから手にまつわる変な夢を見たんだ。そうだ、そうに決まっている。

 というわけで。そんなふうに、無理矢理決めつけた紫輝は。気を取り直して上半身を起こした。
 だが、改めて周りを見回してみると。見慣れた庭の景色ではない。

 鬱蒼と生い茂る、木々。ついた手の感触は、庭の芝生ではなく、整備されていない地べたで。
 自分の家も、他の住宅も見当たらない。
 森なのか、山なのか。
 とにかくここがどこか、まるでわからなかった。

「…え、天誠、ライラ?」
 心細くなり。紫輝はふたりの名前を呼ぶ。
 しかし、返事も気配もなかった。

 とりあえず自分の体を探った。痛いところはない。怪我もない。
 持ち物は、ポケットに入っていたスマホだけだ。
 慌てて天誠に連絡しようとしたが、機器は動かない。
 電波がないどころではなく、電源すら入らなかった。

「うそ、なんでこんなときに…」
 軽くパニクって、紫輝は立ち上がった。
 場所を知るため、その辺を歩き回る。動いていないと、なんだか気がおかしくなりそうで。
 でも、手に触れるものは、木の幹。目に映るのは、緑の葉。足元は、木の根っこ。そればかりだ。

 そうして、さ迷っていると。獣が威嚇するときに出る、グルグルという低い声が不穏に響いてきて。
 紫輝は泣きそうになった。
 木の陰に隠れて、声のする方をうかがうと。
 遠目に、大きな影が見える。
 ライオンみたいな、大きな生き物だと思い。もう、ただただ怖くなって。
 その獣に気づかれないよう、紫輝はそっとその場から離れた。

 獣の声が聞こえなくなったところで、脇目もふらず一直線に山を駆け下りた。
 靴はサンダルだし、急な斜面だから、何度も転んだ。
 でも、木の葉がクッションになって助かり。足を止めずに、紫輝は走り続けられた。

 しばらくすると、木陰から急に開けた場所に出られた。
 森を抜けた、という感じで。
 上を向くと、木々に邪魔されず。青い空が見えた。

 そして目の前には道がある。
 アスファルトで舗装されていない、土が固まっただけの細い道だけど。
 小道を進むと、畑があった。野菜の葉が出ていて、手入れされているのがわかる。
 でも見渡す限り畑で、高い建物がない。電柱もない。車も走ってない。

 それで紫輝は。ここが、住み慣れた街中ではないと知った。
 少なくとも、自宅近辺ではない。

 そう思うと、途方に暮れるが。
 とにかく人に会いたかった。会って、ここがどこか教えてもらえれば、帰れる。
 大丈夫、大丈夫。スマホ貸してもらえたら、天誠に連絡できるし。そしたら、帰る。大丈夫。

 帰る、帰ると、呪文のように唱えながら、道なりに歩いていくと。前方に、人影をみつけ…紫輝は思わず笑んだ。

「やった。すみませーん」
 嬉しさのあまり、紫輝は大きく手を振って、その人に駆け寄った。
 だが、声をかけた人物をよく見てみると、背中に灰色の翼がついている。
 アニメかゲームのコスプレしているのかと…ちょっと思った。

 それはともかく、今は家に帰る手段を講じないと。
 その気持ちが強くて、紫輝は深く考えなかった。

「あの、道を教えてほしいんですけど」
 紫輝の声に、男が振り返る。
 すると彼はあからさまに顔を引きつらせた。

「リュ、リュウキだっ、誰か、助けてくれーっ」

 まさに『殺される』という勢いの、悲鳴で。
 紫輝の方が、逆にびっくりしてしまった。
 男が脱兎のごとく逃げようとするので、紫輝も追いかける。せっかく出会った人に逃げられると、紫輝も困る。

「待って、怪しい者じゃないんです。ここがどこか、知りたいだけなんですぅ」
 というか、怪しい格好なのはむしろ貴方です。と、紫輝は男を追いかけながら思った。

 男の翼は、背中を覆うほどの大きさだし。髪の色も翼と同色だ。
 服装も、着物のような形をしていて。どうしてもアニメのコスプレとしか思えない。

 逃げながら悲鳴を上げる男の声を聞きつけて。遠くの畑で作業していた人たちが、続々と集まってきた。
 手には、ナタや鎌など。凶器が握られていて。
 その殺気立った雰囲気に、紫輝もさすがにおびえる。

「いや、違いますよ。俺、リュウキさんじゃないし。で、あ…」
 紫輝は、自分に似たリュウキさんがなにかやらかしたのかと思って、無実を訴えた。
 だが、集まってきた人たちの全員の背中に、翼がついているのに気づいて。言葉を失う。

「リュウキじゃないなんて、そんな見え透いた嘘をつくな。羽がないじゃないか」
 茶色い羽根の男が、紫輝を指さした。
 激しく睨みつけてくる人たちの背中にも、黄色、緑、木の葉を重ねたような模様、色柄も様々な羽がついている。そして、その翼は。威嚇するようにぴくぴく動いていた。

 アレ、飾りやおもちゃじゃないのか? 本物の翼? マジで?

 なかなか納得できないのだが、人々が石を投げてきたので。状況がわからないまま、紫輝は追い立てられてしまった。
 鎌を振り上げて、彼らは出て行けと叫び続ける。

 嘘でしょ、嘘でしょ、嘘でしょーっ?

 走って逃げてきた元の道を、また走って戻るしかなかった。
 集団に、拒絶される恐怖。
 みんなが、羽をつけている姿の異様さ。
 理解しがたい光景の連続に、紫輝の心は混乱してぐちゃぐちゃだ。

 いっぱい走って、追いかける人の気配が次第になくなり。見えるものが、木々ばかりになってから。紫輝はようやく足を止めた。
 太ももに手を置き、乱れた息を整える。
 心臓のどきどきする音が、耳のそばから聞こえるようだ。

「こ、怖かった。なんだ、アレ?」
 大きく息を吐き出し、紫輝は天を仰ぐ。
 木の枝が日の光を遮る、結局元いた山の中だ。

「みんな、羽がついていた。どうして?」
 まるで、小説や漫画の世界みたいだと感じた。
 異世界に迷い込んだ学生が、勇者として歓迎され、その地で魔王と戦う…なんてストーリーはよく見かける。
 もしかして。自分は勇者で、誰かがここに召喚したんじゃないかって。
 ちらっと。
 ほんのちょっとだけ、考えてみたりもしたが。

「いやいや、歓迎ムードじゃなかったよ」
 苦笑して、紫輝は思わず自分にツッコミを入れる。
 憎悪を感じるほど、睨んできた人たちの顔を思い出し。その楽観的な考えをすぐに打ち消した。

「はぁ、これからどうしたらいいんだ?」
 なにが起きているのかわからなくて、トホホと肩を落とした。

     ★★★★★

「兄さんは、いいよなぁ? 友達が多くて」
 学校の昇降口を上がり、教室に向かいながら。天誠が言った。
 しかし紫輝は、眉間にしわをビキッと刻む。

「はぁ? なに言ってんだ、おまえの方が、よっぽど人気者じゃないか。嫌味か?」
 登校時の騒動を思い出して、げんなりとする。
 あれは、天誠の人気が半端ないせいで起きたも同然だ。

「違うんだよ、そうじゃなくて。確かに、みんな声をかけてくれるけれどさ。なんか、一線引いているような。仲間内でも、距離があるんだよ。ガラスケースの中の人形みたいな気分だ。でも兄さんは、自然に寄り添う感じがするからすごく落ち着く」

 おんぶお化けさながら、紫輝の背後から、天誠がぴったりと抱きついてくる。
 身長の高い弟の顎が、紫輝の頭に乗っかっているが。
 動じず、紫輝はそのまま廊下を歩き続けた。

「それは兄弟だから、だろう? つか、寄り添ってんの、おまえだし」
 紫輝の言葉に、天誠はなにか想像しながらの声を出す。

「んー…もし、兄さんが兄さんじゃなかったら。とにかく、兄さんに付きまとって。親友の位置を狙うと思うな? それでいつも、そばにいてもらう」
 納得したのか、天誠がうなずく。
 紫輝からは見えないが、頭の上の顎が動いたのでわかった。
 というか、それは今の状況となにも変わりがないように思え、小首を傾げる。

「つまりなにが言いたいのかというと、兄さんからは欲とか打算とか感じられない。心が素でクリーンなんだよ。そういうところが、そばにいて安心できる感じってこと。森林浴的な心地よさ、みたいな。だからいつも一緒にいたくなる。兄さんの友達も、そんなとこに魅かれているんじゃないかな。ね? 大木さん」

 さりげなく、紫輝の隣を歩いていた大木は。急に天誠に話を振られ、戸惑いを隠せない。
「あ? あぁ…カリスマオーラの天誠くんは近寄りがたいけど、紫輝は凡人オーラで、親しみやすい…みたいな?」
「それ、褒めてなくね?」
 不満げな紫輝の言葉に、大木も、天誠も、楽しそうに笑って返す。

 つい数時間前の、朝の出来事だった。

     ★★★★★

 しかし、今は山の中。
 木の幹に背を預け、座り込んでいる。

 紫輝は今まで、友達を意図して作ろうと思ったことはなかった。
 気さくに話しかけたり、誰かが用事をしていたら、なにかを手伝ったり。そんな些細なことで、自然に知り合いは増える。
 近所のおばさんも、商店街のおじさんも、紫輝が笑顔で挨拶をすれば愛想良く応えてくれた。

 まぁ、今朝の加藤の暴挙や、天誠目当ての女の子たちに嫌がらせめいたことをされたなど。全く悪意を受けたことがない…とは言わないが。
 女子の行動起因は、確実に天誠だとわかっているので。なんとなく理解はできる。

