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第一章 大迷宮クレバス

5話 様子のおかしい『静剣』サマ

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「戻ってこれましたね」

『静剣』アイリス・ブルームに助けられた俺は最短一直線に大迷宮クレバスをかけ登り。無事に外に出てくる事ができた。

「はぁ……はぁ……戻って……これた……?」

 ここまでノンストップで外まで迷宮を駆け上って来たことにより俺の心臓は今にも爆発しそうなほどに脈を打つ。
 足もガクガクと震えが止まらない。

 片や『静剣』様は汗ひとつかかず、呼吸も全く乱れていない。

「大丈夫ですか旦那様?」

 何ならこちらを心配できるほどの余裕ぶり。一体どんな鍛え方すれば深層から地上まで疲れずに走ってこれるんですかね?

「はぁ……はぁ……大丈夫……です……」

 膝に手を着いて何度も深呼吸する俺を見て彼女は心配そうに顔を覗き込んでくる。

「……っ!」

 真っ直ぐと見つめてくる彼女の深い蒼色の瞳と目が会った瞬間、さらに心臓の鼓動は速くなる。

「本当に大丈夫ですか旦那様?」

 思わずその瞳から目線を外すと『静剣』は不思議そうに小首を傾げながら再び視線を合わせてくる。

「あ……ほ、本当に大丈夫です!」

 視線が絡み合う度に俺の中の羞恥心が爆発しそうになり、無理やり顔を上げて目線を空にやる。

 迷宮に入ったのが早朝でかれこれ丸半日クレバスの中にいた事になる。
 入る前は晴れ渡った青空だった空が今は黒く塗りつぶされ、そこに綺麗な三日月が飾ってあった。

 こんなに長く迷宮に潜っていたのは初めての経験だ。
 いつもマネギル達と迷宮に潜る時はどれだけ遅くても夕暮れ時には必ず地上に戻って来ていた。
 そう考えると今日はとても長い探索だ。

「綺麗ですね……」

 そんなことを考えていると横で同じように空を見上げていた『静剣』が静かに呟く。

「え、ああ、そうですね今日は雲ひとつなくて綺麗に見えますね」

 直ぐに彼女が月の事を言っているのだと分かり、俺は当たり障りのない返事をする。

「……えーと、今日は助けていただき本当にありがとうございました『静剣』アイリス・ブルームさん」

 空を見上げたことで自然と身体的にも精神的にも落ち着いた。
 俺はまだ言っていなかったお礼を横で月を見上げている女性に頭を下げてする。

「いえ……妻として当然のことをしたまでです」

 彼女は凛とした佇まいのままこちらに視線を戻すとふわりと優しく微笑む。

 ふむ、とても人間のできた人だ。マネギル達辺りならば「助けてやったんだから礼として何かよこせ」とせびって来そうな場面ではあるが、この人はそれが無いどころか優しく笑いかけてくれる。

 やだ、素敵な人すぎる。好きになっちゃいそう。

「『ツマ』? が何かは分かりませんが助かりました。それにしても……どう見ても一人みたいですけど、どうして深層に?」

 俺はところどころ『静剣』の口から出ててくる謎単語に首を傾げながらあそこにいた理由を聞く。

 この人がSランク探索者で迷宮都市クレバスで随一の強さを誇るのは知っているがそれでもソロで深層を探索すると言うのは危険すぎるし無謀だ。

 何か相当な理由がなければあんな所に一人で行こうとは思はない。

「どうして、とはおかしな質問をするのですね旦那様。私は旦那様が深層に取り残されたと旦那様のクランメンバーからお話を聞いて急いでお助けに向かったのです」

「え! マネギル達がアイリスさんに助けを頼んだんですか!?」

『静剣』の口からマネギル達の事が出てきたことに俺は思わず驚く。

 まさかアイツらが助けを呼んでくれるとは思っていなかった。
 てっきりアイツらは俺の事なんて助かれば良し、死ねばそれまでぐらいにしか考えていないと思っていた。
 アイツにも人の良心が存在していたことに驚きだ。

「いえ、助けを頼まれたと言うよりも私が旦那様達の話を聞いて勝手に助けに来た感じです」

「……」

 と、マネギル達に感謝しそうになるが直ぐに彼女の言葉でその気も消え失せる。

 まあ、そうだよな。
 少しでもそんな妄想をした俺が馬鹿だった。
 しかし、そこでまた疑問が浮かぶ。

 何故、大した交流もない俺なんかの事を『静剣』様は助けに来てくれたのか?
 失礼だが、昨日まで俺はこの人のことを知らなかったし、声をかけたのも昨日が初めてだ。
 彼女が俺を助けに来てくれる理由が……。

