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第1章 国盗り始め
第36.5話 ヴィルヘルミナの独白 その肆
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「ミナ様? いかがなさいました?」
モチヅキ殿が気遣うように声を掛けてきた。
屋敷の庭で焚かれている篝火の前で立ち尽くしていたかもしれない。
とっさに返事が出来なかった私に、モチヅキ殿は言葉を続けた。
「辺境伯のご容態が気掛かりでござりますか?」
「あ……いや、それもあるのだが……見事な手際だと思って……」
屋敷の庭は赤い鎧の兵士達でごった返している。
異世界の言葉で『アカゾナエ』と言うらしい。
シンクローの家臣達だ。
シンクローもモチヅキ殿も、サイトー家の将兵は全員が赤一色で揃えた鎧兜を装備している。
彼らはゲルトとカスパルが逃げるように帰って行った直後、ネッカーの町にやって来た。
それから半日も経たぬ内に町の防衛態勢は整いつつあった。
日が暮れた今も、その強化に余念がない。
「シンクローから異世界は乱世だと聞かされてはいたが、それにしても見事な手際だ」
「恐れ入ります」
「あなた方は腕試しの行商人を疑っていたな? あの時から、既に準備を始めていたのではないか?」
「……内情は詳らかには出来ぬものでござりますが……まあ、よろしいでしょう。ミナ様は斎藤家の身内同然。若に嫁入りなさるのですからな」
「だからそれは……」
「冗談でござります。お身内でなくとも、お味方ではあらせられる。若もお許し下さるでしょう」
忙しく立ち働く兵士達に目を移しながら、モチヅキ殿は語り始めた。
「ミナ様の申される通り、あの日から我らは戦支度を始めました」
「あなた方は魔物退治に力を入れていた。戦の準備をしているようには思えなかった」
「魔物退治も戦支度の一つにござります」
「え?」
「魔物は民百姓に害をなすのでござりましょう? 左様な者共がのさばっておっては安心して戦など出来ませぬ。後顧の憂いを絶つためにこそ、領地近辺の魔物を根こそぎ退治したのでござります」
「私はそれを狂戦士などと言ってしまった……。とんだ見当違いだったな」
「卑下なさる必要はござりませぬ。言われなければ、分からぬことでござりましょう」
「……もう一つ聞きたい」
「なんなりと」
「あなた方はどうやって当家の事情を調べたのだ? ここは言葉も通じぬ異世界。しかも、あなた方がやって来たからたった十日足らずで」
「……それがし、斎藤家では評定衆に名を連ねてござりますが、もう一つ、お役目を任されておりましてな」
「もう一つ?」
「忍衆の頭領にござる」
「シノビシュー? すまない。耳にした事がない響きで……」
「こちら風に申せば、『すぱい』の親玉でござります」
「なっ! あ、あなたが!? とてもそんな風には……」
「見えませぬか?」
「ああ……。真面目で、善良で……スパイを率いるようには……」
「ならば重畳。多少なりとも疑いを持たれた時点で忍び失格。とても忍び衆の頭領など務まりませぬ」
「驚いた……。では、あなたがゲルトとパスカルが帰った直後に現れたのも?」
「はい。忍び衆を通じて常に動向を把握しておりました。若の御下知が無くとも、必要な時に駆け付けられるように」
「し、しかし……言葉も通じぬ異世界で一体どうやってスパイなど……」
「ここから先は秘中の秘にござります。ミナ様でもお話出来ませぬ」
「うっ……。ヒ、ヒントだけでも!」
「『ひんと』? はて、それがしには聞き覚えのない言葉でござるな」
「そ、それなら……クソッ! どう言えば伝わるのか分からん!」
私が悔しがっていると、モチヅキ殿は「仕方ありませんな。特別でござりますぞ?」と口を開いた。