 でも今回のように、話を全く聞いてもらえないとか。まして石を投げられるなんて経験は。一度もない。
 驚き、困惑、衝撃…つまり、ショックだった。

「天誠に腕輪を貰ったところまでは、夢じゃない」
 左の手首にある腕輪が、その証拠だ。
 紫輝は、左手につけられた革の腕輪を右手でそっと撫でる。

 いつまでもそばにいてと言った弟を想い、涙が出そうになった。

 ここは、自分が今まで生きてきた世界とは違うのだ。
 山を降りて、それがわかった。

 これからどうしようか。
 気を失う前に、抱き締めてくれた天誠。そして胸に抱いていたライラは、どうなったのか。
 考えれば考えるほど悪いことしか頭に浮かばなくて。
 紫輝はどんどん悲しくなってきた。

「おい、いたぞ、こっちだ」
 後方で人の声がして、紫輝は振り返る。
 明らかに、自分を指さしている男たちがいた。
 彼らがどういうつもりなのかは、わからないけれど。紫輝は本能的に危機を感じて、立ち上がった。
 震える足でなんとか走ったが、別の方向から来た男が紫輝の目の前に立ちはだかる。
 紫輝は、一瞬足を止めたが。男の隙をついて、横手に逃げた。

「おっと、行かせないぜ」
 しかし、通せん坊するみたいに、男は手を広げ、紫輝の行く手を阻む。
「ガキのリュウキだ。報酬、いくら出るかな?」

 男は、黒色の羽で。男子校の制服のような、黒い詰襟を着ている。
 黒尽くめで、口を歪ませた半笑いの顔が、どこか悪っぽい。
『自分を助けてくれる、正義の味方には見えない』が、紫輝の個人的感想だった。

「多少傷つけても、金は出るらしいぜ」
 後ろから追いついてきた男が、言う。彼も同じ格好をしている。
 どこかの学校の制服なのか。
 でも、手に刀みたいな刃物を持っているから、限りなく物騒。
 学生ではないのだろう。

 とにかく、あんな刀で切られたらひとたまりもない。

 もしかして、ここは夢なのかもしれないけれど…切られたくない。怖い。無理。
 男が刀を振り上げたと同時に、紫輝は思い切って横に転がり、すぐに立ち上がってダッシュした。

「あぁ、サンダルっ」
 町の人から逃げたときもなんとか死守していたサンダルが、ついに脱げてしまった。
 でも紫輝は、足を止められない。
 奴らが、獲物を追う狩人のように楽しげに追いかけてくるからだ。

 もうっ、やだぁ。

 紫輝は、木々を避けてジグザグに走る。まるでホラー映画の主人公だ。
 死の恐怖が、常に背中に張りついていた。
 そのうち木の根っこに足が引っかかり、派手に転んでしまう。
 そうすると、もう足がすくんでしまい…立てなかった。

「追いかけっこは終わりか? 坊主」
 追いついてきた男たちを、紫輝は青ざめた顔で見上げる。

 もう駄目だ。もう逃げられない。

 絶望して、ネガティブな言葉しか脳裏に浮かばない。
 刀の切っ先がてっぺんを向いたとき、紫輝は痛みを覚悟して目をギュッとつぶった。

「丸腰に、刀を向けたら駄目ですよ」

 ザザッという木々が軋む音とともに、紫輝の前に、誰かが突然現れた気配がした。
 木の上から降りてきたみたいで、木の葉がハラハラと紫輝の頭に舞い落ちる。

 恐る恐る、目を開けた。

 刀の男たちと、紫輝の間に割って入ったのは。物凄く背の高い人物で。
 地べたに座り込んでいた紫輝は…樹齢何百年もの大樹を目にしたみたいな感覚になった。

 あおぎ見た、その大きな背中が雄々しくて、頼もしい。
 真っ黒でストレートな、腰まで伸びる長い髪。
 だが、包むように柔らかく低い声も。鍛えられてがっしりした体格も。間違えようもなく、男性だ。

 畑にいた人たちや、目の前の男たちの翼は、羽先がウエスト位置くらいのものばかりだったが。
 彼の漆黒の翼は、肩甲骨から耳の高さまで上がり、そこから膝の下まで伸びている立派なものだ。

「我らはシュリ軍の者だ。おとなしく、そのリュウキを渡せ」
 紫輝を追ってきた男たちは、突然現れた助っ人に驚きを隠せないでいた。

「渡せないな。彼は俺の友達なんだ。それにここは、俺の領地。そちらこそ、速やかに立ち去ってください」
 彼がかばってくれたことが、紫輝は、胸がギューッと絞られるほどに嬉しかった。

 理解不能この上ない中、会う人会う人、みんなに拒絶されてきた。
 石を投げられ、追いかけられ、襲われて…そんな情景が、次々と思い出される。
 彼が何者なのかは、まだわからないけれど。

 やっと悪意を感じない人に出会えて。一安心して、紫輝の目からポロリと涙がこぼれた。

 彼と奴らの睨み合いは続く。緊張感が、その場の空気を凍らせていた。
 しかしその均衡は、ふいに途切れた。
 森の奥から、白い突風が吹き抜けたのだ。
 追手の男がひとり、目の前から消えた。
 紫輝の目には、全くなにが起きたかわからなかったが。気づいたとき、男は横手にある木の根元に倒れていた。

「ひ、ひぃ…リュウキの力か?」
 悲鳴を上げた男も、間もなく突風に飛ばされて、体が木にぶち当たり、気を失う。

「え、なに?」
 驚きに目を丸くし、紫輝はつぶやく。
 すると、白い風だと思っていたものが。倒れている男のそばに姿を現した。

 ぐるる…と鳴き声を響かせている。それは大きさがライオンほどもある、白い獣だった。

 獣は、ちらりと紫輝たちに目を向けると、見せつけるように男を足で踏みつけた。
 丸い手で体を転がしてみて、また紫輝に目を向ける。
 その白い獣が、ジッと…ジーッと紫輝だけをみつめていた。

「…おーんちゃーん」
 その鳴き方に、紫輝は聞き覚えがあった。

 猫のライラは『ごはん、おんも』など、よく使う単語を、わかりやすく言葉にしていた。
 他人が聞けば、ニャーとしか聞こえないのだろうが。
 紫輝や家族は聞き取れた。
 そして中でも、ライラが紫輝を呼ぶときの『おんちゃん』(お兄ちゃんの呼びやすい言い方と思われる)という呼び声は、独特のイントネーションだったのだ。

 それを、目の前の獣が口にしているぅぅ?

「まさか、ライラ…なのか?」
 獣は紫輝に呼びかけられた途端、ダーッと目から涙をあふれさせた。
 ライオンのごとく堂々としたたたずまいの獣が…泣いている。
 しかし、ピンクの鼻、白色の長毛、ふさふさの尻尾、巨大化して尻尾は二本に増えているけど、間違いなく紫輝の愛猫のライラだった。

「ライラ、本当にライラなんだな?」
 腰が抜けて立てないから。紫輝は四つん這いになって、ライラの元へ行き。ガバッと首元に抱きついた。

「おんちゃーん、あたし、ちょーこわかったわぁ。木がいっぱいだし。おんちゃんいないし。あたし、なんだかでっかいしぃぃ」
 単語は言えても、人語はしゃべらなかったのだが。
 でも、やはりライラだった。

「そうか、怖かったな。ひとりにして…おんちゃんが悪かった」
 額や頬を、毛の流れに沿って撫でてやると。
 泣いていたライラは、落ち着きを取り戻し、喉をグルグル鳴らした。

 その音は、獣が威嚇している唸り声に似ていた。
 先ほど森で見かけた大きな獣は、おそらくライラだったのだ。
 猫が嬉しいときや、気持ち良いときに鳴らすゴロゴロ音と。野生の獣が出すグルグル音を。聞き間違えるなんて…紫輝は猫飼いとしてあるまじき失敗をしたと感じた。

「な、なぁ、ライラ。天誠はどこだ? 一緒じゃないのか?」
 ライラがいるなら、天誠もそばにいるだろうと思い、紫輝はたずねたのだが。

「あたし、おんちゃんの匂いがしたから、うれしくなって、ここに飛んできたの。でも、このお山、おんちゃんの匂いだけ。天ちゃんの匂い、しない」
「ライラはどうやってここに来たか、覚えているか? ここがどこか、わかる?」
「わからないわぁ。目んめ開いたら、ここにいたの」

 しょんぼりと申し訳なさそうな様子で言うライラを、紫輝は撫でた。
「そう、か…いいよ。大丈夫だよ、ライラ」

 動物の嗅覚は、人より優れているという。
 ライラがそう言うのなら、天誠は近くにいないのだろう。
 がっかりしたけれど、ライラを不安にさせたくなくて、紫輝は無理矢理笑みを浮かべた。

「この大きな子は、君の友達?」
 声を掛けられ、紫輝は命の恩人の存在を思い出した。
「はい、ライラです。俺の猫で…あの、大丈夫ですから」
 今やライラは、紫輝の座高より大きなサイズだ。
 でも猫だから無害なのだと説明したくて、背後にいる彼に顔を向けた。

 そのとき、ようやく彼を正面から見たのだ。

 髪も、翼も、艶やかな光沢を放つ黒。
 長めの前髪が顔にかかって見えにくいが、瞳の色も黒色だった。
 切れ長の目元、高めの鼻梁、薄い唇の形などが、どことなく天誠に似ていて、ハッとする。

 天誠は、まぶしいくらいの金髪に、瞳はスカイブルー。
 目の前の彼は、紫輝よりも年上に見えるし。声も天誠に比べるとだいぶ低く聞こえたので、同一人物ではないことはわかる。
 わかるのだが。
 つい、まじまじと見てしまうくらい、彼は弟に似ていた。
 つまり、モデルも裸足で逃げ出す類のイケメンだ。

「そう、猫なんだ。びっくりするくらい、大きいね?」
 彼はライラに、にっこりと笑いかける。
 猫と言うには、無理のある大きさとなってしまったライラを、無闇に怖がらずにいてくれる彼に。紫輝は好感を持つ。
 優しい心根の人だと思った。