「体のお加減が宜しくありませんか?」

 俺が黙り込んで思考を巡らせているとそれを体調の不調と読み取ったのか『静剣』は俺の顔をマジマジと再び覗き込んでくる。
 その距離感は尋常じゃなく近い。

「あ! いや、そういうのじゃなくて……なんで俺なんかを助けに来てくれたのかな~って。こんな事言うのもなんですけど俺たち全く交流なんてないし、見ず知らずの人を助けるほどブルームさんも暇じゃないですよね?」

 俺は物理的に距離感の近い彼女から2、3歩距離を取って質問する。

「何を言っているのですか! 旦那様のピンチと有れば直ぐに駆けつけ支えるのが妻の務めです! 私なんてメッチャ暇ですよ! 旦那様の為ならば何時いかなる時も山を超え谷を超え、何処へでも馳せ参じます!!」

「え、そ、そうなんですか……なんかありがとうございます……?」

 今までの落ち着き払った態度は見る影を無くし、捲し立てるような『静剣』の言葉に圧されながら俺は流れでお礼を言う。

 ……さっきからずーっと思っていたのだが何だか『静剣』様の様子がおかしい。
 いや、俺は彼女の為人ひととなりを完璧に知り尽くしている訳では無いが、話の中で時々聞こえてくる単語が気になって仕様がない。

 そしてどうしてかその単語に触れてはいけないような気がする。

「そ、それにしてもタイミングよくマネギル達に声をかけたんですね。何か彼らに用事でもあったんですか?」

 俺は頭の中をチラつく嫌な違和感を一旦拭って、もう一つ気になったことを彼女に聞く。

「あの人たちに用事があったと言うより私は旦那様に会うために彼らに声をかけたんです」

 ダンナサマ?そんなやつ『獰猛なる牙』に居たかな~?『静剣』は誰のことを言っているんだぁ?

「そうだったんですね~。ちなみにマネギル達には何処で会ったんですか?」

 俺はもう何度目かになる謎単語をスルーしてマネギル達が俺を置いてった後、何処に居たのか尋ねる。

「はい。あの人たちは昨日と同じ酒場でお酒を嗜んでいましたよ? それもかなり楽しそうに」

「……」

 俺は呆れて言葉も出ない。

 曲がりなりにも同じクランだった奴を迷宮に置き去りにして来たと言うのに助けも呼ばずに酒を飲んでいただと?
 アイツらの事だ、別に俺をあそこに置いていった事に後悔や罪悪感など微塵も感じないとは思っていたが、呑気に酒を飲んでいるとはさすがに思わなかった。
 随分と良い性格をしているじゃないか……。

 腹の底からふつふつと怒りが込み上げてくるがそんな感情すらも奴らに向けるには無駄に思えてくる。

「質問ばかりで申し訳ないんですけど……そのダンナサマとやらには一体どう言ったご要件で……って言うのは聞いてもいいです?」

「はい、昨日のお返事をしたくお尋ねしました。聞いていただけますでしょうか?」

『静剣』は俺の度重なる質問に気にした様子もなく、姿勢を質して答える。

 ん?どうして俺なんかに聞いてもらう必要があるんだ?俺はダンナサマとやらじゃないぞ?

 胸の中を渦巻く嫌な予感がどんどんと大きくなっていく。

「えーと……お返事って俺が聞いていいもんなんですか?」

「はい。寧ろ貴方様に聞いていただけなければいけません」

 ……ずっと気の所為だ、勘違いだと思っていたがそんな現実逃避もここまで来れば無理がある。
『昨日』と、その単語が出てきた瞬間にはもう察してた。だが脳はそれを拒否する。