「……どこかの魔道具屋の在庫が減っているかもしれませぬ」
「は?」
「店主が知らぬ内に魔道具の在庫が減っているのかもしれぬのです。可哀想に……」
遠い目をして語るモチヅキ殿。
店主が知らぬ内に魔道具の在庫が減っているだと? それはつまり――――、
「ぬ、盗――――」
「気付かぬ内に元に戻っておりましょうな」
「――――は?」
「不思議な事に消えた在庫は元に戻っておりましょう。クリス殿が新たにお作り下さいましたので用が済んでござります。これにて世は全て事もなし」
「……それで済むのか?」
「済みまする。誰も知らなければ、何も無かったのでござります」
詭弁だと言うのは容易い。
が、持ち主に一切を悟らせることなく遣り果せるなど……とても常人の成せる業ではない。
シンクローはこんな者達を家臣に――――。
「……羨ましいな」
「何ですと?」
「シンクローが羨ましい。モチヅキ殿……ヤマガタ殿、サトウ殿、タンバ殿、トウザ殿……。忠義に厚い者、武勇に秀でた者、知恵の働く者……シンクローの家臣は手練れ揃いだ」
「お褒め頂き光栄の至りにござる」
「対して当家の家臣は主君の苦境にも日和見だ。先祖代々仕えることに変わりはないだろうに、ここまで差が生まれるのか……」
「ミナ様。それは違いますぞ」
「え?」
「我らの大半は家臣となってからせいぜい十年。短ければ数年。斎藤家に長く仕える家臣は、佐藤様と藤佐殿の家くらいでござります」
「ほ、本当なのか?」
「若が日ノ本は乱世と申されたでしょう? 斎藤家も何度も没落し、何度も領地を失った末に、今があるのでござります」
モチヅキ殿が語り始めた斎藤家の歴史は壮絶だった。
シンクローの曾祖父と祖父は親子二代に渡って出世を続け、ついにミノの領主にまで登り詰めた。
――――が、栄華は長く続かなかった。
領内の政治を巡って祖父とその長男が諍いを起こし、ついに戦となって祖父は戦死。
当時四歳だったサコン殿は兄であるはずの長男から敵視され、故郷を追われて流浪の身となった。
その後は姉婿のオダという大貴族の元に身を寄せ、成長するにつれ武功も上げたが、今度はオダが家臣の謀反に遭って非業の最期を遂げる。
混乱の中でサコン殿の領地は戦場となり、幼いシンクローはミドリ殿の背に負われて山中を逃げ惑ったのだという。
戦の連続の中で古くから仕える家臣は数を減らし、新たな家臣を召し抱えることになった。
モチヅキ殿もその一人だった。
「正確には、我が父が大殿にお仕えしたのが始まりでござります」
「モチヅキ殿も戦で領地を失くされたのか?」
「はっ。当家と山県殿、浅利殿、小幡殿は、武田と申す家に仕えておりました。ですが織田によって武田は滅ぼされ――――」
「ま、待ってくれ! オダとはサコン殿の姉婿ではないのか!?」
「左様です。大殿も武田攻めに参陣なさっておられました」
「よ、よかったのか?」
「昨日の敵に今日は仕える。これも乱世の習いにござります」
「本当に? わだかまりはないのか?」
「ないとは申しませんが、大殿も若も新たに召し抱えた者を分け隔てなく遇して下さります。山県殿やそれがしが評定衆に名を連ねているのは、その証にござります」
すると、モチヅキ殿は『アカゾナエ』の鎧を大事そうに撫でた。
「この赤備えも、元を正せば武田にて名を馳せた軍装。武田はかつて強き家にござりました。武田の旧臣が多いなら、強き武田にあやかろうと若が言い出されたのでござります」
「敵だった者にあやかる……普通は出来ないことだな……」
「普通は出来ないと申せば……他にもござります。佐藤様は若の祖父、お方様の父君に当たることをご存知で?」
「えっ!? そ、そんな話は一言も……。家臣に接する態度だったではないか!」