「俺はアズミマナカだ。この山に住むきこりだよ。…君の名前は?」
「あ、紫輝です。間宮紫輝。あの、助けてくれて、本当にありがとうございました。…アズミさん」
「マナカと呼んでくれ、紫輝」
 微笑みかけられ、優しく、包み込むような眼差しでみつめられて。
 紫輝は何故だか照れくさくなって。ジワリと頬を熱くした。

「それで…彼ら、どうしようか」
 白い突風だと思っていたのは、ライラの体当たりだったわけだが。そのせいで気を失っている男たちを見下ろし、マナカは首を傾げた。

「君があんまり『殺される』って顔をしていたから、咄嗟に助けたけれど。こいつらが目を覚ましたら、すぐに君を探しに来るんじゃないかって…心配だよ」
「なら、あたしが食べてあげる」

 心配を口にするマナカに、ライラが言った。
 大きな口を開け、今にも食べてしまいそうな様子のライラを、紫輝は慌てて止める。

「駄目だよ、ライラ。こんなの食べたら、お腹を壊すよ」
 本来なら、食べられる側を心配するべきなのだろうが。紫輝には事情がある。

 二十一歳のご長寿猫だったライラは、このところ下痢の症状がよく起きていたので、変なものを食べさせたくないのだ。
 至って真面目に、ライラの体調を優先した、飼い主あるあるな言葉だった。

「やーねー、おんちゃん。お肉は食べないわぁ」
 白くて丸い手を、口元に当て。女の子らしく、うふふと笑う。

「生気を吸うの。それが、あたしの、いまのしょくじなのよ。食べるとね、これ、うごけなくなっちゃうわぁ」
「そ、そうなのか?」
 冷静に考えるとライラの言っていることは、かなり怖いが。
 あんまり無邪気な様子で言うので、なんだか納得してしまった。

「兵が動けなくなっている間に、遠くまで逃げちゃえばいいんだな?」
 マナカも合意したので、紫輝はライラに食べるよう、うながす。
 ライラは男たちに顔を寄せ、ちゅるんと、なにかを吸い込んだ。

「はぁぁ、ぽんぽんぱんぱんよぉ」
 満足そうなライラを見て、紫輝は本当に一息ついた。

「じゃあ、紫輝。我が家へ案内するよ」
 流れるような動作で、マナカは紫輝の膝裏と背中に手を差し入れ、持ち上げた。
 いわゆる、お姫様抱っこの姿勢で。
 さすがに紫輝も、恥ずかしすぎて慌てた。

「マナカさん…大丈夫、歩けるよ」
「マナカだ。呼び捨てにしないと下ろさないよ、紫輝」
 なにやら楽しげに微笑みを向けるマナカに。紫輝は顔を赤くした。
 なんといっても、顔が近い。
 前髪の分け目からのぞく切れ長の目に、優しげな光が宿っているのがよく見える。
 ニ十センチ先の、イケメンの圧が半端ない。
 すぐさま姫抱っこの姿勢から逃れないと。なにかがヤバい。
 そう思い、紫輝は口を開いた。

「ま、マナ…カ。下ろし、て?」
「よく出来ました。でも腰も抜けてる、靴も履いていない君を、下ろすわけないけどね」
 それはもう、爽やかな笑顔で断言され。紫輝は、目を見開く。
「なっ…」

 初対面の年上相手に、呼び捨てなんてハードル高い、とか。
 至近距離で名前を呼ぶ、猛烈な恥ずかしさ、とか。
 もろもろの想いを我慢して、姫抱っこ脱出のために頑張って言ったのに。

 マナカは下ろしてくれなかった。

 最初から下ろす気がなかったのだ。からかわれたショックで、紫輝は言葉を失った。
「…あぁ、なんてやわい足袋なんだ。足の裏が傷ついていないと良いが」

 紫輝が呆然としている間に、マナカは歩き出していた。
 彼の独り言を聞き、己の足に目をやる。

 詰襟たちに追われているときに、サンダルが脱げてしまったから。靴下で逃げるしかなかった。
 マナカがやわい足袋と言った、靴下も。すでにボロボロで。ところどころ穴が開いている。
 逃げている間は必死で気づかなかったけれど。
 足の裏がちょっと痛い…かもしれない。

 確かに、マナカは。この状態の紫輝を歩かせるような、人でなしではない。
 暴漢から助けてくれた、優しい人だから。

 紫輝は姫抱っこ脱出を断念した。

「ごめんなさい、迷惑かけて…重いだろ?」
「謝らないで。大丈夫だから」
 細身だが、身長百六十五センチある男を抱えてもびくともしないマナカを。紫輝は、羨望の眼差しで見る。

 初めて彼を目にしたとき、大樹のような印象を抱いた。
 木漏れ日が逆光になって、神々しい雰囲気すら感じたものだ。
 紫輝よりも頭ひとつ分高かった天誠のこともそうだが。大きな身長や、頼もしく感じる体格の男性に、紫輝は憧れる傾向がある。

 つまり…チビでガリな己の体格がコンプレックスなのだ。

 しっかりとした足取りで十分ほど山を登った先に、マナカの家はあった。
 道中、聞いた話だと、この山のほとんどがマナカの持ち物で。彼は山の手入れをしつつ、焚き木を売って生活をしているそうだ。

 木造の家は玄関と台所を兼ねた土間が一部屋分、八畳ほどの部屋が二つほどある。
 土間で足を拭いてもらったライラは、さっそく家に上がり込み。囲炉裏の前で丸くなった。
 紫輝も家の上がり口で、足の手当てをしてもらう。
 枯葉が積もってクッションになったおかげで足のダメージは少なかったが。靴下はさすがに廃棄処分となった。

「なにからなにまで、すみません。ライラもくつろいじゃって…」
「構わないよ。猫は寝るとき丸くなるものだ」

 マナカは、紫輝も囲炉裏の前に来るよう手招く。
 好意に甘え、紫輝は火に当たった。
 ライラが囲炉裏の四角のうち二辺分の場所を取っているので。必然的に、紫輝はマナカの斜め横に座った。

「山の下はショウドウの領地だが。この山の前の地主がシュリびいきだったおかげで、両軍の兵士が山に入ってきちゃって、俺も迷惑しているんだよ。ライラが食べたのはシュリの兵だったな」
 湯飲みにお茶を淹れながら、マナカが教えてくれる。
 でも紫輝にはなんのことかわからない。

「おそらくリュウキの君を見かけた村人が、シュリ兵に報告したんじゃないかな?」
「あの…リュウキって、なんですか?」
 紫輝のその質問に、マナカは戸惑うような、不思議そうな顔をした。

「なにって…君のような、羽なしの…」
 口ごもるマナカの様子を見ると。リュウキの説明は、よほど後ろめたいのだろう。
 でもリュウキの何がそんなに言いにくいのか。それすら、紫輝にはわからないのだ。

 今の状態を自分が全く理解していないのだと知ってもらうため。紫輝はマナカに、今までの事柄をありのままに話した。
 庭でライラを抱っこしていたときに、大きな手に掴まれたこと。
 気づいたらここにいたこと。
 山を降りたら村人に石を投げられたこと。

 そして紫輝の住んでいた世界では、羽のある人物はいなかったことと…弟も巻き込まれているかもしれないこと。

「今…なんでここにいるのか、どうなっているのか。俺、さっぱりわからなくて、本当に困ってんだ」
 マナカは信じられないという表情を浮かべたが。
 真っ向から否定することもなく。
 紫輝の話を、最後まで聞いてくれた。

「じゃあリュウキって言葉自体を知らないのか? シュリとショウドウが戦をしていることも?」
 紫輝がうなずくと、マナカは一口お茶を飲んで考え込んだ。

「大変だったな、紫輝。なにも知らずに山を降りて…翼がないと問答無用でリュウキだと思われるから、村人に石を投げられてしまったんだね?」
 マナカは火箸ひばしで囲炉裏の灰のところに、漢字で龍鬼と書いた。

「…読める」
 思わず、紫輝はつぶやいた。
 もしこの世界が、紫輝の知る世界と全く違う場所ならば、漢字が存在するだろうか?
 そういえばマナカとも村人とも、普通に会話をしていた。
 たとえば外国だったら、言葉が通じない場合もあるのに。
 でも異世界の物語とかで、異世界に行ったら大抵は言葉が通じて、文字も読めるスキルがもらえる。

「これがチートってやつ? マジでここ、異世界なのか?」
「ちーと?」
 紫輝の言葉をオウム返しして、マナカが首を傾げた。
 だが紫輝はそれどころではない。

「ちょっ…ちょっと待って。マナカは? マナカってどんな字を書くの?」
 あわあわする紫輝を心配しつつ、マナカは火箸で安曇眞仲と書いた。
 その字を指差して、紫輝はたずねた。
「これって、漢字だろ?」
「字のこと? これは文字。カンジというのは、聞いたことがない」

 紫輝には、眞仲が書いた文字が漢字に見える。
 でも、もしかしたら。眞仲は違う字を書いているつもりなのかも、と思う。
 だとしたら、紫輝が勝手に脳内変換をしていることになる。
 つまり『ここ、異世界。言葉や文字は不自由しません系』が濃厚になってしまった。

「嘘だろ? ここ、完全に異世界じゃね? えーっ、マジか…俺、異世界のアニメとか小説とか、ゲームもあんまやったことないのに…」
 友達から聞きかじったライトノベルの感想や、有名どころの異世界系アニメで見た知識で、異世界召喚とか脳内変換とかスキルとかチートなんていう基本情報ならある。
 でも最初から最後まで完走した異世界物の話など、ふたつくらいしかないよ。

 もしも、やり込んだゲームの中に入り込んだとするならば。攻略できるのかもしれない。
 小説なら、ハッピーエンドに向かえるのかもしれない。
 でも紫輝には、この世界の知識は全くないのだ。

 詰んだ。お手上げだ。

 がっくりと肩を落とす紫輝に、眞仲が『大丈夫か?』と声をかける。
 新しいお茶をいれ直して『飲め』とすすめてくれた。
 眞仲が一生懸命、紫輝を気遣ってくれるのを感じる。