「そ、そうですか……えーと……それじゃあ、どうぞ」

 なるべく彼女と視線を合わせないよにそっぽを向きながら俺は彼女の了承を承諾する。

 駄目だ。それ以上は聞いてはいけない。

 頭では理解しているが話の流れを不自然にぶった斬って途中で逃げるほどの根性と体力は今の俺に残っていない。
 ここまで来ればもう行くとこまで行くしかない。

「すー……はー……」

『静剣』は酷く整った綺麗な顔の頬を朱色に染めて、深呼吸をする。
 とても緊張しているご様子だ。

 そして彼女は言葉を紡ぐ。

「昨日のプロポーズのお話、お受け致します。不束者ですがこれからよろしくお願い致します、旦那様」

 綺麗なお辞儀を一つすると『静剣』様はその言葉を発するまで緊張で固まっていた表情を綻ばせる。

「あ……」

 月下に佇む一人の淑女。
 俺はその可憐な姿に見惚れてしまい、まともな反応ができなってしまう。

「綺麗だ……」

 数秒の硬直後、やっとでてきた言葉がソレだ。
 そこで正気を取り戻す。

「えっ……そんな綺麗だなんて……私のような女には勿体ないお言葉……」

 何やら目の前の『静剣』様は俺の陳腐な感想でとてもお喜びになっていただけているご様子だがそれを「可愛いなぁ~」とか悠長に眺めている場合ではない。

 どうするファイク・スフォルツォ、彼女いない歴=年齢の童貞よ。
 昨日の苦し紛れにしたプロポーズがどういう訳かガチプロポーズになってしまい、しかもお相手さんは満更でもない、っていうかプロポーズを受け入れてしまっている。

 いや別に「ラッキー」だと思ってこのまま結婚しようと思えばできる状況な訳だがそれは人間としてどうなんだ?
 俺は不純な動機……と言うかとてもしょうもない理由で心にもないプロポーズを彼女にしてしまったわけでそれを彼女に伝えないまま結婚するのはどう考えても違うだろう。

「……」

「あの……旦那様?」

 ああ駄目だ。まともな思考が出来ない。
 今ここで結論を出すには余りにも情報量が大きすぎるし、今日の俺にはもうキャパオーバーでしかない。

「……」

「その……何か粗相がございましたか?」

 何とかしてこの話を後日ということで先送りにしなければ!

「……」

「生まれて今までまともな人付き合いというものをしたことがなく失礼がありましたら謝ります……ですから何か仰ってください……」

 よし、そうと決まれば何か適当な言い訳を……。

 俺は思考を止めて、そう結論づけると待たせてしまった『静剣』に目線を戻す。

「……ってうお!! な、なんで泣きそうになってるんですか!?」

 するとそこには今にも泣き出しそうな彼女の姿が映る。というか、もうほとんど泣いてる。

「……旦那様……私に何か悪いところがあったのなら直します……ですから私を無視して黙るのは止めてください……」

 どうやら『静剣』様は何も反応しない俺に無視されていると勘違いしているようだ。

「ああ! ちょっと考え事してて……じゃなくて、ごめんなさい! 別に無視しているとかそういうんじゃないんですよ! だから泣かないで!!」

 それに気づいた俺はすぐに彼女の誤解を解くべく、理由を説明する。

「ほ、本当ですか? 私の事嫌いになってません?」

「なってません! なってないですから泣かないでください。えーと……ほらこのハンカチで涙拭いて」

 俺はポケットから常備しているハンカチを彼女に手渡す。

「ありがとうございます……」

『静剣』様はそれを素直に受け取ると何とか泣き止んでくれる。

 ふう、とりあえず落ち着いてもらってよかった。

 それを見て俺は安堵する。

 ……ってそうじゃない!
 何とか適当な理由を付けてプロポーズの話を有耶無耶にしなければ!
 泣き止んだばかりの女の人から逃げるというのは非常に男として終わっていると思うが背に腹はかえられない。
 許してくれ!

 そうして俺は切り出す。

「えーと、改めて今日は助けて貰ってありがとうございました。本当に助かりました」

「いえ……当然のことをしたまでです……」

『静剣』は可愛らしく鼻をすすりながら答える。

「その~プロポーズのお話なんですけどね? ちょ~っと今日は色々とありすぎて疲れたと言いますか……この詳しいお話はまた後日ということでも宜しいですかね?」

「そうですね……配慮が足りず申し訳ありません……それでは──」

「──っ! 分かってもらえて良かったです! それでは今日はここで失礼させていただきます!!」

 俺は『静剣』の言葉を遮り勢いのままにそう伝える。

「……え?」

 突然の俺の反応に彼女は困惑しているが言うことは言った。ならば後は撤退するのみ!

「あ! そうだ、良かったらこれ貰ってください! 本当にありがとうございました!!」

 俺は撤退する前に今日のお礼として先程取り出して上着のポケットにしまっていた蒼色の宝石を『静剣』に手渡す。

「あの……これは?」

「あ!どうぞ気にせず受け取ってください! 俺の気持ちです(感謝の)!!」

 俺は困惑する『静剣』にそれだけ言って全速力で間借りしている宿屋の方がへと走り出す。

「旦那様の気持ち(結婚の)……!!」

 突然居なくなろうとするので追いかけて来て引き止められると思っていたが『静剣』は手渡した宝石にご執心の様子だ。

 よし!上手く逃げれそうだ!!

 後ろを振り返り『静剣』様の様子を伺ってそう確信する。

 こうして俺はとても大事なことを後回しにして安らぎのお家へとボロボロの体に鞭を打って向かうのであった。
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