「親族だからと親し気にし過ぎれば他所から来た者の肩身が狭くなる、と若が仰せになりまして。佐藤様も立派な孫を持ったと快諾なされたのでござります」
「主が主なら、家臣も家臣だな……。やり過ぎだと思うが……」
「しかしこの評判が広まり、我ら武田の旧臣以外にも、大和、摂津、和泉、紀伊、加賀、越中、伊勢、さらに関東や九州と、大殿や若が御出陣なされた土地から、多くの者が新たに仕官したのでござります」
「そ、それはすごいな……。恨みを受けてもおかしくないのに……」
「良き家臣団は仕えた時間の長さではなく、主たる者の心掛け一つで如何様にも形作る事が出来まする。辺境伯家も何度でもやり直せばよろしいかと」
「……そうだな。確かにそうだ。シンクローとサコン殿は生きたお手本だな」
「まずは下々の心情を推し測ること。そして心情を汲んだ策を講ずることにござります。これが出来て初めて下々の信が得られましょう。その点、大殿や若はご苦労なさっておりますから、下々の心がお分かりなのかもしれませぬ」
「そうか……真っ先に住民を避難させたのもその為か……」
新九郎が最初に手を付けたのは、兵士の配置を決めることでも、町に陣地を作る事でもなかった。
住人は男女の区別なく、一人残らずミノへ避難させると宣言したのだ。
前代未聞の宣言は住人を大いに驚かせた。
戦が起これば、男は兵士や人夫として連れて行かれ、残された女や子ども、老人は途方に暮れるのが常識。
家族が離散する悲劇は掃いて捨てるほど転がっている。
民は領主の都合に振り回される。
結果、民は領主を恨み、離反し、戦で荒廃した領地はさらに荒廃していく。
民の心情を汲むことなく勝手に振るまえばそうなってしまうが、目先の勝利を得るために手段を選ばぬ者は多い。
これが常識なのだ
だからこそ逃げろと言われるなど夢にも思わなかったに違いない。
だが、女性、子ども、老人は避難したものの、数多くの男達が自主的に町に残った。
ギリギリまで陣地の構築を手伝ってくれるらしい。
そもそも住人の間ではシンクローの評判が高まり始めていた。
腕試しで見せた剣の腕やデニスを倒した技の冴えは住民の知るところだし、連日のように町へ運び込まれた大量の魔石を通じて魔物狩りの話も町中に広まっていた。
ミノから戻ったクリスや女性冒険者達がその証人だ。
サイトーと言う男はとんでもない人物らしい……そう思い始めていたところで、今度は「戦が始まるから逃げろ」と言われたのだ。
この男は信じて着いて行ってもよいのではないかと、多くの人にそう思わせた。
「……これを全て狙ってやっていたのなら、シンクローはとんでもない悪人だ」
「どうぞ直接お話しください。きっとお喜びになられます」
「ヴィルヘルミナ様!」
屋敷の正門の方から女性冒険者達がやって来た。
先頭に立ち、私の名を呼んだのは村人に捕まっていた気の強そうな冒険者――ハンナだ。
「シンクロー様に雇われてもいいって子達を連れて来ました! 皆、ネッカー近くの出身者です! ゲルトなんかの好きにはさせませんよ!」
「ありがとう。頼もしい限りだ。これで人数は――」
「あたし達を含めて十五人になりました! 道案内なら任せて下さい!」
彼女達は周辺の地理に詳しい。
きっと、シンクローの役に立ってくれる。
「ああ。ところでミナ様」
モチヅキ殿が何かを思い出した風で私を呼んだ。
「実は折り入ってお願いしたき儀がござります。戦に勝つため絶対に欠かせぬ重大な役目にござります。若が是非ともミナ様にお任せ致したいと仰せになりまして……」
モチヅキ殿の言葉に気分が高揚した。
シンクローに頼りにされたことが嬉しかった。
何でも言ってくれと、二つ返事で引き受けた。
「頼もしきお言葉にござります。ではこちらへ……」
モチヅキ殿に先導されて屋敷へ向かう。