 そうだ、落ち込んでいる場合じゃない。なにもわからないなら、この世界の知識を仕入れて攻略していくしかないじゃん。
 ここが異世界ならば、だが。

「眞仲、俺、こことは違う世界…異世界から来たのかも。信じられない…だろうけど」

 恐る恐る、彼に告げてみる。
 だって、もしも自分が『異世界から来ました』と誰かに言われたら、たぶん信じないよ。
 変人認定で、眞仲に嫌われたくないのだ。
 ここから出ていけと言われるのも怖い。

 でも、眞仲は。困ったふうに眉を八の字に下げはしたが。穏やかな声を出した。
「確かに、一概に信じられる話ではないかもしれない。だけど君の着ているものは珍しい形をしている。軍の制服のように見えるが、シュリともショウドウとも色や形が違うな」

 灰の上の安曇眞仲という文字を消して、手裏と将堂と並んで書いた。
 そう言う眞仲の着ているものは。藍色の作務衣さむえみたいな形で。
 村人も、着物のようなものを着ていた。
 手裏軍の兵は、黒の詰襟つめえり。つか、立ち襟?
 紫輝が着ている学校の制服は、ブレザーなのだが。こちらではあまり見ない形なのだろう。

 そんなことを考えつつ、眞仲が紫輝の事情を少し理解してくれたように思えて。なんとなく異国で言葉が通じたくらいの安堵を感じた。

「それで俺、この世界のこと全然わからないから。眞仲にいろいろ教えてもらいたいんだ」
「いいよ。なんでも聞いて」
 落ち着きを取り戻した紫輝に。眞仲は安心したのか。微笑みを浮かべ、うなずいてくれる。

「あの、手裏兵? が、俺のことを龍鬼だって言ってたけど、龍鬼ってなに?」
「あぁ、ときどき羽のない子が生まれることがある。噂では、そういう子は地震を起こしたり、火を操ったり、翼を使わずに空を飛んだり…そんな特別な能力を持つらしい。翼もないのに飛べる龍、異様な力を持つ鬼、ふたつを足すほどの畏怖いふの象徴として、龍鬼と呼ばれている」

 それこそ、いわゆるチートってやつだなと思う。
 今のところ言葉に不自由しないくらいで、龍鬼ほどの特殊能力を与えられている感じはない。
 もしかして、能力値が映し出されるウィンドウが出るかも、と思い。紫輝は人差し指で空間をスイッとしてみたりするが…出ない。
 ですよねぇ?
 異世界ものでは当たり前のように、ステータス画面や魔法が使えるのに。
 この世界は、全然自分に優しくないんですけどぉ?
 若干、イラッとする。説明書、攻略本、くださいっ。

「俺なにもしなかったのに、石を投げるくらい怖かったのか?」
 龍と鬼を足すほどの恐ろしさを。村人は龍鬼に対して、そして自分に対しても抱いているのかと思うと。なんだか悲しい。
 それ、ちょっと怖がり過ぎじゃね?

「力を持たぬ人々は、強大な力を保持する龍鬼に恐怖を感じているのさ。攻撃された経験はなくとも、ただそこに龍鬼がいるだけで、怖い。だから過剰防衛するのだろう。だが、龍鬼はみんなに憎まれているわけではない。運動能力に優れているので、戦場では即戦力で重宝される。どちらの軍も、龍鬼は喉から手が出るほど欲しいはずだ。だからあの手裏兵も執拗だった」

「…眞仲は空、飛べるのか?」
 ずっと気になっていた質問をした。その背中の翼は、飾りではなく使用可能なのか?
 眞仲は、子供の質問のように感じたらしく。小さく噴き出した。
「ふふ、もちろん飛べるさ」

「だったら、龍鬼と同じだろ。空を飛べる。地震や火は無理でも、飛ぶ能力は…」
「紫輝は…龍鬼がなんで怖がられているのか、理解できないんだな? だから、そんな悲しげな顔をしている。うーん…この世界では、みんなが飛べる。翼を使ってね。でも翼を使わずに空を飛ぶことはできないよ。龍鬼は翼を使わずに空を飛ぶが。その原理が目に見えないから、得体が知れなくて怖いんじゃないかな? 火を操ることも、地を揺らすことも、大き過ぎる能力だから。龍鬼は恐れられる、特別な存在なんだよ」

「大多数の人が出来ないことを出来るのは、優れているということなんじゃないのか? その優秀で特別な人物を、なんで怖がるの? 姿を見ただけで怖がったりしないで、仲良くすればいいのに…」
 どうにも納得できなくて、紫輝はつい唇をとがらせてしまう。

「なんでだろうね。俺にもさっぱりわからないよ。紫輝なんか、こんなに可愛くて優しいのにな?」
「や、優しい…かなぁ」
「紫輝は龍鬼じゃないのに、龍鬼の心配をしているんだろう? 優しいじゃないか」

 ポンポンと、眞仲の大きな手に頭を撫でられて。紫輝はさすがに照れてしまった。
 その照れを誤魔化すため、話を変えた。

「あのさ、眞仲の羽って大きいよね? 村人たちは、みんな小さな羽だったよ」
 眞仲の翼は漆黒で、とても美しい。
 真っ白なライラでさえ、頭に黒い毛が二本ほどあるのに。
 でも眞仲の翼には、黒以外の要素がない。
 三十センチはありそうな風切り羽根は、角度によって光の線が移動する。

「俺の翼は、カラスとハクトウワシの掛け合わせだ」
「えっ、鳥人間なの?」
 実際に鳥類の名前が出てくると思わず。紫輝は純粋にびっくりした。

「鳥人間というのは…耳障みみざわりが悪いな。有翼人種と言ってくれ」
 眉間にしわを寄せ、眞仲がちょっと嫌そうな顔をする。
 確かに鳥人間だと、頭が鳥っぽい感じがするな? 
 ハロウィンの仮装で、頭にニワトリの着ぐるみ被っていた人を紫輝は脳裏に思い描いてしまう。

「紫輝の世界では、羽のある人物はいないと言っていたが。この世界では、鳥類が起源の人種しかいない。翼の形や髪の色を見れば、どの鳥の子孫であるか大体わかるものなんだ」

 意識して鳥の観察なんかしたことがないので、紫輝には鳥の知識があまりない。
 だからカラスはわかるが、ハクトウワシというものがどんな鳥なのか想像できなかった。
 でもワシというからには、大きな鳥なのだろう。それくらいは推測できる。
 うなずく紫輝に、眞仲は続けて説明していった。

「俺の翼は大きいから、村人たちよりは高く飛べる。飛翔能力は羽の大きさによって異なるんだ。小鳥は短い距離しか飛べないが、トンビは長く空にいられるだろう? それと同じだ」
「そうか、鳥ってずっと飛んでいるんじゃないんだ」
「そんなことも知らないなんて…紫輝は本当に、違う世界から来た人なんだなぁ?」
 ハハッと眞仲は軽く笑った。

 紫輝が知っている鳥は、カラスやスズメ、一時期ブームになった鷹やフクロウ。
 そしてちょっとだけ印象深い…カッコウとホオジロ。
 そんな、指で数えられるくらいだ。
 だから、多分。誰と会っても、どんな鳥が起源かわからないだろう。
 でも頭の中でクイズみたいに考えるのも、悪くないかもしれないな。

「だが、みんな滅多に空なんか飛ばないぞ? 普通に生活している中で、用途はほぼないし。胸筋を鍛えないと長く飛び続けられないからね」
 羽を動かすのは、単純に考えて背筋だと思っていた。
 だが、胸の筋肉を鍛えると聞き。妙にリアルで、納得できる。
 早く走るのにも、長距離か短距離で鍛える筋肉が違うという話を聞いたことがある。
 ふと思い返せば、鳥ってみんな胸板が厚い。鳩胸って、そういう意味だったような?

「でもたまには飛ばないと、退化して飛べなくなっちゃうんじゃない?」
「実際に、翼の小さい小鳥系や運動の苦手な者は、飛べなくなった者もいると聞く。退化して、淘汰される人種なのかもしれないな?」

 さらりと眞仲が怖いことを言うので、紫輝は目を丸くした。
「そんな。他人事みたいに言うなよ」
「他人事だよ、俺は飛べるから問題ない」
 にっこりと爽やかに笑って言われ、紫輝は『そういうの、良くないと思う』とつぶやいた。
 眞仲は、どうやらちょっと意地悪で、クールだ。
 自分に関係ないことなら『我関せず』という態度が垣間見れる。

 たとえば、ライラが倒した手裏兵も。その場に放置した。
 まぁ紫輝も、殺されかかったこともあって何も言わなかったけれど。

 それに姫抱っこの件も。からかわれたこと、忘れない。意地悪案件だ。

 でも、その少しの短所を大きく上回る、優しさや思いやりを見せられているから、悪い印象にはならないのだ。
 逆に、完璧な人物に少しの欠点があると。人間味が増す。
 そのギャップが魅力的、みたいな。

「でも、そうかぁ…眞仲は空が飛べるんだな。いいなぁ、気持ち良さそう。俺なんか、当たり前に空飛べないし、龍鬼じゃないから地震も起こせない。人に羽がついていない世界から来た、なんの取り柄もないただの人だ」
 言っていて、気分が滅入ってきた。
 いったいどうやったら元の世界に戻れるんだろう?
 どんどん、焦りばかりが募っていく。

 突然、元気のなくなった紫輝を。
 眞仲が、気の毒そうな目でみつめていた。

「あのさ、考えたんだけど。さっき、大きな手に掴まれたあと、ここにいたって言っただろ? その手が、紫輝をここに連れてきたんだよな?」
 それが事実なので、紫輝はうなずく。
 でもその言葉の中に、引っかかる感覚がある。なにか…ヒントのような。

「もしそれが人の仕業なら。そんな常人離れしたことをやってのけるのは、この世界には龍鬼しかいない。いや、龍鬼にそれほどの能力があるのか、会ったことがないからわからないのだが。でも、ただの人間にはできないことだと思うんだ」

 彼の言葉に、紫輝は、脳内が輝くほどのひらめきを感じた。
 この事態を解決する糸口。
 自分たちが異世界に引っ張られた、正体。やはり、召喚者がいたということだ。

「そうかも。うん、きっとそうだ。龍鬼が召喚者なんだっ」
 ずっと霧の中をさ迷っている気分だったが。
 パッと視界がクリアになったかのように、謎がひとつ解消された。

「もしここに俺たちを連れてきたのが、龍鬼なのだとしたら。元の世界にも帰れるはずだよな? 龍鬼に会えれば、帰れるってことだ。ライラ、帰れるぞ、うちに」
 光明を感じ、紫輝は嬉しくなって、そばで丸くなって寝ているライラの馬鹿でかくなったお尻に抱きついた。

 もしかしたら、自分は夢を見ているだけで。一度寝たら元の世界に帰っているかもしれないけれど。
 たとえ夢でなくても、龍鬼に会いさえすれば、きっと帰れるはず。

 笑顔でいっぱいになった紫輝の肩を、眞仲が優しくポンポンと叩く。
「元気になって良かった。そろそろ夕飯にしよう。作るから待ってて」
「あ、眞仲、俺も手伝うよ」
「今日はいいよ。大変な目にあって疲れただろう? 明日は手伝ってもらうから、今は休憩していて」
 音を立てない上品な仕草で、眞仲は立ち上がり。台所のある土間に降りた。

 確かに、いっぱい走って山を上り下りしたから、疲れているし。
 本来なら、とっくに夕飯を済ませている時間だから、お腹も空いていた。
 紫輝は眞仲の好意に甘えることにして。ライラに話しかける。

「なぁ、ライラ。ここって異世界だと思うか?」
 ライラは勝手知ったる家のように、囲炉裏の前で足を投げ出して寝ていたが。
 紫輝の声に、頭を上げる。
 猫なのに、若干垂れ目の彼女は。目をキリッとさせ、口を開いた。

「あたし…むずかしいことはわからないわぁ」

 思わせぶりの割に、わからないのかっ。とツッコミたいところだったが。
 真面目顔のライラが、可愛いから。ただ頭を撫でてやった。

「そっかぁ、わからないかぁ。じゃあ、やっぱり。これは夢なのかもしれないなぁ?」
 独り言に近い感じで、言ったのだが。
 ライラはまたもや目をキリッとさせて、言う。

「夢、ではないわ。あたしぴくぴくしてないもの」
 猫は寝ているとき、顔やひげや、耳や、ありとあらゆる場所をぴくぴくさせることがある。
 そのとき、夢を見ているのだと言われている。
 猫は、夢を見る生き物なのだ。

「本当か? 本当にぴくぴくしていないのか?」
 紫輝はライラの口元の肉厚な部分を揉んだり、ひげを撫でたり、眉間をぐりぐりしたりした。
 ライラは『おんちゃんやめてぇ』と言いながらも、気持ちが良いのかゴロゴロと喉を鳴らす。

「ご機嫌だな、ライラ」
 そういう紫輝も。ライラを撫でていると家にいるかのようで、心が落ち着く気がした。

「あたし、ポンポン痛くなくなったの。体はでかいけど、かるくていいわぁ」
 その言葉に、紫輝はハッとした。
 老猫だったから、ライラは体が弱かったのだ。
 いたわる手つきで、紫輝はライラを撫でる。

 ライラは、父が結婚する前から間宮家にいた猫である。
 そんな年老いた体だったのに、自分が抱いていたばかりに異世界に渡ってしまった。
 無理をさせて、以前よりも体の具合が悪くなったらどうしようと、本気で心配している。

 紫輝は五歳のときに、間宮家に引き取られた。
 当時のことを、紫輝はほとんど覚えていない。
 両親の話によると、口数も少なく誰にも懐かずに、いつもひとりでいたらしい。

 そんな紫輝に、ライラはそっと寄り添ってくれたのだ。
 ライラばかりずるいぞ、と言って。次に弟が寄り添い。
 そして両親は、紫輝が心を開くまで優しく見守ってくれた。

 紫輝と、両親と弟をつなぐ、かすがいのごとき役割を果たしてくれたライラは。紫輝にとって、とてもとても大切な存在だ。
 だから近年すぐに下痢をしていた彼女が、腹痛を感じないというのは。
 紫輝にはなにより嬉しい出来事だった。

 体が大きくたって、生気が食事だって、なんだって構わない。
 それで、ライラの体が楽になるのなら。

 ライラが生きていてくれるなら。

 夜の食事をとったあと、眞仲は当たり前のように紫輝たちを家に泊めてくれた。
 右も左もわからない世界で、ひとりで行動する勇気はさすがになく。紫輝はありがたい申し出をしてくれた眞仲に、感謝する。
 感謝、してもしても、し足りないよぉ。

 その夜、紫輝は夢を見た。
 元の世界に戻った、夢だ。天誠に異世界の話をしている。
 人間に鳥の翼がついているのだと言ったら。変な夢を見たなと弟は笑った。
 そして自分も、変な夢を見たと言って笑っているのだ。

 でも心の片隅で。この翼を持つ人間たちの世界が、今の現実だと理解していて。
 この世界に、天誠が来ているだろう恐れや不安を持っていた。

 あの、大仏の手みたいなものが、自分たちを掴む前。紫輝は天誠に抱き締められた。
 その感触は、確かに覚えている。
 そして自分が抱っこしていたライラは、今ここにいる。

 弟は巻き込まれていない。無事に、元の世界で元気に過ごしている。
 そう、思いたいけれど。
 ライラが紫輝と一緒にこの世界に来てしまったから。その場にいた天誠が巻き込まれてしまった可能性は…かなり高い。

 天誠は自分よりも運動神経が良く、体格も立派で、頭脳も明晰だ。
 自分なんかよりうまく立ち回れる。
 そう思っているのだが。
 家族として、紫輝はただただ心配していた。

 もし、この状態が。本当に夢でないのなら。
 今までの常識が通用しないこの世界で、天誠をひとりにしておけない。
 天誠だって、翼がないのだから。
 きっと龍鬼に間違われて、苦労している。早く探し出してあげなければ…。

     ★★★★★

 眠りが浅かったものの、紫輝は一応寝て、起きた。
 しかし目が覚めたら元の世界に戻っていた…という展開にはならず。
 地味にへこむ。

 それよりも、隣で寝ていたライラがいなくて、ちょっと焦った。
 もしかしたらあのライラも、自分が寂しすぎて見た幻影なのかと思って。

「おっはよう、おんちゃん」
 するとのんきな挨拶とともに、ライラが外から土間に入ってきた。
 足取りも軽やかな、でっかい猫である。

「紫輝、おはよう。よく眠れたか?」
 ライラに続いて、眞仲も家に入ってきた。
 自分を助けてくれる、弟に似た眞仲と。でっかいライラ。
 ふたりと出会えたことが夢じゃなくて良かったと、紫輝は心底ほっとした。

「おはよう、眞仲、ライラ。びっくりしたよ。起きたら誰もいないから、昨日のことも全部夢かと思った」
「驚かせてごめん。昨日の手裏兵の様子を見てきたんだ。紫輝を龍鬼だと思っているだろうから、奪いに来るかと身構えていたいたんだが。もういなくなっていたぞ。このままあきらめてくれたら良いんだが…」

 手裏兵がまだ紫輝を狙っているかもしれないと聞き。昨日襲われたときのことを思い出す。
 振り上げた刀が、にぶい光を放っていた。
 刀を持った集団がまた来たら、と思うと。ゾッとする。

「そのときライラも、なんかついてきたんだ。朝の散歩かな?」
「あのさ、俺じゃなくて、他に龍鬼っぽい人いなかった?」
 天誠もここに来ているかもしれない。
 そのことを、紫輝は一番心配していた。
 だが、眞仲は首を横に振る。

「いや、誰とも会わなかった。紫輝が気になっているのは、弟のことだろう?」
「あぁ、天誠っていう名前なんだけど。あの手が現れたときそばにいたから、巻き込まれているんじゃないかって、ずっと気に掛かっているんだ」

「そうか…弟のことは、あとで一緒に考えよう。とりあえず、朝食だ。お腹が空いていたら、探す元気もなくなるだろう?」
 台所で眞仲が川魚の下ごしらえをする。
 紫輝は昨日手伝えなかった挽回とばかりに、野菜を洗ったり食器を出したりした。
 すごく手際のよい眞仲に、紫輝は感心する。

 両親は人気芸能人なので、不在なことが多く。家政婦さんが昼間来ていた。
 だが彼女が帰ったあと、なにか食べたくなったときは。
 不器用ながら、紫輝が料理をしたものだ。
 絶対に、天誠の方が器用で、美味しいものが作れるはずなのに。
 天誠は紫輝の料理が食べたいのだと言って。台所にはほぼ立たなかった。
 だから天誠に雰囲気の似ている眞仲が、台所に立つ姿に。人知れず感動したのだ。

 囲炉裏があるところとは別の部屋に、食卓を出し。そこに、ご飯、野菜の味噌汁、焼いた川魚を並べる。
 異世界では食べ物が不味くて苦労するシーンが、よく出てくるが。
 この世界は、服も食べ物も純和風でラッキーだ。

 いただきますと言って、お味噌汁を一口。
 美味しい、と叫んだ。

「良かった。昨日あまり食べなかったから、口に合わないのかと思ったが。きっといろいろあって、食欲がなかったんだな? 食事が美味しいと感じるのは良い兆候だ。安心した」

 眞仲にいたわりの言葉をかけられ。紫輝は、思わず泣きそうになった。
 でもこれ以上、眞仲に心配を掛けたくなかったから。涙をご飯と一緒に飲み込んで、にっこり笑う。

「心配かけてごめん。もう、大丈夫だよ」
 川魚は、ちょっと苦かったけれど。紫輝は朝食を残さずに食べた。

 その後紫輝は、眞仲の仕事の手伝いも買って出た。
 サンダルと靴下が昨日ダメになってしまったので。外に出るとき、紫輝は眞仲に足袋とわらじを貰った。

 足袋は、天誠が通う道場に付き添ったときに履いたことがあるが。
 わらじは初挑戦だ。
 履き方を一から眞仲に教わった。
 大中小あるらしいが、大人はほぼフリーサイズらしい。
 足首に縄を縛るタイプなので、絶対脱げないし。足の裏が地面を掴む感触があって、意外としっくりきた。