…………この時の私はまだ知らなかった。
引き受けた役目の過酷さが、私の羞恥心を完膚なきまでに破壊し尽くすことを――――。
モチヅキ殿が気遣うように声を掛けてきた。
屋敷の庭で焚かれている篝火の前で立ち尽くしていたかもしれない。
とっさに返事が出来なかった私に、モチヅキ殿は言葉を続けた。
「辺境伯のご容態が気掛かりでござりますか?」
「あ……いや、それもあるのだが……見事な手際だと思って……」
屋敷の庭は赤い鎧の兵士達でごった返している。
異世界の言葉で『アカゾナエ』と言うらしい。
シンクローの家臣達だ。
シンクローもモチヅキ殿も、サイトー家の将兵は全員が赤一色で揃えた鎧兜を装備している。
彼らはゲルトとカスパルが逃げるように帰って行った直後、ネッカーの町にやって来た。
それから半日も経たぬ内に町の防衛態勢は整いつつあった。
日が暮れた今も、その強化に余念がない。
「シンクローから異世界は乱世だと聞かされてはいたが、それにしても見事な手際だ」
「恐れ入ります」
「あなた方は腕試しの行商人を疑っていたな? あの時から、既に準備を始めていたのではないか?」
「……内情は詳らかには出来ぬものでござりますが……まあ、よろしいでしょう。ミナ様は斎藤家の身内同然。若に嫁入りなさるのですからな」
「だからそれは……」
「冗談でござります。お身内でなくとも、お味方ではあらせられる。若もお許し下さるでしょう」
忙しく立ち働く兵士達に目を移しながら、モチヅキ殿は語り始めた。
「ミナ様の申される通り、あの日から我らは戦支度を始めました」
「あなた方は魔物退治に力を入れていた。戦の準備をしているようには思えなかった」
「魔物退治も戦支度の一つにござります」
「え?」
「魔物は民百姓に害をなすのでござりましょう? 左様な者共がのさばっておっては安心して戦など出来ませぬ。後顧の憂いを絶つためにこそ、領地近辺の魔物を根こそぎ退治したのでござります」
「私はそれを狂戦士などと言ってしまった……。とんだ見当違いだったな」
「卑下なさる必要はござりませぬ。言われなければ、分からぬことでござりましょう」
「……もう一つ聞きたい」
「なんなりと」
「あなた方はどうやって当家の事情を調べたのだ? ここは言葉も通じぬ異世界。しかも、あなた方がやって来たからたった十日足らずで」
「……それがし、斎藤家では評定衆に名を連ねてござりますが、もう一つ、お役目を任されておりましてな」
「もう一つ?」
「忍衆の頭領にござる」
「シノビシュー? すまない。耳にした事がない響きで……」
「こちら風に申せば、『すぱい』の親玉でござります」
「なっ! あ、あなたが!? とてもそんな風には……」
「見えませぬか?」
「ああ……。真面目で、善良で……スパイを率いるようには……」
「ならば重畳。多少なりとも疑いを持たれた時点で忍び失格。とても忍び衆の頭領など務まりませぬ」
「驚いた……。では、あなたがゲルトとパスカルが帰った直後に現れたのも?」
「はい。忍び衆を通じて常に動向を把握しておりました。若の御下知が無くとも、必要な時に駆け付けられるように」
「し、しかし……言葉も通じぬ異世界で一体どうやってスパイなど……」
「ここから先は秘中の秘にござります。ミナ様でもお話出来ませぬ」
「うっ……。ヒ、ヒントだけでも!」
「『ひんと』? はて、それがしには聞き覚えのない言葉でござるな」
「そ、それなら……クソッ! どう言えば伝わるのか分からん!」
私が悔しがっていると、モチヅキ殿は「仕方ありませんな。特別でござりますぞ?」と口を開いた。
「……どこかの魔道具屋の在庫が減っているかもしれませぬ」
「は?」
「店主が知らぬ内に魔道具の在庫が減っているのかもしれぬのです。可哀想に……」
遠い目をして語るモチヅキ殿。