 仕事は、眞仲が木材を切り分け、紫輝が焚き木をまとめて縄で縛る、というものだ。
 黙々と手を動かしながら、紫輝はこれからどうするか考えをまとめていった。

 まずは、元の世界に戻る努力をする。
 天誠を探し出し、ここでどう行動するべきか知るために、情報も集め。
 龍鬼にも会いに行く。
 することは山ほどある。

 けれど、この世界で一番にすることは、眞仲に恩返しすることだ。
 命を助けてくれて、知らないことをいろいろ教えてくれて。

 会ったばかりの自分に、すごく親切にしてくれた。

 自分が彼から与えられたものは、とてつもなく大きくて。
 仕事の手伝いくらいでは、感謝の気持ちをちょっとも返せない。
 とにかく、できることはなんでもしたいと思っていた。

「なぁ、紫輝。焚き木を売りに山を降りるんだが。村人に弟のことを聞いてみようと思うんだ。天誠には、なにか特徴があるか?」
 眞仲にたずねられ、紫輝は弟の姿を思い浮かべながら説明した。

「天誠はぁ、俺より一歳下で。でも大人びているから、いつも俺が年下だって思われていたんだ。背は俺より頭ひとつ分高い。眞仲より、ちょっと低いくらいだな」

 身長を説明するのに、紫輝は眞仲の横に並ぶ。
 紫輝の頭のてっぺんが、彼の肩に届いていなかった。
 やっぱり眞仲は大きいなと、改めて感じる。
 肩幅が広く、胸板が厚い。けれどゴリラみたいに筋肉ムキムキではなく。バスケット選手のように、高い身長に、相応の引き締まった筋肉をまとっている。
 …うらやましいなぁ。

「で、もちろん翼がなくて。あっ、髪が金髪だから目立つんじゃないかな? 目もすっごく綺麗な青色なんだ」
「金色は黄色に近い色だろう? インコの種には、黄色の髪の色の者が多い。目も青や赤色がいるから、ここではそう珍しい色じゃない」
 その指摘に、紫輝はカルチャーショックを受けた。

 以前の世界…というより日本では、天誠の鮮やかな金髪はすごく目を引いたから。絶対的特徴だと思ったのだ。
 でも、そう言われれば。初めて会った村人は、紫輝にとっては珍しい灰色の髪だった。

 紫輝はうーんと唸り。もうひとつの大きな特徴を思いついた。
「そうだ、眞仲に似ているんだ。えーと、眞仲を金髪にして、短髪にして、年を若くしたら。そんな感じ」
 眞仲はきこりをしているから、少し日に焼けていた。なので、肌の色ももう少し白かったらぁ…と紫輝が言うと。
 眞仲は苦笑いした。

「それって、似ているって言うのかい?」
「目鼻立ちがそっくりなんだよ。声も。普段すっごく優しいのに、たまに意地悪なとこも…」
 突然、なんだか目頭が熱くなった。
 天誠を探し出すために、特徴をちゃんと伝えないといけないのに。
 思い浮かぶのは、天誠の笑顔や仕草や、あのときこんなことを言っていたとか、そんなことばかりだ。
 今どこにいるのか?
 なんで、そばにいないのか?
 俺を守ると言ってくれたのに…なんで。

 天誠がいないことの焦燥や悲しみが、一気に紫輝に襲い掛かっていた。

 嗚咽が漏れそうで、紫輝は一度口を閉じる。
 でも彼に、この寂しい気持ちが伝わってしまったのかもしれない。

 眞仲は仕事の手を止めて、紫輝をそっと抱き寄せた。
「弟のこと、思い出させちゃったな? 会えなくて、寂しい?」
 穏やかな声で眞仲に聞かれ、紫輝は彼の胸の辺りで小さくうなずく。

「寂しいに決まってんだろ。俺、俺は…ひとりで。寂しくて、わけわかんない」

 寂しい気持ちとは別に、紫輝の中をぐるぐると渦巻く、複雑な感情があった。
 兄なんだから、弟を心配するのは当たり前。
 でも、なんでもすぐに理解してこなしてしまう天誠に、本当はいつも紫輝の方が頼っていた。

 弟に、守られていた。

 そんな彼と離れ、ひとり残されて。
 心細くて。
 今ここにいない天誠に、理不尽な怒りまで湧く。
 そんな己の器の小ささに、自己嫌悪していた。

「眞仲…俺、怖いんだ。すっごく…怖い」
 おののき、しがみついてくる紫輝。その背中を、眞仲は大きな手のひらで優しくさすった。

「紫輝はひとりじゃない。俺がそばにいる。ずっと、ついていてやる。なにもわからなくて不安なら。知っていることは全部教えてやるから。ほら、紫輝がそんなに悲しい顔をしていたら、ライラも悲しくなってしまうよ」
 言われ、地べたに丸くなって寝ているライラを紫輝は横目で見る。

 彼女に、紫輝が動揺しているところは見られていない。
 けれど、すぐに気持ちを浮上させることが出来ず。
 つい眞仲の胸に、顔をうずめて隠してしまう。

 眞仲は背に腕を回してぎゅっと抱き。ライラに見えないよう、紫輝を隠してくれた。

 自分の体がすっぽりと収まる。大きな眞仲に、抱き締められていると。物凄い安心感にひたれる。
 本当は、そんな場合じゃないのに。
 この状況から早く抜け出すために、動き出さなくちゃならないのに。
 切羽詰って…いるのに。

「弟がいなくて、紫輝がそんなに寂しいのなら…俺が家族になるよ」
 そんなことをさらりと言う眞仲に、驚いて。紫輝は彼の胸から顔を上げた。
 すると、優しげな色をにじませる彼の瞳が紫輝を見下ろしていた。

「我ながら良い考えだ。家族っていうか…お嫁さんだな? そうだ、紫輝を俺の嫁にすればいいんだ」
 とんでもない提案に、びっくりするが。
 おおらかな感じで、うなずいているから。なんとなく彼流の冗談なのかと思う。
 けれど、自分の不安を和らげようとしてくれる彼の気持ちは、よく伝わった。
 心が弾むような嬉しさが込み上げ、紫輝はフフッと笑いながらツッコミを入れた。

「嫁って…俺は男だよ」
「男なら、そんな細かいことにこだわるな」
 ツッコミ返しをされ、紫輝は、今度はハハッと大きく笑った。
 眞仲はそんな紫輝の両肩に手を添え、真正面からしっかり目をみつめて、告げた。

「紫輝、俺の家族になってくれ。もちろんライラも一緒に。みんなで、ずっと一緒にここで暮らそう。手裏も将堂も俺が追い払ってやるから」

 兵士に狙われた紫輝は、厄介者だ。
 龍鬼を得るために、兵が大人数で押しかけてくるかもしれないのだ。

 本当なら、眞仲に早く出て行けと言われてもおかしくない。
 なのに。真剣な顔で言ってくれた、その申し出がありがたくて。
 涙をこらえたら、眉が下がってしまった。

「もう、なんでそんなに優しくしてくれるんだ。俺、羽ないし。異世界から来たなんて、自分が誰かに言われたらドン引きするようなこと言ってんのに」
「紫輝は良い子で可愛いから、なんか放っておけないんだ」

 そして眞仲は言いにくそうにしながらも、さらに続けた。
「それに、今の世情で龍鬼として生きていくのは。紫輝が想像する以上に過酷だと思う。軍は龍鬼を欲しているが、世間の人々は龍鬼を恐れている。宿に泊まることも、食料を調達することもできないだろう。もちろん、紫輝は龍鬼ではない。でも他人はそれを知らないから。話も聞かずに攻撃してくる者も多いはずだ」
「そんなに?」
 石を投げられた記憶が、紫輝の脳裏によみがえる。

 眞仲が普通に接してくれるから、つい龍鬼の不遇を忘れがちだし。
 そもそも自分は龍鬼ではないので。龍鬼への扱いが自分に返ってくることを、まだ実感できない。

「そんな中で、君がひとりで生きていけるわけがない。でも、俺が紫輝を守るよ。ここにいるなら、他の誰にも手を出させたりしない」
 紫輝は眞仲の言葉にハッとし。それをグッとのみ込んだ。

 ここを出て行けば、羽がない紫輝を、誰もが龍鬼だと思うだろう。生活が困窮するのも想像できる。
 眞仲と暮らせば、きっとそんな苦しさは味わわずに済むはずだ。

 でも。今、眞仲に『守る』と言われ。
 紫輝は、天誠の『兄さんは僕が守る』という口癖を思い出した。

     ★★★★★

 小学生のとき、天誠は軽いいじめを受けたことがあった。
 一学年上の紫輝は、天誠の精神的な支えとなり。友達との仲直りも手助けしたのだが。
 それ以来弟は。兄を大いに尊敬し、何事も最優先するようになってしまった。

 紫輝よりも体格が大きくなると『兄さんは僕が守る』と言い。
 どんな場面でも対処できるよう。柔道や剣道などの武術を身につけ、体を鍛えた。
 中等部に入学して、すぐに生徒会長に上り詰めたのも。教師が注目するほど、優秀な成績だったのも。すべてが紫輝を守るための天誠なりの武器だったのだ。

 誰よりも頼りになる、出来過ぎな弟…。

 紫輝は、天誠を探し出せないうちは、眞仲の申し出を受け入れられないと思った。

     ★★★★★

「ごめん。すぐ、返事できない」
 紫輝の返事がショックだったのか。眞仲はピクリと翼を動かした。
 でも、表情は柔らかく微笑んでいる。

「わかった。でも、紫輝はもう俺の家族だから。遠慮はするなよ? これからのことは、ゆっくり考えていこう」
 紫輝の気持ちを一番に考えてくれる眞仲は。精神的に大人なのだなぁと紫輝は感じた。
 会う人会う人みんなが、自分に敵意の視線を向けてきた。
 そんな中、これほどに自分を受け入れてくれる存在は、とてもありがたいものだ。

 彼の頼もしさに、どっぷりと甘えてしまいたくなる。
 自分を気遣ってくれるその優しさに、報いたいとも思う。

 けれど、天誠のことは最優先で考えなければならない。

 夢見が悪いくらいで兄の布団にもぐり込む、図体ばかり大きい甘ったれの弟。
 まだ離れて一日も経っていないが。
 天誠が、懐かしかった。
 ずっとそばにいてとせつなげに言った、あの弟に早く会いたい。
 紫輝はここで穏便に暮らすのではなく、どうしても元の世界に戻りたかった。

     ★★★★★

 山の下の村に焚き木を売りに行った眞仲が、天誠のことを聞いて回ってくれたらしい。
 でも、目撃情報はゼロだ。
 黒髪で小さい龍鬼なら見た、と言われたようだが。

 小さくねぇし!

 それはともかく。それを受け、心を決めた紫輝は。
 夕食のあと、眞仲に己の考えを切り出した。

「龍鬼として、軍に入る。軍に入れば俺でも、この世界で暮らしていけると思う」

 いつも冷静で穏やかな眞仲が。珍しく驚いたような顔で、紫輝を見た。
 囲炉裏の火が、バチリと弾け。
 心を落ち着けるかのように、火箸でまきをかく。

「確かに、軍に入れば生活が保障される。いろいろ支給も出るだろうけど…でも軍に行くなんて。ここにいればいい。わざわざ危険な場所に行くことないだろう?」

 引き留める眞仲に、紫輝は首を振る。
 彼は、守ると言ってくれたけれど。
 外見が龍鬼である紫輝を捕まえに。あの兵士が、いつここにやってくるかわからない。

 早く出て行かないと、本当に眞仲に迷惑をかけてしまうのだ。

「眞仲には、とても感謝している。俺が龍鬼じゃないと知る前から、俺のこと友達だと言って、かばってくれた。君は命の恩人で。俺にとって本当に大切な人だよ。でも、だからこそ、これ以上は甘えられない。明日山を降りて軍に入る。もう決めたんだ」

 床板に手をついて、紫輝は深く眞仲に頭を下げた。
「今まで、ありがとう…」
「簡単に言うな。軍に入ったら、殺し合いをするんだぞ?」
 固い声を出して眞仲が言うから。
 紫輝も、顔を上げて答えた。

「でも、軍に入ったら天誠がいるかも。いなくても、龍鬼の情報が早く入るだろうし。あと、俺たちをここに連れてきた龍鬼に会って、どういうつもりか問いただしたいし。元に戻してほしい。殺し合いなんかする前に、さっさとケリをつければいい」

 紫輝は日本で暮らしていたから。軍隊のイメージは、自衛隊だった。
 訓練はしても、戦闘が常にあるわけではない。
 だから戦に駆り出される前に、すべてを解決して。元の世界に戻れば良いと思っていたのだ。

「それは、甘い考えだ。軍はふたつあるんだぞ? 手裏と将堂。紫輝が選んだ方に天誠がいなかったら? いたとして、その軍にいる龍鬼が首謀者じゃなかったら? 首謀者だったとしても、龍鬼というのは軍の要で、上官職の場合が多い。入軍したての紫輝がやすやすと会える立場じゃなかったら、どうするんだ? その間、戦には出ませんなんて…そんなれ言は、聞き入れられやしないぞ」

「えっと、もし危ない感じになったら、ライラに生気を吸ってもらえば誰も殺さないで済むだろう?」
「ライラを連れて軍に入るのか? 紫輝はどうやって戦場で戦うつもりなんだ? それに、紫輝自身が殺されるかもしれない…そのことを、ちゃんと考えたのか?」

 怒る勢いで眞仲に説得され。紫輝も、どうしていいのかわからなくなって。黙り込む。
 眞仲の言葉は正論だ。
 そして、紫輝は。そこまでは全く考えていなかった。

 戦争や紛争は、紫輝の世界にもあった話。だが、ニュースで見るだけの遠い出来事だった。
 平和な日本で暮らしていると、戦争を怖いとは思うが、自分が死ぬことまでは考え及ばないものだ。
 モンスター相手に剣を振り回すゲームなどもあるが、それは実際に自分が剣を振るわけではなく。
 殺されたとしても、自分には傷がつかない。

 なんとなく、ここがゲームのような世界で。一歩踏み出せば、なにもかもうまくいく。天誠にも合流できて、やることやったら元に戻る。そんな楽観的な感覚を持っていたのだ。

 でも、きっと。殺されたら、死ぬ。

 手裏兵に刀を振り上げられたとき、当たったら死ぬと戦慄した。
 あの感覚は、おそらくリアルなのだ。
 つまり自分も、誰かを殺したら、その人物は死ぬ。
 軍に入ったら、生きるか死ぬかの日常になるということだ。

 天誠には会いたい。会わなければならない。
 探し出さなければ…でも、軍で殺し合いができるのかという眞仲の言葉に、おののきしか感じない。

「あたしがおんちゃんを守るわぁ」
 互いに口を閉ざす、冷たい空気の中で。
 ライラが突然声を出し。空中で一回転した。
 するとカラリンという軽い音とともに、包丁が出てきた。
 柄と刃の境目に白いふさふさした毛と、ライラの瞳の色と同じゴールデングリーンの宝石がついている。
 彼女が変化した証だった。

「ライラ、刀のつもりなら、もう少し大きくないと」
 苦笑いして、紫輝が言うと。ライラはみるみる大きくなって。床から紫輝の腰の高さほどもある、でかい包丁になった。
 紫輝は柄を握ってみる。大きさの割に、全く重くない。

「わっ、軽い。ライラが生気を吸う間、この剣を構えていれば良いんだ。うん、この大きさならみんな怖がって、そばに寄って来ないかもしれないし。これなら大丈夫じゃないか? 眞仲」
 紫輝は笑顔で、眞仲に同意を求めたが。
 彼は表情をゆるめなかった。

「確かに、軍は龍鬼を求めているから、村にいるより待遇はいいかもしれない。でも世間一般の龍鬼への差別観は、そんなに甘くないぞ。仲間に、紫輝は受け入れられないかも。力だけを利用されて、使い捨てられる可能性もある。紫輝の心も体もきっと傷つくよ。それでも行くのか?」

 龍鬼として振舞うことのデメリットを、眞仲がこんこんと説いて聞かせる。
 家族のように、親友のように案じてくれる眞仲の心根に、胸を打たれるが。
 紫輝はしっかりうなずいた。

「ここで眞仲と暮らすということは、なにひとつ抵抗することなく、この世界で生きると決めることだ。俺は…天誠がここにいないと、結論づけられない。強い龍鬼に会うことが出来たら元の世界に帰れるかもしれないのに、会わずにその可能性を潰すことはできない。戻る努力をしないで、ここで立ち止まったら。眞仲と幸せに暮らせても、きっと胸のもやもやは晴れない。ずっと後悔する。そんなの、嫌だ」

 感極まって、紫輝の目に涙がブワッとあふれ出た。

 この世界に来て、眞仲は初めて優しくしてくれた人だ。
 感謝しても、し足りないのに。
 眞仲の言うことなら、なんでも聞きたいと思っているのに。

 だけど、ここから動かないという選択肢だけは。どうしても選べなくて。

 紫輝はどんどん出てくる涙を腕で拭った。
「もう…泣くくらいなら、行かなければいのに」
 あきれた口調で言う眞仲を、紫輝は鼻をグスリとすすりながら、みつめた。
 眞仲は眉尻を下げていて、どこか寂しそう。
 でも、いつもの素敵な微笑みで紫輝を見やった。

「わかったよ。紫輝は龍鬼に会わなければならないんだね? 両親が死んでから、ずっとひとりでここに住んでいて…紫輝は良い子だから、ここで君と生活できたら楽しいだろうなって、思っちゃったんだ。引き留めて、困らせて…ごめんな」

「そんなことない。俺も、もし俺だけがここに来ていて、帰る手立てもないような状態だったら。絶対眞仲とここで暮らすことを選んでいた、と思うから」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔を、ぶんぶん振って。眞仲は悪くないと表す。
 すると眞仲は紫輝の頬に手を当て、額と額をそっとくっつけた。

「本当に、そう思ってくれる? 嬉しいな。だったらたまには俺のこと思い出してくれるか?」
「当たり前だろ。だって…眞仲は俺の家族だから」
 距離の近さに、紫輝は頬を火照らせる。
 でも紫輝の言葉に、眞仲が幸せそうな顔で笑ったから。
 紫輝も嬉しくなって、笑った。

     ★★★★★

 眞仲の家の裏手にある焚き木置き場からは、周囲の山並みが見渡せた。
 まだ朝日が完全に上っていない。
 山間にたなびく朝霞あさかすみが。赤紫色をしている頃。
 紫輝とライラ、そして案内を買って出てくれた眞仲は、山を降りるべく足を踏み出した。

 頭のてっぺんから膝下まですっぽりと被るタイプの黒いマントを、眞仲は紫輝に着せた。
 体のラインや背中も隠れるので、羽なしでも目立たない。

「山を伝っていけば、おそらく兵士に会わずに軍の基地まで行けるだろう。それで、紫輝は手裏と将堂、どちらの軍に行くか決めたか?」

「…将堂にする」

 紫輝は昨夜、戦のことや手裏軍と将堂軍の特性のようなものを、眞仲に教えてもらった。
 この世界では、大きな領地を持つ手裏家と将堂家が。およそ百年にわたる長い年月、戦をしている。
 手裏家は、カラスの種が多く。領土を広げようと猛進していて。
 将堂家は、ワシの種が軍を率いているが。軍内部は多種多様。領地を守る、防戦の姿勢だ。