店主が知らぬ内に魔道具の在庫が減っているだと? それはつまり――――、
「ぬ、盗――――」
「気付かぬ内に元に戻っておりましょうな」
「――――は?」
「不思議な事に消えた在庫は元に戻っておりましょう。クリス殿が新たにお作り下さいましたので用が済んでござります。これにて世は全て事もなし」
「……それで済むのか?」
「済みまする。誰も知らなければ、何も無かったのでござります」
詭弁だと言うのは容易い。
が、持ち主に一切を悟らせることなく遣り果せるなど……とても常人の成せる業ではない。
シンクローはこんな者達を家臣に――――。
「……羨ましいな」
「何ですと?」
「シンクローが羨ましい。モチヅキ殿……ヤマガタ殿、サトウ殿、タンバ殿、トウザ殿……。忠義に厚い者、武勇に秀でた者、知恵の働く者……シンクローの家臣は手練れ揃いだ」
「お褒め頂き光栄の至りにござる」
「対して当家の家臣は主君の苦境にも日和見だ。先祖代々仕えることに変わりはないだろうに、ここまで差が生まれるのか……」
「ミナ様。それは違いますぞ」
「え?」
「我らの大半は家臣となってからせいぜい十年。短ければ数年。斎藤家に長く仕える家臣は、佐藤様と藤佐殿の家くらいでござります」
「ほ、本当なのか?」
「若が日ノ本は乱世と申されたでしょう? 斎藤家も何度も没落し、何度も領地を失った末に、今があるのでござります」
モチヅキ殿が語り始めた斎藤家の歴史は壮絶だった。
シンクローの曾祖父と祖父は親子二代に渡って出世を続け、ついにミノの領主にまで登り詰めた。
――――が、栄華は長く続かなかった。
領内の政治を巡って祖父とその長男が諍いを起こし、ついに戦となって祖父は戦死。
当時四歳だったサコン殿は兄であるはずの長男から敵視され、故郷を追われて流浪の身となった。
その後は姉婿のオダという大貴族の元に身を寄せ、成長するにつれ武功も上げたが、今度はオダが家臣の謀反に遭って非業の最期を遂げる。
混乱の中でサコン殿の領地は戦場となり、幼いシンクローはミドリ殿の背に負われて山中を逃げ惑ったのだという。
戦の連続の中で古くから仕える家臣は数を減らし、新たな家臣を召し抱えることになった。
モチヅキ殿もその一人だった。
「正確には、我が父が大殿にお仕えしたのが始まりでござります」
「モチヅキ殿も戦で領地を失くされたのか?」
「はっ。当家と山県殿、浅利殿、小幡殿は、武田と申す家に仕えておりました。ですが織田によって武田は滅ぼされ――――」
「ま、待ってくれ! オダとはサコン殿の姉婿ではないのか!?」
「左様です。大殿も武田攻めに参陣なさっておられました」
「よ、よかったのか?」
「昨日の敵に今日は仕える。これも乱世の習いにござります」
「本当に? わだかまりはないのか?」
「ないとは申しませんが、大殿も若も新たに召し抱えた者を分け隔てなく遇して下さります。山県殿やそれがしが評定衆に名を連ねているのは、その証にござります」
すると、モチヅキ殿は『アカゾナエ』の鎧を大事そうに撫でた。
「この赤備えも、元を正せば武田にて名を馳せた軍装。武田はかつて強き家にござりました。武田の旧臣が多いなら、強き武田にあやかろうと若が言い出されたのでござります」
「敵だった者にあやかる……普通は出来ないことだな……」
「普通は出来ないと申せば……他にもござります。佐藤様は若の祖父、お方様の父君に当たることをご存知で?」
「えっ!? そ、そんな話は一言も……。家臣に接する態度だったではないか!」
「親族だからと親し気にし過ぎれば他所から来た者の肩身が狭くなる、と若が仰せになりまして。佐藤様も立派な孫を持ったと快諾なされたのでござります」
「主が主なら、家臣も家臣だな……。やり過ぎだと思うが……」