 龍鬼は双方に何人いるかは、わからない。
 しかし将堂軍には力の強い龍鬼がいる、という噂を聞いたことがある。
 龍鬼の情報は機密扱いらしく。軍は、詳細を表に出したがらない傾向にあるようだ…と眞仲は説明した。

 紫輝はその話を聞いて。ひと晩よく考え、将堂軍に行くことを決めた。
 初めに、手裏兵に襲われて怖い思いをしたというのもあるが。
 一番の理由は、噂になるほどの強い龍鬼が将堂にいるということだった。

 龍鬼にどのような力があるのか。それは会ってみなければわからない。
 でもとにかく、異世界から人間を引き寄せられるくらい、強力な力を有する龍鬼に今すぐ会いたいのだ。

「なら、こちらの方角だ。近隣は将堂の領地だから、基地までは半日で着くよ」
「なぁ、眞仲はここいらの土地を持っているのだから、領主ってことか?」
 眞仲の案内で山を下る中。紫輝は、質問を繰り出す。
 まだまだ、この世界の情報は足りない。

「俺は土地を持っているが、その中に住民はいないので、領主ではない。手裏や将堂は、自分の土地に人を住まわせ、彼らが営みの中で儲けた金銭の内の二割を徴収して、生業なりわいにしている。俺のように自給自足をする土地持ちは、ほんのわずかで。大概が、手裏か将堂の土地に住み、税を納めて暮らしている。戦になっても守ってくれるからな」

 不安定な世情だから『守ってやるから金払え』みたいな仕組みが成り立つのかなと、紫輝は思う。
 紫輝の世界でも、税金はあったし。その税金は快適な暮らしのため、社会の円滑な運営のために使われていたのだろうから、こういうのもアリなのだろう。
 領地経営のような話は、紫輝には少し難しかった。
 そうなんだ、と思うだけだ。

「おい、あいつじゃねぇか? 龍鬼のガキ」
 背後から声がして、振り向くと、黒羽の兵士がこちらを指差していた。
 先日の手裏兵だとわかり、紫輝たちは慌てて逃げる。
 追手は援軍を呼んでいたのか、八人ほどが連携して紫輝を取り囲んだ。

「ライラ、吸えるか?」
「あい」
 ライラは可愛らしい返事をしたあと、まるでライオンみたいにガオーッと叫んだ。
 逆立つライラの毛から、白い煙が立ち上り。手裏兵の体に襲い掛かる。
 それだけで彼らは腰砕けになり、倒れた。

 彼らに追う力はないとわかったが。怖いから、紫輝たちは全力でその場から逃げ出した。
「なぁ、俺を逃がしたら、あとであの人たちに怒られるんじゃないか? 眞仲に迷惑が掛かったら、俺…」
 気掛かりを口にする紫輝の背中を、眞仲は走りながらもバンと叩く。

「大丈夫。地主の発言力は、それなりにある。それに俺は、昔から鬼ごっこが得意だ」
 チャーミングなウィンクを投げて寄越す眞仲に、紫輝は胸を高鳴らせた。
 心根も姿かたちも、強く、優しく、美しい。
 紫輝のすべてを受け止めてくれる、懐深い眞仲に。紫輝の心は大きく揺さぶられずにはいられなかった。

 その後は、兵に会うこともなく。無事に山を降りた。
 人目を避けながら基地へと移動していく。

「誰かが俺たちを召喚したのなら。たぶん、目当ては天誠だったんじゃないかと思うんだ」
「なんでそう思うんだ?」
 道中、雑談でそんな話をした。

「だって、天誠は。本当に出来た弟なんだよ? 頭の回転が良いし、剣道も体術も極めている。ハイスペック…って、えーと通じないかな。有能? な、人材を選んで召喚するなら。断然、天誠だと思う。この世界に魔王はいないだろうけど、魔王を倒すくらいのことは簡単にやりそうだ、あの弟は…」
 鼻息荒く言う紫輝を見て、眞仲は小首を傾げる。
 会話する中で、どうやら英語やこの世界にないものは、翻訳されないみたいだと紫輝は気づいていた。
「マオウ? は、よくわからないが。紫輝は自分が求められたって、少しも考えないのか? 俺が召喚者なら、断然紫輝を選ぶけど」
「そんなことを言うのは眞仲くらいなものだ。俺なんか、運動神経はそこそこだけど成績は並だし。髪の毛ごわごわだし、女の子に極悪ノラ猫顔って言われたんだぜ」
「極悪ノラ猫顔って…とても可愛いと思う」
 そのとき、紫輝は。
 眞仲の美的感覚はヤバいくらい狂っていると。真剣に、心配になった。

「言いたいのはソコじゃなくて。天誠目当てで召喚したのなら、すでに軍内部に天誠が保護されているかもしれないってことだ。そうしたらきっと、すぐにも天誠に会える」
 能天気かもしれないけれど、その可能性は高いと思っていた。
 異世界ものでは、大抵主人公は手厚くもてなされるものだから。
 天誠が自分のように石を投げられたりしていなければいいと願っていた。

「でも、もし眞仲の山で天誠を見かけたら、俺に知らせてくれないか? すぐに迎えに行くから」
「わかった。必ず知らせるよ」
 日が傾く前に、紫輝たちは将堂軍の基地近くまで来ることが出来た。
 木の塀が、見渡す限り長く続いていて。途方もなく広い敷地なのだと、一目でわかる。
 塀から少し離れた位置で、眞仲が足を止めた。
 指をさして示す。

「あそこに門番がいるだろう。あれが基地の入り口だ。入軍志望だと言えば、すぐに入れてくれると思う。俺は…ここでお別れだよ」
 紫輝はマントを脱いで、眞仲に返し。彼に頭を下げる。

「ありがとう、眞仲。あの…本当に…」
 ありったけの感謝の気持ちを、口にしたかった。
 でもうまく表現できず、口ごもる。

 そんな紫輝の、下げたままの頭を。眞仲は大きな手でわしわしと撫でる。
 顔を上げると。わかっているという顔で、彼は何度もうなずいてくれた。

 そして眞仲は、ライラの前にしゃがみ込むと。彼女の広い額を手で撫でた。
「いいか、ライラ。紫輝のことを、一生懸命守ってあげるんだぞ?」
「あい。あたし、おんちゃんのこと守るぅ」
 口元の柔らかい部分を引き上げ、ライラはにっこりして見せた。

 ライラは、以前は。どちらかといえば、人見知りで。
 玄関チャイムが鳴るだけで、部屋の奥へ逃げていくタイプだったが。
 眞仲とは、ちょっとの間でずいぶん仲良くなったのだなと感じた。

 やはり、顔が天誠に似ているからだろうか?

 立ち上がった眞仲は、紫輝の前に戻る。
「紫輝に、ひとつだけお願いがあるんだ。俺の名前や俺のことを、将堂軍の誰にも、なにも言わないでほしい」
 真剣な顔で、眞仲が言うから。恩人の願いだから。
 紫輝はしっかりとうなずいた。

「わかった。絶対に、誰にも言わないと約束する」
 ホッとした様子で、彼は微笑みを浮かべた。
 そして背負っていた荷物を紫輝に持たせる。

 それは革製の大きなさやだった。

「これ、眞仲が作ったのか?」
「半日もなかったから、大分大雑把になってしまったが。ライラは、鞘までは変化できないだろう? ライラが剣になっても居心地良いように、頑丈に作っておいたから。良かったら使って?」

 紫輝はさっそく鞘を背負った。紫輝の背中全体を覆う、馬鹿でかい鞘だ。
 胸の前で斜め掛けする革のベルトになっている。

「ありがとう、大事にする。…ライラ」
 紫輝が呼ぶと、ライラはその場で一回転して、昨夜と同じ包丁型の大きな剣に変化した。
 その剣を手にし、背中の鞘に収める。

「ずっとついていてやると言ったのに、一緒に軍に入れなくて、ごめんな」
「わかっている。山の管理があるものな? 俺もそこまで我が儘言わない。むしろ、今までいっぱい世話になって…助けてくれて。本当に感謝している」

「もしつらい目にあったら…遠慮せずに、俺のところへ戻っておいで?」
 心配そうな表情を浮かべる眞仲を、紫輝は軽く笑い飛ばした。

「大丈夫さ。それより、俺が元の世界に戻れるように祈ってて」
「祈らないよ。俺は、紫輝が元の世界に戻れなくて、絶望して俺のところに帰ってくる。そんな、君にとっての最悪な展開を祈っている。紫輝とともに暮らせる日を、心待ちにしているよ」

 彼が本気で言っているとは思わなかったが。紫輝はちょっとむくれて見せる。
「もう、そういうところっ! 直さないと、マジで嫁が来なくなるぞ?」
「俺の嫁は、君だけだよ。紫輝」
 体に見合った大きな手のひらで。眞仲が紫輝の頭をがっしりとひと掴みし、豪快に撫で上げた。
 その流れで、紫輝の後頭部を彼は手のひらいっぱいに包み込む。
 指先を動かして耳をくすぐる、名残惜しそうな仕草をするから。
 その感触に…紫輝は、なんだか。胸の奥がギュッと痛むような感じになった。

「そうだ、宿代を貰わないと」
 そんなことを言われても、なにも持っていないとギョッとしたとき。

 紫輝のこめかみに、眞仲がチュッと音の鳴るキスをした。

 引き寄せる手の強さや、押し当てる唇の熱さ。
 顔の造作だけでなく、そんなところまで弟に似ているものだから。
 困惑と恥ずかしさと照れくささで、なんか胸が苦しくなる。

 この上もなく真っ赤な顔をした紫輝の、鼻をつまんで。
 眞仲は、ちょっと意地悪そうにニヤリとした。

「いってらっしゃい」
 突き放すように、眞仲の指が紫輝の鼻から離れる。

 そこで、紫輝と眞仲は笑顔で別れた。
 またね、とは言わない。
 過去に戻る。そのために、恩人であり家族にもなった彼と。別れ別れになるのだ。

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