「しかしこの評判が広まり、我ら武田の旧臣以外にも、大和、摂津、和泉、紀伊、加賀、越中、伊勢、さらに関東や九州と、大殿や若が御出陣なされた土地から、多くの者が新たに仕官したのでござります」
「そ、それはすごいな……。恨みを受けてもおかしくないのに……」
「良き家臣団は仕えた時間の長さではなく、主たる者の心掛け一つで如何様にも形作る事が出来まする。辺境伯家も何度でもやり直せばよろしいかと」
「……そうだな。確かにそうだ。シンクローとサコン殿は生きたお手本だな」
「まずは下々の心情を推し測ること。そして心情を汲んだ策を講ずることにござります。これが出来て初めて下々の信が得られましょう。その点、大殿や若はご苦労なさっておりますから、下々の心がお分かりなのかもしれませぬ」
「そうか……真っ先に住民を避難させたのもその為か……」
新九郎が最初に手を付けたのは、兵士の配置を決めることでも、町に陣地を作る事でもなかった。
住人は男女の区別なく、一人残らずミノへ避難させると宣言したのだ。
前代未聞の宣言は住人を大いに驚かせた。
戦が起これば、男は兵士や人夫として連れて行かれ、残された女や子ども、老人は途方に暮れるのが常識。
家族が離散する悲劇は掃いて捨てるほど転がっている。
民は領主の都合に振り回される。
結果、民は領主を恨み、離反し、戦で荒廃した領地はさらに荒廃していく。
民の心情を汲むことなく勝手に振るまえばそうなってしまうが、目先の勝利を得るために手段を選ばぬ者は多い。
これが常識なのだ
だからこそ逃げろと言われるなど夢にも思わなかったに違いない。
だが、女性、子ども、老人は避難したものの、数多くの男達が自主的に町に残った。
ギリギリまで陣地の構築を手伝ってくれるらしい。
そもそも住人の間ではシンクローの評判が高まり始めていた。
腕試しで見せた剣の腕やデニスを倒した技の冴えは住民の知るところだし、連日のように町へ運び込まれた大量の魔石を通じて魔物狩りの話も町中に広まっていた。
ミノから戻ったクリスや女性冒険者達がその証人だ。
サイトーと言う男はとんでもない人物らしい……そう思い始めていたところで、今度は「戦が始まるから逃げろ」と言われたのだ。
この男は信じて着いて行ってもよいのではないかと、多くの人にそう思わせた。
「……これを全て狙ってやっていたのなら、シンクローはとんでもない悪人だ」
「どうぞ直接お話しください。きっとお喜びになられます」
「ヴィルヘルミナ様!」
屋敷の正門の方から女性冒険者達がやって来た。
先頭に立ち、私の名を呼んだのは村人に捕まっていた気の強そうな冒険者――ハンナだ。
「シンクロー様に雇われてもいいって子達を連れて来ました! 皆、ネッカー近くの出身者です! ゲルトなんかの好きにはさせませんよ!」
「ありがとう。頼もしい限りだ。これで人数は――」
「あたし達を含めて十五人になりました! 道案内なら任せて下さい!」
彼女達は周辺の地理に詳しい。
きっと、シンクローの役に立ってくれる。
「ああ。ところでミナ様」
モチヅキ殿が何かを思い出した風で私を呼んだ。
「実は折り入ってお願いしたき儀がござります。戦に勝つため絶対に欠かせぬ重大な役目にござります。若が是非ともミナ様にお任せ致したいと仰せになりまして……」
モチヅキ殿の言葉に気分が高揚した。
シンクローに頼りにされたことが嬉しかった。
何でも言ってくれと、二つ返事で引き受けた。
「頼もしきお言葉にござります。ではこちらへ……」
モチヅキ殿に先導されて屋敷へ向かう。
…………この時の私はまだ知らなかった。
引き受けた役目の過酷さが、私の羞恥心を完膚なきまでに破壊し尽くすことを――――。
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